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 アブソリュートノアの天津ユリナがいきなりアブソリュートノア流を全力で繰り出そうとしたため、僕達で慌てて止める羽目になった。もちろん曲者揃いのJBが簡単に口を割るとは思えないけど、ダメだ。拷問なんて。
「ネットは繋がっているんだ。いきなりそんな手を使わなくたって方法はあるよ!」
 とりあえず顔と全身を撮影し、さらに指紋や虹彩、歯型などを細かく記録していく。ピエール=スミスなんて偽名かもしれないけど、生体認証は誤魔化せない。この情報化社会なら検索一つでいくらでもデータは引っこ抜ける。
「マクスウェル、まずはネット全体を検索。特に写真系SNSと動画サイト」
『本人が出会いと自己承認欲求を求めて顔芸でも連投していると良いですね』
「そこまで期待しちゃいないさ。赤の他人のアカウントであっても写真の片隅に写り込む場合もある。手始めに写真や動画の分布からピエールの生活範囲を割り出すんだ」
「出たわー」
 先に呟いたのはアナスタシアだった。
 マクスウェルを超えてご満悦なんだろう。しかし機械相手に一人相撲して何が面白いのやら。将棋やチェスのスパコンと戦ってる感じなのかな? なんかニヤニヤしながらびしょ濡れ金髪少女は自前のスマホを軽く振っていた。
「活動範囲はイタリアのミラノ近辺に集中、おそらくピエール=スミスは偽名ね。普段使っているいくつかのATMの位置からして自宅は……」
「マクスウェル、指紋か虹彩」
『シュア。フィアンセホームセキュリティに同指紋を使った玄関ロックのデータあり。ミラノ県レニャーノ市のマンションですね。名義はビッザ=バルディア。二二歳男性ミラノ工科大学に在籍、就職活動は難航中』
 みっ、見つけたのはワタシが先だからねっ、今のはおまけの横入りだからね! と涙目でほっぺが爆発しそうなくらい膨らんでいるアナスタシアの頭を片手でぽんぽんしつつ。
「交渉材料を把握しておきたい。何か弱みとなる個人データは? 検索履歴でも通販の購入リストでも何かあるだろ」
『何で最初から奇妙な性癖持ちと断定しているのかは疑問がありますが、その手のデータはあまり見つかりませんね』
「人生全部潔癖にJBの使命だけを果たしますって?」
『ただ一人暮らしを機に、数年前から義母モノの動画を死ぬほど閲覧しているようですが。叔母や義姉ではダメなようです』
「ようしここ最近で一番キツいヤツのタイトル教えろ」
 何やら両手を腰にやった天津ユリナがすっっっごい目でこっち睨んでいるけども、平和的な解決のためには必要な情報なんだからね! これでダメならウチの義母がペンチ片手に三二本の歯を一本ずつぐりぐり回してDIY感覚で引っこ抜きかねないんだし!! 元からお母さんネタがあればいくらでも盛り上がれちゃうピエール改めビッザが文字通り悪魔の笑みを浮かべる天津ユリナに馬乗りされてペンチアタックなんか喰らったら何がどこまでねじ曲がるか誰にも予測できん!!
 そんな訳で、
「おはようピエール君。いいや『母と祖母の狭間、揺れるオンナと母性』君と呼んだ方が良いのかな?」
「ひいい!? ちっ違うんだようーほら退屈を極めた深夜三時の思い切りっていうのがあるだろう!?」
「刺激に餓えてるお茶の間の皆さんが若気の至りを理解してくれると良いな。ほうら指先一つでアップロードアップロード……」
「ちょっと待って何それ!! 動画サイト? 捨て垢のSNS? うわあー死んだあ!!」
 白目をむいてびくびく震えるビッザ=バルディアに送信キャンセルの画面を突きつける。
「ほら、次はやるぞ。マジでやるぞ。分かったら全部話せ」
「……、」
「カッチコッチの三分動画だとこんな感じかなあ? 世界中のティーンに拡散してもらうがよい。地球をぐるりと一周回ってミラノに住んでる何にも知らねえキサマの実母の目に入るまでなあ!!」
『コメント>イエス!! 日本のホシガキみてえにしなびた乳にかつて巨乳だった名残りが見えて最高です。やっぱり乳は熟成してこそ甘味が出るというもの。GJ、激しくGJ!!』
「分かったよ、話す! 話すからッ!!」
 謎めいた世界の黒幕なんて一皮剥けばこんなものだ。実像以上に自分を大きく見せようとするから本性を隠そうとする。暗闇を恐れる人の習性を逆手に取っている時点で、正体のしょぼさを認めているようなものだし。
 アナスタシアはキョトンとしていた。
「なに? つまりどういう事???」
「その疑問は一〇年後にでもじっくり解き明かせば良いさ一一歳」
 優しい笑みを浮かべて横に流した。
 この期に及んでビッザ=バルディアが言葉を濁したら、何も知らないアナスタシアに頼んでとにかく低い声で『サイテー』と言ってもらおう。こう、仁王立ちでほっそりした腕を組んで、上から目線で生ゴミを見るような目が良い。
「……JBはこの息苦しい世界からの『脱獄』を目指す組織だ。より正確には、神の都合に合わせて調整されたこの世界からの」
 神様そのものの定義自体があやふやだけど、今は脇道に逸れている場合じゃない。またもや流星雨は落ちた。直撃の衝撃波はしのいだけど、連鎖的にどんな災害が襲いかかってくるかは予測もできない。
「それは分かってる。だからアンタ達はフランスから核弾頭を盗んで、土くれの『凝縮』に使おうとしているんだろ。自分好みの新しい惑星を作って乗り換えるために」
 実際にその通りに進むとは思えない、っていうのが義母さんの意見だった。まっさらな星を作って移住しても、アミノ酸が合成されたりJB自身が持ち込んだ微生物のせいで『招かれざる客』が増殖・進化し、やがては世界を自分達以外のルールで窮屈にしていくって。
 だけどビッザ=バルディアは首を傾げた。
 むしろ不思議そうな調子で彼は言う。
「私達の目的は移住じゃない」
「なに?」
「確かに新しい星は作る。だがそれは移住のためじゃない。その場合は組織が一方的に選んだ人間しか救わない事になるじゃないか。それじゃあアブソリュートノアの方舟とロジックが変わらない」
「……、」
 と睨みが一層キツくなったのは腕組みしている天津ユリナだ。彼女の方舟は実際に組織内部に潜り込んだJB……アークエネミー・エキドナの手でズタズタにされているんだから当然か。
 けど、そうか。
 単に役割がバッティングしているだけなら、JBはアブソリュートノアの方舟を破壊する必要はなかった。密かに作り替えて丸ごと乗っ取ってしまっても良かったはずなんだ。なのに彼らは破壊を選んでいる。
 二つが共存すると目的を達せられなくなるから。
 つまりJBの『脱獄』は、選ばれた少数を他の星へ移住させる事じゃない。
「なら、何が目的なんだ?」
「……JBは下から社会を見上げて間違いを見つける」
「お前達の言う『脱獄』っていうのは何なんだ!? JBお得意のナゾナゾはもうたくさんだ。わざわざ核弾頭なんか盗み出して、新しい星まで作って何をしようとしている!?」
「そしてみんなを救うんだ。選ばれた少数じゃない、下から見上げた全員を。そのための『脱獄』だ。私達はこの世界に敷かれたレール、くそったれな脚本で満ちた茶番劇と戦って自由を勝ち取るキャストとしてここにいる」
 サトリっ、という鋭い呼び声があった。
 意味が分からなかった。
 いきなり真横から鋼鉄の塊が滑り込んできた。メインローターを地面にぶつけてへし折り、ただの鈍器となった巨体が芝生を抉りながら目の前にいたビッザ=バルディアをぐしゃぐしゃに轢き潰していったんだ。
 JBの……攻撃ヘリ?
 結局流星雨を避けきれずに墜落してきたのか。こうまでしてもJBはビッザの口を封じたかったのか。あるいは、JBと敵対するとかいう……神様サイドが横槍を入れてきた? 何だっ、結局何が起きた!? 目の前で人が一人死んだっていうのに分かった事が何もないぞ!?
 アブソリュートノア対JB、この図式さえふわふわしてきた。ほんとどうするんだこれ……。信じられるものがいよいよなくなってきてる。
 ぼんっ、と。
 離れた場所で墜落ヘリが爆発したけど、もはや驚きもなかった。騒ぎの中心は明らかによそへ移っている。あれだけ恐ろしかった天空の支配者が、間抜けな周回遅れにしか見えなかった。
「……なんか、夜空の様子がおかしいわ。トゥルース」
 明かりがなく、それでいて星々も見えない重たい夜空を見上げながら、アナスタシアはそのまま二歩三歩とゆっくり後ろに下がっていた。
 ゴロゴロ、っていう低い唸りはさっきもあった。おそらく流星雨墜落の時に大量の粉塵が舞い上げられて、それらが空中で激しく擦れ合っているからだろうけど……。
「何か来る。トゥルース、早く逃げましょう。何が起きたか知らないけど、死人から話を聞く事はできないわ!!」
 ドガかッッッ!! と。
 どこか遠くで、立て続けに太い雷が落ちた。法則性は見えない。避雷針みたいに背の高い建物のてっぺんが狙われたのかもしれないし、あるいは風に舞うビニール袋とか建物に向けて放たれた消火栓の放水なんかに直撃したのかもしれない。ともあれ分かるのは一つ。
 次の天災は、雷。
 それも不自然過ぎるほど辺り一面に落ちまくる、高圧電流の嵐だ。
『警告、多数の木々が乱立する雑木林は危険です。広場からの脱出には順路に気を配る事を推奨します』
「今のこのっ、ゴルフ場みたいな平場の方が危ないんじゃないのか!?」
『オテルデザンヴァリッドのすぐ外は市街地ですよ。そちらに移られた方が落雷のパターンは読みやすいです。木々の中だと、たまたま木のてっぺんに落ちた雷の影響が地面を伝って襲ってきます』
 災害関係の知識で専用シミュレータのマクスウェルを疑っても仕方がないか。僕は千切れた衣服のポケットにあったビッザのスマホだけ抜き取ると、身振りでアナスタシアや義母さんに広場からの脱出を促す。
 雑木林はもちろん、開けた広場側だって光を失った金属製の外灯なんかも怖いな。
 空中で粉塵が擦れ合っているせいか、落雷の分布には物理的な密度があるようだった。たとえるなら、バチバチ鳴っている砂嵐が急速に風でこちらへ流されてくるような。とにかく雷鳴のない方に向けて走るしかない。
「マクスウェルっ、ノイズで通信障害が出る前にできるだけ知識を仕入れておきたい! 落雷の基本と対策は!?」
『水場、平地、背の高い木々や柱を避けて行動し、できるだけ頑丈な建物に隠れて嵐が過ぎ去るのを待つのが最良です』
 平地と木々で条件が相反してる!? ダブルスタンダードになってないか、それ!
「ねえトゥルース、大打撃でボロボロのパリに頑丈な建物なんて残っていると思う!?」
『ちなみに金属部品に優先して雷が落ちるというのは迷信です。先端放電の条件に合致すれば木でもプラスチックでも普通に直撃します。当然、絶縁破壊状況では人体そのものも導体の一つになりますのでご注意を』
 知識は的確だけどすぐさま役に立つって感じでもない。結局、あの高密度の落雷ゾーンに追いつかれないように走り続けるのが一番か。
 しかし追ってくるのとは別に、行く手の方からもゴロゴロという響きが迫ってきた。
 天津ユリナは両手を叩いて、
「ほら立ち止まらないの、サトリ! 流星雨はパリにいくつも落ちた。なら複数の場所で大量の粉塵が舞い上がったはずよ。『不自然な雷雲』は一つじゃない!!」
「くそっ!!」
 多大なダメージを受けた木々を避けてオテルデザンヴァリッドの敷地を飛び出し、ぐずついた雲の下を走り抜け、瓦礫に侵食された大きな通りに入っていく。
 まるで死のサーチライトだ。はるか天空から投げかけられる光の輪に入ったら、空気を絶縁破壊するほどの高圧電流で骨まで焼かれる。だからそうならないように暗闇の中を走り回らないといけない。
 横合いの暗がりから、フランス語で何か飛んできた。手を引いていたアナスタシアが、そこでぐっと立ち止まる。
「トゥルース、こっち!」
 彼女に案内されて、義母さんと一緒に半分崩れた背の低いビルへ飛び込む。直後、まだ雨も降っていないのに激しい閃光がいくつも連続した。爆音と共に表で何かが引き千切られた。おそらくは金属製の街灯か何かか。バーベルより重たい金属塊だぞ、アレ……。
 人の体になんか直撃したら一撃だ。
「ふうっ」
 外はひどい落雷の連続だ。しばらくはここで待機するしかないだろう。
 改めて見回してみれば、コンビニ……じゃないか。どうやらここは雑貨店のようだった。呼びかけてくれたのは中年のおじさん。店員さんか、あるいはお客さんか。逃げ惑う僕達を無視できなかったって事はひとまず悪い人ではないらしい。
 ビッザ=バルディアは故意か事故か、とにかく死んだ。死因は(流星雨か落雷にでもやられたのか?)JBの用意した救出用の攻撃ヘリだから、他に情報を持っている仲間も多分いない。
 となると、頼りになるのはこれだけだ。
 僕はポケットから、いつも使っているのとは違うスマホを取り出す。ビッザの持っていたモデルだ。
「マクスウェル、こいつのパスロックを解除できるか?」
 返事がなかった。
「マクスウェルっ?」
「ダメよトゥルース、こっちも圏外。無線LANに切り替えても抜け穴はなさそうだわ。どうやら例の雷のせいで大規模な通信障害が起きているみたいね」
「……これを乗り切るまでは一時停止か」
 言っているそばから、立て続けに二、三回雷が落ちた。閃光と耳をつんざく爆音はほぼ同時、つまりすぐそこだ。ここが建物の中だって分かっていても心臓が縮む。感覚的にはほとんど爆発に近い。
 ビッザのヤツ、意味ありげな事を言っていたのにな。
 JBは人を選ばず全員を『脱獄』させるとか、新しい惑星を作るのは移住のためじゃないとか。
 ……あまりにも呆気なくて、僕は人の死に麻痺しているのかもしれない。正しい引き出しに入れる暇もなかった、っていうか。本当だったら泣き喚いて自分の頭を両手で抱え込んでも良いはずなのに、と客観的に眺めている僕自身を感じる。
 もどかしいけど、僕はマクスウェルと繋がっていないと行動できない。アナスタシアだって似たようなものだろう。今日のハッカーはどれだけ便利なプログラムを事前に用意できるかが全てであって、本当にその場でキーボードを叩いて敵対システムに侵入する人間なんかいない。
「お腹減ってきたわね……」
 アナスタシアが当たり前の事を呟いた。時間は夜の一〇時半。こっちが最後に食べたのは機内食だ。アナスタシアや義母さんはどうだろう。
 ずっと歩きっ放しだった生活も、いったん立ち止まってみると改めて疲労の度合いが浮かび上がってくるようだった。不規則に至近で耳をつんざく落雷がなければ、体が濡れているのも気にせずこのまま床に転がって眠りこけてしまっていたかもしれない。
「サトリ」
 天津ユリナが手品のようにチョコバーとゼリー飲料のパックを取り出した。
「アナスタシアちゃんと二人で分けて食べなさい。自家生産のアドレナリンやノルアドレナリンだけじゃ感覚が麻痺するだけ、根本的な欠乏は補えないわよ」
 出所は怪しいものだったけど、冷静に観察すると包装は日本語だった。現地調達で盗んだ訳じゃなくて、日本から持ってきたのか。考えてみれば、義母さんはあらかじめ目的を持ってフランス入りしているんだ。それこそ準備については事欠かないはず。たかだか数食分の補給程度、非常事態だからってわざわざ盗みに入る必要なんてないんだ。むしろ僕とアナスタシアの手ぶらで遭難感がすごい。
「むぐむぐ、これグレープ味か」
「うえっ。先にチョコ食べると舌の感覚が……。ゼリーの隠しきれないケミカル感が強いー」
 アナスタシアと二人で取っ替え引っ替え。胃が膨らまないから満足度はさほど上がらないけど、栄養的にはそこそこ補給できているんだろう。糖分が全身の血管に行き渡ったせいか頭が内側から綿菓子みたいに膨らんでいくっていうか……、なんか、急激に眠たくなってきた。
「あれ? こっこれ冷静になったら間接キスだわ」
「あふぁあ……。だからなあにー?」
「……、」
 何故か無言のアナスタシアにすねを蹴られて眠気が吹き飛んだ。
 義母さんは雑貨店の出入り口に寄って、外を観察しながらこんな風に言ってきた。
「休憩はここまでのようね」
「?」
 最初首を傾げたけど、鼻が異変を感じ取った。何やら焦げ臭い。今の雷のせいかどこかで火が点いたんだ。
 雨のない落雷。
 辺りの建物は半壊、全壊なんて当たり前で、建物と建物の隙間を埋めるように瓦礫が覆い被さっている。こんな中で火の手が回ったらどこまで延焼するか分かったものじゃない。
「……一ヶ所に留まってはいられないぞ」
「でっでも、この雷の中を飛び出していく訳!? 一発当たったらそれで即死だわ!!」
 雷自体は、雲の中で限界以上に溜まった静電気が本来電気を通しにくい空気を突き破ってでも地上に向かう際に起きる現象だ。今は自然の雲の代わりに無数の粉塵が静電気を溜め込んでいるけど、原理自体は変わらない。
 それなら、
「こっちから雷のエネルギーをよそに逃がしてやれば良いんだ」
「ちょ、トゥルース!」
 義母さんは同じ雑貨店にいた中年男性にフランス語でリスクについての説明をしているようだった。
 出入り口から外を覗いてみると、火の手は思ったよりも近い。三軒隣くらいの距離しかない。
 行くなら今だ。
 炎や煙に巻かれてからではもう遅い。