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地震とは違う、細かい揺れが不規則に地面を揺らしていた。そのアスファルトもあちこちひび割れていて、断面同士が乾いた音を立てて噛み合っている。
「……また地盤だかプレートだかか。あと何回流星雨が降ってくるんだ?」
『電波状況に注意。下敷きと同じ理屈ですが、擦り合わされる質量が桁外れですので静電気による通信障害の懸念があります』
短い呻き声があった。
喉の渇きに耐えかねたのか、近くの噴水を覗き込んだ若者達が震えていた。暗がりだから分かりにくいけど、スマホのライトを向けてみると水面が赤く澱んでいるのが分かる。大気中の粉塵を吸った汚い雨とも違う色だ。
「何だ……あれ?」
『毒物ではないでしょう。水道管の赤錆が、激しい衝撃に揺さぶられて剥がれたのでは』
「元々、海外の生水に手を出すつもりはないけど……」
『この調子だと地下水も濁りが生じているでしょうね。市民生活はもちろんですが、ミネラルウォーター産業への甚大な打撃が懸念されます』
そもそも普通の活火山や断層と無関係に溶岩や火山性のガスが飛び出しているんだ。そういうのは水質検査からやり直しだろうな。
「でも、水か。後で手作りのろ過装置でも作った方が良いかな。こう、ペットボトルサイズの」
『ノー。街中でこれだけ火災や交通事故が頻発しているのです。薬品倉庫が瓦礫の山と化していたり、炎の中に化学系の貨物列車でも転がっていたらどうするのですか。安全の一言を得るためには際限のない努力が必要となります、登録されている全ての化学物質に対応した精密検査となると国立研究所レベルの施設を使わなくてはなりません』
……それじゃあ容器に詰めたミネラルウォーターの掴み合いになる。工場からの補充もないし、お店の棚なんかもう空っぽになっているんじゃないか? まあ、今は水道管に頼らないでっかいウォーターサーバーなんかも結構普及しているみたいだけど……。
『モンパルナス駅まで五〇メートル圏内に入りました。都市部の暗闇と言ってもそろそろ危険です、特に専門の暗視装備に注意』
「っ」
気を引き締め、身を低くする。もう目の前の目的から逃げていられない。
魔王の城はすぐそこだ。
「マクスウェル、分かっている範囲で良い。実際に踏み込む前に例の駅についての基本情報を確認したい」
『シュア』
こういう時、マクスウェルは正確だ。
隙のないデータがこっちの心まで抉ってくる事もあるけど、変な出し惜しみで損をさせられる心配はない。
『モンパルナス駅は先ほども言った通りパリの中でも大きな駅で、三つの駅舎を合わせた場合表面上の敷地面積だけで一辺三、四〇〇メートルに届きます。日本の学校なら二つ三つは校庭ごと収まる規模ですね』
「……それだけ探索は容易じゃないって訳か」
『シュア。当然ですがユリナ夫人やアナスタシアがどこにいるかは不明で、ユリナ夫人側が単独なのか複数の部下を引き連れているのかもはっきりしません。部下がいるとしたら、その一人一人が海風スピーチアや蛍沢ケズリレベルのキャストとなるでしょう。事前に外から観察を重ねるべきですが、それだけで情報不足を補える状況とは思えません。今から屋内探索用の陸上ドローンを調達するのも現実的ではないため、ユーザー様が直接中に入って不足を補うしかない状況です』
「分かった」
『何がですか。この災害環境シミュレータをもってしても、ユーザー様の生存率を計算できない状況です。何しろユリナ夫人を中心として不透明な部分が多すぎます。重ねて言いますが強く非推奨、今からでも黙って引き返すのが最も賢い選択であるのは間違いありません』
「それならアナスタシアを助けたいならすぐ動けって事だよ。明日の天気か週間天気かと一緒だ、時間が経つほどブレが大きくなって予測が一層難しくなる。助けるならここだ、お前だってそう思っているんだろ。今を逃したら、もうチャンスはないって」
ただ、不気味な振動や暗闇に怯えながら先に進んでいくと、ちょっと様子がおかしかった。
モンパルナス駅自体は一個の巨大なハコモノじゃない。どうもいくつかの建物を使って中庭みたいな大きな空間を囲っているようだった。建物のシルエット自体もあちこち割れたクッキーみたいに崩れているけど、でも問題なのはそこじゃない。
人の気配がするんだ。
それから焚き火らしき炎の揺らめきも。松明とかじゃなくて、多分ドラム缶の中に折れた木材でも突っ込んで暖炉の代わりにしているんだろうけど。
「っ?」
正しい動作かどうかなんて知らない、とにかく手近な瓦礫の裏に飛び込んだ。スマホの画面を空いた掌で覆って光を隠しながらも、マクスウェルに声を掛ける。
「何だありゃっ、義母さんじゃないぞ。普通に何人も人がいるじゃないか!?」
『オテルデザンヴァリッドから人を追い払ったJBのビッザとは異なる対応ですね。一律の戦闘マニュアルが存在する訳ではないのでしょうか。モンパルナス駅自体は敷地面積の広い公共施設ですから、避難所に認定されるか否に関わらず多くの人が自然と集まりそうな立地でもありますが』
「……だから何だ。今さらパリ市民に歩み寄ったところで義母さん側にメリットでもあるのか、それ?」
何しろ天津ユリナとJBが繋がっていた場合、流星雨を落とした張本人って事だ。言葉で取り繕って一時的に民衆を味方につけたって、正体がバレれば一瞬で掌を返されるのは目に見えている。
普通の人はJBなんて組織を知らないんだから、あれが人為的な災害だなんて疑いようがない?
でもそれは、後ろ暗い事情を抱えた人間が絶対安心とまで言える話かな。そもそも正しい答えを導き出すまでは暴力はやってこない、なんて話でもないんだし。
筋の通らない妄想や勘違いからでも、災害下の暴力は発生しうる。
『ユリナ夫人を敵に回した場合の戦術の読めなさは毎度の事ですが、木を隠すなら森、混乱すら利用する、マッチポンプの吊り橋効果などが見込まれるのでは?』
「吊り橋効果?」
『暴力的な独裁者がカリスマ性を持つ事もあります。人は直近の危機から救ってくれるならそもそもの元凶が何だったか忘れられる、不思議な生態を有しているものでしょう?』
……まあ戦国武将だってそんなものか。民衆の英傑・猛将だった織田信長や武田信玄なんかは多くの民を守って人気を博したけど、そもそも武将達が天下が欲しいなんて身勝手な夢を持たなければ人が死ぬのが当たり前の戦国時代なんかやってこなかった。手に入れるにしても、話し合いではなく武力の行使が当たり前と判断したのは彼らなんだし。
「とはいえ相手は義母さんだ、油断は禁止。最悪、『その程度の暴力なんてリスクの内にも入らない』の可能性だってある」
『シュア。アブソリュートノアという組織の構成を見る限り、そこまで人間を侮っているとも思えませんが。それでも魔王リリスなら何でもあり、に一票です』
とはいえいきなり突撃は怖い。
しくじれば、アナスタシアの未来まで閉じるんだ。
身を低くしたまま、広大なモンパルナス駅の周りをゆっくりと回る。最低でも、あちこちにいる人達が義母さんに丸め込まれた仲間(または部下)なのか、単なる居合わせた避難民なのかはジャッジしておきたい。それ次第で、横を素通りできるのか全員の視界から隠れて進まないといけないのかが変わってくる。
一刻も早くアナスタシアを助けたい。
そしてできれば天津ユリナに話を聞いて、JBと手を切らせたい。
闇に紛れて遠方から観察し、じりじりと心を炙るような情報収集を進めていく内に、分かってきた事があった。
「……あの人達、無線機みたいなのを持っている様子はないな。焚き火を囲んでいるだけで、周りに視線を投げる風でもない」
『時折スマホに目をやっている人もいますが』
「電波状況を確認してるんだろ。言葉は分からないけど舌打ちしてすぐポケットに戻してる、それの繰り返しだ。警察や消防以外の一般回線は今もずっと圏外なんじゃないか?」
僕やアナスタシアのスマホが通じるのは、JBのウイルスを書き換えて警察系のネットワークを冒し、通信データの権限を吊り上げているからだ。警察、消防、軍隊、行政。この災害下だ、これら非常回線以外の通信はみんな一律で遮断されているはず。彼らはそういう裏技を知らない。
つまり、
「一般人、だな。天津ユリナやアナスタシアは見ているだろうけど、多分名前も知らない。同じ避難民Aとして受け入れているだけか」
『なら状況次第では群衆を味方につけられるかもしれません。JBのキャストとして、天津ユリナ夫人が極めて高確率でアナスタシア嬢を誘拐・拘束している訳ですし。パリ市民が流星雨災害や核弾頭の深い情報を知らなくても、ここだけは現行犯です』
「大混乱で状況が予測不能になるだけだっ。怒りに燃えた民衆Aがいきなり善意の銃乱射でも始めたらどうする。本人は一一歳の女の子を助けるつもりでも、流れ弾がアナスタシアに当たったらそれまでなんだぞ」
それに僕は、義母さんを制御不能の暴徒達に預けるつもりもない。
自分だってどうしたいのかは整理できていないけど。
「……ひとまず周りを一周したけど、表とか窓とかに義母さんやアナスタシアは見えないな」
『モンパルナス駅は複数の路線が合流しております。商用施設の拡張のために地下を掘り進めているらしいので、おそらく迷路のように入り組んだ地下構造体にいるのでは?』
さらにもう一周回るけど、新事実はなかった。マクスウェルに電波や赤外線のやり取りがないか確かめさせ、停電下でも使えるカメラがないのを確認してから、そろりと駅舎に向かって足を向けていく。
『モンパルナス1、接近します』
敷地に踏み込む。三つある駅舎の内、いよいよその一つに近づく。
魔王の城。
表で身を寄せ合っている複数の人影がこっちに振り返ったけど、特に金切り声とかはなかった。僕はフランス人じゃないんだけど、寛容な人達だ。こういう災害下だと団結心が歪んで変なナショナリズムに化け、まず自国の救援が最優先、よそ者なんか排斥しようなんて動きに繋がる事も珍しくないんだけど。
『すでに天津ユリナ夫人を受け入れている訳ですしね。全ての元凶、JBのキャストとも知らずに』
「そりゃそうだけどさ……」
下手にこそこそしたり、武器を持ったりすると逆効果になるだろう。何も知らない人からすれば義母さんは避難民Aでしかないんだ。武器を持って追い回した場合、周りから見て『どっちが悪か』は言うに及ばず。言ってはなんだけど、天津ユリナの外見だけは世界で通じるレベルの美人だしなあ……。
善意からの行動でも血は流れる。
間違った情報に基づいた選択もありえる。
……この辺りの『見え方』については意識しておいた方が良さそうだ。前にも一回、ショップで泥棒と間違えられて殺されかけた訳だし。現時点で僕は『外国人の新参者』。普段と違う災害下、パリの人達からすれば、すでに不信感を持たれていても不思議じゃない。例えばアークエネミー・リリスとの戦闘に備えて物騒な武器なんかかき集めたら袋叩きに遭うかもしれない。
燃え盛るドラム缶の横を通って駅舎の中へ。
まるで野戦病院のようだった。
広い空間に明かりはなく、こちらは完全な暗闇だった。だけどスマホのライトを向けなくても、呻きで分かる。人がいる。それもかなり多い。おそらく硬い床に段ボールやビニールシートを重ねただけの簡易ベッドをたくさん用意して、怪我人達をずらりと並べて寝かせてあるんだ。
改めて思う。
これは都市型のオープンワールドでもサバイバル環境を楽しむゲームでもなくて、本物の災害なんだって。こんな所で重傷者がおざなりに寝かされている以上、瓦礫の街に救急車を走らせる余裕はないし病院だってまともに機能していないんだろう。本来なら助かるはずの傷で四苦八苦する人もいる。例えば糖尿病のインシュリン、喘息の携行酸素ボンベが必要な人はどうしているんだろう? 病気の数だけ医薬品や医療機器が必要なはずなんだ。
これ以上は許されない。
JBを止め、流星雨の墜落を止めないと。それどころか、場合によってはもっとひどい攻撃もやってくる。
新しい惑星を作るために必要な核弾頭。だけど手に入れたミサイルを全て使い切らなくては達成できない、とは限らないんだ。JB側が使えるのは二五発。もしも『余り』があるのなら、牽制として追っ手に撃ち込む可能性だってないとは言えない。
つまりは、僕達を狙ってパリの中心へ。
「義母さん……」
噛み締め、僕も動き出す。
可能性は低いと思うけど、スマホのライトを向けて床に寝かされた人達の顔を照らしていった。目的はアナスタシアを助け、義母さんを止める事だ。どさくさに紛れて人混みに隠れているリスクだって完全に否定はできない。
もちろんこんな所で取っ組み合いなんかしたくない。周りにどれだけ被害が出るか分かったものじゃないんだし。
だけど待ち構える側からすれば、追っ手が一番嫌がる環境を整えようとするはずなんだ。
『顔認識による照合完了、天津ユリナ夫人及びアナスタシア嬢は確認できず』
「……分かってる」
『それから、野ざらしにしては応急手当てのレベルが妙に高いのが気になります。おそらく高度な技術を有する人間が手を貸したものかと。包帯の巻き方や添え木の固定などがフランス式ではなく、日本式の救護手順なのも気になります。減災都市・供饗市で発達、全国へ普及を進めている医療技術ですね』
「……、」
『天津ユリナ夫人と決まった訳ではありませんよ。パリ市内に日本人または親日派のフランス人がどれだけいるかは未知数。仮にユリナ夫人だとしても、最短で効率的に群衆から受け入れられるための、キャストとしてのパフォーマンスという線が濃厚です』
「だから分かってるよ。ゲリラや麻薬カルテルだって警備とかインフラとかで地域還元くらいはするもんな、街に不可欠な存在となる事で民衆を味方につけて軍や警察の追及をかわしやすくするって訳だ」
アナスタシアをさらった、っていうのは事実なんだ。天津ユリナがどんなによそで人助けをしていたって、そこにはメリットがあると考えるべきだ。
しかし、
「義母さんからすれば、JBのビッザ=バルディアがリタイアして、そこから天津ユリナの名前が出てきた事自体はイレギュラーだったはずだ」
『シュア。それが何でしょう?』
「……そこから派生していったモンパルナス駅の篭城についても丸ごとそうだろ。困った時のリカバリー案くらいには考えていたのかもしれないけど、少なくとも第一候補じゃない。義母さんにとってもアドリブの連続になっているはずだ」
『シュア。余裕がなくなっているかもしれませんね。ただし、犯行計画の破綻は必ずしも歓迎できるものではありません。特に人質が絡む事件の際には』
「……、」
奥に進み、ずらりと横一列に並んだ自動改札を乗り越える。
不規則に細かい震動が続く中だと、重たい天井に頭の上を塞がれるのが不安で仕方がない。屋根に対する当たり前の安心感はなくて、丸ごと崩落のリスクに置き換わっているんだ。
そして怪我人だらけの一角を抜けると、今度は食べ物らしき匂いが鼻についた。携帯コンロを持ち込んで料理でも作っていたようだ。
「屋内だぞ……。窓も塞がってるし、一酸化炭素とか怖くないのかよ」
というかあの形のコンロ、ヨーロッパにもあったんだな。やたらと鍋文化に溢れたアジア限定のアイテムだと思ってた。
『それ以前に壁や床の中でどんな断線や破断があるか読めない状態です。ガス爆発を第一に懸念すべき危険状況ですね』
義母さんはどこだ?
アナスタシアはどうしているだろう。
気絶して大きなバッグにでも詰め込まれているのか、群衆には見えない位置からそっと背中に刃物でも押しつけられているのか。
ざっと見た限り、ここの人達は普通のパリ市民だ。あからさまに縛り上げられた状態の女の子を肩で担いでいたら流石に騒ぎ出すと思うけど。
駅は電気が来ていないのか、漏電からの電気火災を恐れてわざと非常電源をカットしているのか、とにかく防犯カメラも動いていない。やはり、しらみ潰しに調べていくしかなさそうだ。雑にやれば見過ごしが生まれる他、物陰から不意打ちを喰らうかもしれない。でも実は、義母さん側がこの駅に留まり続けないといけない理由もおそらくない。もたもたしているとアナスタシアを抱えたまま場所を移されるリスクもある。そうなったらヒントが途絶える。
「……ひとまず公式に載ってる案内図を参考にして、踏み込んだ場所を塗り潰してくれ」
『向こうも動き回っている場合はあまり意味はありませんけどね』
分かってるよ、気休めって事くらい。でも何か手近な所に小さな目標を立てていかないと途方もなさ過ぎて折れてしまいそうなんだ。
広い駅と言っても売店やレストランなんかは結構細かくスペースを区切っていて、金属のシャッターで遮断されている事も多い。
今からアナログな鍵を一つ一つ探していくとなったら相当骨が折れるけど、実際にはほとんどの錠前は壊されていた。水や食料を求めてっていうのが一つ、あとやっぱり寝床が欲しくて潜り込んでいる人が多い。大広間で雑魚寝じゃなくて、周りを壁で囲まれた個室を欲しがっているって訳だ。
血の匂いと呻き声で満たされた野戦病院じゃ気が休まらないのかもしれない。
ただ、それにしても、
「冗談だろ、地震だって起きてるのに……。レストランの厨房なんかいつ何時爆発するかもしれないっていうのに」
『トイレの床に寝転がっていないだけまだ理性的と評価すべきでは?』
時間も時間だ。
暗闇を引き裂くようにスマホのライトを向けると、いくつか不機嫌そうな呻きを耳にした。だけどやっぱり義母さんやアナスタシアは見つからない。
「駅員さんもいないみたいだな……」
『今日中に列車が復旧する見込みがないと分かった時点で、職務を放棄して自宅に帰ったのかもしれません。勤勉で定刻通りに働く駅員や運転士なんて日本にしかいないようですし』
……それもそれで偏見だと思うけど、でも本職の人間だけいなくなっているのは気になる。何だかファストフードの店員がハンバーガーを食べるのを頑なに断り続けているのを目撃したというか。
可燃ガスに高圧電線、大型変圧器や貨物列車があれば化学薬品も怖い。確かに駅は危ない場所でもあるんだけど。
「変だぞ、絶対変だ……」
『ノー、分析してほしい事があるのであれば具体性のあるコマンドをいただきたいです』
金属シャッターだらけのレストランや売店の並ぶエリアを抜けると、下りのエスカレーターが見えた。当然、電気がなければただの狭い階段だ。
「……こっちは地下鉄の乗り換えとか?」
『商用施設の新規区画のようですが、まだ稼働前のようです。近くを走る地下鉄とは業務用の出入り口で連結している可能性もありますが、開発中なので資料が少ないですね』
まだ見ていないエリアから優先して、全部回る。それが基本方針だ。多分まだ地上も抜け落ちはあるだろうけど、目についた所から調べたい。駅員さんしか入れない小部屋一つ踏み込むのに一時間かけるくらいなら、まず誰でも行ける場所を回って地図の大部分を埋めてしまいたいんだ。一般の図面に書いていない裏方の部屋や通路だって、周りを埋めていく事で浮き彫りになるかもしれないし。
「……エスカレーターから地下に向かう。電波状況に注意、あとかなり入り組んでいるからマッピングでヘマするなよ」
『ユーザー様こそ。その地理的構造から考えてどうやっても地下はリスク上昇を避けられません。ガス、酸欠、火災、崩落、あらゆる危難に備えてください。言うまでもなく死角からの奇襲も込みです』
画面端にあるバッテリーの残量を確かめてから、LEDライトを頼りに下りのエスカレーターへ踏み出す。
ガムテやルーペでもあれば暗視モードを使った手作りゴーグルも作れるんだけど……やっぱり怖いか。そういう特殊装備は何も知らない周りの人を警戒させる。地下フロアにいるのが義母さんだけとは限らないんだし。
ぱら、と。
頭の上に、細かい砂粒みたいなのが降ってくる感触があった。
『警告』
「マジかこのタイミングで地震なんてっ!?」
思わずゴム系の手すりにしがみついたけど、ダメだった。ずっ、といきなり足場が『ズレて』バランスを崩したんだ。
ちくしょう。
きちんとした階段じゃない。ギアやストッパーが外れたっていうか、止まっているだけのエスカレーターっていうのが裏目に出たっ!?
「わああッ!!」
視界がぐるりと一周回ったと思ったら、もう止まらなかった。
正直に言うと、痛みはなかった。
結構な高さだったし、実際に派手な音もした。エスカレーターだから一段一段のへりも刃物みたいにエッジが立っているはず。なのにパニクって頭の回線がきちんと繋がっていないのか変な脳内物質がバンバン出ているのか、体のどこからも痛みの信号がやってこない。
「……、」
ぱしぱし、と。
倒れたまま片手であちこちを軽く叩いた。すぐにスマホの手触りがあった。……不思議なものだけど、痛覚が全部カットされている訳でもないらしい。
「明日が怖いな、こりゃ……」
とりあえずむくりと体を起こして、自分の体を掌で探ってみた。どこか折れている様子はないし、べったりと血がこびりつく事もない。無事、って判断で大丈夫だろうか?
「ラッキー、なのか? なんか借金を後に回してるだけな気がするけど。マクスウェル、この先の通路はどうなってる?」
『警告』
やなメッセージが飛び込んできた。
バゴッ!! という鈍い衝撃音が上の方から響いた。何かが転がり落ちてくるっていうより、まずエスカレーター自体が踏んづけられた蛇みたいに暴れ回る。自転車のチェーンか、あるいはベルトコンベアか。とにかく一つの塊として連結されていた階段状のエスカレーターが、何か強い刺激を受けて持ち上がったんだ。シーソーの片方に全体重を掛けたように。
「わっ」
噛まれる、と思って足を引っ込めた。具体的な重さなんか知らないけど、踏み板と床の間に足を挟まれたら大変な事になりそうだ。
判断自体は間違っていなかったと思う。
ただ何故こうなったのかっていう原因の方にも目を向けるべきだった。つまり上方、巨大なシーソーの反対側に落ちたのは何だったのかっていう話。
バギバギめきめき、っていうガラスが砕ける音が連続した。
驚いてスマホのLEDライトを上の方に向けてみればエスカレーターの両サイド、透明な壁(?)みたいなものが破壊されていくのが分かる。何で? 決まっている。
何か巨大な塊が、エスカレーターの幅すら無視して転がり落ちてきたからだ。
『素材は耐火性樹脂と鉄筋コンクリート構造物、推定重量四・二トン。さらに
いちいち読んでいる暇はなかった。ろくに立ち上がる事もできず、とにかく倒れたまま横に転がってでもその場を離れる。向こうは坂道を下っているんだから、単に距離を取ってもボールみたいに転がってくる。だからエスカレーターに対して右手側に進んで避けるしかない。
甘かった。
向こうはまん丸のボールじゃない。エスカレーターっていうレールを失って自由を得た瞬間、軽自動車くらいの塊が不規則に跳ねたんだ。そう、ラグビーボールみたいに。
「うわあ!?」
おまんじゅうみたいにその場でうずくまった途端、すぐそこを巨大な塊が回転しながら突き抜けていった。危うく突き出た鉄筋に耳を持っていかれそうになる。それこそ交通事故みたいな激突音と共に、薄い内壁をぶち抜いて隣の部屋まで突っ込んでいった。
「……、」
騒ぎが収まっても、しばらく動けなかった。
『天井の一部が崩落したようです。度重なる流星雨の衝突、地震、噴火活動などにより建物の構造そのものが深刻なダメージを受けていると思われます』
心臓が痛い。寿命なんかこの数時間で相当すり減ったんじゃないかって思う。
うずくまったまま上の階を見てみれば、いくつか並んだエスカレーターはメチャクチャになっていた。踏み板はばらばら、大小のガラス片がスマホのライトの照り返しを受けて乱反射を促していた。この斜面を足だけで登るのは苦しいし、軍手くらいじゃ普通に鋭いガラス片が貫通しそうだ。
ここはもう使えない。
上に出るなら、別の出口を探さないと。
「マクスウェル、念のために出口検索。複雑に入り組んだ大きな駅なら他にもいくらでもあるだろ」
『シュア。ただしそちらでも同様のトラブルが起きていない保証はありません。通常の防犯カメラは使えないため、システム側でサーチするのは不可能ですので』
「分かってる」
こっちもアナスタシアを捜さなくちゃならない。改めて身を起こし、深呼吸して、僕は壊れたエスカレーターから地下フロアの奥へLEDライトを向ける。
その時だった。
異変があった。
とは言っても、大きな光や音が襲いかかってきた訳じゃない。むしろ逆だ。
そう。
いきなりスマホが死んだ。
バックライトもLEDライトも消えて、全方位が分厚い闇に包まれる。