7
呼吸が詰まった。
意味が分からない。もう頭が回らない。
確かに、だ。
雨の中を歩いたり、粉塵や煙にさらしたり、今だってエスカレーターから落ちたり。過酷な使い方をしてきたのは認める。認めるけどさ。
ここでか?
今このタイミングで壊れるかよ! スマホがっ!?
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
一発だ。
自分が長い道のりのどこかでミスしたのは分かる、そしてコンティニューも難易度変更もなかった。この一回でいきなり緊張が限界を超えた。
思わず絶叫したけど、それでスマホが直る訳じゃない。パニックに支配された頭を必死に使って、震える指先でボタンの感触だけ確かめる。ややこしい手動リセットを試すけど……ダメだ。うんともすんとも言わない。たった数秒足らずの待ち時間に心臓が破れそうになる。
何だ。
どうする?
これじゃ鼻先も見えない。相談相手もいない。足元のどこに亀裂が走っているか、いつ頭の上からトン単位の瓦礫が降ってくるか、一個も判断できない。
遭難。
吹雪の雪山や湿った樹海に一人ぼっちで放り出されたような孤独感だった。これじゃ義母さんと戦ってアナスタシアを助けるどころじゃない。迂闊に足を進めたら鋭いガラスや突き出た鉄筋でも踏み抜くかもしれない。
ぱらり、と頭の上に砂粒みたいな何かが落ちてきた。
そう、駅舎の崩壊だって止まっていない。ここでじっとしていれば安全なんて話ですらない。
動けば死ぬ。
動かないと死ぬ。
板挟みかよっ、ちくしょう!!
「冷静だ、冷静になって一個一個考えるんだ……。一度に全部とか、三段飛ばしなんて考えるな」
ほとんど生き埋めみたいな真っ暗闇の災害下の地下空間で、無理にでも自分に言い聞かせる。
まず、スマホが何故故障したのか、すぐに直せるものなのかは判断がつかない。この濃密な暗闇の中、特殊工具がないと開かないスマホの基板と睨めっこなんかできっこない。
かといって、真っ暗な中を勘を頼りに進むのも自殺行為。
となると……明かりか。
火でも電気でもいい。とにかくスマホの代わりとなる照明器具を確保しないと。ガスの匂いはしない、よな?
光。
それならプラスチック、ポリエステル、ビニール、何でも良い。とにかく合成樹脂があれば……。
「はあ、はあ」
とにかく財布を取り出して、指先の感覚を頼りにカードを引き抜く。それでごしごしと頭のてっぺんを素早く擦った。誰でも小学生の時に似たような事をしなかっただろうか。
下敷きと髪を使って静電気で遊ぶ、アレだ。
ぱちぱちっ、という小さな青白い光は、弱いフラッシュって感じだった。懐中電灯と比べると心細いにも程があるけど、それでも一瞬の光が網膜に残像を残す。
等間隔に並ぶ柱、壁、鉄扉、いくつか並ぶゴミ箱。それからティッシュの箱より大きな瓦礫がいくつか。
その残像を頼りに、恐る恐る進む。素手だとやっぱり怖い。付け焼き刃でも、上着を脱いで片腕に巻きつけておいた。防護した掌を使って探り探り歩を進めていく。暗闇の中でとにかく怖いのは鋭い突起の踏み抜き。下手に足は上げずに、ずりずりと摺り足の真似事をしながら爪先の感覚だけで床のガラス片をゆっくりとどけていく。
ひとまず壁際へ。
さらに手探りでも分かる壁に沿って、ゆっくりと奥へ進む。やがて、冷たい金属製のボックスに行き当たった。
「っ」
べたべた触って小さな扉を開け、分厚い合成繊維でできたバッグを引っ張り出す。固定具の明かりが点いていない時点で予測はできていたけど、ブザーは特に鳴らなかった。あまり馴染みはないけど、公共施設なら大体どこにでも設置されている電子製品だ。
AEDだった。
何も見えない中、手探りで大きなスイッチを入れると、オレンジ色のランプが光った。AEDは命を救う道具だけど、同時に高圧電流を使う以上『誤爆』のリスクもある。だからチャージ時には必ず注意を促すためのサインを発するはずなんだ。
頼りないけど、ないよりマシ。
部屋の蛍光灯とセットになった、小さな電球くらいの光源。それを頼りに改めてスマホを見る。画面にヒビが入っていたり、本体がくの字に曲がっていたり……なんて事はなさそうだ。ただそうなると、不調の原因はパッと見ても判断できない。今この場に特殊工具やテスターがある訳じゃないし、そう簡単に拾える品とも思えない。スマホについてはひとまず保留とみなすしかないか。
「……アナスタシアがそういうのポケットに入れてそうなんだよな、くそ」
ぐらっ、と足元がもう一度揺れた。コンクリートで固められた地下とは思えない、吊り橋とか小舟の上で立っているような不安定感。けどこれって地震か? あるいは地上じゃまた流星雨でも落ちたのか、駅のどこかでガス爆発でも起きたのか。確かにおかしな現象は起きている。なのにスマホってツールがないと、今自分の身に何が起きているかも分からない。僕は騒ぎの真ん中にいて、自分の命を危険にさらしているはずなのに。
とにかく奥に進むしかない。
でもこの暗闇だと考えなしに探索しても距離も方向も惑わされそうだ、ただでさえ複雑に入り組んだ地下フロアだし。となるとなけなしの明かりの次に欲しいのは……、
「……見取り図、だな」
思わず呟いていた。
半ば封印された地下に人の影はない。警戒して身を潜めていたとしても、一定以上の人数がいたら音や気配は伝わると思う。それがない。まるで深夜の学校だ。
無理もない、か。
僕だってどこでも好きな場所で寝て良いって言われたら、まず地上フロアで頑丈な所を探す。流星雨災害なんて無茶苦茶な中だ。地下フロアは一見造りが堅くて安全に見えるけど、もう建物の硬さ厚さで凌げるレベルを超えているのはその辺の子供でも分かる。いったん生き埋めになったらレスキュー隊に気づいてもらう事すら難しくなってしまう。
「これかな……」
いくつもガラスの扉が並ぶ辺りに、見取り図が掲げてある。開発中の新規商用施設だったか。でも、うわ、大雑把だな。縮尺とかはあまり気にしていないようだし、当然、立入禁止の職員施設は記載がない。スマホのカメラが使えない事もあって、いまいち頭に叩き込もうって気がしない。
もう少し、こう、分かりやすい。
それでいて持ち運びできるくらいのサイズ感だと……。
「パンフとか?」
けどなあ。
それ自体が観光地になっている東京駅とかならともかく、普通、駅そのものを紹介する冊子なんてあるのかな? 階段や廊下と一緒で、駅は基本的に通り道。目的地として紹介される事は稀だ。
火災時の避難経路とか、そういうのもありそうなんだけど……。駅員さんの事務室とか、もっと裏方も調べないとダメだろうか。
どうしたものかな。
そんな風に思っていた時だった。
もしゃいそ、
「っ?」
びくっと震えて思わず振り返った。
そこには何もない。けど、AEDのパイロットランプ、豆電球一個分ってくらいの淡い光じゃ闇を拭いきれない。はっきりした事は言えなかった。
何だ、今の?
耳元で小さな虫の羽音が響くような不快感。でも単なる音って感じでもない。一音だって聞き取れないのに、どこか粘ついた意志や感情の色がついていたのが分かる。
ていう事は、今の。
鳴き声?
声?
えべへん、ぶりはに、えるくいそ
勢い良く飛び下がった。
だけど耳元の声は離れない。正面には誰もいない。後ろに下がっても誰ともぶつからない。
何だ?
何なんだ!?
老若男女の区別はつかない。低い風の唸りと言われても納得してしまうし、正直そっちの方がありがたい。でも、この押し潰されるような濃密な暗闇に空気の流れなんて感じられない。
声。
……なのか? やっぱり。
暗闇が生んだただの幻覚か、あるいは骨伝導で共鳴するような超音波を使った音響兵器でも浴びている? 一発目に出てくるのが、もう荒唐無稽だった。これじゃ大真面目な顔して幽霊騒ぎの正体は錯視やプラズマだったと語るのと変わらない。
怖いのは、声そのものじゃない。
距離感。圧倒的な至近距離。これが本当に人の声で、耳元で囁かれているとしたら、もっと危険な事だってできる。もう僕の喉元は得体の知れない指先で撫でられているんだ。だから、怖い。パーソナルスペースに土足で踏み込まれた上、相手が何を隠し持っているかも不明で未知数。だから理性じゃなくて本能の部分が叫んでいる。ここまでされても何一つ抵抗できない自分がとことん無力なんだって嫌でも思い知らされる。
そもそもだ。
意味が分からない。
どこの誰だか知らないけど、こんな事ができるならそれこそ刃物でざっくりくらいは訳がないはずだ。じゃあ危害を加えるつもりはない? それもなんか違う。脅して威嚇するにしたって、僕には逃げ道もないんだ。元来たエスカレーターは壊れているんだから。
それとも、合理性なんかないのか?
ただ怖がらせたい、ただ楽しみたい。そんな考えだけでちょっかいを出してきているとでも言うのか。
JB。
キャスト。
いいや、安易に結びつけて良いのか? あるいは全く関係のない化け物の可能性は? パリ全域にはどれくらい深い闇がわだかまっているんだ!?
「はあ、はあ……!!」
明かりが弱い。
所詮はAEDについている小さなパイロットランプ、どっちを向いても闇は拭えない。必ずどこかに残る暗がり全部に誰かがうずくまっているように思えてくる。
向こうの独壇場だ。
また耳元にきた。
ぢついねいうぇふれぬぼいにサトリえけ
「っ!?」
明確に、音で聞こえる名前が混じってきた!?
……いい、や?
単なる雑音がそう聞き取れただけか? 何だ、どっちだ!? 今のに意味はあったのか、それとも何もないのか!!
疑問があった。
答えが欲しくて内側から破裂しそうだった。乱れ切った呼吸を意図して整えないと、息苦しさに背中を押されて両手で抱えたAEDを闇雲に床へ叩きつけそうになる。これが僕の心を混乱させる狙いだとしたら、この時点ですでに一二〇点だ。
さトリ、
「っ!?」
思わず近くの柱に背中を押しつけて辺りを見回すけど、ダメだ。やっぱり音源は距離も方向も掴めない。光が弱過ぎて闇が拭えないっていうのもあるし、最悪、僕の頭の中から響いている可能性だってある。
サトリ
それでも。
何かに捕捉された、って感じがした。漠然と騒音を撒き散らしているんじゃない。何かは僕を見据えて声を発している。
なんていうか。
古いラジオのダイヤルを回すっていうか、展望台にあるつまみのついた双眼鏡でピントを合わせるっていうか。何発か試し撃ちして、正しい間合いでも測っているようだった。
つまり、本番はここから。
どうしてきた、サトリ
「質問……?」
外から誰かが首を傾げているのか、内からの不安が形を持ち始めているのか。そんなのは知った事じゃない。
サトリ死ぬ。このまま行けば、分かっていたはずだ
「……、」
ぶつ切りだけど的確。まるで得体の知れない予言書のよう。まともな人間なら分かっていても口を噤んでしまうような内容でもズバズバ切り込んでくる。
何を。
こいつは何を期待している?
全くの通り魔じゃない。ストーカーみたいに、僕を選んで接触してきている。
やっぱりJB?
あるいはそれ以外の誰か???
ヤツは僕から何かしら答えを引き出したいのか、あるいは声をインプットした時点でもう目的は達成されているのか。
「っ、それを僕に聞いてどうする? なんて答えてほしい!? 何だったら台本でも渡してくれ、その通りに口を動かすかr
サトリ、今すぐころせる
……ッッッ!?
答えろ、サトリ。今すぐ。いやなら下がれ、しにたくないだろう、ばじゅる
心臓が、キリキリと痛むようだった。
前後左右上下、どこかに警戒していれば安心なんて話じゃない。僕は未だにこの声がどうやって届いているかも特定できてないんだ。最悪、頭の中身が内側から膨らんで弾け飛ぶ、なんて可能性だってないとは言えない。
普通に考えれば、逆らうのは得策じゃない。相手が誰であれ、僕は後頭部に見えない銃口を押しつけられている状態なんだから。
でも。
だけど。
「……僕はこの先に行く」
なぜ
「まだ調べていない場所がある。今ならまだアナスタシアを見つけられるかもしれない、義母さんにだって追いつけるかもしれない!! すぐそこの部屋にいるかもしれないんだ、ドア一枚隔てて。だったらここで引き返せるか!!」
不測のじたい起きている。サトリそれ分かるはず
ああ。
アナスタシアからの連絡は途切れた。義母さんは限りなく怪しい。というかビッザのスマホに名前があった以上、間違いなくJBに一枚噛んでる。最後に話題に出たモンパルナス駅に来てもやっぱり出迎えはない。地下から安全に地上へ上がる方法はなくて、スマホは故障、辺りは停電、おまけに全部織り込み済みって態度で暗闇からコンタクトが来た。
今、僕は限りなく死に近づいている。
それが分かる。
素人でも、ひしひしと感じてしまうくらいに。
言ってしまえば目隠ししたまま裸足で地雷原を歩かされているようなもの。全てを知る人間が見たら呆れるか卒倒するかの二択ってくらい崖っぷちにいるんだろう。むしろ、まだ死んでいないのがおかしいってくらいに。
サトリにきく
「っ、なにを」
アナスタシアとユリナここいると思うか?
「……、」
もちろん選択肢は色々ある。客観的に取捨選択して全部の流れの証明してみせるほどの情報は集まっていない。
それでも答えなくてはならない。ある程度は直感になる。しくじったら何が待っているかは想像もできないけど、少なくとも好転はしないだろう。
ここはそんな場面だ。
だから、
「いると思う」
何故?
現にこうして妨害が入っているから、っていうのは一番分かりやすいけど、実は何の証明にもなっていない。JBは組織犯で、しかもコンピュータウイルスなんかの高度な情報技術も持っている。ようは、最初から満遍なく街中に子飼いのキャストを放っていたり、僕とアナスタシアの通話を盗み聞きして後から兵隊を派遣してきた可能性だってあるんだ。
JBの子飼いや兵隊。
キャストの強さはバラバラだけど、蛍沢ケズリやビッザ=バルディアレベルがバカスカ投入されていたら最悪だ。そしてJBの最悪は、常にこっちの想像の五倍増しくらいで襲いかかってくる。
「アナスタシアの通話が途切れたタイミングが変だった。合流を妨害するなら、モンパルナス駅の名前が出る前に仕掛けるはずだ」
だとすると、こう。
モンパルナス駅って名前は、いきなり出てきた訳じゃない。
僕が今どこにいるか、ランドマークは何か。会話の流れがあったはずだ。聞かせたくないなら、もっと手前で断ち切れた。
つまり、
「妨害者は最初から聞かせるつもりだった。モンパルナス駅の名前を。しかもアナスタシアが穏便に通話を切る前に襲っている。切った後に襲えば、僕は何の警戒もしないでのこのこ駅に顔を出していたはずなのに」
あなすたしあ仲間か?
「ああ」
何故、といちいち聞かれなかった。
理由について話すのもセットの質問だったらしい。
今、僕はアナスタシアは襲われたと言った。これはアナスタシア自身がこっちを騙している、という可能性を排除している訳だ。
その理由は、
「アナスタシアが騙して僕を襲う気なら、もっと人気のない場所を選んでいる」
そう。
言ってはなんだがモンパルナス駅には人が多い。公共交通機関の大きな建物だから、家を失ったり不安がってるパリの人達が集まっているんだ。正直に言って、人を襲うには不向き。パリについて右も左も分からない僕は基本的にアナスタシアのオススメ通りに動くんだから、悪意があるなら人目につかない場所に誘い込むとかもっとやりようはあったと思う。
天津ユリナはしんようできる?
「……、」
したい、とは思う。
でも希望を第一に持ってきている時点で、感情優先になって論理が破綻しているのも自分で分かっている。
はっきり言えば、義母さんはグレーだ。
JBのキャスト、ビッザ=バルディアのスマホに天津ユリナの名前があったのは否定できない。これが嘘だった場合、解析を頼んだマクスウェルに悪意があるか、あるいは乗っ取られている事になる。
JBの技術なら不可能じゃない……かもしれない。
けどやっぱり、アナスタシアの時と同じく、マクスウェル側に害意があればもっとスマートに立ち回れたはずだ。言ってはなんだけど、困った時の僕のマクスウェルへの依存度は半端じゃない。この瓦礫だらけのパリなら、間違った食料調達方法を画面に表示するだけで間接的に命すら奪えるかもしれない。
そうなると、
「今ある状況だけだと、一番怪しいのは義母さんだ。少なくとも天津ユリナなら、アナスタシアの通話を隣で耳にしながら自分が望んだタイミングで襲えたはず。それとなく後ろに回って、死角からすんなりと」
ではあまつゆりな敵対者か? サトリやアナスタシアいのちを奪いにくる敵なのか?
……ここが、分かれ道だ。
これまであった事を全部思い出せ。希望、憶測、偏見、先入観、そういうのは全部ナシだ。
JBのスマホに名前があった。ここは曲げられない。
通話中のアナスタシアを襲って、僕をモンパルナス駅まで誘導した。これもほぼ確定。
天津ユリナには、僕の知らない顔がある。アブソリュートノア以外にも。
そこはもう否定できない。
ならその上で、だ。
前提を認めた上で。
……結局、天津ユリナとは何者なんだ? JBに属していて、僕やアナスタシアを騙して行動を共にし、手綱を握れればそれでよし、正体が露見するなど必要な機会があれば危害を加える。そういう結論になるのか。
「……、」
しかし一方で、義母さんがいなければ僕達はもっと早い段階でリタイアしていたはず。フランス国防省地下から無事に出られたかどうかすら怪しい。国防省は地下フロアを全て調べた訳じゃない。不測の事態で僕達と鉢合わせしそうになったからって、義母さんはどこかの一室で身を潜めていれば普通にやり過ごせたと思う。なのにわざわざ声を掛けてきた理由は? 義母さんは、僕達を助けるために顔を出している。そいつはその後の行動からも明らかだ。ではそれは、具体的に何故?
……僕やアナスタシアに何かさせたい事があって、達成するまでは泳がせる必要があった。
悪意的に見るならこれが一番だ。僕達は情報分野で専門的な技術を持っている。けど義母さんはフランス国防省地下のサーバーに一人で触っていた。僕達にできる程度の事なら彼女にも可能だ。だとすると、この線はない。
他には。
考えられる可能性は。
これしかないか……。
「天津ユリナは敵だ。少なくとも、僕とアナスタシアを合流させる気はない」
……。
「そして同時に、家族の僕を守ろうとしている。天津ユリナがJB側について何をしようとしているか、今の段階じゃ情報が少なすぎて断言できない。けど、それに僕を巻き込ませる気はなさそうだ」
沈黙があった。
痛いくらいに。
声がある方が不自然な状態のはずなのに、僕はいつの間にか謎の声の存在を受け入れていたらしい。当たり前の環境、無音の状態に漠然とした脅えすら感じている。満員の映画館でみんな一緒に感動して涙を流していたはずなのに大勢の人達が実は一人もいなかった。そんな孤独極まりない怪奇現象にでも巻き込まれたように。
こういう認識で合っているのか。
正解だったら何だと言うのか。あるいはこいつを油断させるためにわざと見当違いな事を話した方が良かったんじゃないか。
沈黙は続いた。
あるいはもう立ち去ったのか。そう思わせておいて襲撃の機会を窺っているのか。
そんな風にぐるぐる考えていた時だった。
「ちえっ、全部正解か」
ッ!?
今のはこれまであった幻聴かどうかもはっきりしない、正体不明の声じゃない。明らかに距離も方向も分かる、しっとりとしたぬくもりで空間内を満たしていく肉声だった。女性の声。AEDのセットを突きつけてみれば、意外なほど近くの柱の陰から音もなく人影が出てくる。
それ自体も心臓が止まるほど驚かされたけど、
「義母さん……?」
出てきた人影を見て、僕は目を白黒させた。
「なんだっ、じゃあ今のは全部義母さんだったのか!?」
「ま、いくつか足りないピースもあったけど、そこはサトリの知り得ない情報だから仕方なし。むしろ断言できない所は素直に保留にしたのもプラスに評価しましょう」
「さっきの、頭に響く声は……?」
「メガホン」
ただの、じゃないだろう。
くそ、この分野でも勝てないのか? 義母さんのハンドメイドは、僕なんかはるかに超えてる。
「お手製だけどね。知ってるサトリ、空気の振動は音色だけじゃなくて圧も加えられるからパーソナルスペースを侵害してプレッシャーをかけられるって話。幻覚・幻聴の作り方に興味があるなら後で検索でもしてみなさい」
「……、」
「それにしても、あそこでテキトーな陰謀論を並べて空白を埋め立てたり、感情論丸出しで家族を信じるとか言い出していたらさっさと落第だったんだけどなあ」
どうやら、だ。
僕は何かを試されていたらしい。しかも知らない間に合格扱いだ。……これがJB側の入団テスト、とかでない事を祈るばかりだった。未だに真意が読めないので、緊張なんか解けるはずもない。
何しろ天津ユリナは敵で、アナスタシアと合流させるつもりはないって断言したのは僕自身なんだぞ。
僕はごくりと喉を鳴らして、
「……アナスタシアは、どうした?」
「そこの柱の裏でうずくまってるけど」
思わず心臓が跳ね上がる。なんだっ、結局無事? 今のは義母さん達のイタズラだったって話なのか???
頭の中が混乱でいっぱいになっているこっちの気なんか知らないで、天津ユリナは気軽な感じでこう付け足した。
「結構本気で悶絶しているみたいよ? ほらサトリはアナスタシアちゃんについては一ミリも疑わないで守る助けるの一辺倒だったから」
丸い柱の裏に回ってみると、屈み込んだアナスタシアがわたわたと小さな両手を振って自分の顔を庇っていた。
「いやちょっ、見るな見るな見ないでトゥルース今ちょっとこの顔は!?」
「にゃはー☆ ナイト様に見つめられて一一歳が照れてる」
天津ユリナが茶化したように笑っていた。ただ僕としてはそれどころじゃない。
「けっ、結局何がしたかったんだ!? 義母さんがJB側についていた理由は!?」
「モチ、JB側の内側に潜って情報収集して、連中の動きを止めるために」
ぶいっ、と天津ユリナは右手でサインを送りつつ、
「実際、大きな戦争の前には太く線引きされる前にフェンスの向こう側へ行きたいって考えるVIPは少なくないのよ。どっちが楽勝ムードかを判断して浮かび上がれば良いけど、戦争がキツくなってくると切り捨てられるのよね。手の届く範囲にいるにっくき敵って事で、民衆の不満の矛先逸らしとして」
「……、」
確かに、だ。
JBが宇宙を漂う塵屑や岩塊を利用して新しい惑星を作ろうとしているって話は、義母さんが出処になっていた部分が大きかった。なら義母さんはどこから情報を仕入れたんだって話になるんだけど。
アブソリュートノアは確かに強大だ。
だけど布を被せて三、二、一で何でも取り出せる訳じゃない。情報を手に入れるには、そのためのアクションが必要になってくる。
だから?
「ま、そもそも最初の流星雨が降り注ぐ前にはボロは出ていたのよね。どうも潜り込んだ先のJB側も一枚岩じゃないみたいで、騙し切れなかった派閥から私に対する殺害命令も出ているようだし。お母さんも裏から色々試してみたんだけど、結局何も変えられなかったものね……」
当然だけど、僕達がパリに入った瞬間が全てのスタート地点になる訳じゃない。
天津ユリナを追っていた僕達は、最初から周回遅れだって自覚くらいはあったはずだ。
だから、もっと前に暗闘はあった。
流星雨を未然に止めるか否か、という一個前のハードルを懸けた戦いが。
でも正義が必ず勝つとは限らない。
一人で勝手に決断しないで僕達にも相談していれば……なんていうのは虫のいい話か。現実に、この災害下でこれだけおんぶに抱っこなら僕やアナスタシアなんてプロ同士がぶつかる戦闘では足手まといにしかならないのは火を見るよりも明らか。アブソリュートノアとJBの戦いは、文字通り次元が違う。こっちは義母さんに加勢しているつもりでも、JBからすれば狙いやすい弱点、出来すぎた人質がウロウロしているようにしか見えなかったはずだ。
「JB、放っておけばどうなるかは分かっているわよね?」
「それは……」
「パリを壊したのはそもそもの目的じゃない。彼らはサトリ達が事態を嗅ぎつけるのを恐れただけで、ここまでの寄り道をした。アブソリュートノアの重鎮である天津ユリナじゃなくて、民間の高校生一人の目をかい潜り、時間を稼ぐためだけにね」
「じゃあ、僕達のせいで……パリはこんな……?」
「どうかしらね」
義母さんは肩をすくめて、
「最初はアメリカ、ロシア、中国、インド、フランス、イギリスの各地で『陽動』するつもりだったみたいよ。共通点は何か、知らないはずはないわよね?」
「……、」
「誰の目を誤魔化すべきか、敵がはっきりしていたから連中も的を絞る事ができた。ま、もちろんこんなのはパリで暮らす人からすれば何の救いにもならないでしょうけどね。……こういう損得の勘定は、人間がやるものじゃないわ。悪魔の王がすべき事よ」
天津ユリナは自分の胸の真ん中に掌を押し当てて、
「そうなると、こっちも手段なんか選んでいられないわ。JBの尻尾は何としても掴む。私がヤツらのお仲間として見聞きしてきた情報を照らし合わせればそれができる」
「……通話中にアナスタシアを襲って不自然に途切れさせたのは?」
「これでも、ここがパリで一番マシな避難所候補だったからよ。モンパルナス駅は広いわ。サトリがいもしないアナスタシアちゃんを捜して延々と空回りしてくれれば、結果としてサトリは頑丈な屋内に留まる形になる。物資は不足しがちでピリピリはしているけど、少なくともここなら誰にも気づいてもらえずに干からびる展開はないし」
そっと。
僕は息を止めて、考えた。
……だとするとアナスタシアは自覚して芝居に付き合っていたのか。あるいはマクスウェルも? 地下に入ったタイミングでいきなりスマホが死んだのは不自然に思っていた。
「JBは必ず止めなくちゃならないわ……」
うずくまったまま、顔を赤くしたアナスタシアがそう呟いた。
「けど同時に、この上なく危険を伴うのも事実なのよ。どんな『攻撃』がくるにせよ、基本的に一発当たったら即死の人間にはキツすぎるわ。……ここから先は、頑丈なアークエネミーがケリをつけるべきだと思う」
「サトリが懸念通りに弱かったら、ね?」
義母さんは肩をすくめて、
「だから色々質問してテストしたのに、サトリったらことごとく正解を引き当てるんだもの。さっきも言ったけど、あそこで変な感情に引きずられて私を容疑から外したり、疑心暗鬼に陥ってアナスタシアちゃんの罠じゃないかなんて勘繰っていれば穏便に立ち去る事であなたをリタイアさせていたはずだったのよ? ……なのに、変に『強い』ところを見せてくれるから疼いてしまう。危険だと分かっていても、サトリの手を借りたいってね」
呆れた、のか?
いやなんか子供っぽくすねたっていう方が近いのかも。
「ただ、ここから先は命の保証はできないっていうのは単純な事実よ」
「そんなの、今までだって……」
「何だかんだで今回も助かるって思っていなかった? マクスウェルか、あるいはお母さんの助けがあれば」
っ。
「ここから先は、そういう『何となく』が本当に効かなくなると言っているの。だから私が取るべき次善の手は、ここで有無を言わさずサトリを締め落として意識を奪い、モンパルナス駅で寝かせておく事なのよ。こればかりは間違いなく」
「それは……っ」
「いいの、実際? 結構単純な反抗心から自分の命の行方を決めているように見えるけど」
っ、かもしれないけど。
こっちが本気で心配していたのに、義母さんやアナスタシアに騙されていたのは確かに何にも感じていない訳じゃない。パリ全域がこんなになったのに自分だけ確率的に一番安全な選択肢ばかりなんか独占していられないって想いがあるのも正しい。
でもっ。
「それに正直、私達としても楽は楽だわ。サトリがいなければ自分の戦いに集中できるしね」
くそ、畳みかけるように!
アナスタシアも目を逸らしている。そう、たった一一歳の女の子が言っていた。人間は弱い、この先には耐えられない。だからアークエネミーだけで決着をつけるべきだって。
ハッキングやサイバー攻撃の技術なら、アナスタシアや義母さんも持っている。何だったらマクスウェルが彼女達のスマホと繋がってアシストすれば良い。
僕が。
天津サトリ個人がそれでも立ち向かわなきゃいけない理由は、確かに一個もないんだ……。
「私達はサトリに甘えたい。だけどそれは、サトリにサバイバルの免許を渡す事にはならないのよ。だから良く考えなさい、考えて答えるの。あなたはこれからどうしたい? 逃げて生き延びたいと思う事は、決して悪い事じゃないわ。それを悪だと断ずる時、時代は壊れていくのよ」
ぐっ、と唇を噛む。
戦いたい。
と願う事は普通の毎日の中ならむしろ異質で、暴力を望む方へ思考が偏っている時点で僕は何かしら影響を受けているんだろう。あてられている。パリの惨状もそうだし、顔色一つ変えずにここまでやるJBもそうだし、何一つ食い止められなかった自分への怒りもある。
義母さんの本心は見えない。
何しろ自分の大切な家族を方舟に乗せられるなら、他の七〇億人を見捨てられる人だ。パリだって、いつか必ず滅ぶ街の一つ、と考えていればそれが早いか遅いかくらいにしか感じていない可能性だってある。
でも。
もしそうなら、僕はともかくアナスタシアまで助けた理由は? 魔王リリス、いいや天津ユリナにはおそらく自分でも気づいていない、優しくて人間臭い側面があると思う。
そう信じたい。
なら、僕だって。
「……、」
けど。偏ってバランスを崩したまま下した決定は必ず僕自身にとって不利な結果をもたらす。それがどんな形になるかはさておいて、バットを使ってぐるぐる回ってから一〇〇メートル走った方がいつもより良いタイムが出るなんて話は絶対ない。
これが、赤子の手をひねるような話なら多少の誤差があっても結果はブレない。
しかし、JBは違う。
ただでさえ後手。さらに余計なオモリを乗せられたら、死の可能性から逃げられなくなる。
「……分かってるよ」
そうやって。
絞り出すように洩らしたのは、ほとんど泣き言みたいな言葉だった。
「そもそも僕がフランスまでやってきたのは、JBと戦うためじゃない。とにかく怖いのは二大組織の全面戦争で、だからアブソリュートノアの武器を引き出そうとしてるって話が持ち上がっていた義母さんを止めるのが最優先だった。つまり話の通じる相手を言葉で止めるのでも命懸けだったんだ。それが最初から会話の通じない、殺す気全開のJBを相手にするなんて完全に想定外だ。最初の流星雨だって完全に不意打ちだった。そんなの目的からズレてる。小さなアジを釣りに出かけたら沖の方でマグロを見つけたからあっちにしようぜって言ってるのと同じで、そもそも糸も仕掛けも違うんだから無理に挑んだって竿ごとへし折られるだけだ。だからまともに考えたら、JBとなんか戦うべきじゃないんだって」
だから、理解はできてる。
世界は僕の登場なんか待っていない。僕がいなくたって勝つ時は勝つし、僕なんかいたって負ける時は負けて人類全部滅亡する。途方もない核戦争や氷河期なんかやってきたら、僕が個人の力でどれだけ暴れたって結末なんか変わらない。本当に世界を動かせる人間なんて一握りで、それは当然ながら僕じゃない。
想像くらいはできているんだよ、それくらい。
けどさ。
だけどだよ!!
「それじゃ結局何も変わらないだろ!! 散々あちこち回って死に損なって、ここまで来て何だ。最後は本気出した義母さんとJBが正面衝突すればめでたしめでたしか? こっちはその馬鹿みたいなスケールの最終戦争を止めるためにわざわざ日本からここまでやってきたんだ!! ああそうだ、思春期反抗期の高校生なら一発で自殺できるような事を言ってやる。義母さん、僕はアンタをそういう全部のしがらみから引き剥がして助けるためにこんな所までやってきたって言ってんだ! 魔王リリスでもアブソリュートノアの指導者でもない、天津ユリナを!! それをッ! 手前勝手な親の理屈をこねて!! 最後の最後まで来てあっさり手の中から取り上げようとしてんじゃあねえ!!!!!!」
ここからは危ないから先に帰る、じゃない。
危険なら危険なほど誰も置いていけない。それでも誰かがやらなきゃならないなら、僕がすべきは母親の服を掴んで人の後ろに隠れる事じゃない。
前に出ろ。
この背で庇え。
何のためにここまで来た。
安全な場所で結果だけ聞きたいならそもそも日本を離れる必要なんかなかった。この手で掴みたい手があったからここまでやってきたんだろう。だったら手を伸ばせ。家族が、奈落の底へ落ちる前に。
戦争を止める。
もう先制攻撃は始まっていて、取り返しのつかない事になっているかもしれない。誰がどう見たって最初に一つでも流れ星が落ちた時点で、僕達が失敗していたのは間違いない。
「指図なんか受けない」
それでも最初に決めただろう。
家族を守ると。
「僕は自分のやりたいように生きる。これだけのものを見ておいて、平気な顔してもう巻き返せないからスコアに響くので帰りますなんて言い出すような人間にはなりたくないんだ! これ以上ひどくしたくないんだよ!! そんなアリジゴクみたいな展開に残したくないんだよ、誰も……。だから、僕に! アンタを守らせろ、義母さん!!」
反射で天津ユリナのローキックが飛んできた。
直前までどう踏ん張ってようが痛いものは痛い。痛覚は誤魔化せない。
「いって!? なに?」
それから何故か抱き締められた。
「ああッもう!! 二重底まで仕掛けたのに一〇〇点満点か!? いとしのわがむすこよー!!」
「ぶっ! もがむがふがー!?」
ちょっ。
思春期反抗期として自殺できるアクションをしてるって警告したのに!! 普通に困るし、アナスタシアもすっごく見てるじゃんこれ!?
もがきにもがいて、ちょっとした泥沼みたいなおっぱいから顔を引っこ抜く。呼吸を確保する。
義母さんは全く懲りていなかった。
「……しかしそうなると人間のサトリも連れていく事になるから作戦変更か。アークエネミーの頑丈さに頼って、真正面から強引に弾幕を突破するって選択肢はなさそうだし」
「アンタ、吸血鬼だのゾンビだのと違ってボディの耐久力だけで言えば人間とほとんど変わらないんじゃなかったっけ……?」
「お母さんは良いのよ、よけるから」
さらりとであった。
そう、動きが普通じゃないのだこの人は。
こっちはそもそも向かい風で水平に飛んでくる『弾幕』っていうのが具体的に何なのかも見えていないのに。
アナスタシアがこっちに寄ってきながら義母さんの方に言った。
「トゥルースを連れていくなら、当然あっちの問題も考慮しないといけないわよ」
「分かってるわ」
? と僕の方が首を傾げてしまった。話題の中心に自分がいるのについていけない。
アナスタシアはその理解の遅さ自体に危機感でも抱いているようだった。ついには迷子にならないよう気をつける的な仕草で手まで繋いでくる。
一一歳のアナスタシアが親で、高校生の僕が子の立ち位置なんだけど。
片目を瞑り、ややむくれたような調子で彼女は忘れていた前提を繰り返した。
「これだけの規模を持ったJBが、どういう訳かトゥルース個人にひどくご執心なところよ。それも仕事にプライベートをガンガン持ち込む天津ユリナとは違った理由でね」