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 大前提として、僕達は背後から大火災の炎の壁に、頭上から大量の落雷に追われている。
 一ヶ所で立ち止まって長考なんかできない。保って三分。それ以上は炎にやられる。この道をまっすぐ進んで奥にある橋を渡れば、とりあえずその炎からは逃げ切れる。雷の問題は継続だけど、一個一個着実にリスクを減らしていける。
 でも、その橋へ向かうには寄り添うようなガソリンスタンドのすぐ脇を通り抜ける必要がある。
 すでに悪臭がここまで漂ってきている。目には見えないけど、おそらく気化したガソリンがある程度は漏れている。炎の壁はもちろん、火の粉や静電気一つあれば大爆発だ。
 ひとまず、何かしら行動を続けないと死ぬ、は確定。
『絶対の正解』なんて都合の良いものもない。
 ……その上で、ならどうする? 無理にでも橋に向かうか、あるいはひとまず迂回してあるんだかどうかもはっきりしない別の回避先をノーヒントで探すか。
「い、行くべきだわ……」
 アナスタシアはまっすぐ奥を指差してそう主張した。
「だって爆発の危険があるならなおさらもたもたしていられないっ! あの橋を渡ればとりあえず逃げ切れるわ。それなら早く渡らないと!!」
「爆発に巻き込まれたら即死よ。炎や爆発は道路側まで埋め尽くす、これまでと違って前兆は察知しようがないわ。なら万が一に備えてガソリンスタンドは迂回するべきだと思う」
 腕組みして対案を出す義母さん。しかしアナスタシアは納得しなかった。怒りじゃない、恐怖で目尻に涙まで浮かべながら金切り声を上げてくる。
「今この議論をやらずに道をまっすぐ駆け抜けていたらもう無事に渡り切れていたわ! 大体、横一線に地下鉄線路が走っているのよ。後ろからは壁みたいな炎がきてるわ。『向こう』に行かないと壁に潰される。ここを横に迂回して谷に沿って走ったとして、次の橋はどこにあるの!? 電波障害のせいで地図アプリにも頼れない状況じゃそれすら読めないのよ!」
 どちらの意見も一理ある。
 そしてさっきも言った通り長考する時間はない。マクスウェルにも頼れない。
 ワイヤレスイヤホンのノイズの強弱を聞き分け、特製の水鉄砲で致死の雷を散らしながら、僕は言った。
「……このまま進もう」
「サトリ」
「アナスタシアの言う通り、次の橋が見つからなかったら僕達はなす術もなく炎の壁に押し潰される。しかも目の前の橋をパスして谷に沿ってよその道を探した先にまた別のガソリンスタンドがあったらそこでまた立ち往生だ。大都市なら可能性は低くないし、そうなってからじゃリカバリーは効かない。間違いなくリミット、炎に呑み込まれて死ぬ」
 目の前にリスクがある。それは分かる。
 だけど回避した先に何があるかは知らない、では対案として成立していない。とりあえず、何となく。〇%と一%なら助かる見込みのある方を選ぶべき。……なんだけど、でもな。それって、今はまだ危険じゃない道を選び続けるだけでは選択肢を一つ一つ切っていくだけだ。延々とやっていくと自分からチャンスを棒に振って袋小路に追い詰められていく以外の道がなくなる。
 ……ただ、マクスウェルと繋がっていたら答えはまた違ったかもしれない。精密な地図データと照らし合わせ、次の橋は何百メートル先にあるか、その間にガソリンスタンドや大型ボイラーなど危険な施設はないか、地図の検索一つで安全を確認できたら多分僕は義母さんに乗っていた。
 本来なら論理で答えを出せたはずの問題が、運任せになっている。それも自分や大切な人の命に直結するような話で。想像を絶するおぞましい状況に放り込まれていると、改めて思う。
 奥に。
 まっすぐ進めば橋だ。ガソリンスタンドの存在は確かに怖いけど、ほんの数秒息を止めて走り抜ければ、それで背後から迫る炎の壁から逃げ切れる。はず。
「それじゃあアナスタシア、合図で走るぞ」
「三つ数えたらってヤツ?」
「ああ。三、二、一」

 ゼロで雷がガソリンスタンドに落ちた。

 とっさにだ。
 義母さん、天津ユリナが左右の手で僕達の首根っこを掴んで引き戻していなかったら、今頃千切れて宙を舞うあの分厚いゴムタイヤみたいになっていたかもしれない。
 爆発だ。
 まず辺りに漂っていたであろう気化したガソリンに着火して、一秒も経たずに地面の亀裂から地下のタンクまで炎が殺到した。ほとんど噴火と変わらなかった。コンクリートで固めた地面が砕けて下から噴き上がり、金属製の屋根や柱をねじ曲げながら天高くへ飛ばしていく。四方八方へ、赤とオレンジの光をひたすら撒き散らしながら。火炎瓶みたいにぬめった炎は広い道の、反対側の歩道まで埋めていく。
 ガンゴンっ、と。
 元が何だったのかも想像できない重たい鉄くずの落下音に脅えている場合じゃない。
 三人まとめてひっくり返り、目を白黒している僕の耳元で義母さんが叫んだ。
「サトリ、ユニットを構えて!! 天候はこっちの都合なんか考えてくれないわ、雷が来る!!」
「っ」
 ほとんど呼吸困難になりながらも、僕は倒れたままノズルを夜空に向けた。
 バルブを人差し指で弾くと同時、閃光が炸裂する。連続的な水の弾の列に導かれるようにして。残像は、明らかに不自然な曲線を描いて遠方の地面に刺さる。
「とっ、トゥルース……」
「ダメだ、アナスタシア。義母さんが正しかった」
 橋のすぐ近くにあるガソリンスタンドが丸ごと吹っ飛び、ぬめるような炎の壁は正面の道を塞いでしまっている。とてもじゃないけどまっすぐ突っ込んで奥の橋に向かうのは無理だ。一回の爆発で全ての可燃物質を使い切ったとも限らない。別のタンク、あるいは停めてあった車なんかがさらに爆発する恐れもある。こっちには一応避雷針代わりの水鉄砲はあるけど、たかだか五〇リットル程度で消せる炎じゃない。というか、おそらく普通の水を掛けるとかえって勢いが増すんじゃないか? ほら、てんぷら火災のアレみたいに。
 打つ手なし。
 迂回しかない。物理的に。
「でも炎の壁は後ろからもきてるわ。もう間に合わない!」
「走れ!!」
 正面も後ろもダメだ。無理にでもアナスタシアの手を引っ張って起き上がらせ、天津ユリナと一緒に脇の狭い路地に入る。当然、一方向へ均一に迫る炎の壁は形を持たないので、どんな隙間も蹂躙する。こんな所に隠れても意味はない。さっさと抜けないと蒸し焼きにされる。
 L字に曲がって再び方向を合わせ、地下鉄線路の方へ。そっちはフェンスで遮られ、さらに奥はコンクリでできた谷のようになっている。
 アナスタシアは首を右に向けて、うんざりしたように叫ぶ。
「ダメだわ……。ガソリンスタンドの爆発、かなり広がっている。谷に沿って戻っても、橋の入り口辺りで炎が邪魔してるわよ!?」
 十字路の真ん中を炎でやられたようなものだ。別の道からでもあの橋には合流できない。
 もう一度大きな爆発があった。
 炎の中で何が破裂したかはもう見えない。断言できるのは、向こうに近づいたら致命的なダメージを負うってだけだ。すぐそこに橋があるとかどうとかそんな次元じゃない。
 やっぱり他の逃げ道が必要だ。
 川とか山とか、炎の勢いを殺す障害物を乗り越えれば炎から逃げ切れる。そういう意味では地下鉄線路のために用意した、コンクリートの谷だっておあつらえ向きだった。
 そう、僕達にそこを渡る手段が残されていれば。
 僕はアナスタシアとは逆、左側に目をやる。暗闇の奥に消えていくフェンスと細い道だけで、やっぱり橋があるか断言はできない。幅一五メートル、深さ五メートル前後の谷に沿って進むしかないけど、パッと見た限り他に橋のようなものは見えない。あそこを渡れなかった場合、僕達は壁のように迫る炎に巻き込まれる。
 五メートル。
 地味ではあっても下に下りたら、何か取っ掛かりがないと対岸側になんて上れそうにない。
 まさか。
 ……判断を、誤った?
 もしかして、雑貨屋の地下でじっと耐えている方が正しかったのか。それしか生き残る術はなかったのか。JBを追うには何日も鎮火するまで待ち続けるんじゃなくて、行動の自由が必要だった。分かる、その通りだ。だけどそれだってハイリスクな道は僕が一人でアタックして、アナスタシアと義母さんだけでも地下の食糧庫に入れてもらうって選択肢もあったんじゃないか!?
 今さら来た道は引き返せない。
 あの雑貨屋の入っていたビルの辺りだってすでに火の海に沈められている。お店の地下がどうなったかは知らないけど、少なくとも地上部分は人が歩けるような状態じゃない。熱と煙の地獄だ。
「走るわよ、サトリ」
 義母さんだけが前を見ていた。
「情報は少ない、正解なんか見えない。だけど立ち止まっていても事態は好転してくれないのは分かっているわよね。これは神経衰弱と同じ、情報が少ない時は手当たり次第にカードをめくって自力でヒントを集めるのが一番なのよ!」
 そうだ。
 とにかく前に進まないと。
 アナスタシアや天津ユリナと一緒になって、コンクリートの谷を守るフェンスに沿って細い道を走る。眼下、ただの線路がこんなに憎たらしく見えるだなんて。もしも橋が見つからなかったら、瓦礫で道が塞がれていたら。考えるだけで恐ろしい。アナスタシアは息を切らせながら、途中何度かチラチラとフェンスの方に目をやっていた。分かる。僕も、いっそ谷を飛び降りてから向かいにあるコンクリートの壁をよじ登る方法を試した方が良いんじゃないかって考え始めている。
「ダメよ」
 浮き輪にしがみついて渇きに耐える漂流者が一面に広がる海水に手を出そうとするのを止めるような口振りで義母さんが止めてきた。
「砂利にレールに枕木に……。下はかなりデコボコしてるわ。この暗さ、五メートルって高さも馬鹿にならないし、ここで着地に失敗して捻挫か骨折でもしてみなさい。致命的な事になるわよ」
「でもっ」
「サトリ良く聞いて。聞きなさい。運良く飛び降りた時には怪我しなかったとして、向かいの壁を登る方法は? なければアリジゴク状態ね。進むも戻るもできなくなった後、下段に雪崩れ込んでくる炎の海にただ呑み込まれる羽目になる。アリの巣に熱湯でも注ぐようにね。ほぼ垂直に近い五メートルの壁なんて、肩車くらいで乗り越えられる高さじゃない。でしょう?」
 ボルダリングなんかの技術があればまた違ったかもしれない。人間の二〇倍の筋力を持つ吸血鬼のエリカ姉さんなんかは普通に切り立った崖とかビルの壁でも手足だけでスイスイ登れるみたいだし。だけど僕達には無理だ。名前や簡単な理屈は知っていても、実際、見よう見まねでできるものじゃないのは分かっている。
 ……いいや、義母さん一人なら。
 アークエネミー・リリス。七つの大罪に数えられるガチの魔王なら、それくらいできてしまえるかもしれない。でもやらない。何故か? 決まってる、僕とアナスタシアを見捨てたくないから。そのためなら遅れている方に合わせて、自分自身の体を炎の脅威にさらしても構わないって本気で考えてる。
 結局これが親と子、大人と子供か。
 アブソリュートノアとJB。僕はとんでもない組織同士の戦争を止める気でいた。知人のアナスタシアを頼りフランスで強力な兵器を引き出そうとする義母さんと本気で戦うつもりだった。だけど蓋を開けてみればこの通り。天津ユリナはそんな敵対者を文字通り命懸けで守ろうとしている。しかもそれを、馬鹿正直に真正面から言い放ったりもしない。真実を言っても子は傷つく、だから親は笑って悪態を受け流せばそれで良いんだって。
 その気遣いは嬉しいけど。
 でもそれ以上に、悔しい。
 義母さんとはこれまで何度か衝突してきた。その時その時は命を削って、人生の岐路に立つつもりで挑んできた。だけどこの人から見たら、それはきっと戦いの形にさえなっていなかった。
「見つけたわ、何かある!」
 無理にでも僕達を走らせながら、天津ユリナはそう言った。
 巨大なシルエットだ。
 でも橋じゃない。
 足を止めたアナスタシアが狼狽えたように呟いていた。
「な、何か倒れているわ。でっかい看板?」
「多分これ、ガソリンスタンドの前にあった看板じゃない? バッキバキに割れているけど」
 こんな所まで飛んできたのかよ……。
 三階分くらいの高さがある二本の長い金属柱に支えられたガソリンスタンドのロゴ看板が落下し、背の高いフェンスを押し潰して、コンクリートの谷にまで落ちていた。
 見ているだけでゾッとする光景だ。爆発の威力もそうだし、こんなのが頭の上に降ってきたら僕達は即死だっただろう。
 でも、今はプラスに働く。
 柱の厚みは三〇センチ以上ありそうだ。列車のレール以上、つまりすごく頑丈なんだろう。
 ゴォ! という炎が酸素を吸い込む音が響いた。
 四の五の言っていられる状況じゃなくなってきた。
 谷底までは五メートルほど。
 べこべこに歪んでいるけど、二本の柱は電柱よりも太い。ただ雨で濡れた下り坂だから、上に上がったら這いつくばって、気をつけながら進むのが一番安全な気がする。
「いけそうだ」
 大きな板が斜めに沈んでいるような感じ。つまりこっち側は道路よりも高い。
 まず義母さんがよじ登り、次に小さなアナスタシアを僕が両手で持ち上げる。上の義母さんとの受け渡しに使った時間は三〇秒もなかったはずだけど、心臓に悪かった。高圧放水の細かい連射を使った避雷針がないと、いつ頭の上に雷が落ちてくるか予測できなくなる。しかも足場自体がでっかい金属塊。どれだけ短時間であっても、今、僕達は自分達の命を運任せでぶん投げなくちゃならない。
 そして最後が僕。
 猫みたいに両手を脇に通して抱えられるアナスタシアほどじゃないけど、インドア系の僕だって気軽に何度も懸垂をするほどの筋力はない。しっかりした鉄棒を握り込めば一回くらいはできるだろうけど、金属の出っ張りを指先で雑に掴んで全体重を持ち上げるほどの力はない。
 そうなると、
「アナスタシア、使い方分かるか? これ預けるからいったん水鉄砲頼む! タンクの中身は減ってるから持てるだろ!!」
「トゥルースっ」
「これ以上もたもたしてると雷が来るぞ。一分以上はまずい!!」
 先に背負っていたタンクごとアナスタシアに水鉄砲を渡し、パーティを守ってもらいながら義母さんの手を借りる。これじゃおんぶにだっこ、至れり尽くせりだ。
「っと」
 ここからは濡れた坂道だ。金属柱は下に向かって落ちているのでやや下り坂。表面を這い、実際に抱きつくようにして両手足を押しつけてみると濡れて滑りそうだった。アナスタシアから再度水鉄砲を預かりつつ、
「……失敗した、アナスタシアを最後尾にするべきだったかも」
「何で?」
 すぐ前では濡れたミニスカのお尻を突き上げながら、先を行く一一歳がキョトンとした顔でこっちを振り返っていた。
 ぼんっ!! という爆音があった。
 驚いて振り返ると、さっきまで自分達がいたフェンスの辺りが炎の壁に飲み込まれていた。オレンジ色の海はいくらか液体みたいな動きで下段にも降り注いできたけど、まだ大丈夫。溶けた金属やプラスチックは真下の線路に薄く広がる感じで、宙ぶらりんになってるこっちにまでは乗り上げてこない。でも急がないと熱や煙が怖い。
「コンクリートやアスファルトの亀裂が変に刺激されないと良いわね。今のバランスだって偶然の産物だもの、いきなり倒れたり転がったりする前に通り抜けないと……」
 義母さんは小さく呟くが対岸は目と鼻の先だ。谷に向かって落ちているから基本は下り坂。かなり下がっているけど、コンクリートの壁と激しくぶつかった関係で向こうは金属柱は看板本体が大きくひしゃげて盛り上がっている。L字の釘抜きみたいなシルエットだ。おかげで三メートルくらいは高さを稼いでいるらしい。谷の深さは五メートルだから、残りは二メートル。小柄なアナスタシア以外なら、両手が縁に届く高さでしかない。
 さっきと同じで、まず義母さん、次にアナスタシア、最後に僕の順番だ。
 とにかく最初は天津ユリナ一人で難なく突破。両手でコンクリートの縁を掴み、足で壁を蹴って伸び上がるように身を乗り上げていく。義母さん一人なら五メートルの壁でもストレートに突破できるかもしれないんだから当然なんだけど。
 僕はワイヤレスイヤホンのノイズを頼りに水鉄砲を短い間隔で夜空に打ち上げる手を止めて、いったんアナスタシアを両手で持ち上げ、先に上へ行った義母さんに預ける。
 その時だった。
「何だ……?」
 僕は視線を横に振った。
 小さな振動がある。でも地震の始まりって感じじゃない。谷の底にわだかまる闇の奥。左右の壁の流れに沿って何か巨大なものが動いて……こっちに近づいてくる?
 炎に追われている身だからこそ、光源を背にすると一面に広がる闇の深さが際立つようだった。パッと見ても二〇メートル先さえはっきりしない。
「サトリ、早くして。お母さんの手を掴んで」
「でも先に水鉄砲を受け渡ししないと……」
「早く!! アレが突っ込んでくるわよ!!」
 義母さんの切迫した声に、もちろん恐怖は感じた。だけど、いやだからこそか。僕は思わず闇の向こうを凝視するばかりか、スマホのライトを振動のする方に向けてしまう。飛んでくるボールに反応して身構えるような、そんな防御反応が働いたんだ。
 黒い塊だった。
 べこべこにへこんだ金属柱の上にいる、僕の目の高さを越えていた。
 それは何万、いや何十万っていうネズミの大群だった。
 意味が分からなかった。
 知ってどうするんだ、こんな理不尽。
「う、わあッ!?」
 叫んで、慌てて義母さんの手を取ろうとした。でも直後に隙間のない塊が倒れたガラクタに横からぶつかり、そのまま押し流しにかかった。軽く見積もって何十トンもありそうな金属塊が、まるで高波にでも持っていかれるように。
「トゥルース!!」
 アナスタシアの声は聞こえた。
 だけどその時、すでに僕の両足は浮いていた。抵抗もできず、そのままネズミの海へと放り込まれた。