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 落雷。
 という言葉が一般に定着しているけど、実際に怖いのは落ちてくる雷じゃない。雷は最初天から地に落ちて、次の瞬間に地上から天空へ全く同じ順路を辿って駆け上がる。いわゆる帰還雷撃というヤツで、これは最初に落ちる雷よりもはるかに強力だ。あまりにも速度が速すぎるので、人の目には一瞬の光に見えているんだけど。
 そして雷というのは雨や雪と違って予想が非常に難しい。気象庁ではなんと基準がない。良くある注意報は、雷で被害が出る可能性さえあればその時点で発令されている。つまりランクや注意報などいろんな言葉はあるものの、降水確率のように具体的な%では割り出せないのだ。
 そうなると、
「どこに落ちるかは誰にも予想できないわ……」
 コンピュータの世話をする関係で、雷まわりは一通りの知識を蓄えているんだろう。アナスタシアが青い顔して叫ぶ。
「というかこれだけ不自然な帯電状況なら餌食にならない場所ができる方がおかしい! これもう地上にできた積乱雲に頭から突っ込んでいるのと大差ないんじゃない!?」
「でもこのまま一ヶ所に留まっていたらあっという間に火事に追いつかれるぞ。火の手だって一つとは限らない。おそらく落雷の数に合わせて加速度的に増えていく」
「〜〜〜っっっ」
 その場で地団駄でも始めそうなほどアナスタシアはほっぺたを膨らませていた。目尻には小さく涙まで浮かべている。
 外は落雷の地獄。考えなしにドアの外に出たら、最初の一歩で直撃もありえる。
 でもいつまでも屋内にいたら、迫り来る炎に飲み込まれる。
 ひどい賭けだけど、雷は当たる可能性がある、炎は絶対確実に命を失う、だ。どっちがマシかなんてマクスウェルに計算させるまでもない。
 その上で、
「雷は上空と地面を巨大な電極に見立てて、積乱雲の中に溜め込んでいた電気をやり取りする自然現象だ。だから空気の壁を破って縦方向に高圧電流のブリッジができる。言い方は乱暴だけどでっかいスタンガンと理屈は一緒」
「だっ、だから? だから何だって言うのよ!?」
「……つまり外から細工をするならこの二つ。天空か地面に手を加えて雷撃を不発に終わらせる。それ以外に外を安全に歩く方法はないんだ」
 幸いここは雑貨屋だ。
 間に合わせだろうが、それでも準備するだけのチャンスがある。ずらりと棚に並んだ商品を見回す。フランスって何気に農業大国でもあるんだっけ。なるほど、園芸用品にも事欠かない。マクスウェルに頼れないのは不安だったけど、アナスタシアと協力してダクトテープや接着剤、マイナスドライバーなんかを掴んで格闘する。
 とにかく時間がないから、あまり凝ったものは作れそうにない。
「こんなもんか?」
「最低でも一〇〇以上は飛ばなくちゃ意味ないわよ。できれば余裕を持って三〇〇くらいほしいけど、やり過ぎると圧力タンクが破裂しそうなのよね」
 ……日本ならオモチャであっても銃刀法に引っかかりそうな仕上がりになってきた。
 レジカウンターに使った分だけ紙幣を置いて風で飛ばないように重石代わりの消しゴムを乗せていると、アナスタシアが呆れた感じで言ってきた。
「無意味だわ。放っておいたらここも炎に巻かれるんでしょ」
「それでもだ」
 重たいユニットを背負って両手で本体を掴み、僕は出入り口の方へ向かう。
 透明なガラス一枚挟んだ外は、まるで戦場だ。
 激しい閃光や爆音もおっかない。あんなの目で見て避けるなんて絶対に無理、もうほとんど街中で砲弾でも爆発してるように見える。
 だけどそれとは別に、ガラスの扉の隙間から明確に焦げ臭い空気が入り込んでくるのが分かる。
「覚悟は良いか、アナスタシア」
「うええ……。五秒か一〇秒くらいの間隔で炸裂しているわよ、雷」
 間もなく炎が来る。方角も速度も分かっている。なのに事前に予防してあげられないのがもどかしいけど、今雷鳴だらけの外に出て考えなしに消火ホースから水を噴き出したらどうなるかは言うに及ばずだ。
 じっとしていたら死ぬ。
 だけど考えなしに外へ出ても死ぬ。
「……ようはしっかり考えて行動しろって事さ。とりあえず最優先は火の手だ、こいつが届かない所まで逃げ切らないと」
 僕達の方に義母さんも寄ってきた。天津ユリナは心配そうな目を店の隅に向けて、
「あの人達は地下に篭るって。お店の床下に頑丈な食糧庫があるみたい」
「……、」
 そちらに合流しなかったところから分かってもらえると思うけど、正直に言えば賛成はできなかった。ただ選ぶ道はそれぞれだ。紫電だらけの表を逃げる選択肢だってギャンブル。ただ追従してきて一発目で落雷が直撃しても、僕達には責任が取れないんだし。
 安全な正解を導くだけの情報と時間がない。
 そもそも正しい解答なんかないのかもしれない。
 どっちが正解かは僕だって判断がつかなかった。それでも外に出る道を選んだのは、単純な安全の他に行動の自由をキープしたいっていう僕達の都合……言い換えれば、『欲』によるところも大きい。ここではスマホが使えない。雷のノイズのない場所まで逃げ切って今すぐマクスウェルとのアクセスを取り戻し、ビッザのスマホから情報を引っこ抜いて、フランス製の核弾頭を使って星くずを超高圧縮して新たな惑星を生産しようとする全ての元凶、JBを追い詰める。そのために。
 でもそれは、ただシンプルに生き残りたい彼らには関係のない話だ。リスクを覚悟するほどの理由がない。じっと耐えているだけで条件は満ちる。彼らの都合、ある意味での『欲』は完結しているんだ。
「……ならあの人達にフランス語で伝えておいて。最悪の場合、火事は治まるまで数日かかるかもしれないから衣食住は長期戦の準備をする事、特に暗い地下での篭城になるから独立した明かりと時計は必ず複数用意する事、それからできるだけ強力なジャッキを持っていくのを忘れないようにって。火事で建物全体が崩れた場合、地下室は無事でも瓦礫が覆い被さるせいで跳ね上げ式の扉が開かなくなるリスクがある」
 結局災害現場にいる人間にできるのは、自分が少しでも安全と信じる道を恐る恐る進むだけだ。手伝える事があればお互いなるべくアシストはするべきだけど、だからと言って他人の選択で運命を共にするような『自分縛り』に囚われるべきじゃない。これは人情とか義理とかじゃない、命がかかってる。明らかな情報不足やフェイクニュースで自殺行為や暴徒化に突き進むのでもない限り、僕達には人が生き残ろうとする努力を邪魔する事はできないんだ。
 また間近で雷が落ちた。
 というか一〇秒以内にバカスカ落ちているから、まるで巨大な誘蛾灯にでも放り込まれたような気分だった。何の準備もなく飛び出せば、その間隔で落雷に直撃し、体を引き裂かれる。
 ユニットは二つ用意した。
 天津ユリナにも同じものを背負ってもらった。あっちは予備だ。いきなりの故障やガス欠になった場合は即死になるから、備えておいて損はない。
 タイミングなんか計っている余裕はなかった。
 常に紫電は暴れ回っているので、待つだけ無駄だ。炎から二本の足で逃げる側としては、もちろん早め早めに行動した方が良い。
 恐怖で押し戻されそうになる心を抑えつけ、外に向かって挑みかかるように僕は叫んだ。

「出るぞ!」

 ばんっ!! と大きく扉を開け放つ音が、すでに特大の雷鳴にかき消された。
 外には出た、はずだ。
 そんな前提さえ真っ白な光が吹き飛ばしそうになる。
「……っ、ーーー!?」
 至近一メートル以内でアナスタシアが何か叫ぶけど、それも耳に入らない。通りの向かいにあった街路樹は真っ二つに裂け、松明みたいに燃え上がっていた。直撃したら人の体がああなる。これだけの雷なのに、やっぱり雨はない。乾いた空気は吸い込むと何だか粉っぽくて、ひたすらきな臭い。まるで一面の大気それ自体が禍々しい殺気でも放っているようだ。
 ごろ、と。
 頭上で獣が唸るような低い音が響くと同時だった。僕は両手で脇に抱えていた金属製のユニットを斜め上、できるだけ何もない夜空に突きつける。
「きちんと動いてくれよ、ちくしょう!!」
 ばづっ!! というミシンよりも鈍い音と共に両手に重たい反動が返る。火事や稲光の照り返しを受け、光の尾を引いて夜空に吸い込まれていったものの正体は水だ。背中に負った圧縮タンクで大量の空気に締め上げられた水が、ホースを通じて手元のバルブによってコントロールされている訳だ。『目的』を考えれば、ホースの水やりみたいなアーチを描く必要はない。むしろ点で細かく区切り、マシンガンみたいな形で上下に細かく連射するのが最適だ。
 途端に、夜空が反応した。
 鋭敏に。
 突き刺すような雷光が、ガカッ!! と炸裂する。正直に言えば、目で追えるような話じゃなかった。続けて炸裂する轟音に脅えながら、網膜に焼きついた青い残像を眺めてかろうじて結果が分かったくらいだ。
「でっ、できた……」
 震える声で夜空を見上げたアナスタシアが、やがて感極まってこっちに抱きついてきた。
「あはは! 雷の誘導に成功したわ!! ワタシ達はやったのよ!!」
 無関係な場所に雷を落とせば、大気が溜め込んでいたエネルギーを逃がす事ができる。そして後は避雷針の理屈だ。高い場所に電気を誘導しやすい素材を、できるだけ尖らせた形で置けば先端放電を利用して雷はコントロールできる。高さだけで一〇〇メートル、自分達以外の安全な場所に食塩を混ぜた水の弾を縦一列に撃ち込むとなると三〇〇メートルは欲しい。ほんとに建物の避雷針と重ねられればベストだ。おかげで見た目だけならおっかない武器みたいになってしまった。実際には金属パイプとシャワーホース、後は農薬散布用の手押しポンプがついたタンクにハンディ掃除機のデカいモーターやバッテリーを合体させたような代物なんだけど。
 短い間隔で雷をよそに落としながら、僕達は激しい閃光や轟音で埋め尽くされた広い通りを進む。
 火の粉が僕達を後ろから追い越した。
 やっと振り返るだけの余裕ができる。そして誘惑に従ったアナスタシアが、そのままびくりと固まっていた。ああ、僕も分かっている。水の詰まった重たい金属製のタンクを背負っているのに、さっきから背中一面に薄い針でも刺したようにじりじりと痛みが出ているから。
 この目で確認した。
 赤とオレンジの壁が、それこそ高波のように一面を埋め尽くしていた。道も、街路樹も、放置された車も、建物も。何もかも呑み込んでこちらに迫ってくる。景色を踏み潰してでも僕達を追い回すように。
 おそらく炎の中では車やプロパンガスのボンベなんかが爆発してるとは思うけど、そんな音すら聞こえないほどの猛威だ。
「あ、ああ。ああああああっ!」
 両目を見開いて嘆くように叫ぶアナスタシアを、僕は片手で引っ張った。
 すでに僕達が出てきた雑貨店も赤いカーテンの向こう側だった。今からは戻れない。地下に潜る決断をした人達が蒸し焼きになっていない事を祈るしかなかった。
「どこまで逃げるつもり!?」
 縦一本の線を飛ばす感覚で上下に細かく連射して、さらに続けて二発、三発と落雷を誤爆させる。消火ホースみたいにただ出しっ放しだとむしろ雷がこっちに向かってくるから要注意だ。そんな中、横から義母さんが爆音にかき消されないよう大きな声で尋ねてきた。
 こう答えるしかない。
「あの炎が届かない、雷を凌げる場所ならどこでも良い! 建物のない公園とか、あるいは川をまたぐとか、炎を遮断できる地形を探そう!!」
 一応の安全策は示せたけど、タンクの中身は有限だ。そもそもタイミングを誤ったら一発で即死。圏外でも使える、スマホとイヤホンを結ぶ近接無線を利用して前兆のノイズは拾っているけど、それだって精度は完全とは言えないんだ。目的もなく迷走できるほど甘い状況じゃない。
 ドガシャア!! と新たな雷が一瞬で落ちる。
 僕が誘導したものじゃなかった。ビルの壁から突き出た公衆無線LANを支えるアンテナがすぐ近くで吹っ飛ぶのを見て心臓が締めつけられる。完全にコントロール外。やはり『全て』は対応しきれない。今のが僕達の頭に落ちていたら、それだけで即死だ。
 予想外なんて、いくらでもある。
 もしも、進んでも進んでも背後から迫り来る炎を遮ってくれる川がなかったら? もしも、この道が建物の瓦礫に塞がれていたら? もしも、いきなり一面に激しい雨が降ったせいで上空へ連続的に撃ち出す『水鉄砲』を避雷針として使えなくなったら?
 ひたすら炎から逃げ、雷を撃ち落とす。極限の緊張下での単純作業は疲労と共に思考を内向的に誘導していく。強く頭を左右に振らないと自家生産の妄想に呑み込まれそうだ。
 その時だ。
「……橋があるわ」
 アナスタシアが小さな指を伸ばして指し示した。前を。
 奥に何かある。
「あれ使えるんじゃない? 橋を渡ってしまえば炎の壁を振り切れるわ!!」
 ここからでは何の橋かは知りようがない。ネットに繋がっていないと地図の検索すらできない。ただ……自然の川って感じじゃなさそうだ。ざあざあっていう水の音がしない。一段低いコンクリートで固めた谷みたいなのがあって、その上に短い橋を架けているって感じ。
「地下鉄との交差路みたいね」
 遠くにある橋を見て、義母さんがそう言った。
「水はないけど、全部コンクリートで固められた線路だって炎の進行は防いでくれるでしょう。渡って損はないわ」
 ともあれ、これで助かる。火の手が一つとは限らないし、橋を渡っても雷は降り注ぐ。だけど一つずつでもハードルを越えて自分達に有利な環境を揃えていくのが大事なんだ。そうやってリストの上からリスクを潰して、駆逐していく。こんなのは足元で絡まっている家電のコードを解くようなもので、一度に全部なんて考えるとドツボにはまる。
 そう思っていた。
 みんなで奥へ、炎を遮る橋に近づいていった。
 背の高いビルを通り過ぎた辺りだった、そこで全身が凍る。心臓が止まるかと思った。
「……アナスタシア、待った」
「何よ!? 話なら後で聞くわ……!!」
「ダメだ、今じゃないと。あれ見てくれ」
 奥にある橋のすぐ近く、ちょっと手前側で寄り添うように佇むそれ。道の脇を見たまま僕は言った。
 天津ユリナはすでに気づいている。怪訝な顔をして視線の先を目で追ったアナスタシアが後ろにひっくり返るのも予測がついていたらしく、こっそり彼女の後ろに回って支える余裕さえ見せていた。
 別に珍しいものじゃない。
 というより世界中どこにでもないと困るものだ。僕には看板の文字は読めないけど、もうお店のシルエットだけで分かる。日本にもあるアレだと。
「……うそ、でしょ……?」
 アナスタシアが呆然と呟いていた。
 度重なる災害にやられてどこかに亀裂でも入っているのか、ちょっと離れたこっちにまで特徴的な悪臭が漂っている。
 前方。
 すぐにでも渡っておきたい陸橋の、手前。
 僕達が見つけたのは、無人のガソリンスタンド。
 この上なく危険な可燃物の塊だった。