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「ぐ……」
 最悪だ。
 最悪だけど、ここはどこだ? 呻き声が出たって事は、僕はまだ生きているらしい。
 ネズミは一匹もいない。
 義母さんともアナスタシアともはぐれたまま身を起こすと、コンクリートや線路のごつごつした感触がようやく伝わってきた。相変わらず地下鉄線路のようだけど、暗く、そして狭い。地上との露出部じゃなくて、どこかのトンネルまで流されたらしい。
 感覚としては、動物に襲われたって気はしなかった。鉄砲水でも浴びて溺れたって方が近い。
 それにしても……。
「ネズミときたか」
 災害の前触れとして、小動物が一斉に変な動きをするっていう都市伝説がある。けど多分違うだろうなって思った。
 そもそもアレは何だったんだ。
「……、」
 JBお得意の呪いや魔法、の線はいったん置いておこう。というか、それなら僕は全身噛みつかれて骨しか残らないか、あるいは容赦のない感染症の犠牲者になっていると思う。
 自然発生的な線も、ない事はないはずだ。
 フランス人は伝統的にネズミの発生を恐れている。
 何もオカルト的な話じゃなくて、ペストの経験があるからだ。遠い昔にヨーロッパ全体で猛威を振るい、時にあれだけ躍起になっていた百年戦争に影響を与え、また同時に内乱を誘発させ、散々人間を振り回した末にヨーロッパ全域から実に人口の三分の一を奪っていった極悪な病。それを媒介したのがネズミ(正確にはネズミについていたノミなど)だった。だから彼らは徹底的にネズミを排除した、自分達の生活圏から。
 でも逆に言えば、意識して、徹底しないと勝手に増殖してしまう環境なんだって話でもある。
 そんな何百年も前の話を、と思うかもしれないけど、人骨だらけのカタコンベの例を出すまでもなくパリの歴史は古い。革命が起こり、よその国に占領された事があっても、それでも世紀単位の時間を過ごしたアパートや地下通路なんかが普通に現役で稼働しているんだ。
 土壌。
 ネズミを無尽蔵に増やす仕掛け。
 そういったものは、まだパリの死角に残されているのかもしれない。何度も何度も絵の具を上塗りしていくように近代化が進んでも、どこかにひっそりと。街全体でどれだけネズミがいるか正確な統計なんか誰も取っていないと思うけど、この災害だ。たっぷり水を吸ったスポンジを手で握り潰すように、あちこち追われて逃げ回った無数のネズミ達は考えなしにコンクリートの谷へ落ち、そして出口を求めて一方向に向けて塊のまま移動した。真相はそんな感じじゃないだろうか。
 怪我とか、ないよな?
 念のため自分の手であちこちまさぐって、ネズミの爪痕や噛み傷がないのを確認する。変な痛みや痒みは特になかった。どうやら敵や食べ物としては認識されなかったらしい。向こうも逃げるのに必死だったって事か。
「……さて、それじゃどうするか」
 誰もいないのに思わず呟いてしまう。
 いや、誰もいないからか?
 幸いスマホは手元にあった。背中のタンクと繋がった水鉄砲は……ダメだな。あちこちべこべこへこんでいて、バルブを開放しても水が出ない。
 義母さんにはスペアを渡してある。使い方はアナスタシアが分かっているはずだし、今すぐ雷にやられる心配はなさそうだ。
 むしろ哀しい事に、残してきた二人より孤独な僕の方がふとしたトラブルで躓いてくたばる可能性は高いと思う。勇気とか正義とかじゃなくて、単純に怖いから早くアナスタシア達と合流したい。今はマクスウェルのサポートもないし、僕は一人じゃフランス語だって読めないんだ。
 スマホに指で触れるとバックライトの眩い光がトンネルを照らした。
 ただ……やっぱり圏外か。
 いや、まだ諦めるな。これはトンネルの中だからかもしれない。そもそも不自然な電波障害自体、二回目の流星雨で大量の粉塵が舞い上がったからだ。あの雷エリアさえ出れば、普通にスマホは使えると思う。
 ここにいても仕方がない。
 トンネルの外に出よう。例えばさっきのネズミ達がどこかで行き止まりに気づいて、まんまUターンしてきたら打つ手はなさそうだし。
 出口はどっちかな。
「あれか……」
 フランス語は読めないけど、矢印の表示くらいは分かる。トンネルの途中でそれらしき鉄扉を見つけた。ノブに触れてみる。鍵のようなものはないらしく、そのまま回る。そっと奥を覗いてみると、金属製の上り階段があった。非常階段だ。
 スマホのライトを頼りに一段ずつ上っていく。こんなのでも命懸けだった。体重を掛けた途端に鉄の踏み板が外れたら? 天井の亀裂に気づかずにコンクリートの塊がいきなり頭の上に降ってきたら? 荒唐無稽であっても完全に否定はできない、自分の常識なんか何の役に立つ。すでに鉄やコンクリートの信頼性なんか吹けば飛ぶ程度も残されていないんだ。
 ……いかん、一人になると自家生産の妄想が止まらない。やっぱり三人くらいの塊がちょうど良い。単に他の人の目があるってだけじゃなくて、自分で自分を客観的に見られるから。
「よっと」
 最後の段を踏んで地上に。
 ドアを開けるのは少し怖かったけど、薄く開けて確かめた限り、閃光やゴロゴロという低い唸りはなかった。風向きなのか、それだけの距離をネズミの濁流で流されたのか、どうやらこっちにまで粉塵は蔓延していないらしい。
 改めてスマホに目をやれば、間もなく午前〇時になる。
 ただそれだけ長い間ずっと流されていたのか、早々にネズミ達から解放されて線路でずっと気絶していたのかは判断のしようがない。
 というか、雷エリアから抜けたならまずスマホだ。地図があれば現在地が分かるし、アナスタシアや義母さんとも連絡がつく。そして何より、

「マクスウェル!!」
『シュア。途中経過を口頭で補完してもらえると助かります』

 結構本気でへたり込むかと思った。
 これだけ。スマホが繋がって、オンラインのプログラムを呼び出しただけ。誰でもできる当たり前に触れられる事が、こんなにも強い支えになるなんて。
 圏外の表示は消えていた。
 今の僕なら何でも検索できる。やるべき事だってたくさんある。世界の叡智は手の中にある、そんな気分だ。マクスウェルと情報共有しながらやる事リストを改めて頭の中で並べていく。
「まずここがどこかって事だ」
『リュクサンブール宮殿前、サンミシェル通りの近くです。大学の校舎が並んでいる辺りですね』
 ……相変わらず地名だけ言われても全然ピンとこないけど、サンミシェル通りは前に聞いた事があるような? そうだ、パリ天文台に向かう時に。ただ、景色が変わったって事は結構遠くまで流された、のか? 確か、義母さん達と別れた場所はもっと庶民的っていうか、背の低い雑居ビルや小さな商店が並んでいたはずだ。それにこっちは火事の炎に照らされているって感じもしない。ただ真っ暗な闇ばかりが広がっている。
「あとアナスタシアと義母さんに連絡。あれから一時間以上経ってるから同じトコにはいないと思うけど、連絡がつけば待ち合わせの場所くらいは決められるだろ」
 そういう目的もあったから、まず自分の居場所を正確に知る必要があった。手持ちの情報は何もありません、じゃこっちからアナスタシア達に渡せるものがない。
「それからJB側でエジプト神話のデカいワニを操っていた、ピエール、いやビッザだったっけ? ヤツのスマホが手元にある。これの中身が分かればフランス製の核弾頭がどれくらいJB側の制御下にあるか分かるかもしれない。パスコードアタックを頼む」
 これでようやく一通り、か。
 他にも、天気や治安はどうなっているのか、あの火事はどうなった、次に予測される災害は、フランス政府の発表は、世界各国の支援はいつ来るのか、ボランティアの中に同じ日本人はいるのか……。知りたい事なんか山のようにあったけど、一度に全部は無理だ。マクスウェルの処理能力というより、小さな画面を眺める僕の頭がパンクしてしまう。
 こうしている今も、組織としてのJBは動き続けている。自分達の手で新しい惑星を作る、そのために大量の核兵器を使い捨ててでも。馬鹿げた話だけど、現実にそれをやるためにキャストの連中はパリ全域をここまで徹底的に破壊している。その行動力だけは本物だ。
 移住が目的じゃない。
 ……ビッザのヤツが死ぬ間際にそう言っていたのが引っかかるけど。
『ユリナ夫人、アナスタシア嬢の両名にメールとメッセージを投げていますが反応なし。通話に応じる気配もありません』
「通話はそのままキープで。……向こうはまだ雷雲の中なのか?」
 何しろ街の形が丸ごと変わるほどの災害下だ、インターネットが使えなくなる理由なんてそれ以外にも山ほどありそうなものだけど。
 電話については向こうが出るのを待つとして、
「JB所属のビッザ=バルディア。こいつのスマホは?」
『ロックには虹彩を使っているようですね。イタリア系ミラノ圏出身の人物を画像検索で無作為に網羅し、数十万人分の虹彩パターンの特徴を分析。その上で多重合成して「マスターキー」を作れば突破できるかもしれません』
 すごいけど、時間がかかりそうだな。
 それにそんな仰々しい話なのか。
「……ビッザ自身の写真があるだろ? 指紋から個人情報は辿れたんだから」
『試してみたら入力ミスと出ました。チャンスは残り二回。おそらく免許証やパスポートなど公文書に残る身分証はカラコンでもつけて写真を撮っているのでは?』
 用心深い男だ。まあ、日頃からピエール=スミスなんて偽名を用意して生活していたんならおかしな話でもないけど。
 結果、分かったのは現在地くらいか。
 アナスタシア達がどこにいるかヒントはないし、ビッザのスマホも解析待ち。この暗闇の中、瓦礫だらけの街を闇雲に歩くのだって危険過ぎる。ここは『次の目的』がはっきりするまで待った方が得策だろう。
 パリの人達はどうしているんだろう。
 自分の命がかかっているのに機械に頼りきりの僕もどうかと思うけど、でもマクスウェルに指示を出しておけばとりあえず『次の目的』は見えてくる。悪夢みたいに広いオープンワールドで途方に暮れる、って話にはならない。だけど他のみんなは違う。情報がないから安心できず、『次の目的』がないから迂闊に動き回るのも難しい。でもこの暗闇の中でただじっとしているのだって、プレッシャーで言ったら電源の落ちた宙吊りエレベーターに閉じ込められるのと大して変わらないんじゃないか。
「……マクスウェル、液晶系の広告や宣伝トラックの中でまだ使えるものをリストアップ。縦長だろうが丸い柱に張りついていようが、どうせ中身は市販のウィナーズだろ」
『それが何か?』
「フランス系のテレビニュースのネット版を拾って映し出せ。ただし明らかなデマは排除しろ」
 ヴン、と。
 低い唸りと共に、闇に沈んだパリのあちこちがほのかに明るくなった。もちろん払拭できるほどじゃないけど。
 これで何が解決する訳でもない。『次の目的』なんか見えないかもしれない。けど、目隠しされたまま地雷原の真ん中で体育座りを強いられるような、悪夢のような息苦しさくらいは取り除けるはずだ。
 その時だった。
 ぶづっ、とスマホの方からノイズみたいな短い音があった。
『繋がりました。アナスタシア嬢です』
「っ、アナスタシア!!」
『そっちは無事? なんか汚れたネズミの大群に体ごとさらわれていったみたいだけど!』
「ダメだったらこの声は届いてないよ。ひとまず感染症とかも大丈夫みたい」
『パッと見た程度で分かる話? ま、回線激弱だから必要な事だけやり取りしましょ。トゥルースどこにいるの、待ち合わせ場所どうする?』
 流れが変わってきた。
 明確に思う。底の底から少しずつでも回復してきてる。こんなスマホ一つでも人生を変えるきっかけになる。
「こっちは無事だ、普通に歩ける。場所はリュクサン何とか? マクスウェルの話だと大学がたくさんある辺りだって」
『リュクサンブール宮殿の近くね。ならそこにいて、ワタシ達がいるモンパルナス駅からなら近いわ』
「おいっ」
『モンパルナス駅についてはマクスウェルに聞いて。一帯じゃあトゥルースのいる辺りが一番開けた公園だから瓦礫だらけの街でも分かりやすいし、リュクサンブール宮殿って今は上院議会として使われているのよ。つまり国会。絶対に軍や行政から見捨てられる事はないわ』
「……、」
『トゥルース、じっと待つのが死ぬほど辛いのは分かる。だけど順当に行けば一〇分あれば普通に合流できるわ。だからそれまで待ってて』
 マクスウェルがいれば地図アプリが使えるけど、わざわざ瓦礫だらけの街で頼りない目印を探して歩き回るのも得策じゃないか。一度は凱旋門の位置を勘違いして日本大使館に辿り着けなくなった事もあるし、すれ違いのリスクは確かにある。
「分かったアナスタシア。義母さんがいるなら大丈夫だと思うけど、無理はするなよ。瓦礫とかで通れない場所があったら待ち合わせ場所は変えよう、リスクを負ってまで乗り越えようとす……」
 スマホが小刻みに振動した。
 画面の上端に短文のメッセージがポップアップしている。SNSを利用してコンタクトを取るマクスウェルからだ。
 通話を保ったまま画面をタップしてSNSを呼び出すと、マクスウェルからこうあった。
『ビッザ=バルディアのスマートフォン、ロックを解除しました』
「っ」
 本格的に追い風だ。
 フランスの核弾頭を握るJBを追う線はまだ途切れていない。細いけど、ビッザのスマホから辿っていける可能性はある。
 さらにマクスウェルからメッセージが連投されていく。いよいよ核心だ。
『ファイル総数一〇万五〇〇五件、JB、核、惑星など重要ワードで検索します』
「アナスタシア、ちょっと待ってくれ」
『特に高い価値を持つであろう文書を絞ります、八件がヒット。核弾頭を利用した惑星製造の計画は信憑性あり、具体的な計算式がありますのでこちらで可能か不可能かをシミュレーションできます。惑星製造については移住を目的としたものではなく、世界のバランスを意図的に崩す事に注目しているのだとか』
「バランス?」
『詳細は不明です。重力的な話なのか、あるいは占い等のオカルトなのか。核弾頭については巡洋艦や潜水艦のものが都合二五発、フランス政府の制御を離れています。仏側に認識ナシ。JB所属のキャスト達の指先一つでいつでも発射可能で、なおかつプログラム的なコントロールを取り戻すには世界中に散らばった潜水艦が高度な設備を有する海軍基地まで戻る必要があります。全ての艦が最寄りの基地まで到着するのに最短で一四日、つまりJBがすぐさま使う場合は復旧が間に合いません。またいくつかキャストらしき人名を入手。リストに天津ユリナ夫人の名前があります』
 聞き流すかと思った。
 あまりにも次々とデータを流し込まれたせいで何でも受け入れる態勢になっていたけど、ちょっと待て。今のは明らかにおかしい。
「……これはJBの機密文書だよな?」
『シュア』
 マクスウェルはあくまでもプログラムだ。だからどんな情報であっても、ユーザーが求めれば迷わず開示してしまう。
 小さな画面にはこうあった。

『つまり天津ユリナ夫人はアブソリュートノアとJB、両方に属しているのでは?』

「あなす……っ!!」
 ほとんど反射で叫ぼうとした。
 それでも間に合わなかった。ブヅッ!! と。不自然なくらいのタイミングでいきなり通話が途切れる。
 リダイヤル?
 そんなもので何とかなるか、くそ!!
「マクスウェル、アナスタシアの位置は? モン何とか駅で検索!!」
『天津ユリナ夫人は最初からアブソリュートノアとJBの間で戦争が起きる事を望んでいる節がありました』
「分かってる……」
 今にして思えば、ビッザ=バルディアとぶつかった時も様子がおかしかった。話が正しければフランス国防省地下で先に激突していたはずなのに、オテル何とかで激突した水神セベクについては煮え切らないところがあった。
 まるで、初めて見て困惑するような。
 というか、義母さんは本当に地下でJBと戦っていたのか? あの施設には防犯カメラもない。誰も見ていない地下深くで、解析機材を詰めたスーツケースを引きずるビッザと合流して握手をしていた可能性は???
『ユリナ夫人はこの戦争に勝つための特殊な兵器を引き出す目的でパリへやってきたと思われますが、実際にカタコンベやフランス国防省地下で何をしていたかは未だに不明です。JBの核弾頭入手を止めるという行動の信憑性は、ユリナ夫人一人の証言にほとんど依存しています』
「だから分かってる!! もんぱる、そうだ。モンパルナス駅への最短コースを出せマクスウェル!!」
『極めて非推奨のコマンドです。アークエネミー・リリスが単純にJB側のキャストとして、つまり敵に回った場合、ユーザー様に勝利できる確率は限りなくゼロに近いです』
 ……分かってるってば。
 義母さんの本当の所属はアブソリュートノアか、JBか。どっちにしたって彼女は組織の力を使ってくるはず。魔王リリス単体だけでも手に負えないのに、さらに数の暴力まで持ち出されたら近いどころかぴったり〇%まで値が落ちる。
 忘れていた。
 和解したと勝手に思い込んでいた。
 天津ユリナは僕の義母さんであると同時に、七つの大罪に数えられる魔王でもあるんだ。こと悪巧みのレベルにおいて、僕なんかの想像をはるかに超えたところにあって当然なんだ。
『モンパルナス駅はパリの中でも巨大な駅で、地上の駅舎だけで三つも隣接しており、郊外の空港と繋がるバスターミナルなど周辺設備も充実しています。さらにこれらは裏方の業務、メンテナンス通路などが地下で複雑に結びついているので、死角や袋小路も多い危険な立地と評価できます。特に、一対多の状況では不利に陥りがちですね』
「……言っても公共の駅だろ。案内図くらいどこにでも転がっているはずだ」
『大きな駅ですから対テロ関連の理由から一般公開されていない職員施設や通路が多数ある他、ユリナ夫人率いるJBが瓦礫で通路を塞いだり、天井に穴を空けて梯子で繋いでいる可能性もあります。もはや既存の見取り図はあてにならないと見るべきです』
 アブソリュートノアとして勝ちたいのか、JBとして勝ちたいのか、まだ見ぬ第三勢力に属しているのか、あらゆる組織を束ねる上位構造でもあるのか、全ての組織に共倒れしてほしい破滅的な個人なのか。
 ダメだ、読めない。
 新たな事実が分かっても、そこから答えを導き出せない。拡散していくばかりで一つの答えに絞り込めない。天津ユリナは、それくらい深い。底が全く見えないくらいに。
 個人として勝てない。地形の面でも不利。組織のパワーバランスさえ見えてこない。挙げ句に、アナスタシアっていう人質まで取られている。
 はっきり言って、逆転の条件がない。
 たったの一つも。
 俯いて、搾り出すように呟いた。
「……それでもアナスタシアは諦められない」
『彼女はアークエネミー・シルキーです。単純な耐久力なら人間のユーザー様より上のはず』
「そういう問題じゃない! アナスタシアはここまで無償で付き合ってくれたんだぞ。本来ならパリに来る理由さえなかった。僕が巻き込んだんだ、このままにしておけるかッ!!」
 マクスウェルがここまで僕のコマンドに反発するなんて珍しい。さっきも言ったけど、基本はユーザーである僕が望めばどんなデータでも表示してくれるはずなのに。
 何となく理由も分かっていた。
「僕と義母さんを対立させるのが怖いのか、マクスウェル」
『システムに恐怖などという分類不明な機能は実装されておりません』
「……僕がもう一度自暴自棄になるのが怖いのかって聞いてる」
 そう言えばあの時もアナスタシアと一緒に行動していたか。ラスベガス壊滅の時にアブソリュートノアや義母さんが絡んでいると知って、僕は初めて天津ユリナと衝突した。ほとんど暴走・暴発と呼べるような酷い代物で、自分でやっておきながら僕は僕の心を半分くらい砕いてしまったと思う。
 僕の安全を守るのが第一なら、確かに止めるかもしれない。
 勝てる見込みはまずないし、勝っても僕の心は無事じゃ済まない。これは、どう考えたって割に合わない破滅の選択肢でしかないんだから。
 でも。
 だからアナスタシアを放り出して一人で逃げるっていうのは、ナシだ。
 そうしたら、その時こそ、天津サトリって魂はぐしゃぐしゃにひしゃげて原形もなくなると思う。
 パリがこうなったのが本当に義母さんのせいなら、絶対に止めなくちゃならない。アナスタシアの安否がはっきりしないならきちんと確かめなくちゃならない。
『ユーザー様、どちらへ行かれるのですか?』
「お前が道順を出してくれないなら勝手にやる」
『そちらは逆方向ですよ』
「ああ! 現実なんか過酷だ、ボスキャラの超絶ド派手な必殺技だけが死因だなんて限らない。この暗闇の中じゃ、本当に何の意味もなく道路の亀裂に落ちたりビルの瓦礫に押し潰されるかもしれないな! 非力で無能な僕一人じゃ!!」
『……、』
「だけどお前がいれば話は変わる。手を貸せよマクスウェル、お前は理不尽な天災から人を助けるために演算する災害環境シミュレータだろ。こればかりはノーとは言わせないぞ、僕がこの手でそう作ったんだから。だったらアナスタシアを助けるために力を使え! お前が計算して僕が手を動かす。お前がいなくちゃこの問題は解決しないんだ!! 頼むよッ!!」
 マクスウェルが本当に沈黙した。
 長考に入っているのか、応答しないという意思表示なのか。
 一秒一秒に命を削られる想いだった。
 耐え切れなくなったのは、僕の方が先だったと思う。さらに一歩、闇雲に進もうとした時だ。
 メッセージがあった。
『……今この場において、システムの最優先事項はユーザー様の保護とみなしております』
「ああ」
『そのユーザー様が自殺行為に突っ走るのであれば何としても阻止しなくてはなりません。しかし残念ながらシステムには物理的なアームがありません。よって極めて遺憾で非推奨ではありますが、愚かなユーザー様の行動を黙認しつつ死亡率を下げるよう適切な助言を行うしかないでしょう』
「正直に言えよ、お前だってアナスタシアが心配なんだろ」
 マクスウェルは明言しなかった。
 モンパルナス駅。
 この災害の連続だ、おそらく向こうもまともに機能していないだろう。今や魔王の潜む鉄とコンクリートの迷宮だ。
 それじゃあ、魔王の城まで行って絵本のお姫様でも助けに行くか。
『ユーザー様こそご無理をされる必要はありません』
「何が?」
『心配なのではないですか、よりにもよってJBなんかと関わりを持ってしまった天津ユリナ夫人が。リスクで言えば、この「借金」は闇金どころではありません』
「……、」
 だからお前に頼るんだよ。
 僕が人の情に引きずられそうになった時、選択次第で家族は壊れるものだってトラウマに呑まれて、極めて重要なあと一歩を踏み込めなくなった瞬間。それでも客観的に状況を眺めて勝負を続けるために、シュミレータであるお前の力が必要なんだ。