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 午前二時。
 まだまだ夜明けまでは長い。
 だけど全てが白日にさらされた時、僕達は目の前いっぱいに広がるパリの現実を受け入れる事ができるんだろうか。慣れというのは恐ろしいもので、あれだけ危険の象徴だった暗闇に名残惜しさを覚えている。変化を怖がっているんだ、こんな状況で。パリの歴史全体からすれば、今日この一日こそが最大の異物だっていうのに。
「……静かになってきたわね」
 非常階段を使ってモンパルナス駅地下から出て、表を観察しながらアナスタシアが言った。
「こんな日くらい神経が昂ぶって、誰も寝付けないんじゃないかと思っていたんだけど」
「逆よ。いつもと違う事をしているんだから疲労が溜まって当然、だから水とか糖分とかちょっとした補給でスッと眠気に包まれていく」
 天津ユリナはそんな風にバッサリ切り捨てる。
 相変わらず建物は崩れ、瓦礫は道路まで雪崩れ込んでいて、歩きにくい事この上ない。街灯一つないものだから、地面に崖みたいな亀裂があっても分かりにくい。
 信号機が斜めに傾いていた。
 いつ重たい機材が頭の上に降ってくるかもしれない。今日なら何でもありだ。
 スマホのライトは足元も頭の上も常に必要だった。バッテリーは永久機関じゃないし、さっきは接触不良で電源が落ちてる。いきなり切れて立ち往生、にならない事を祈るしかない。今は義母さんやアナスタシアのスマホもあるから、いきなり全部壊れる心配はないと思うけど。
 見るからに略奪狙いの暴徒とか自暴自棄の酔っ払いなんかは通りにいないようだった。それどころではないのかもしれない。欲をかくのは、寄り道するだけの余裕ができてからか。
 僕達は北に向かって進んでいるはずなんだけど、方角なんて実感がなかった。スマホの地図にある矢印って感じ。そもそも地図アプリと現実の風景があまりに違い過ぎて、正しいはずの地図が薄っぺらに見えてくる。
「……あれだわ」
 義母さんが片手を水平に上げて僕達の歩みを止めながら呟いた。
 ギリギリだけど、何とか無事な橋がある。夜の色を吸って真っ黒な川の向こうに、宮殿みたいなでっかい建物があった。
 ルーヴル美術館。
 まだ向かい側なのに、自然と腰を低くしてしまう。鉄砲の怖さはイメージしにくいけど、だから根拠があるんだかないんだかな恐怖心がまとわりついてきて離れない。間近に雷が落ちた時、校庭の真ん中に取り残された自分はどうするべきか。そんな感覚に近いかもしれない。
「銃声とかは聞こえない、みたいだな……」
「でもいるわ。あちこちに明かりがある」
 アナスタシアの言う通りだった。
 どこも粘つく闇に沈んだようなパリ市内だけど、川の向こうは例外的にぼんやり光っている。建物の明かりって感じはしなかった。集まっているパトカーのヘッドライトか、あるいは小型の発電機でも持ち込んでいるのか。オテル何とかの広場でも見たけど、工事用の野外照明は根本にガソリン発電機や巨大なバッテリーをつけたものもあったっけ。
 それだけ重要な場所なんだ。
 隠れて近づいている事がバレたらどんな疑いを持たれるか分かったものじゃない。
 ……まずは手前の橋を渡らないと。
 前に見た橋は崩れていた気がするけど、どうも細長いルーヴル美術館に面した橋はいくつかあるらしい。マグマ水蒸気爆発とかも耐えたのかな、これはその一つだ。
「水位は……見えないわね」
 アナスタシアが岸から身を乗り出しながら難しい顔をしていた。おかげで小さなお尻が危ない。
 それにしても、これまた石でできた古そうな橋だ。今日の災禍を浴びてただでさえあちこち崩れかけているし、もう一回『川の逆流』が襲いかかってきたら年代物の瓦礫と一緒にサーフィンする羽目になるだろう。大きな亀裂も多い。原因となる流星雨は小康状態だけど、真っ暗な夜空なんて見上げたって何も判断できない。そもそも人工的に落とされているんだから、天気予報みたいに兆しを読み取るなんて不可能だ。
 JBは、どんな手を使ってでも裏切り者を始末したい。世界の裏側へ潜られる前に、今ここで。だとすると、持っている手札を使わない方が不思議なくらいだ。でも義母さんに助けてもらっている僕達が非難するのも筋違いか。
 大体、JBから狙われている義母さんがパリを出て誰もいない原野にでも行けば周りを巻き込む心配はないのでは……じゃない。
 大切なものだと分かれば集中的に狙って人質に取る危険がある。JB側としちゃ、義母さんの自由を奪って確定で拘束したいはずなんだから。そうなると、内心ではどうあれパリに対して冷たい態度を取るしかなくなるんだ。
「ほら、お母さんについてきて」
 そればっかりな気がする。もちろん何の補助もなく真っ暗な今のパリを歩いても、道路の亀裂に落ちたり瓦礫に押し潰されたり、何の陰謀もなく誰にも語れない理由で死んでいくのは目に見えているんだけど。
「まずお母さんが行くわ、私が立ち止まって一〇数えても何もなかったらサトリ達は同じ道をついてきて。その繰り返しよ」
 天津ユリナは腰を低くして、石橋の端の方を奥に向かってそろそろと歩く。足が大地を離れて黒い川の上を進むと、現実感がふわふわと薄れていく。
 彼女が身振りでサインを送ってから、僕とアナスタシアがその後を追う。
 時々、倒れた街灯や放置された車に寄り添って辺りを観察するけど……僕達のはほとんど義母さんの見よう見まねでしかない。
 何がどうなってここにあるのか、義母さんは橋の上に乗り上げていたモーターボートの側面に張りつきながら、
「……罠も狙撃もない。JBのキャスト達もまだポジションについていないのか、あるいは奥まで誘い込んでから包囲するつもり?」
 あったらどうしていたんだ、とは聞ける雰囲気じゃなかった。お母さんは良いのよ、よけるから……、という言葉が脳裏をよぎる。
 天津ユリナの先導で、何とか壊れた街を進む。
 対岸に着く。
「うっ……」
 思わず呻いたのは、ぼんやりとした周囲の光が強くなった気がしたからだ。心臓に重たい負荷。事情を知らない警察側のテリトリーに踏み込んだ。銃の世界に。そんな気がした。
 アナスタシアは別の所を気にしているようだった。
「……世界最強警備のルーヴルでしょ、セキュリティってどれくらい生きているの? 敷地に足を踏み入れるまで近づく者はノーマーク、なんて甘い事を言うはずないわ」
 ハッカーはハッカーらしい物言いを貫いていた。ただ一方で、僕達がこうして最接近しているのに警官隊が押し寄せてくる気配もない。
 天津ユリナは肩をすくめて、
「ルーヴル美術館に預けておけば安心だ。良く聞く伝説だけど、ストップウォッチ片手に警備の動きをほんとに忍び込んで試してみた人っているの?」
「まさか……嘘でしょ……?」
「そういう伝説で威嚇するのもセキュリティの一つなのかしら。実際、ルーヴルを囲っている防衛網の正体は今あなたが見ている通りよ」
 唖然とする僕達に、義母さんはあっけらかんと言ったものだった。
 ただ、言っているのはアブソリュートノアを率いて、救いを求める官民のVIP達を眺めてきた天津ユリナだ。この辺の裏事情は散々見聞きしてきたのか。
 そりゃあ、僕達だってフランス国防省の地下に無断でお邪魔している。非常時とはいえ緩いなとは思っていたけど……。
「案外多いのよ、実力以上に自分を大きく見せる事で無駄な衝突もなく見えない壁を作ろうとするやり口って。大人の世界の常套手段だわ。世界最強の軍隊とか、最高警備の刑務所とかね」
 でも、そういうヴェールを小惑星の雨が丸ごと吹き飛ばし、剥がしていった。フランス側にとっても流石に流星雨は想定外だったんだろうけど。でも予想できませんでしたと言っても時間は待ってくれない。
「さて、私達も配置につきましょう。狙うのはJBの返り討ちよ。そこから情報を抜き取る」
 川の対岸から見ればきらびやかな宮殿みたいだったけど、近づいてみればやはりダメージが目立つ。壁の亀裂からは、こんな時でなければ離れておきたい。主立った窓のガラスは全部割れていたし、瓦礫の中には崩れた屋根らしきものも見える。ただ、建物自体はきちんとそびえているし、炎や煙に巻かれている様子もない。別に当たり前の事なんだけど、この状況でまだ普段通りを保っていられる辺りはやっぱりすごいと思う。
 僕達なんかボロボロだ。
 人様の許可も取らないで敷地をまたぐ事に、罪悪感を感じなくなりつつある。
 どうやらルーヴル美術館はコの字をしているようなんだけど、唯一開いた口から広場に近づけばそれこそ警官隊とまともにかち合う。僕達は川に沿ってコの字の外側から側面を眺めている格好だ。
 西洋の宮殿っぽいので、見るだけなら窓はたくさんありそうだった。ガラスも全部割れている。
 ただし普通だったらあそこを潜ろうなんて泥棒でも考えないと思う。
 スマホをかざし、一切機械的な熱や音を放たなくなった、つまり壊れて沈黙した防犯カメラの下をおっかなびっくり進みながら、
「具体的にどうするの?」
「JBを焦らせるのよ。あなたを待ち伏せしていますなんて言ったら釣りにならないから、もっともらしい理由をつけてデコレーションする。私は世界各国のVIPを手懐けた天津ユリナなのよ? 警官隊に保護してもらって秘密の手順でパリ脱出を図っていると思わせられたら、JBだってこそこそ長期戦の準備なんかしていられないでしょ。安全な狙撃スポットから飛び出して、小さなナイフを握り締めてでも私を止めなくちゃならなくなるわ」
 なるほどもっともらしい。
 ていうか僕達がピエール=スミスことビッザ=バルディアを追い回した時と一緒じゃないか。
 天津ユリナは揺るぎない。義母さんに任せておくとそのまま右から左へ流してしまいそうになる。
 ただちょっと待った、
「か、義母さん……? それってつまり」
「ええ。おそらくサトリが今考えている通り」
 ぱちりと片目を瞑って現役の魔王が言い切った。

「フランスの警官隊と接触すればするほど秘密主義のJBは焦る。だからそうするのよ、やっほー!!」

 ぶっ!? と暗がりにいたアナスタシアが思わず噴き出していた。ピリピリしているパリの警察と鉢合わせしたら勘違いから銃弾が水平に飛んできかねない。だからできるだけこっそり死角に潜り込む。そんな誰でも分かる当たり前の前提が一発で壊れた瞬間だった。
「ちょ、なっ、バカ……」
「ほら行くわよサトリ。もたもたしないの」
「ばかー! ここにきて全力の笑顔でやっほーとか!? やっぱ義母さん見た目は若いけど中身っていうかセンスの方はババぐえげふん!!」
 真実に触れたら片手一本で襟を締められた。笑顔で天津ユリナは告げる。
「お・か・あ・さ・ん、が何だって?」
「あぐもぐぐ!! 分かった分かった、新しいおかあさんは若くて美人でご近所に自慢できますう!! もうなんていうか歳の事言われてキレる母っていうのが昭和のおばごきゅ!?」
「一度で懲りてね?」
 微妙に(一人で海外旅行ができちゃう大変自立した)一一歳の少女から呆れたように見られながらも行動開始だ。
 直後だった。

 ゴガッッッ!!!!!! と。
 一番厳重な広場の方から、爆発があった。

 え?
 何が、今……。
「伏せて!!」
 義母さんが慌てて叫んで、僕達二人の上に覆い被さってくる。
 押し倒されている間にも、まだ続いた。二回、そして三回。近くの街路樹がいきなり弾けて、硬い木の皮がめくれるのも分かる。
 ていうか。
 貫いた? 何も見えなかったけど、宮殿みたいな博物館の建物を丸ごと貫通して破片か何かが飛んできたのか、今!?
 僕と同じように濡れた地面にぺたりと伏せたまま、アナスタシアが質問してきた。
「どうするの、撤退!?」
「それじゃ警官隊はどうするんだっ」
「サトリ」
「これについては僕達が巻き込んだ、JBの危険性を知っていながら。絶対向こうで何か起こってる!!」
 義母さんの下から這い出ながら叫ぶ。もちろん警官隊だって応戦はしているはずだ。最悪、本来だったら守るべき市民全員が暴徒になるかもしれない疑いを向けてでも、世界的な美術品や骨董品を守るために。
 なのに、聞こえない。
 ……銃声らしきものが。音は鳴っているかもしれないけど、もっと凄まじい爆音にかき消されているんだ。
 学校の校舎みたいに長い博物館の建物に沿って僕達は走る。爆発はやまない。というか一体何が起きているんだ、ビリビリと地面が細かく揺れて体がふらつく。逆サイド、黒い川の水面もざわついているようだった。
 そして、
「やんだ……」
 遅かった。
 建物の角へ着く前に、しんと静まり返ってしまう。爆発があった方が危険で不自然なのに、元の静寂が落ち着かなくて仕方がない。
 爆発だけじゃない。
 対する警官隊は? 銃声はもちろん、悲鳴や掛け声みたいなのも全く聞こえてこない。人の意思っぽいものが急速に引いていくのが分かる。まるで死体から体温が奪われていくように。
「やんだわよ。これどうするの、トゥルース」
「……、」
 何が起きているのか。
 まだ無事な人はいるのか。
 確かめるのは怖いけど、無責任に引き返すのも絶対尾を引く。気がつけばマイナスとマイナスを見比べてどっちを選ぶか決める最悪の時間がやってきた。葛藤の中でも最悪の部類。ようやくJBへの逆転のきっかけを掴んだつもりだった、だけど今、どう考えても僕達は転落を始めている。
 壁に張りつく。
 ゆっくりと時間をかけて、一度目を瞑って、それから改めて、恐る恐る角の向こうを確かめる。

 理不尽と直面した。

 見るんじゃなかった。
 これは。
 なんていうか……次元が違う。世界が塗り替えられていくのがはっきりと分かる。恐怖を超えて、あまりの理不尽さに怒りすら湧くほどだった。小惑星に核弾頭、それでもまだ足りないっていうのか。JBは。
「……、」
 半分壊れた石の広場にあちこちにバタバタ倒れているのは、今まで美術館を防衛していたパリの警官隊か。ていうかあれは警察? 日本と違ってかなり軍隊っぽい。誰がどういう決まりで装備を決めているのかは知らないけど、防弾の黒いジャケットにショットガンやカービン銃で武装している彼らは、それなのにぴくりとも動かない。自慢の装備は全く役に立っていなかった。
 ……銃と火薬が最強の座を独占する、そんな最新科学の前提が『何か』に否定される。
『何か』って、具体的に何だ???
 ぎちぎちかちかち、と。
 複数の金属が噛み合う音があった。
 まず見えたのは、棺桶。
 西洋式の棺を大顎に据えた、機械仕掛けの肉食恐竜がひっくり返ったパトカーを踏み潰している。全長は一〇メートル以上、二足歩行の馬鹿げたシルエットはちょこんと折り畳んだ前脚を胸の手前に備えていて、そこだけ妙にユーモラスだった。
 効率や機能美を極めた兵器っぽくない。
 それは見た目だけでなく、挙動にも表れていた。
 歯ぎしりに、尻尾の振り。
 重厚な棺の蓋が開いた途端、牙が見えた。棺桶の縁にずらりと並んでいるのは、銀か何かで作ったガス圧式の金属杭だった。噛みつかれれば、一撃で装甲車でもアルミホイルのように引き裂かれる。というか現実にそうなっている。とはいえ、『だから』こんな設計にしている訳じゃないだろう。
 太い尻尾をぶんぶん左右に振り、小さな前脚の指を開いたり閉じたり。
 兵器として無駄がありすぎる。
 単なる機能美だけじゃない。何かしらの神話的・儀礼的な理を感じさせる。明らかな機械なのに、変な存在感、いや神々しさが見る者を威圧してくる。
 でも。
 だって、ダメだろう?
 今日この夜だけは機械が蹂躙してはならないはずじゃなかったのか。
「……それは」
 見たけど。
 前にもビッザ=バルディアが操っている人工物の巨大ワニは見たけど! JBにはそういう技術があるのかもしれないけどさ!! それにしたって、ありなのか? 小惑星の流星雨で崩れていくパリから脱出するサバイバル。そういうゴールじゃなかったのかよ!? 何だ、この、へとへとになってフルマラソンを終えたら次は遠泳ですって言われて崖から突き飛ばされるような無慈悲ぶりは。確かに現実の事件や災害なんて一つとか一個とかでパッケージングされているものじゃないかもしれないけどさ、それでもだよ!!
「おかしいと思ったのよ……」
 ぽつりと。
 あの天津ユリナが、今さら気づいた自分の愚かさを嘆くような声色で呟いていた。
「……水神セベクじゃなかった。遠い昔、この物理世界で川に住むワニへ供物としての食糧を捧げたり、その行動から未来を占ったのは神様じゃなくて神殿で働く神官達だった。実際、ビッザ=バルディアは一回も水神セベクなんて名前は口に出していなかった!」
 だったら。
 だったら僕達が見てきたあのワニは何だったんだ。そしてそれが目の前の大顎みたいな棺桶とどう繋がるんだ。
「クロコディロポリス。外からやってきたギリシャ人はそう呼んでいたわよね、ワニの神を祀る砂漠の街を。ビッザ=バルディアは巨大な神殿を丸ごと折り畳んで形を整え、我が物としていたのよ。そこの棺桶・エリュズニルと同じように!!」
 二足歩行の棺。
 ……エリュズニル……?
 その足元には誰かが寄り添っていた。恐竜と比べればかなり小さな影だ。彼女だけがこの壮絶な景色の中で立つ事を許されている。彼女。少女……のようだが細部は見えない。辺りに取り残されたパトカーの強烈なヘッドライトのせいで逆光になっているんだ。それは何だか俗人が見る事を許されていないといったような、妙な神々しさを感じさせた。
 一体どうやったら見逃してもらえるのか。
 いいや。
 考え方が違うのか。
 ぐるりとこちらへ首を回すと、光に切り抜かれた少女の影は明確に言い放った。

「天津ユリナ」
「っ」

 義母さんは冷静だ。息を呑んだのは僕とアナスタシアだった。
 JB。
 機密と安全を保つべく裏切り者を殺すために派遣された精鋭は、正確にこちらを捕捉している。
「太古の魔王だから大丈夫、というセオリーはもはや通じない。今日までの積み重ねはこの私に何の効力も持たない。あなたの歴史はここで断つ。エリュズニルの元首が、ここに魔王リリスを納棺する」
 天津ユリナが顔をしかめて呻いた。
 これまで見た事のない表情だ。
「……ヘル……」
「地獄の?」
「北欧神話よ。冥界ニブルヘイムの元首、戦士達の社会において不名誉な死を遂げた魂を人類単位で管理する雪と氷の世界の支配者。エリュズニルはそのヘルが暮らす館の名前よ。ビッザ=バルディアの神殿と同じように畳んで作り替え、自由気ままに持ち歩いている。不死の光神バルドルすら呑み込んで離さない『死人の館』を、この物理世界でね」
 専門家も専門家じゃないか。
 そりゃ僕だって腹黒ヴァルキリーと話をした事がある。JBとヘカテが繋がっていた事も知ってる。でも、何もそんな、ここまでか? JB、ここまで好き放題やっておいてまだ世界に満足できないっていうのか!?
 神様。
 これはもう、ゾンビとか吸血鬼とかなんて次元じゃない。都市伝説と世界的な神話くらい話が違う。災害やアークエネミーなんか、これが顔を出しただけで容易く丸呑みされてしまう。
 死から逃れる例外を許さない、神。あまりにも分かりやすい不吉。人間には定義ができないから、ひとまずアークエネミーなんて箱に放り込まれているだけの、実際には定義不明な怪物達。
「棺を開け、エリュズニル。死すべき者へ与える眠りと安らぎのために。慈愛と敬意をもって客人を歓待せよ」
 少女の形をした影が謳う。
 冷たい館の玄関が、開く。
「これは白き停滞の世界にそびえる元首の館。咎人の魂よ、私はその手が罪にまみれていようが強者は礼儀を忘れずに迎賓する。女王ヘルに招待される事を光栄に思いなさい、穢れた賓客」
 ごごんっ、という鈍い響きがあった。
 恐竜に似た棺桶が、足の置き位置を変える。潰れたパトカーから、ひび割れた広場へと。それだけで地面が小さく震動した。これまでの大災害が全て吹っ飛ぶ。塗り替えられていく。
 捕食者に見初められた。
 喰うか喰われるか。
 これは、こいつは、今までの災害や戦いとは恐怖の種類が全く違う!!
「サトリ」
 義母さんが短く言った。
 具体的な作戦があるのかと思った。神話で語られる魔王、七つの大罪の一角、アブソリュートノアの中心。そんな天津ユリナが思いも寄らない名案でこの危機を切り崩していくのかと。
 でも違った。
「あなたの最優先はアナスタシアちゃんよ。その子を連れて逃げなさい、早く!!」