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 爆音が鼓膜を殴打し、地面が下から突き上げられるように大きく揺さぶられる。
 どこをどう走ったかなんて正直覚えていない。ただ気がつけば僕は屋内に転がっていて、アナスタシアの濡れた体を両手で必死で抱き寄せていた。ここは一体何階なんだ? まだルーヴル美術館の敷地なのか。それさえ確証がない。
 掌にぬるりとした感触がある。
 ガラスか何かで切ったようだけど覚えていない。窓でも越えた時に怪我したんだろうか。とにかく出処は僕で、アナスタシアの冷えた肌に傷がない事だけ確かめる。
「あ、あ……」
 腕の中で、アナスタシアもまた震えていた。体を丸めて小さな親指を口に含んでいる。何かしらの退行の、サイン? まるで、周りの全てから内側へ逃げ込もうとするようだ。
 何が……あった?
 ドゴン!! ずどんっ!! という全身を叩くような衝撃は、まだ途絶えない。激しい音がある間は、戦っているはずだ。つまりあの棺桶、エリュズニルは敵を見据えている。
 ……義母さんは?
 天津ユリナはどこ行った。まさか外であの巨体と取っ組み合いでもしているのか……?
 マクスウェルは、ダメか。
 今は声の一つでも怖い。画面のバックライトなんてもってのほかだ。くそっ、落雷対策の時に使っていた無線のイヤホンはどこやった? どこかに落としたのかよっ!?
「くそ……」
 アナスタシアを抱き寄せたまま、とにかくハンカチで自分の掌を縛って止血を試してみる。厳密にはその真似事か。減災都市なんて呼ばれる供饗市で暮らしている割に、僕はその辺のサバイバル知識が使えるレベルで頭には入っていない。料理や英会話なんかもそうだけど、必要な知識っていうのはやろうやろうと思うほど遠ざかっていく気がする。
 手をやったのは何気に痛い。
 音を立てないよう気をつけて床を這いずり、窓の下へ。駄々をこねるように僕の上着にしがみつくアナスタシアを無理に引き剥がしたりはしないで、二人分の体重を支える感覚で首を伸ばす。そっと割れた窓から外を眺める。いくつかのパトカーのヘッドライトや屋外照明でぼんやりと輝く外の方を。
 ……明かりが残っているって事は、ここはやっぱりルーヴル美術館なのか?
 潜望鏡でおっかなびっくり外界を覗く気分だった。
 こっちの潜水艦は疲弊しきっていて、海の上には魚雷なり爆雷なりをしこたま積んだ軍艦やヘリコプターがうじゃうじゃいるようなイメージだけど。
 今はとにかく情報が欲しい。
 具体的な作戦とか戦術とかじゃない、勝算なんか全くない。ただただ情報を手に入れて緊張から逃げ出したいんだ。まるで赤ちゃんが哺乳瓶を求めて泣きじゃくるような、後先なんか三秒も考えられない餓えが僕を衝き動かしている。
 そして、分かっていたはずだ。
 前にも同じミスをしたはずだ。
 見れば、後悔すると。
「……ちくしょう……」
 まず僕達はルーヴル美術館の三階みたいだった。ここからだと、コの字の建物に囲まれた広場全体を見下ろす格好になる。いくつかのオブジェは小惑星衝突の衝撃にやられたのか崩れてしまい、あちこちに停めてあるパトカーは青いライトやヘッドライトが残っているだけで、人が操作している感じはしない。他にも、装甲と金網で覆ったバスみたいな乗り物や、八輪の装甲車なんかもあった。これがフランスでは通常運転なのか、彼らにとってもイレギュラーな状況なのか。判断はできなかった。
 その全部が紙くずみたいだった。
 あるいは踏み潰され、あるいは蹴飛ばされて、あるいは大顎に噛みつかれて横に捨てられ、投げ飛ばされる。
 あの棺桶。
 二足歩行の肉食恐竜みたいな影。
 形を変えた地獄の館・エリュズニルは破格過ぎる。あるいはあれ一個で独立したディザスターとして成立してしまうほどに。しかも、エリュズニルは狙って無人の車両を攻撃している訳じゃない。
 あれはあくまで余波。
 逃げる獲物を食いそびれた結果、頭から障害物へ突っ込んでいるに過ぎない。
 つまり、
「義母さん……っ」
「あれは、ダメだわ」
 アナスタシアが、どこか感情の抜けた声で呟いていた。
 人外の妖精、存在自体が科学の外にあるシルキーさえ力なくぺたりと座り込んでいた。
「アークエネミーとか魔王とか、そういうのは全く通じない。あれは、そもそも駄々をこねる該当者を貪り食って現世から強制退去させるための仕組み、魂のペルソナノングラータって方が正しいんだわ。だから、ワタシ達には無理。不老なだけじゃあの牙は防げないし、不死であっても棺の蓋が閉じた時点で消失を避けられない……」
「つまり、つまりアレは何なんだ? ただの戦車とはどう違うっ?」
「トゥルースだって知識が邪魔をしているだけで、感覚ではもう認めているんじゃない? あの棺は大穴なのよ。そのまんま死者の領域まで繋がっているワームホール。だから、耐久値とか抵抗力とか、とにかく自分を鍛えれば何とかなる要素は関係ないわ。努力なんか報われないっ、才能だって光らない。放り込まれれば誰でも平等に殺されるわ。あの棺はそういう密室で、そういう門なのよ」
 言われてみれば、だった。
 あの棺桶に感じるのは分厚い壁じゃない。恐怖は恐怖なんだけど、まるで崖っぷちから下を覗き込むような感覚なんだ。だから立ち向かう気が起きない。壁だったら体当たりで壊せるかもしれないけど、崖だったら何の意味もない。勢いをつけて走るほどそのまんま落っこちて、こっちの命が無駄に散るだけだ。
 自由自在に歩き回り、自発的に人を突き落とす断崖絶壁。
 移動能力を手に入れた自殺の名所。
 ……最悪だ。
 勝つとか負けるとかじゃない。こんなの、そもそも何をどうやったら勝った事になるのか答えが出ない。
 義母さんも逃げる一方だった。
 パトカーや装甲車など、壊される前提で障害物を間に挟んだりもしているけど、それだって永遠にストックを確保できる訳じゃない。
 そもそも義母さんには開けた場所で戦う必然性は特にない。むしろ狭い場所に潜り込んでエリュズニルの移動を妨げた方が有利に立ち回れるはずだ。
 そうしない理由はない。
 つまり、できないんだ。
 あの天津ユリナでさえ、撤退のチャンスを掴みきれずにいる。だから迂闊に背を向ける事もできずに戦い続けるしかなくなっている。
「長くは保たないぞ……」
 僕達を逃がすためにこうなった。
 それは分かっている。
 だけど、
「アナスタシア、ヤツがまともじゃないのは分かった。硬さや重さだけで強さを測ってもどうにもならないって」
「トゥルース……?」
「義母さんをあのままにはしておけない。でもってここは世界中の美術品や骨董品が集められたルーヴルだぞ。……エリュズニルに効く何かはないのか? 魔除けの札でも神話の剣でも構わないから!!」
「……そんなに都合良くいく訳ないわ。ルーヴルはあくまで美術館だし、仮に本物があってもワタシ達には扱いきれない」
 だろうよ。
 アイテムさえあれば誰でも未知の力を使えるなら、そもそもああいうのは世界中に広まっていたはずだ。核爆弾すら秘密を守れずにあちこち拡散させるのが人間っていう愚かな生き物だ。JBだけの専売特許にはならない。
 だけどだ、
「……なら、そう『思い込ませる』事は?」
「?」
「アナスタシア、相手はJBだ。世界で一番、『ああいう力』に詳しい。ほとんど唯一、感覚じゃなくて知識で魔法を説明できる集団なんだよ。つまりその怖さだって骨身に沁みてる。技術である以上はよそに洩れたら同じ事をされるって恐怖だって、したくもないのに実感できてしまう。普通の人なら知らなくても済むような脅えでもな」
「つまり、つまりワタシ達の手で本当に扱い切れるかどうかは関係ない……?」
「何だったらモノが本物である必要さえない。騙してビビらせたら僕達の勝ちだ。だからアナスタシア教えてくれ、こういうのはマクスウェルよりアークエネミーの方が詳しそうだ。こっちはとにかく時間がない。謎の彫刻でも呪いのダイヤでもいい。このルーヴル美術館にあるもので、力を持ったJBのキャストが一番怖がりそうな『伝説』を抱えていそうなのはどれだ!?」
 ずずん!! という一際大きな震動が建物を揺さぶった。
 心配だけど、ここから見物していたって義母さんを助けられる訳じゃない。
「こっち!」
 アナスタシアが再起動した。まだ震えているけど、それでも小さな手で僕の手首を掴んで走り出す。
「ミロのヴィーナス、モナリザ、ルーヴル美術館には世界中の教科書にも出てくるような美術品が集まっているわ。だけど意外と武器関係は少ない。トゥルースもさっきまでいた、オテルデザンヴァリッドにある軍関係の博物館の方に集められているからかもしれないわね」
 だけど、と彼女は言った。
 古い屋敷にまとわりつき、家事を手伝う代わりに好まざる客へ攻撃を加える妖精、シルキー。彼女の案内によると、
「ルーヴル美術館で神話やオカルト込みで強い記号って言ったらこれしかないわ」
 つまり。
 僕達の狙いはこれだ。

「サモトラケのニケ。ギリシャ神話の勝利の女神よ」

 ギリシャ神話。
 思わず僕は苦い顔になった。確か、『前の』ヘカテもそっち方面だったか。スキュラ、エキドナ、セイレーン……。いずれも一筋縄ではいかない連中ばかりなイメージがある。
 キルケの魔女、井東ヘレンだって根っこが素直でカワイイ後輩ちゃんだから良かったものの、もしも純粋な敵対者として立ち塞がったらって考えると結構本気で背筋が凍る。本人に言ったらむくれそうだけど。
 アナスタシアはこう続けた。
「ニケはそのまんまよ。どんな戦争だろうが、彼女がついた側が必ず勝つ。だから勝利の女神。風神が風を操り雷神が雷を操るように、ニケは勝敗という状態そのものを管理しているのね。ゼウスが巨人に勝てたのもニケが所属を変えたからって言われているわ。いくらエリュズニルだろうがヘルだろうが、ここを踏み倒す事はできないはずだわ」
「けど、ルーヴルにあるのは誰かが作った彫刻なんだろ。神様本人じゃない」
「どっちだって同じ事だわ。ギリシャ神話じゃ偶像崇拝が認められていた、神の像には神の力が宿るから拝めば傷が癒えたり商売繁盛したりするって考えよ。つまりニケの像にはニケの力や属性が宿る。どれくらいのパーセンテージかはさておいてね」
 もちろんだ。
 本当の本当に、太古の石像がロボット兵器みたいに歩き出す事までは期待してない。僕達の方針はさっき言った通りだ。
 クロコディロポリスに、エリュズニル。
 道具に頼るJBだからこそ、ヘルは必要以上に道具を怖がる可能性がある。
「……いけると思うか?」
「演出次第。ヘル自身、形を組み替えた『死人が集う世界の館』を連れ回しているんだから、道具に力を込められるって思想は完全に否定できないはず。強力な術者だからこそ恐怖も強い。それにここにはワタシがいるわ」
「?」
「ヨーロッパの古い屋敷に住むお手伝い妖精、シルキー。ルーヴル美術館をテリトリーとして登録し、ワタシがトゥルースを主人とみなして力を貸し与えたら? 元々トゥルースはJBの中でも扱いがはっきりしていないみたいだし、そこへさらに今だけ特化型のアークエネミーが限定のスペシャルな特権を与えたっぽくない? 不吉の塊ってヤツだわ」
 僕は少し考えて。
 それから言った。
「……お前、そんな便利なアピールポイントなんかあったか? だったらラスベガスの時だって……」
「だからやり方次第だってば。いい、ヘルはワタシ達の本当の実力なんか知らないわ。あんな化け物、できれば一言も交わす間もなく仕留めたいけど、できないならその時はその時だわ。選択肢は多くても困らない」
 そういう事か。
 暗闇に脅えているのは僕達だけじゃない。
「とにかく、トゥルースの予想が当たっていれば、きちんとハマる。そのための素材も多分揃ってる。ワタシ達のハッタリでヤツを縛りつけられるはずだわ」
「なら箔付けの儀式(てじゅん)がいるな。ただ展示してある石ころをそのまま見せたってJBには響かない!」
「もちろん」
 目玉の美術品なのか、壁の案内板にもそれっぽい印はつけてあるし、パンフレットの表紙にも写り込んでいる。首のない女性の石像。翼は両腕が変化している? いや、腕のトコも取れてしまったのか。
 ただ、アナスタシアは展示コーナーには向かわなかった。まとめて階段を何度か折り返し、地下まで走る。
「普通の人が見ている美術館は、実は施設全体の三割四割に過ぎないって説もあるわ」
 ハッカーとしてネット越しにそういう所にも潜った事があるのか、あるいはアークエネミーとしてのオカルトな常識か。とにかくアナスタシアには確信があるようだった。
「実際には、人目に触れない保管庫や修繕室なんかがかなりのスペースを占めている。特殊な温度・湿度の管理、空気清浄機、紫外線対策もしなくちゃならないし、芸術家や学芸員用の勉強会を開くための講義室もあるわ。ちょっとしたダンジョンね」
「そこに何があるんだ」
「何も。ただし『伝説』だけなら色々語られているわよ。リージェントダイヤのカットされた残りが回収されているとか、ルーベンスの使った絵の具がラボで完全に再現されているとか」
「……、」
「この辺はやっぱり世界一有名な美術館だからね。大英博物館と一緒で、世界中の人達がみんな好き勝手にウワサしてる。けど、この『下地』があれば騙せるかもしれないわ。ひょっとしたら、もしかしたら、あのルーヴルだったら。サモトラケのニケの頭や腕くらいあるのかも。それが揃ったらニケの像には真の力が宿るのかもって!」
 元々ルーヴル美術館は半地下のフロアにも作品展示しているようだけど、ここはもっと下だ。表のパトカーや現場照明の名残もないので、完全な暗闇となる。
 スマホのライトを頼りに中を観察する。
「随分、雰囲気が違うな……」
「お客さんに見せる場所じゃないからでしょ。芸術家が気を配るのは自分の作品だけよ、その服装やアトリエは案外雑なものだわ」
 元々の通路が狭いのもあるけど、あちこちに木箱や段ボールが山積みされていて、さらに迷路感が強い。単純に図面だけ見ても壁に阻まれる事間違いなしだ。
「どこから手をつけよう?」
「両腕よりまず頭よね、やっぱり。ニケの頭があれば騙しのアクションを始められるわ。天津ユリナもいつかは力尽きる。だからその前に即席でもいい、ワタシ達の手で用意しないと!」
 幸い、そのための道具ならいくらでもあるようだ。絵の具、粘土、彫刻刀に香木みたいな木の塊も、どういう基準なのか何個もマス目みたいな壁際の棚に並べてある。元々は美術品のひび割れや色褪せを修繕するためなんだろうけど、ゼロからものを作るのにだって使えそうだ。
 問題なのは、
「……サモトラケのニケって世界の至宝なんだよな? 僕達の手で勝手に頭を作ったとして、ヘルにバレないかな」
「真面目にやったら、神の子の肖像画を台無しにしたどこぞの有名な事件みたいになるでしょうね。だけど……」
 ズズン!! と、これまで以上に大きな震動が地下全体を揺さぶった。僕は地震が起きた時みたいに、思わず天井を見上げてしまう。アナスタシアが追従してこなかったのは、地震の国の人じゃないから……って訳でもないか。ラスベガスのある西海岸側は地震で有名だし。ぱらぱらと天井から細かい粉末みたいなのが降ってくる。
 地上で何かあった。
 もう時間はない。
「だけどお手本があるなら話は別。地下には芸術家や学芸員のための講義室もあるって言ったわよね? 修繕の練習用に作ったりするのよ、絵画や彫刻の失われた部分って」
「……つまり元から欠けているニケについても、裏でこっそり練習台にされている可能性がある?」
「どこにも出さない練習用って言ったって、ルーヴルに出入りする以上は世界トップクラスの芸術家の手によるものよ。少なくともワタシ達が首をひねりながら粘土をこねるよりは見栄えが良いはずだわ!」
 とはいえモノだらけで迷路みたいになっているルーヴル地下。辺りは暗いからスマホのライトだけが頼りだし、光に照らされる文字もみんなフランス語だ。
 石膏とか大理石とかの石像はあちこちにある。元からそうなのか、衝撃や震動で倒れて砕けたのかは知らないけど頭だけ床に転がっているモノもかなりあった。でもどれなら正解だ? 正解なんかないのか? エリュズニルの持ち主、死の元首ヘルを騙し切るにはどの頭を拾えば良い!?
「マクスウェル、ひとまずサモトラケのニケで画像検索。特に首の断面について分析してくれ。ジグソーパズルのピースみたいなもんだ。この中から合致する頭部を風景に重ねて全てピックアップ!」
『シュア、了解しました。ただし箱の中や物陰など、カメラに映らないオブジェクトについては対応しきれませんのであしからず』
 これで分かるのは、ルーヴル美術館に出入りしていたプロの人間が、ニケの頭を想定して作った練習作品だ。ピタリと首の断面に合う頭部だけ選べば、ひとまずヴィーナスとかヘルメスとか、別の神様の頭を間違えてくっつける心配はなくなる。
「参考までに言っておくと、勝利の女神ニケは好まれる題材だわ。つまりサモトラケで見つかったもの以外にもいくつか銅像や石像があるの。頭については、ヴェールを被った女性っていうのが有名だと思うわ。サモトラケのニケは船の先に足を置いたものだし、他には女神アテナの手に留まっているのも多いかしら」
「その辺が正解、か」
 ただしそれだけだ。
 間違いがないという事は、別にヘルを騙し切れるかの根拠にはならない。むしろ順当なだけではヘルが慌てふためく材料としては弱い。
 温度感はどこに置く?
 地味では効かない、だけど女神の体にヒゲ面の男の頭を乗っけるほど派手にやったら流石にバレる。ヘルはどこで引っかかる? 衝撃は絶対ほしい、でも信憑性は失いたくない。ヤツの脅えや興味の線引きはどこにある?
 そんな風に考えていた時だった。

 ドゴアッッッ!!!!!! と。
 天から地へ、縦一直線に衝撃が貫通した。

 直撃、じゃなかったと思う。
 それでも体が跳ねる。床全体が恐竜の背中みたいに激しく揺れた。ここがルーヴル美術館の裏の心臓部だっていう前提を忘れそうになる。ただでさえ暗いのに、四方八方へ粉塵が一気に襲いかかっていく。
 何が起きた?
 とにかくスマホのライトを急いで消した。頭上から月明かりがこぼれている。つまり何かが何なのかは知らないけど、その何かは地上から地下フロアまでまとめてぶち抜いたんだ。直径一〇メートル以上の大穴を空けて。
 居場所がバレて良い事なんか一個もない。
 息を殺し、木でできた作業机の下に潜り込む。アナスタシアはどこ行った? ここからじゃ見えない。今この状況じゃ声をかけてやる事さえ自殺行為になりかねないっ!
「何か」
 ぽつりと。
 粉塵の中央で、女性らしき声があった。言葉は日本語だった。それだけで、ケタ外れの力を持った誰かのターゲットが誰なのかはっきりと分かった。
 僕だ。
 ヘルは、僕を捜している。
 ……確認するのが怖い、物陰からちょっとでも顔を出したらそれでバレそうだ。でも見えないのもおぞましい。こればっかりは理屈じゃどうにもならない。
 見るか。
 覗くか? ほんとにやるか???
「何か、こそこそとしていると思っていた。向こうは放っておいても決着がつく、それ以外に介入してみる事にした」
「……とも限らないぞ」
 テーブルの下から声を返す。
 喉の奥が張りついて、格好なんか全然つかなかったけど。
 台無しだ。目と目が合った、これで遮蔽物の効果は完璧に死んだ。なけなしの守りを失い、命とか魂みたいなものがむき出しのままぽんと外に置かれたのがはっきりと分かる。今の僕は生卵より脆弱で、床に放っておかれた卵の黄身みたいなものなんだ。何かするまでもなく、命の繋がりは途切れている。
 はっきり言って確定で寿命を縮めている。居場所を教えて得する事なんかない。
 だけど、注目をこっちに集めれば極悪なキャストの視界からアナスタシアを逃がす事はできるはず。得にはならないけど、無駄にだってならない。
 そう信じろ。
 でないと、折れる。
「ヘルだっけ。あの棺桶に守られていないならこっちだってやりようがあるんだ、わざわざ前に出過ぎなんだよアンタ」
「おや、まあ、これは困った」
 空気が緩む。
 余裕の表れなんだろう。アレは笑っている。スポットライトのような月明かりの下にいるのは、モデルみたいなすらりとした少女だった。年齢感とスタイルが合っていない、っていうか。肩まである銀髪に白い肌、瞳は氷みたいに冷たい。服装は丈の短い純白のドレス。肩も出した派手派手なものだけど、何故か右手と右足だけ青黒い手袋やストッキングで覆われていた。全部は覆わず、片方に寄せる。あれも何か意味のある配色なんだろうか。
 間違いなく、人の注目を集める美人だと思う。だけど僕でも分かる。この、作られた笑みから生まれる弛緩。こいつに引きずられて緊張を解いたら一瞬でやられるって。
 JB関係者で、なおかつ神話レベル。
 言葉を見聞きしただけで人の脳のタガを外して魔女に作り変えるあのヘカテと同ランクか、あるいはそれ以上。
「まさか、いやまさかとは思う。いくら無知でもそこまでの暴論は並べられないはず。普通のバカなら無自覚でも気づく。エリュズニルとは私の館。この私が自分で用意したものを今代さらに折り曲げて形を変えた。つまり、これはあまりにも当たり前の事実」
 汗が止まらない。
 今は何月だ。そんな前提さえ体が忘れてしまう。ヘルの出す結論が怖い、聞きたくない。それだけで体が震え上がり、不自然な発熱で内側から暴走しかけている。
 でも言葉はあった。
 拒否する権利なんかなかった。

「死した神をも管理するこのヘルが、まさか自分で創った死より見劣りすると?」

 あああ!! と。
 叫び声と共に、鈍い打撃音があった。小さな影がヘルの横から躍り出て、両手で振り上げたボウリング球くらいの塊で殴りかかったんだ。
「アナスタシア!?」
「にげてっ、トゥルース! こいつは今までのヤツとは次元が……!!」
「おや……」
 ゆっくりとした声が、遮る。
 ちくしょう……。
 子供の手とはいえ、ボウリング球くらいの鈍器だぞ? 実際に側頭部に直撃したんだ。なのに僕の意識が何ら反応しない。その程度ではヘルに対する心配ってものが全く感じられない!?
「まあ。死を踏みつけて従えるヘルを相手に、よりにもよって殺傷力で挑むとは。まったく最近の若者にはつくづく驚かされる、ろうそくの火を持って太陽に挑むつもりか」
「がっ……!!」
「アナスタシア!?」
 ヘルが得体の知れない魔剣でアナスタシアを斬り捨てた訳じゃない。実際、ヘルは指一本動かしていない。
 ただ、アナスタシアの小さな体がすとんと真下に崩れ落ちた。
 ビニール人形から空気でも抜いたように。
 JBのキャスト、死の権化たるヘルはそちらに視線すら投げていなかった。
「まさか、不用意に死へ近づいた愚か者がどうなるか、想像すらできないのか。そこまでの無知ではないはず」
「……、」
「無力な幼子故に踏み込みが甘かったのは救いとなったらしい。しかしあなたほど体ができていれば臨死では済まされない、天津サトリ。あなたは普通に死ぬ。それでも良ければ来るが良い、いくらでも」
 一歩、ヤツがこちらに向けて歩いてくる。それだけで、目には見えない分厚い壁のように、普段は意識しない死が押し寄せてくる。魂を締め上げにかかる。
 が、その一歩で止まった。
 ヘルの足が止まったんだ。
「……に、住まう。形を変えた神秘、矮小になれど確かに今を生きる妖精シルキーが宣言する」
 原因は、倒れたはずの少女。
 アナスタシアの唇から溢れる、息も絶え絶えの言葉だ。
 いいや。
 呪文、とでも呼ぶべき何か。
「ルーヴル美術館はすでに我が領域なり、他のあらゆる世界はどうあれこの聖域はワタシが支配する。ここに儀礼の結びを。天津サトリ、館の中心たる存在よ。ワタシがその任を認める限り、尽きる事なき力は保証される」
 ばかっ、アナスタシア!
 分かる、理屈だけなら。古い屋敷に住みつく妖精シルキーがルーヴル美術館って建物を自分のテリトリーに登録して、天津サトリをそこの主として扱ったら。何かしら、魔術とかオカルトとかそういう力が授かりそうな気はする。エリュズニルって館を利用して戦うヘルからしても、信じ込みやすい題材でもあるだろう。
 だけど。
 結局は空気だけだ。実力なんか伴わない。つまり論理も計算式もないハッタリだろ、そんなもん!! 追い風の時ならともかく、負けたら終わりの中でそんなのに頼ったら寿命が縮むだけだ。
 そうまでしても助けたいのか、僕を。
 息も絶え絶えで、起き上がる力もなく、生きているだけでも奇跡なのに。見逃されたのなら大人しくしていれば良いだろうがっ、ちくしょう!!
「……マクスウェル、検索だ。北欧神話のヘル」
『ノー、ヘルは神々の主要な敵として取り上げられますが、フェンリルやヨルムンガンドといった怪物達と違い、他の神と相討ちになる描写がありません。全てが滅ぶラグナロク後も平気な顔して生き残る説もあるようです』
「いきなり答えを出そうとしなくて良いっ、基本的な情報がないと考えようがないだろ!」
 何があってもアナスタシアを助ける。
 悪い注目を浴びたままにはしておけない。ヘルは命令一つでパリの警官隊を壊滅させた。魔王リリスの力も借りられない。あんなもの、一一歳の女の子になんかにぶつけられない!
『これがお求めの検索結果です。ヘルの役割は死の世界ニブルヘイムの管理者。体は半分が生身で半分が死人とされていますが、弱点を示す描写はありません。生身の部分を剣で刺せば良いとか、死人の部分に回復魔法を当てれば逆にダメージが加わるとか、そういう話ではありません』
「弱点が……ない?」
 頭がふらつく。
 ひずんだ呟きを耳にしたのか、遮蔽物の向こうのヘルがさらりと言う。
「ラグナロク。一応まだ起きていない戦争のはずなんだが」
「……、」
 ラグナロクって、ゲームとか漫画とかに出てくる最終戦争のアレ? 世界全体があんなになっても傷一つつかないっていうのか、ヘルは!?
「言ったはず。死を統べる私に殺傷力を向けても、意味がないと。世界をくまなく滅ぼすラグナロクですら、私の館は壊せない」
 ……ダメだ。
 アナスタシアの言った通りだ。これまでとは次元が違う。気紛れにJBに手を貸していたヘカテは、言葉を交わすだけで人間を覚醒させて魔女に『してしまう』神様だった。それと同じで、ヘルの死には加減や程度ってものが存在しない。
 触れれば死ぬ。
 関われば終わる。
 しかも、当人はとにかく死なない。ダメージが全く通らない。
 病気をばら撒く疫病神や家を没落させる貧乏神どころじゃない。こいつは、もっとダイレクトで、チャンスがない。対立したらそこで強制終了、あらゆる才能や努力は均一な死で全て埋め尽くされる。隙間や抜け穴、敗者復活のチケットなんか一つもないんだ。
 光の神や火の神と同じ。
 死を自在に扱い、死そのものとなる、怪物。
「それにしても」
 ごりりと、ヘルは足元にあった何かを踏んだ。
 弱々しく息を吐くアナスタシアの顔、じゃない。
 ごろりと転がっていた、ボウリング球くらいの塊だ。
「……サモトラケのニケ、か。死の元首に無理矢理勝つ気でいるなら、勝利の女神くらいの反則技は必要という考えは分かる」
「っ?」
「どうしたの。あなたの手が読めないほど浅はかだとでも?」
 違う。
 そうじゃない。
 今、何で、ヘルの興味がそっちに向かった? だってその読みはハズレなんだ。言うまでもなく、僕達は女神ヘカテの導きで頭のタガを無理矢理外された魔女なんかじゃない。このルーヴル美術館に何が眠っていようが、逆立ちしたってサモトラケのニケの力なんか引き出せない。普通に考えたらヘルがそっちに寄り道する理由はないのに。
 ……まさか、アナスタシアの狙いはこれだったのか? 無意味なパニックを起こしての突撃じゃない。石像の頭を使って殴りかかる事で、サモトラケのニケに注意を引かせて少しでも信憑性を与えるために。
 誰だって、だ。自分を殺すために使われた凶器に注目しないはずがない。怒りを覚えて、恐怖を拭うため、あるいは敗北の可能性を遠ざけ、己の勝利や安全を実感するために。そう、誰だって敵を倒した後は床に落ちて無害化された凶器を一度くらいは確かめたがる。
 導入は作られた。
 じゃあここから何をすれば良い? どうすれば捨て身でチャンスをくれたアナスタシアの努力を実らせられる!?
 とにかく。
 まずは疑念を膨らませるんだ。この火種を絶やしちゃならない!
「ルーヴル美術館の地下には伝説がある。アンタも聞いた事くらいあるだろ? 現実は、もっとひどかったよ。何ならその辺を見て回れば良い。ニケの力を借りる方法は、すでに出来上がっていたんだ」
「だとしたら?」
 っ?
 そくと、え、即答?
 実際に、ヘルは首を傾げていた。辺りに視線を投げたりもしない。
「北欧にもいる。こちらでは勝利の神は火曜日の語源となったテュールと言うが、活躍の機会は特にない。我が兄弟フェンリルを騙して片腕を食い千切られる程度の描写しかない。一応、オーディンと並ぶ力を持つとされてはいるのだが」
「……、」
「つまり、ヤツは死や失敗を克服するほどの力は持たない。腕をなくすと分かっていても舞台から降りられない。勝利は死を覆すほど強くない。勝利とは、つまりその程度の力。試合に勝って勝負に負け、勝利と引き換えに相討ちで死を貰い受ける事実くらいいくらでもある。実際、勝利の神テュールはラグナロクでガルムと戦って死ぬ事が決まっている。勝った程度で死をねじ伏せられると思うのは大間違い。北欧では、最強たる神々は死ぬものとあらかじめ予言されている。死を免れられるのは、不死のバルドルと死を掌の上で転がすヘルだけ」
 ダメだ……。
 根本的に間違えていた。騙せるか騙せないかなんて次元じゃない。完全にニケの存在を信じ込ませて騙しおおせたとしても、それでもヘルは止まらない!?
「この程度?」
 くっ……。
「他に隠し球は? 本当の切り札はどこ? まさかこんな程度で自分の命を預けたりはしないはず。どうか、いくら何でもそこまでのバカではないと言っておくれ」
 打つ手が、ない。
 ニケのハッタリが使い物にならない以上、ルーヴル美術館の地下にいても意味がない。何か別の作戦を考えるところからやり直しだ、そのためには手を引くしかない。
 けど。
 ヘルの足元には、倒れたままのアナスタシアが……。
『撤退を推奨します』
「でも……」
『ノー、ユーザー様とて分かっているでしょう。災害等の危難に際しては、要救助者の位置を知る者が倒れて情報が途絶えてしまうのが最悪なのです。ここで唯一動けるユーザー様が倒れれば、その時こそアナスタシア嬢を助ける手立てがなくなります。それは、上で捕食性を獲得した棺・エリュズニルと戦っているユリナ夫人も同様です』
「……っ!」
『彼女達の安否はユーザー様にかかっています。一時のプライドではなく、判断基準にはどうか賢明な思考を割り当てていただけますと』
 くそっっっ!!!!!!
 奥歯が砕けるほど噛み締めて、僕は負け犬の道を選んだ。
 そしてきびすを返した瞬間だった。
「知っている、天津サトリ?」
 声が。
 死の声が、届く。
「北欧は死を肯定する神話。特にオーディンは勇敢な戦死者を好み、天上へ招待する。そんな中、では地の底に位置するニブルヘイムでヘルが担う死とは何か。……つまり平和を望むなり命を惜しむなりで戦争に参加しなかった者達の死よ」
「あ」
 ち、くしょ。
 しくじった。ちからが、ぬけていく。アナスタシアが接触しても臨死で済んだ、のは、そういう『ルール』だった、の、か……。

 触れたら死ぬんじゃない。
 戦闘という状態を解除してはいけない。
 ごとんという重たい音が響いた。僕自身が床に崩れ落ちた音だった。