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 オテルデザンヴァリッド。
 ナポレオンの墓だか軍関係の博物館だか知らないけど、ここから見た感じは都会にぽっかりと開いた芝生の整えられた巨大な自然公園って感じだった。街灯は死んでいるけどパリのあちこちで火事が起きているせいか、こちらの方にまでオレンジ色の照り返しがやってきている。
 ただ、闇を拭い去れるほどじゃない。
 全体からすれば彩り程度って話だけど、でも当事者からすれば視界を遮る木々は怖い。そりゃまあ、一辺何百メートルもあるお弁当箱なら、片隅にあるパセリだって僕達を飲み込むほど大きくもなるか。
 黒々とした木々はその存在感を増し、頭の上から降り注ぐ火の粉は得体の知れない光る虫のようだった。なんかここだけ現実の街中って感じがしない。こんなの暗闇のせいで距離感が掴めなくなっているだけで、実際にはちょっと進めば芝生の地面に出るんだろうけど、その辺の茂みをかき分けたら天然のエルフでも出てきそうだ。
 漆黒の圧迫に惑わされるな。
 僕達の狙いは最初から一つだった。
「あった。手形と足跡」
 あるいは木々の幹にべったり、あるいは地面の土や木の根に刻みつけるように。スマホをかざすといくつかの四角い表示が浮かび上がり、一本の線で結ぶとJBのキャスト、ピエールの行き先が見えてくる。
 ヤツは広大な敷地から人を追っ払って夜空に紫外線の点滅で合図を送っている。おそらく開けた場所で、ヘリか何かを呼んで最短で脱出するために。そうなったらおしまいだ。フランス国防省地下で権限を書き換えた核弾頭が広い世界のどこにいくつあるのか、情報が途絶えてしまう。
 JBの動きを止められなければ、世界中がこうなるのを黙って見ているしかなくなる。ヤツらの計算と気分にぶつらないのを脂汗にまみれて祈りながら。そんな未来はごめんだ。
「あと五〇メートルくらいだわ」
 夜空にスマホをかざし、目に見えない紫外線を可視化しながらアナスタシアが呟いていた。
「バックライトで気取られるかもしれないし、そろそろスマホに頼るの控えた方が良いのかし

 がさり、と。

 そんな懸念すら断ち切る音が、唐突に真横から響き渡った。黒い木々の合間だ。
「来た!!」
 天津ユリナがとっさにアナスタシアの手を引っ張りながら叫ぶ。
 予言通りになった。
 爆音。
 そして胸より下くらいの高さで揃えて、全ての木々が横一直線に切断されていく。
 僕が助かったのは、勇気ある決断をしたからじゃない。単にいきなりの物音と切迫した義母さんの声に驚いて、近くの木の根に足を引っ掛けたからだ。
 しかし、切った?
 刃物……じゃない。明らかに違う。辺りの木々は細いものでも僕の太股、太いものなら胴体より大きいんだ。鋭く研いだ金属の刃物くらいじゃ歯が立たないし、黒い木々をまとめて切断するようなサイズなら逆に強度を保てず刃の方が折れてしまう。
 ぱらぱらと、頰や鼻先に冷たい感触があった。さっきから流星雨だの小惑星だのの余波で大気はひどい状態だけど、今は雨は降っていない。
「水……?」
 唖然としたまま、呟いた。
「水で、斬った。のか???」
 がさがさりと、茂みをかき分けるようにして『それ』は現れた。
 全体としては、古い石と純金? の集合体か。しかし一方で恐ろしく滑らかな曲線だけで作られたそのフォルムは、生きて呼吸をしている僕なんかよりもよっぽど生物的だ。
 ワニ、だった。
 大顎の先から尻尾の末端まで含めれば、おそらくは一五メートル以上。
 実物のワニなんて見た事ないけど、イメージ的には頭を低くして匍匐前進でもするような格好だった。
 その状態で、もう僕と同じ目の高さにある。
 もうデカい観光バスやトラックのヘッドライトに睨まれているようだ。武器の有無とか盾を構えればとかじゃない。そもそも根本的に生身の人間が真正面から立ち向かっちゃいけないレベルの大質量。それが本能の部分だけでも十分過ぎるほど理解できてしまう。
 許容を超えた、値。
 人間は二リットルも血を流してはいけない。
 人間は青酸カリを呑んではいけない。
 人間はロケットエンジンに体を入れてはいけない。
 それと同じ。
 人間は、あの巨体とぶつかってはならない。
 両目を見開いたまま、天津ユリナが口の中で何か呟いていた。
「セベク……? でも何か、私があの地下で見たものとは……」
「義母さん、何か知ってるなら分かっているところから順番に話してくれ! お得意の謎めいた空気にはもううんざりだ!!」
「っ、エジプトの水神セベク。地域によっては最大の悪神セトの代わりを務める大物よ。単純な戦闘力の他に占いもいけるから、攻撃も正確。理詰めで走り回るだけじゃおそらくヤツの攻撃は振り切れないわ」
 まだ幼いアナスタシアを庇いながらじりじりと後退しつつ、魔王リリスはゆっくりと語る。
 神話仲間だからか、この辺りはマクスウェルより舌が滑らかだ。
「ピエール=スミスは偶像を積極的に取り入れている術者ではあった。元々エジプト神話では猫や牛なんかの動物を神聖視したり、神を模した像を盛んに作っていた訳だしね。……あそこに『神の力』が何割くらい詰め込まれているかは私も知らない。でもたとえ一割であったとしても、並の災害くらい軽く凌駕するわ!!」
 これが、今度の敵?
 フランス国防省の地下で天津ユリナがJBのピエール=スミスとやらを取り逃がした原因?
 むしろこんな化け物と真正面から取っ組み合いして良く生き残ったな、義母さん!? 一五メートルとかっ、もう明らかに自然のワニより強靭でおぞましい何かじゃないかっ。勝算とか作戦以前に、こっちは何をどう詰めたらあんな巨体が入り組んだカタコンベを通り抜けられるかも想像できないっていうのに!
「そもそもピエールとかいうご本人様はどこにいるんだ? 自分で作った古代兵器のコックピット!?」
「まさか! 雨宿り程度ならともかくとして、あんな高濃度の『力』と同じ座標に長時間同居したら生物的に身が保たないわ。あれは、わざと自分と戦力を切り離している。それが一番安全だって、おそらくピエール自身も気づいているんだわ!」
 ではあった。
 おそらく。
 ……義母さんはフランス国防省の地下でピエールやセベクとやり合っているはずなんだけど、その割に予測の部分が多いな。けど今は身内同士で揚げ足を取っている場合じゃないか。
 基本はリモートのドローン兵器みたいなものなんだろう。機械仕掛けの神と生身で無理に削り合いをやったって意味はない。その間にピエールが夜空からやってきたヘリに乗り込んだらそれまでだし、そもそもヤツが自由に使える神様の像がセベク一体だけとも限らない。
 迂回できるものならとっとと迂回したい。
 ただ大型バスに匹敵するサイズの人工ワニの筋力(?)が生み出す瞬発力がどれほどのものか……。少なくとも、生身の人間の足で振り切れるとは思えない。
 向こうは安易にタックルなんかしてこなかった。
 人工物の塊のくせに苛立たしげに太い尾を左右に振ると、がぱりとその大顎を開いたんだ。
 先ほどと同じ。
 超高水圧の一撃が、
「来るッッッ!!!!!!」