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流された。
水は僕の背丈よりも高い。しかも激しい勢いがあるから真っ直ぐ立っていられない。もがきながら闇雲に両手を振り回して、人差し指に鋭い痛みを感じた。何かしら、ギザギザの金属スクラップの断面にでも触ったのかもしれない。
多い。
とにかく災害の数が多過ぎる。
複数の災害、とはちょっと違うんだろう。原因の全く違う二つ以上の災害がたまたま重なったんじゃなくて、全てはJBの流星雨から数珠繋ぎで続いているんだ。けどこっちには身構えている時間さえない。一つの処理が終わる前に、いくつものハードルがドカドカ積み上げられていく。まるで落ちモノパズルの圧殺だ。
思考が止まったらおしまいだ。
投げ出す時は、自分の命も一緒に放り捨てる時。
「はっ、がば!!」
とにかく手を伸ばして、近くの街路樹の幹に両腕でしがみついた。
あっさり折れた。
支えを失ってさらに流された時、ぐいって強い力で引っ張られた。
バスだ。
厳密には屋根の上に避難していたマッチョな黒人のおっさんが身を乗り出して僕の服を掴んでくれていた。
最後はやっぱり筋肉か。
腕一本でクレーンみたいにバスの屋根まで引き上げてもらったけど、僕にはフランス語でお礼を言うだけの頭がない。いかにも日本人らしく、ぺこぺこ頭を下げるしかなかった。なんかのスポーツチームなのかな、フランスって何が強いんだっけ? とにかくここにはムキムキしかいない。
きっと。
溺れる僕がお手製武器を振り回していたら、こうはならなかっただろうな。
大きなバスも軋んだ音を立ててはいる。でも小振りなキッチンカーと違ってそこまで大きくは横滑りしない。そしてセーヌ川から水は溢れたけど、堤防の決壊とは違う。
どこか下流に流れ星が落ちて、ポンプみたいに大量の水が逆流してきただけ。つまり、一回のデカい波が川に沿って進んでいるだけで、津波みたいに継続はしない。だから不自然に増えた分を陸側に吐き出してしまえば、水位は元に戻っていく。水は引いて、元の大地が見えてくる。今はより上流に向けて水が逆流していき、両サイドの街並みを破壊していっているようだけど、ここからじゃ危険を伝える方法がなかった。
とにかく危機は去った。
だけど。
降りるのは、怖い。
とりあえずの安全地帯にはそんな引力がある。
けど気になったのはアナスタシアだ。彼女の無事が知りたい。そんなモチベーションがなかったら、僕はこのままバスの屋根で夜を明かしていたかもしれない。
何かの選手達は水の引いた地面を見て一様に嘆いていた。マッチョだらけの中、唯一小さいバスガイドさんは日本語もいけるらしい。話を聞くと、どうやら水が来る前に横に倒したスーツケースを階段みたいに積んで、みんなで屋根まで上がったらしい。それが全部流されたようなのだ。
……そんなやり方もあるのか。
何の変哲もない道具でも、数があれば。僕はガラスの喫煙所の屋根に上がるのも諦めたくらいだったけど、もうちょっと頭を使うべきだったかも。
べちゃべちゃに濡れた泥臭い地面を歩いて、流されたコースを逆に辿る。いい加減にレインコートと長靴が欲しくなってきた。
さっきの喫煙所は……無事だ。
透明な壁は壊れてしまったけど、それが逆に水の力を器用に逃がしたんだろう。金属フレームと屋根は普通に残っている。
スマホのライトで上を照らしてみれば、アナスタシアの目立つ金髪頭も見える。
彼女は無言で屋根からもそもそと降りてきた。そのままこっちに近づいてくる。
一発くらい殴られるかなと思っていた。
けどアナスタシアは小さな両手で僕にしがみつくと、汚れた上着に顔を突っ込んでわんわん泣き叫んだ。
かろうじて聞き取れた部分だけ抜粋すると、
「えうあうう! 心配したわっ!! ひっく、ぐえぶえあ!?」
「……悪かったよ、アナスタシア」
これは、キツい。
胸に刺さる。しかも釣り針みたいな返しがついてて抜けない感じ。
いっそ平手打ちの一発でももらった方が気が楽だったんだけどな。こういう時だけ一一歳の女の子を全力で出すのはあんまりだぞ一一歳。ハンカチを貸したいんだけど汚い雨のせいでぐちゃぐちゃだ。仕方がないから、目尻の涙については親指で拭う事にした。
小さな鼻をぐずぐず鳴らし、されるがままにされながら、膨れっ面でアナスタシアが呟いた。
「……トゥルースの女たらし」
「こんなギークのどこをどう見たらそんな評価が口から飛び出すんだ」
「逆に自分のアドレス開いてみるが良いわ。男女比!」
……えーと。数だけ見たら比較的女性が多い気もするけど、それはエリカ姉さんに妹のアユミ、母(実)と母(義理)もごっちゃでカウントしちゃってもフェアなのか?
とにかくだ。
言わせたいように言わせておくと一応向こうの溜飲が下がったのか、アナスタシアは僕の正面じゃなくて隣に立った。まだ膨れっ面で涙目だけど、しっかり僕の手を掴んでる。
何がどうなったところでマクスウェルとのアクセスを復旧しないといけない。そのためにはパリ天文台まで出向いて、JBが仕掛けたウイルスが欲しい。警察や消防なんかのネットワークはまだ生きているから、相乗りさせてもらえば通信は復活する。
セーヌ川に沿って、二人で東に進む。
当面はルーヴル美術館が目印らしい。そいつを見つけたら、南に行く大きな通りへ曲がって直進。
「こっち側だと、ルーヴルは川の向かいに見えるはずだわ……」
たったこれだけなんだけど、目の前に広がるのはまるで得体の知れないダンジョンだった。ただこれはもちろん僕がパリに来るのが初めてでビフォアとアフターの違いにピンとこないからだろう。旅好きならきっとあそこは倒れたあっちは無事だって一喜一憂していたはずだし、まして暮らしている人にとっては崩れていようが瓦礫の山だろうがパリはパリだ。
……気をつけないといけない。
ここは異質なサバイバル空間だと思った時から、モラルと行動の乖離が始まっていく。瓦礫の中でも私有地は私有地だし、商品は商品だ。ダンジョンの宝箱なんかどこにもないし、民家に入ってたんすや棚を漁って良い訳じゃない。
「雨、止んできたな……」
「元々、流星雨の落下で大量の空気が攪拌されて一時的に気圧が乱れただけだからね。そう長くは続かないわ」
そこでまたぐらっときた。
余震だ。
ビルのガラスが怖いから歩道から車道に避難する。流星雨の直撃から始まった連鎖的な影響は、まだまだ続くらしい。ここは景観を大切にするパリ、電柱や電線なんかが頭の上にびっしりとかじゃなくて良かった。電車やトラムまわりは注意した方が良さそうだけど。
瓦礫には近づかない。斜めに傾いた街灯には近づかない。ひび割れのあるコンクリート壁には近づかない。潰れた車には近づかない。
まったくその通りなんだけど、それじゃあ一歩も進めない。そしてそもそもじっと救助を待つっていう一番賢明な選択肢を僕達は選べない。
*パリ天文台に行く。
*建物の設備からJBのウイルスを採取して手を加え、警察署なり消防署なり緊急通信の権限を持った施設に感染させてサーバーを遠隔操作する。
*それでマクスウェルとの通信経路を確保する。
……これがないとどうにもならない。日本大使館を見つける事も、あるいは義母さんを見つける事も。
「うっ」
アナスタシアが呻いて立ち止まった。
何かを見ている。けどかなり遠くだ。広いセーヌ川に架かる橋はいくつか落ちていたけど、さらにその向かい。何やら瓦礫の少ない、ぽっかりと開けたエリアがある。
広場。
じゃああれが、ルーヴル美術館?
……だった、もの???
僕には元々の建物の形もあんまりぴんとこないし、中に何万点のコレクションがあるのか数さえ答えられない。だけど、全損じゃないにせよ目に見えて崩れている区画があるのが分かる。知る者が見れば貧血で倒れるくらいの状況なんだろう。
かと言って、してやれる事は何もない。
ここから南に行けばパリ天文台のはずだ。アナスタシアの手を無理にでも引っ張って、ルーヴルを視線から外そうとする。
その時だった。
パン!! ぱんパパンッ!! と。
え、なに?
爆発、じゃない。もっと軽いっ、でも火薬の。火薬って、え? まさか銃声!!!???
「伏せてトゥルース!!」
「えっえっ?」
音はやっぱり遠かった。川の向こうから? だから耳をつんざくほどじゃない。遠くの雷ってくらいのイメージでポカンとしていた僕を、逆にアナスタシアは小さな両手でぐいぐい押して廃車の陰にねじ込んでいく。
「流れ弾くらいなら川をまたいで普通に飛んでくるわ! 小さな拳銃だって単純な飛距離だけなら一八〇は真っ直ぐ飛ぶのよ。ライフル弾だったら三倍以上! 狙って撃ったものじゃなくたって、当たれば死ぬのは変わらないわよ!!」
「えと、流れ弾って、そもそも何が起きてる!?」
川の向こうからの銃声。
って、あっちにあるのはルーヴル美術館だっけ?
「……略奪が始まったんだわ。絵画一枚、宝石一個で一〇〇万ドル以上よ。絶対やらかす馬鹿が出てくると思った!!」
パンパンっていう派手な音はまだ続いている。でも様子がおかしい。そう、なんか明るいんだよな。街全体が停電してる割には、川の向こうは青っぽい光が忙しく移動している。
ああそうか。
日本だと赤一色ってイメージだけど、やっぱりフランスじゃカラーが違うのかな。
「だから警官だってまず最優先で警戒するに決まってる。馬鹿がどれだけ押し寄せたかは知らないけど、川の向こうはパトカー並べて作ったバリケードとショットガンやカービン銃の嵐だわ。川向かいのワタシ達だって危ないわよ!!」
「こっちの警察はそんなのまで持ってるのかよ……」
「むしろ素手とか警棒とかで犯人に立ち向かう警察なんて世界中見たって日本くらいのものだわ。トゥルース、とにかくこっちに。頭を下げて!」
……やっぱり先に橋を渡っておいて正解だった。もしも後回しにしていたら銃撃戦に巻き込まれた上に橋は落ちてるなんて最悪の立ち往生を喰らうところだったぞ。
ぼわっと、川の向こうで何か白い塊が膨らんだ。パトカーのライトが不自然に歪む。もしかして、海外ニュースとかでたまに見かける催涙ガスとかだろうか。
それから実際に近くのビルのガラスがいきなり割れた。もちろん弾丸を目で追えるほど視力が良い訳じゃないから原因は断言はできないけど、やっぱり怖い。
これは銀行や宝石店、ブランドの時計だのカバンだのの専門店の辺りもできれば避けて通った方が良いかもしれないな。パリなら何でも高級そうには見えるけど。
ルーヴル美術館についてはさっきも言った通り、してあげられる事はない。というか略奪なんて話が出てる中、パリ市民じゃない外国人である僕やアナスタシアが不用意に近づいたら戦闘モード一色の警官達に撃たれるかもしれない。そもそも橋も落ちてるんだし、さっさと川を離れて南に向かう広い道路へ逃げ込むべきだ。
「……モラルが崩れてきたわね」
小さなアナスタシアに誘導されて、瓦礫だらけの道に向かう。
「あれから一時間くらい? そろそろ天災から人災に移っていくかも。まずい事に、流星雨が落ちたのは夕飯前の時間帯だわ」
「火事の話?」
「そっちよりも、単純にお腹がすいたらみんなピリピリするでしょ。衣食住の欠乏は最も強いモラルハザードの引き金だわ」
やっぱり悪人はいる。
悪人じゃなくても罪を犯す材料だってある。
明確な武器を持つのはかえって危ないけど、防弾ベストの真似事くらい用意するべきか? 電話帳なんかがあるだけでもかなり変わるみたいだけど。
……電話帳なんてまだあるのかな? フランスの公衆電話って何色だ? 代用するとしたら、安くて大量に手に入る紙束だと……この国、コミックの週刊誌とかってあるんだろうか。
意味のある思考なのかな、これ?
なんか自分に言い訳して安心したがってるだけに思えてきた。ちゃんと考えてるんだから大丈夫です、僕は立派に仕事をしていますって。
びくびくしながら暗がりの中を進むと、
「もう良い頃合いのはずよ。パリ天文台、この辺りのはずなんだけど……」
「何で分かる? 案内板でも見つけたか?」
「そこの道路崩れてるでしょ」
「うん」
「奥に大量の人骨が見えてる」
うわあッ!? 思わず叫んだけど、アナスタシアは特に気にしていないようだ。
「ここ、カタコンベの真上には立っているはずなのよ。それにしてもこんな浅い所にまで知らない地下通路があったのね。観光コースだと一〇〇段以上は地下に下るはずなのに」
「あっあの、アナスタシア、あれ、ホネ。骨なんですけど、ほらそのヒトの」
「なあに? 何百年も前の白骨よ。事件性のあるものじゃないし」
「そりゃそうなんだろうけど、お化けや怨念に消費期限があるなんて話も聞いた事がないぞ……」
「おーよしよし、怖かったらアナスタシアお姉ちゃんがトゥルースを抱っこしてあげまちゅからねー?」
どうやらアナスタシアは古戦場とか落ち武者の霊とかにはリアリティを感じない人のようだ。ただウチには吸血鬼とか魔王とかがいるからなあ。あの手の超常存在が時間の流れ程度で力を失うとはとても思えない。ていうか辺りは普通に住宅とかお店とかだ。地下に目一杯人骨敷き詰めたその上に家を建てて普通に暮らしてる。パリって事故物件とか気にしない人ばっかりなのか?
「それより主成分はカルシウムでしょ。酸性雨なんか浴びせたら溶けちゃうわ、歴史的な遺産なんだから大事にしなくちゃ」
アナスタシアは地下空間へこれ以上雨水が入らないようその辺にある工事用のビニールシートを掛けたいようだったけど、うーんどうだろう。良いのかな、普通に道があると思った人が踏んづけて人骨落とし穴に消えていかないと良いけど。ショックが大きすぎるだろそんなの。せめてカラーコーンでも置いて注意を促しておこう。
ともあれ、だ。
「あれじゃない? あれよ、パリ天文台!」
他と比べていくらか原形の残った建物があった。天文台だから元から高価な機材を詰めてる自覚はあるし、観測にあたって細かい揺れも厳禁だ。フランスの耐震基準は知らないけど、少なくとも普通のお店よりは頑丈に作られていたらしい。
……周りを囲んでいるのは病院かな。うわあ、結構ぐちゃっと崩れてる。今夜は怪我人も多そうだけど、ちゃんと機能してるんだろうか。
そしてここからは哀れな旅行者でも善良な被災者でもない。
僕達の目的はJBが感染させたウイルスだけど、ハードディスクから直接採取するには建物の中まで忍び込むしかない。パリ天文台の建物そのものには興味はないし、備品についてはちり紙一枚動かす気もないけど、それでも傍から見ればただの泥棒だ。
デジタルまわりを考えると、思考が変わる。
隣を歩いているのがアナスタシアで良かった。
「……それじゃあ始めるか」
「りょーかい」
ルーヴル美術館での銃撃戦も頭によぎった。侵入がバレればああなる。けど、こっちは警官がバリケードを張ったりはしていない。やっぱり優先順位があるのかな。カメラとかセンサーとかのセキュリティについては流星雨か地震のタイミングで断線してるっぽかったけど、一応アナスタシアに分析してもらった。白の報告をもらってから、元から割れてる窓に手を入れて内鍵を開ける。ハンカチで包むようにして、だ。
「トゥルース、標的は?」
「一番デカくて目立つコンピュータ」
入ってみて分かったけど、実際には現役の観測所ってよりもガラスケースの中に古い機材を並べた博物館の方が近かった。あるいはちょっと学校っぽくも見える。そりゃそうか、本気で微弱な星の光を捉えるとしたらアルプス山脈のてっぺんか赤道直下の飛び地の方が適任だ。ウィルスにやられているのはそういうデータを集めているからかな。夜のパリで見られる星には限りがあるだろう。……こんな大規模な停電にでもならない限り。
天井には太い金属パイプみたいなのが走っていた。後から追加した業務用の電源か。追っていくと地下への階段があり、その先にフロアいっぱい使った電子機材保管室があった。自販機みたいなサイズのコンピュータがずらりと一面に並んでいる。停電下だけどデータや機材を守るためのバッテリーはあるようだ。
マクスウェルと繋がるまでは、基本的にアナスタシアに頼るしかない。
彼女はペットロボットの頭になっている自分のスマホと大型コンピュータをケーブルで繋ぎながら、
「検索条件を教えて」
「マクスウェルが言ってたdollgirl.cならルート7bで分かる。自分で自分をコピーするたびに、後ろにランダムな八ケタの英数字をつけて検索除けにしてるけどな。自分の記述に枝葉をつけてセキュリティ側の見本とちょっとズレてるように見せかけるんだ。人の目なら一発でも、対策ソフトだと二つが完全一致しなければ駆除しない。こいつは重要なシステムファイルにわざと作りを寄せてる。誤爆で正常なデータを抹消したらクレームの嵐になるからな、曖昧な判断はできないんだ」
「なるほどね、と。出たわ! JBお手製の遠隔操作ウイルス!!」
「そのまま開くとご自慢のスマホもやられるぞ。中を見るのはわざと破損ファイルを噛ませて『固めて』からだ」
アナスタシアのスマホを使ってスクリプトをいじってもらう。とは言ってもプログラム全体じゃなくて、いくつかの『行き先』の書き換え程度だけど。遠隔操作のコントローラをJBじゃなくて、僕達が中継に使う使い捨てのサーバーに再設定。これで亜種のウイルスの感染マシンは僕達の手で操れるようになる。
「後はこいつを警察署か消防署にでも感染させれば、緊急回線に相乗りしてマクスウェルと再コンタクトできる」
「長かったわ……」
とはいえご立派なパリ市警本部になんて殴り込む必要はない。通信制限下であっても、警察関係であれば末端の制服警官一人一人だってスマホやタブレットを普通に使える状態にあるんだ。誰か一人の機材を感染させれば、子から親へ勝手にウイルスを広めてくれる。
となると目指すべきは、
「確実に警官のいる所」
「どこよそれ? ……ちょっと待って、嘘でしょトゥルース!?」
「ルーヴル美術館。無駄は省こう、騎兵隊はまだバリケードで国の宝を守ってるはずだよな?」