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 体が、動かない。
 だけど即座に意識が落ちる訳じゃなさそうだ。麻酔と違って記憶は連続している。
 なんか、こう。
 胸の真ん中から、目には見えない握り拳くらいの塊を引っこ抜かれたような、そんな感じ。歯車なのか電池なのか、どういう役割なのかは知らないけど、そいつが胸から飛び出ているのがひどく気持ち悪い。殺菌消毒もしていない部屋で普通に手術が始まってしまったっていうか……。
 体の半分が生身でもう半分が死人。
 つまり生きている人間と死んでいる人間を仕分ける存在っていう記号か。しかしまあ、随分と直接的じゃあないか。
「ふうん」
 ヘルの……声があった。
 無造作にこっちに歩いてくる。視線も向けないって感じじゃない。向こうにとっても関心を引くような事でもあったのか?
「『戦略的』撤退、か。体は戦闘をやめながらも、いくらか勝つための気概を残していたのね、天津サトリ。おかげで引き抜きが中途半端な形で止まっている」
 その割には、余裕だな。
 結局、動きを止められればヘルにとっては完勝か。ナイフの一本でもあれば僕にせよアナスタシアにせよ、好きな方から自由に殺せる。
 ……あれ?
 何だ。その割には、こう。引っかかったぞ今の。北欧神話ってグングニルとかミョルニルとかで有名な、あのゲーム時空っぽい神話の事だよな……?
「新たな星は、もう完成する」
 ヘルは頭上を指差した。
 自分で空けた大穴の向こうには、汚れた夜空が広がっていた。
 ぶわあっ!! と。
 その全てがカメラのフラッシュにでも変じたように、真っ白に埋まっていく。
 ……かく……ばくはつ?
 そんな、嘘だろ。
 もう実感もないぞ、そんな終わり。
「心配はいらない、あれでも月よりは遠い。地球の大気圏は優れているから、地上にいて致死量の放射線を浴びる事もない」
 月より遠い。
 つまり、できたんだろうか。地球と火星の間を回る、全く新しい星が。
「あの分だと軌道が安定するまでの間にこの星の衛星を連れ去っていくかもしれないけど」
 ヘルの言葉を、僕はどれだけ理解しているだろう。
 あるいはヘル自身、僕の理解や共感なんか求めていないかもしれないけど。
「……冗談だろ、そこまで軌道が近いのかよ。自分のやった事が分かってるのか?」
「まあ、お月様ほどべったり張りついて常に影響を与えてくるものではないが、あれだけの質量が近づけばこの星の自転や公転にも多少のブレが生じると思う。日照時間はもちろんコリオリの力などにも変化は起きるので、世界中の風の流れも変わるはずだ」
「……?」
「そうなれば荒地にも田畑の恵みが届く。工場の煤煙が国境を越える事もなくなるの。人が自力で幸せになれば、神様なんかに頼まなくなる」
「それが、アンタ達の言う『脱獄』? どこまでいっても変化するのは人間の都合だろ。神様とやらが困るとは思えない」
「そうかな? 巨人を倒すにせよ大地や天空の神が生じるにせよ、神が世界を創ったとする神話は多い。しかし何故かという最初のきっかけが謎の場合も少なくないの。北欧やギリシャなんか意図せずできてしまった世界に神や巨人が争奪戦を始めるくらい。ケルトはケルトでどうやって世界が創られたのか部分が見当たらない。六日で創って一日休む話はストレートすぎて逆に真意を知るのが困難だし」
「ちょっと待て……」
「とはいえ、何かしら必要だから用意したのでは。では必要なものを取り上げたら? 北欧の場合は木で繋がる戦死者の調達先だったが、天界にせよ極楽にせよ何かしら接点くらいはあるはず。つまりここを揺さぶれば、ヤツらにとっても困った事が連鎖するの。人を幸せにしたまま」
 その言い分は正しい、のか? 途方のなさすぎてイメージもできない話だ。
 爛々と目を輝かせ。
 死の世界をまとめる元首という立場ですら満足のできなかった存在が、宣告する。
「これでJBの『脱獄』は完成する。我々キャストだけじゃない。誰もが、与えられた役割から解放される時が来たの」
「……ぁ、お……」
「何か?」
 くちはうごく、のか。
 とても反撃ができそうな感じじゃないけど。
「……だったら、さっさと立ち去れば良いだろ」
「もちろん」
 がんっ、ごん、という鈍い音が上から降ってきた。大穴から投げ込まれてきたのは、血まみれになった義母さんだった。
 みすぼらしく、ボロボロで。
 どう考えたってここからの逆転も騙し合いも入り込む余地がない、絞った雑巾みたいに外から力を吐き出し尽くされた敗者の抜け殻。
 おそらく子の僕に、母親として一番見せたくなかった何か。
 そしてヘルは躊躇なく言った。
「あなた達を殺したら、すぐにでも」
「……、」
 見逃してくれる様子はなさそうだ。
 だけど。
 僕もこの土壇場で確信を持った。というより、最後のはちょっと余計だったぞ、ヘル。決着に際していらないアクションを挟んでいた。
 義母さん。
 天津ユリナを不用意に投げ込まなければ、これはきっと思いつかなかっただろうに。
「ヘル」
「遺言?」
「アンタは、弱い」
 ごんっ! というひどく暴力的な音があった。
 横倒しになったまま動けない僕のこめかみの辺りで、みりみりと軋んだ音が続く。JBのキャスト、ヘルのカカトが空き缶を潰して小さくまとめるように踏みつけてきたんだ。
「失礼、今のは私の聞き間違い?」
「だけど現実に、アンタはこんなになってる無防備な僕さえ殺せずにいる。やらないんじゃない、できないんだ」
 ラグナロクでも、他の神と相討ちになる記述のない敵。誰も殺し方を把握していない超越存在。
 でもそれは。
 裏を返せば、だ。
「北欧神話は武器のお話でもある。オーディンのグングニル、トールのミョルニル。強い神様はみんな人知の及ばない強い武器を持っている。だから最強、分かりやすい。じゃあヘルは?」
「……、」
「『ない』よな? ヘルは死神の鎌とか世界を壊す大砲とか、何か特別な武器を持っている訳じゃない。フェンリルやヨルムンガンドのように巨体そのものを『武器』にする訳でもない。それってつまりヘル本人が戦う訳じゃないからだろ」
 つまりヘルは指先一つ動かさずに人を殺せるからすごいんじゃない。そうする以外、他にできる事が何もないんだ。だから格下の敵といちいち会話に応じてる。何もしなくても、僕達の方が勝手に戦いを解除する……つまり北欧神話のタブーを踏ませるために。
 なんて事はない。
 サモトラケのニケを使って出し抜こうとした、僕達と全く同じやり口だ。こんなになるまで自分で気づかないなんて、やっぱり僕はどこか抜けている。
「それから、この口、我ながら良く回るって思うよ」
「……、」
「さっきよりもずっと、な!!」
 勝つための努力を続ければ、戦いに挑む心を持てば、死の力(ペナルティ)は解除されるのか。
 道理で天津ユリナにはヘル本人じゃなくて、まず肉食恐竜みたいなエリュズニルをぶつけた訳だ! どんな言葉をかけてもその中から勝つための材料を探すってヘル側が警戒したから!!
 本気で頭蓋骨を踏み潰そうとしたヘルの足首を、逆に僕の手が掴み取る。弱々しい力だけど、
「知ってるか、ヘル。アキレス腱は典型的な急所だぞ」
「っ!?」
 不安と焦りの味はどうだ、ヘル。
 主導権はこっちにある。場のコントロールさえできていれば、ヘルの力は怖くない!
 実際に弱りきった僕の親指なんかでアキレス腱を千切れるかどうかじゃない、
「エリュズニル!!」
 ずん!! と地盤全体が揺さぶられた。
 呼ぶよな、そりゃ。
 ヘルは自分で武器を持たない。体が特別強靭な訳でもない。だから代わりに配下に戦わせてきたんだと思う。魔犬とか伝説のドラゴンとか、その辺の細かい人員配置までは知らないけど。
 最初に天井を突き破って地下まで降りてきた時は心臓が止まるかと思った。
 けどそれも、多分ヘルの力じゃない。まずエリュズニルがあの巨体で地形を踏み壊して、後からヘルが安全に降りてきたんだ。粉塵と衝撃波の中ならこっちは細かい観察なんかできない。ただ、言っても二階か三階分だ。分厚いクッションの代わりになるものとか、条件さえ整えれば飛び降りができないって話でもない。警官隊の装備だってその役に立ったかもしれない。車を停める水のタンクとかウレタン系のバリケードとか。
 地上に繋がった大穴から、巨大な塊がこっちを覗き込む。無数の杭打ち機で彩られた大顎。やっぱりアレが原始的な意味で一番怖い。あれだけの巨体なら、地下まで飛び降りても頭は地上に出てしまうかもしれない。
 けど、
「良いのかよ、ヘル」
「?」
「地盤は脆いぞ。今夜だけで流れ星だの地震だの、これだけ何度も揺さぶって、アンタ達が自分で地面に大穴まで空けて。そんなボロボロの縁にダンプよりデカい棺桶が立っているんだぞ。ある程度は尻尾側に体重を逃がしているかもしれないけど、それでも二足歩行で不安定なまま。……ボロっと崩れて雪崩れ込んでくる可能性は?」
「しまっ」
 僕は逆の手にあったスマホを小さく振る。そう、こういう計算ならマクスウェルに任せておけば良い。
「そしてエリュズニルは形を変えた館だ、これ自体は命を持たない。ヘル、アンタだって困るだろ。ただの重たい物体の下敷きにされちゃあな!!」

 鈍い音が連続した。

 これで、勝った。
 土砂が雪崩れ込む。肉食恐竜のような影が転がってくる。強靭な後ろ脚はもちろん、ぺたりと畳んだ短い前脚を振り回してもどうにかなるものじゃない。
 わずかな月明かりが、遮られる。
 地の底、ニブルヘイムに閉じ込められたヘル。確かに強大な存在なんだろうけど、天界に行けないっていうのは逆に言えば地形には逆らえないって事だろ。
 地盤に潰されてやられちまえ。
 ただ、まあ。
 完璧に見えるこの作戦。ヘルの足首を掴んでいた至近の僕も間違いなく生き埋めにされるっていうのが、まあ、タマに瑕なんだけどさ……。