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 ゴール地点はどこだ?
 どこへ行って何をやったら助かった事になるんだ、こんなの。
「……、」
 ゴッ!! と信号機よりも高い場所まで溶岩が噴き上がっていた。特別な火山のてっぺんじゃない。つい先ほどまでみんなが行き交っていた広い道路。そこに入った太い亀裂から真上に向けて、立入禁止の壁のように赤い輝きが伸び上がっていく。
 場所によっては川みたいになっている場所もある。気をつけるべきはまず第一に、坂だ。低い方にいたら助からない。
「ほらサトリ、頭」
「っ?」
 義母さんに気軽に言われて首根っこを掴まれた。トタンかアルミの屋根で覆われたバス停の下に連れ込まれた直後、バチバチビチビチ!! というとんでもない音に鼓膜を叩かれる。
「噴石だわ……」
 薄いドレスのお腹からまん丸の樹脂の塊を取り出し、中からスマホとペットロボットを回収しながらアナスタシアが言う。
 呆然と、薄っぺらな屋根を見上げて。
「火山灰だけじゃないのよ。小石サイズって言ってもものによっては音速超えるって話だし、あんな雨を被ったらろくでもない目に遭うわよ」
 気まぐれな硬い雨に当たれば即死。
 それだけでも怖いけど、アナスタシアはしれっと別の懸念も出していた。
 火山灰。
「まずいぞ……。今に電気も水道も使えなくなる」
「元々インフラは壊滅していたでしょ、道路だってあんな感じだし。地下の水道とか電線とかも結構やられてんじゃない?」
「……光ファイバーとかはどうなっているんだろう」
 義母さんの言葉を耳にしながら、僕は思わずスマホに目をやった。
 前にも言ったけど、携帯電話やスマホは無線機みたいに機材同士で繋がるんじゃなくて、必ず地上基地局を経由する。その基地局同士を結ぶのはやっぱり光ファイバーなんだ。つまり蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた有線のケーブルが全部やられると、結局無線のネットも途切れてしまう。
 今もう一回マクスウェルが使えなくなるのは、流石に怖過ぎる。
「それより、もっと怖いのは目に見えない硫化水素の塊と」
 言って。
 義母さんはどこかよそに指先をやった。
「溶岩の熱で生まれた急激な上昇気流が渦を巻いて火種を飲み込むケース」
 ゴォ!! と。
 離れた場所で、太い音と共に石でできた家屋や店舗がめくれ上がるのを見た。赤いエレベーターを通って暗い夜空へと吸い込まれていく。
 何だ、あれ?
 炎でできた竜巻!?
「火災旋風よ。直撃したらどうなるか分かるわね? ほら逃げる!!」
 遠くから押し寄せ、道順を無視して途中にあるものを片っ端から破壊していく赤い塔から全力で逃げ出す。
 断続的に降り注ぐ噴石も怖いけど、あんなのが来るなら屋根の下でじっとなんか無理だ。ビルごとめくり上げられるか、高温の炎で蹂躙されるか。たっぷり酸素を蓄えたあの炎ならきっと鉄でも溶かす。まして地面で灼熱の川を作るドロドロの溶岩まで吸い上げてスプリンクラーみたいに四方八方へばら撒き始めたらいよいよ手に負えない。直撃するまでもなく近づかれただけで黒焦げだ!
「マクスウェル!!」
『悪い報告しか出せません。火災旋風は蛇行しながらこちらを目指しています、最大レベルの警戒を』
 もう生き残るだけで精一杯だ。
 JBや核弾頭を追うだけの余裕がない。まずは命を守って足場を固めないと!
『警告、北へは行けません』
「何で!?」
「見て、横一直線に遮るように入道雲みたいなのができているわ。おそらく高温の蒸気よ」
 幼いアナスタシアの手を引っ張って走る僕に、オレンジ色の照り返しを受けるスクリーンみたいなのを義母さんは指差した。
「セーヌ川に溶岩が流入したんだわ。向こうはマグマ水蒸気爆発の連発で大変な事になっているはず。浴びたら火傷なんて威力じゃない、あの分だと特大のスチームオーブンにやられて橋も船も爆圧で全滅ね。残っていたとしても、むき出しの体じゃ橋の上は通れない。熱や蒸気は上に上がるから、数秒あれば蒸し鶏にされるわ」
 だとすると、JBが向こうに逃げた線もなさそうだな。自分で起こした災害に巻き込まれて瞬殺されるほどレベルが低い相手とは思えない。
 北へは行けない。
 そして火災旋風も待ってくれない。
 足を止めたらおしまいだ。
「あわあわわ、トゥルース! これならカタコンベにいた方が良かったんじゃない!?」
「大量の人骨で生き埋めとガスで窒息、どっちが良いんだ!?」
 どこから溶岩が噴き出すかは予想のしようがないし、噴石や硫化水素だって同じく。運で人の命が決まる。普通だったらそんな最悪の状況だ。
「サトリ、こっち」
 気軽に瓦礫を乗り越えて、義母さんが手を差し伸べてきた。
「アナスタシアちゃんの面倒しっかり見るのよ。私から直接言っても絶対聞かないでしょうし」
 くそ。
 義母さんの動きはどう考えたって怪しい。何か隠しているとしか思えない。でも一方で、言っている事は間違っていない。
 何だろう、このイライラした感じ。
 自分できちんと考えている事を改めて外から指摘される。そう、宿題やったのって何度も聞かれるような……。
 天津ユリナ。
 アークエネミー・リリス。
 運任せが運に頼らないで済んでいるのは間違いなくこの人のおかげだ。神話に出てくるガチの魔王だなんて規格外の反則がいなければ、マクスウェルの補助があっても僕なんかとっくに命を落としてる。
 でも。
 義母さんは義母さんで何かを隠している。手を引っ張られて従っているだけだととりあえず安全だけど、とりあえずから抜け出せない。
 答えはきっと安全地帯の外にある。
 無傷で脱線するにはどうするか。そこを考えないといけない。……まったくなんていう反抗期だ、ママンからの親離れに核弾頭や流星雨まで絡んできてやがる……。
「走っても振り切れない! 火災旋風は振れ幅が大きいからどっちに逃げたら良いかマクスウェルにも断言できないって……!!」
「こっち!」
 義母さんが僕達を引っ張り込んだのは、地下鉄駅のトンネルだった。
 飛び込んだ直後、炎が酸素を吸い込む壮絶な音がすぐ頭上の開けた世界を蹂躙していった。
 ようやく、立ち止まる。
 恐る恐る天井を見上げる。ひとまず崩落はないし、高温の熱風や火山性のガスがトンネルを突き抜ける訳でもない。
 もうへたり込んで深呼吸するしかなかった。
「……準備して。タイミング見て外に出るからね」
「上は地獄だよ。このままここで救助を待てば良いじゃないか」
「馬鹿ねサトリ、どこの地面が割れるか誰にもはっきり言えないのに? 海抜ゼロメートル以下に長居は無用。溶岩が流れ込んできたらどこへ逃げるの?」
 また低い震動があった。
 地震なのか、遠くで溶岩が噴き出したのか。僕達は自然と会話を止めて天井を窺う。
 びしばきり、と。
 得体の知れない血管が浮かび上がるように、分厚いコンクリートに亀裂が走っていく。
「アナスタシア……こっち」
 天井を見上げたまま小さな少女を手招きする。あの亀裂が重たいコンクリを囲ったら、そこから剥がれて落ちてくる。大規模な崩落じゃなくても、例えばサッカーボールくらいの欠片でも頭に当たれば十分危ない。
「どこに行っても休めないわ……」
 僕の方にひっつきながらアナスタシアが呟いていた。
「長引くなら水とかご飯とかも考えないと……。今夜どこで寝る、お風呂は? ここまでマグマが自己主張するなら、いっそ温泉くらい湧いてくれないものかしら」
 ホテルの方は……まあ望み薄か。仮に建物がまだ無事だったとして、従業員が律儀に残っているとは思えない。電気が通ってなかったらエレベーターはもちろん、部屋の電子ロックすら開かないはず。
 避難所?
 どこに設置されているか知らないし、そもそも僕達外国人に向けて開いているのか。パリの住人じゃないからって理由で弾かれる可能性は少なくない。
 じゅわじゅわと足元から汚れた水が出てきた。
「うわっ、何だこれ、今度は何が起きた……?」
『警告』
「出るわよ」
 マクスウェルと義母さんから同時に来た。アナスタシアは困惑したように、
「湧き水? 何でこんな所で……」
『液状化現象だとしたら危険度最大、今すぐ行動してください』
 溶岩に触れると水蒸気爆発を起こすから。あるいは、千切れた高圧電線と組み合わさると広範囲に電気が流れるから。
 そんな可能性を頭の中で並べたけど、状況はもっとダイレクトだった。天津ユリナはこう言ったんだ。
「地下で不自然に湧き水が出るっていうのはね、これ以上ないくらいのサインなの」
「?」
「地盤にダメージがあって、この空間は間もなく崩落する。大至急ここから離れろってね!」
 ちくしょう、ここもか!?
 慌てて出口へ走ろうとした瞬間、足を取られて派手に転んだ。っ、砂浜どころじゃない。粘ついた泥水の中だと走りにくい事この上ない!
 すぐそこにあるトンネル出口は、まるで竃の中を覗き込むようだった。
 外はまだ溶岩や火災旋風で真っ赤に炙られているはずなんだ。
 それでも出るしかなかった。
 瓦礫だらけの地上へ出た途端、真後ろで爆音がいくつもあった。きっとトンネルの壁や天井が崩れたんだ。いちいち被害を確かめている暇もない。冷や汗と共に、僕はアナスタシアの手を引っ張る。すぐさま瓦礫に押された空気が生み出す暴風と粉塵が突き抜ける。外で燃えていた火の手が大量の酸素を浴びて一気に活性化していく。
 まるで爆発だった。
 風の流れを逆流するように、一気にトンネルへ向けて竜のブレスみたいな炎の塊が突っ込んでいく。
 寸前でアナスタシアを抱いて横に転がっていたけど、棒立ちだったらきっと勢い良く膨らんだ炎に呑み込まれていた。鉄をも溶かす火炎放射器だ。
 地上も地上で地獄だった。
 直接的な溶岩だけじゃない。もう火が点いていない建物の方が珍しいくらいだ。様々な破壊で道路が寸断されたのか、消防車もやってこない。見よう見まねで消火栓をホースに繋げている人もいたけど、ノズルから水が飛び出した直後に爆発が起きて真後ろに薙ぎ倒されていた。大量の水が石油系の炎に触れて爆発を起こしたんだ。
 必死の努力が、逆に被害を広げていく。
 あちこちに黄色い塊も見えた。おそらくは冷えて固まった硫黄系の結晶だ。酸性だかアルカリ性だか、いよいよ目には見えない土壌や水質まで変わってきた。だんだん地球の環境から離れていく。
「いつまでもは続かないわよ」
 義母さんだけがいつも通りだった。
 この程度は見慣れていて、いつもの振れ幅の範囲内だといわんばかりに。
「長い時間をかけてマグマ溜まりが形成されている訳じゃないもの。砕けた地盤はやがて固まる。傷口にカサブタができるように、冷えた溶岩自身の力でね」
「マクスウェル」
『論は間違っていないかと。ただし、今すぐ止まる訳でもありませんが』
 いつかは止まるのであって、今ここで収まる訳じゃない。結局は自分の身は僕達で守るしかないのか。
 というか、
「……フランスの首都だぞ。JBのヤツら、流星雨だけでここまで広範囲に深いダメージを与えられるならもう核弾頭なんかいらないんじゃないか?」
 それとも核保有っていうカードが欲しいんだろうか。
 額の汗を拭い、火の粉の動きから風向きを読みながら、義母さんは笑って言った。
「彼らが求めているのは攻撃力じゃないわ」
「?」
 大きな亀裂や溢れる溶岩を避けて僕達は歩き出す。単純に建物を上がって屋根伝いに進めば安全って訳でもない。下が崩れれば上も全部倒れていくんだ。
「つまり、核の力は別の目的で使おうとしてる。あくまでも材料集め、手段の獲得なのよ」
「まさか弾頭部分を取り外して燃料棒にでも作り替えるっていうのか? 無意味過ぎる!」
「ま、大抵の人なら原子力なんて兵器か発電くらいしか頭に浮かばないわよね。後は陽子や電子の衝突実験くらい?」
 ちょっと離れた場所に石の雨が降り注いでいた。噴石。切り裂くような音が続くのは、音速を超えているからか。建物の壁やガラスが次々と削り取られていくのが、オレンジ色の照り返しで浮かび上がっていた。まるで機銃の掃射だ。
 過ぎてしまえばそんなものかって感じだけど、硬い雨を浴びていたらもちろん即死だった。天津ユリナが常に風向きを調べながら歩いていなければそうなっていた。
「ねえサトリ、そもそもJBの目的は何?」
「知らないよ。なんかこの世界から脱獄するとか何とか言ってるけど……」
「ならその脱獄に、どうして小惑星のコントロール技術なんて必要なの?」
 思わず状況を忘れて立ち止まるところだった。
 その問いかけは、あまりにも根本的過ぎる。
「言うまでもないけどこれには莫大なコストがかかっているわ。だけど、どこかへ逃げる、隠れるだけだったら流星雨も核弾頭もいらない。つまりついでなのよ。元々JBには大きな目的があって、それを兵器として転用した。小惑星のコントロールは、武器として使うためのものじゃないのよ」
「だったら……。だったら一体何をしようとしているんだ、JBは!? 星の軌道まで操る術を手に入れておきながら!!」
「だから、それよ」
 あっさりと、だった。
 天津ユリナはこう答えた。
「JBはこの星に飽きているの」
「……?」
「そして我慢するくらいなら、自分達で新しい世界を創ろうとしている」
 一瞬、何の話がどこに飛んでいったか迷子になった。
 けど最初から答えは目の前にあったんだ。
「まさか……いや、うそだろ……。それって!?」
「地球だって最初は宇宙に漂う土くれだったのよ」
 義母さんはくすりと笑う。
 実際問題、多くの災害には決まった必勝法なんてない。過ぎ去るまでじっと耐える、という身も蓋もない選択肢が最善だったりする。
 そんな中、天津ユリナは高い場所を目指しているようだった。ランダムに降り注ぐ噴石も怖いけど、濁流のような溶岩に一面くまなく呑まれるよりはマシってところか。
「たまたま太陽系軌道のどこかで一定以上の質量がまとまる事に成功できただけ。条件さえ揃えば『ここ』でなければいけない理由は何もない。……火星と木星の間だけでも数万もの小惑星、準惑星だの小天体だのが漂っているのよ? 冥王星の外ならもっと多い。これらを一ヶ所に集めて全方位から莫大な力で圧縮するだけで、第二の故郷なんか簡単に作れるわ」
 莫大な、力。
 そのための……核弾頭?
「……生命の神秘を何だと思っているの?」
 アナスタシアが、呆気に取られたように呟いていた。すぐ近くに降り注ぐ大量の火の粉も、オレンジ色の激しい照り返しも気づいていないといった顔で。
「太陽から三番目に遠い星なら無条件で生命が湧き出てくる訳じゃないわ。四六億年もかけてゆっくりと積み重ねていった今ある環境は、ほんの少しの変化であっさり歪みかねない偶然の産物ばかりだった! まして『ワタシ達みたいなの』が定着する確率なんかさらに低いわ!! そんな、足し算で数字を合わせれば同じ星ができますなんて理屈は通らない!!」
「生命の神秘、ね」
 鼻で笑うような天津ユリナの声色だった。
 今は義母さんというより、魔王リリスが前に出ているのか。
「楕円軌道を描く氷の塊だってメタンやアンモニアを含むわ。これらに多量の太陽宇宙線を浴びせればアミノ酸が合成される。いわずもがな、生命の始点とも言える物質ね」
「……、」
 ダメだ……。スケールそのものについていけなくなってる。
「私は望む望まざるに関わらず、新しい星には勝手に生命が根付くと考える。核起爆による土くれ圧縮の時に浴びる膨大なガンマ線がアミノ酸を合成するか、はたまたJBの入植者が目に見えない顔ダニや腸内細菌なんかを持ち込むか、正確な話は知らないけどね。だけど生命が居住可能な環境で実際に生物が活動を始めたら、絶対に周辺一帯は無菌のままではいられない。顕微鏡で覗いてご覧なさい、人間なんて隅から隅まで微生物にうじゃうじゃたかられて足の踏み場もないわよ?」
 実際に実現するかどうかじゃないんだ。
 そう信じてここまで行動してしまった組織がある。宇宙に浮遊する塵屑や岩塊を動かし、保有国から複数の核弾頭の使用権限を奪って。今はよその星へ行くまでの準備期間だから捨て去る地球なんかいくら壊しても問題ないだろうくらいの雑な考えで、だ。しかも最悪な事に、そいつらは今のところ世界の誰にも捕まえられない。
「アブソリュートノアは、お世辞にも表に出せる慈善団体じゃないわ」
 ぽつりと。
 天津ユリナはこう言った。
「……だけど私達は私達なりのやり方で、世界の危機を乗り越えるために戦ってきた。今ある世界に用はないから全部捨ててしまえなんて、そんな考えには賛同できないのよ」
 考え方次第によっては、だ。
 義母さんの言い分が正しいなら、少なくともJBはフランス製の核弾頭を市街地で起爆するつもりはないって話でもある。そう割り切ればいくらか救いになるだろうか。

 これだけやられておいて?
 どうせ捨ててしまうものだから踏み潰しても構わないって考えの持ち主が、救いをもたらすと?

「……無理だ」
「トゥルース?」
 アナスタシアの不安げな声があった。彼女は先ほどから天津ユリナに圧倒され、言葉が少なくなっていた。ここにきて、橋渡し役の僕までおかしな事を言い始めたらどうしよう。そんな風に考えているのかもしれない。
 平和主義を望むなら、僕はアナスタシアの期待には応えられそうにない。
 どう考えても僕は争いを望む側だ。
「JBは別にパリの街並みやフランスって国が憎い訳じゃない。欲しいものがあるから、邪魔する人間を排除したいから。たったそれだけで、ヤツらは現実に『ここまで』の地獄を作り出した。……放っておいたら世界中がこうなるぞ。コスパが良いとか最短コースとか、そんな向こうが決めた理由一つでニューヨークだろうが上海だろうがみんな吹っ飛ぶ。そこに住んでいる人達なんかお構いなしに、ただ仕掛けを解除して先に進むために星形のドライバーが欲しいとか強敵とかち合う前に回復アイテムを補充しておきたいとか、そんな理由だけで」
「……、」
 JB側の『準備』がこれで終わりなのか、まだまだ五個でも一〇個でも手順がいるのかは未知数だ。
 プラスの獲得だけじゃない。マイナスを潰す行動もありえる。地球脱出に際し妨害してきそうなレーダー施設や空軍基地なんかを先制攻撃するかもしれない。
 重要なのは客観的な合理性じゃない。
 ……JB側が必要だと『思えば』その時点で決行されるんだ。例えば材料一式全部揃ったとして、でも、念のためにスペアをもうワンセット欲しいと考えたら? その時点でJBは街を一つ吹き飛ばす。一回で済むなんてルールも特にない。不安を拭えるかどうかは、ヤツらの胸三寸でしかない。
 僕達は。
 ただただ体を丸めてJBという災害が通り過ぎるのを待つばかりだ。少なくとも、このまま黙っていたら。
 今は、自分の頭には降り注がなかった。
 ……それで諸手を挙げて喜ぶのが、本当に正しいのか? こっちは被害を受けるいわれなんて一個もないっていうのに。こんなヤツらを野放しにするのが最大の災いだ。
「今回はたまたまパリだった。だけど何か気紛れ一つあれば、僕やアナスタシアの住んでいる街だってズタボロにされる。……なら放置なんかしておけるか。こっちはJBが勝手に始めたロシアンルーレットに付き合わされる義理なんかないんだ」
 ていうか、ダメだ。
 その圧倒的なスケール感に誤魔化されるな。そもそもJBが主導権を握っているのがもうおかしいんだ。パリの運命はパリが決めるし、モスクワの運命はモスクワが決めるし、東京の運命は東京が決める。そうであるべきだ、絶対に。
 ロシアンルーレットをやりたいなら、まずその銃口は自分の頭に向けろ。僕達はお前のゲームになんか興味はないんだ。
「JBはここで叩く」
 はっきりと。
 そう言った。
「勝手気ままにやらかしたツケは全部回す。採算度外視でいい、もう二度とこんな事をやりたいとは思えないレベルでだ」
「異論はないけど……」
 煮えきれない様子で呟くアナスタシア。
 自分の身の安全を守る、助けを求める人を瓦礫の下から引っ張り出す。もっと他にやる事があるのでは。そんな迷いが見え隠れしている声色だ。
「ま、実際そうなるわよね」
 一方で義母さんはどこか楽しげだ。ひょっとしたら自分の望む方向に流れができて嬉しいのかもしれない。
 崩れて斜めになった石壁を上り切った彼女は眼下に広がる世界を見渡しながら、
「こっちがどれだけ予定を固めて防災計画を練ったって、JBの気まぐれが発動したら丸ごと台無しにされるんだもの。安全を確保するなら、まず元凶たるJBを叩いて潰さない事には始まらない。それも徹底的に、反撃のチャンスなんて残さない形でね?」
「……それは、手を伸ばせば叩ける距離にいるって事か? 地球の裏側からキーボードを叩いてサイバー攻撃しているとかじゃなくて」
「モチ。てか国防省の地下では手こずらされたしね」
 アークエネミー・リリスの魔の手をかい潜り、必要な細工を施して、一切の証拠を消してフランス国防省の地下から安全に抜け出した何者かがいる。それだけで相手の技量がケタ外れなのは確定だ。
 顔を出すのはかつてのリヴァイアサンのような、同格以上の魔王か。
 あるいは、
「こういう時は人間なのよねえ」
 天津ユリナは頰に片手を当ててどこかおっとりと言った。
 魔術師、占い師、錬金術師、祈祷師、死霊術師、魔女術師、呪術師、陰陽師、召喚師、妖術師、風水師……。
 あくまでも人間のままオカルトを扱う者。呼び名は色々あるだろうし、僕が頭に浮かべるその全部が必ずしも適切に当てはまっているかどうかもはっきりしない。映画やRPGから刷り込まれた知識だって山ほどあるだろう。
 でも、少なくとも僕は見ている。
 ヴァルキリーのカレンを意のままに操っていたブードゥーのボコールに、何かしらの神を宇宙船のクイーンに仕立て上げた最初のJB。
 スキュラなんかも参加していたみたいだから、必ずしも人間だけの組織じゃなさそうだけど。マイクロプラスチックの一件ではヘカテっていう魔女の女神が面白半分に人間へ力を貸していたし。
 共通しているのは、神のコントロール。
 息苦しい世界からの脱獄を願うJBからすれば、ルールの壁を壊して抜け穴を作るための試行錯誤の一部か、変わった形の復讐なのかもしれないけど。
「そして自分の弱さを自覚している術者はその分だけ情報で戦おうとする。ついうっかりで自分の名前を明かす悪魔なんかよりもよっぽどタチが悪いわ。私達が悪の権化なんかを名乗らせてもらっているのが恐縮に思えてくるくらいにね」
「そいつは一体誰なんだ?」
「ピエール=スミス」
 語感に馴染みのない名前だった。
 アナスタシアよりも、さらに遠い世界の人。けどこれが本名なら、おそらくフランス由来の出自を持っている。
 それでもやるか。
 脱獄とやらを果たすためなら、この国の首都をここまで。
「死者の書を編纂するミイラとピラミッドの支配者。それでいて俗世を捨て去る事なくこの世界を彷徨う『人間』よ。割とギリギリの縁に立っているけどね」
「……、」
「だから安定した道を蹴って、自分からキツい道を歩いている。……どう考えたってゲテモノだわ。やっぱり人間を動かす一番の原動力は、七種の欲望なのかしら」