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重いとか痛いとか、当たり前の感覚なんかもうなかった。
ただ、体が動かない。
逆にヘルには感謝した方が良いかもしれない。半端な形で胸の真ん中から魂を抜かれていなかったら、これ、傷や出血以前に正常な痛みの感覚でショック死していたかも。
「……ん、ぁ」
すぐ耳元だった。
横倒しになったエリュズニルの後ろ脚に挟まれたまま、意外とすぐ近くにヘルがいた。うつ伏せになった状態で僕の耳元に囁く。
「ここまでかな」
「アンタ、逃げなくて良いのか? JBは失敗を許さない組織なんだろ」
「おや」
「ヘカテは逃げ切ったっぽい。案外、神様レベルならするっと生き延びられるかもしれないぞ」
「まあ。ここにきて、敵の心配なんぞに気を揉むとは。やはり天津サトリとは甘ちゃんで、恐ろしい」
「……?」
おそろ、しい?
「鉄の掟で仲間の結束を守る組織が、何故身内に刃を向けると思う? 逆立ちしたってそういう『力』が手に入らないから、躍起になって空中分解を防ぐしかない。あなたには『力』がある。定期的に生贄を捧げなければ太陽がなくなるというアステカ式の契約更新ではない、武力で世界をまとめるしかない眼帯の神とも違う。それは古代インドで悟りを開いた僧侶や、二〇〇〇年前に十字架に架けられた罪人と同じ、人の中から生まれた『力』だ」
意味不明だった。
JBが、それもキャストの一人じゃなくて大きな組織全体が本気で僕みたいな一般人を恐れているらしい事はぼんやり分かったけど。
「それに、私は神ではない」
「えっ?」
「死の世界を管理する元首、だが私の血統は『巨人』。母のアングルボザはもちろん、父のロキも出身は巨人だから。私は神と呼ばれる事が許されなかった超越者。だから、神様のまま自由に暮らすヘカテの話はあてにならない」
ひょっとしたら、それがJBに合流した理由だったんだろうか。
ヘルには、ヘカテと違って切迫感があった。人間でない死神ヘルが神様連中からの脱獄を望むっていうのも変だと思ったけど……。
「天津サトリ。災害は怖い?」
「ああ」
「そして災害を起こしたJBが憎いの? もしも考えなしにもう一度頷くのなら、あなたは真なる敵を見誤った」
「な、に?」
「あなたの国の言葉では災害をこう呼ぶはず。天災、と」
……。
一見、意味のない言い換えに思えた。
でもちょっと待て。
何でここで、そんな風に変換する? よりにもよってその一言に。
「ああ、やはり間に合わない。星が冷える前に、ヤツらが介入してくるか」
ヘルは何かを見ていた。
うつ伏せに潰されたまま、頭上を覆う瓦礫の隙間を通して。
汚れた夜空には、望遠鏡がなくても分かるくらい大きなオレンジ色の光があった。ぶっちゃけ月より大きい。あれがJBの作った新しい惑星。月より遠いって話だったけど、もう距離感とかはイメージできない。
あれが冷えて固まる前に。
JBがここまでやった事が実るより早く。
ぐじゅり、と。
……なにが、おきた?
決して大きな変化じゃなかった。閃光や爆音が五感の全部を潰しにかかってきた、これまでのド派手な災害に比べれば、むしろ易しい方だった。
でも、それが怖い。
抉れていた。オレンジ色に輝く新しい星が。月が欠けるのとはまた違う。地面に置いた丸いリンゴが黒ずんで腐っていくのを早送りで観るように、あっさりと、あれだけの質量が内側にへこんで形を崩して消えていく。バラバラにもならずに、小さく小さくまとまって。
ただ、何で?
どうやって、どこに消えている!?
星だぞ。人工物とはいえ、僕達の暮らす地球と何ら変わらないスケールの大質量が、あんなにも簡単に……。
訳が分からずに見ているしかない僕に、ヘルは皮肉げに笑いながらこう囁いたんだ。
「ヤツらならできる。我々JBは力の一部を奪ったけど、本物には敵わない……」
その時だった。
何かがふわりと降り注いできたんだ。
白鳥の、羽根?
それは床でも止まらず、僕の目の前で地の底へと落ちていく。
「戦死者の魂を回収する者。その軍勢を率いて悪なる存在を一掃する者。神と天界の正しさを示すため、その尖兵として剣や槍を振るう天の乙女……」
ヘルは明確に告げた。
「この世界は、ヤツらが回す」
JBが何と戦いたかったのか。極悪非道な組織に属するキャスト達は口を揃えて皆を脱獄させると言っていたけど、じゃあ具体的に何から人を逃がしたかったのか。
「天災もまたしかり。ノアが耐えた洪水も天の岩屋の暗闇も、皆一様に、神の都合で起きる。天災に翻弄される地上の人々は、天災を退ける事もできずにただ耐えるしかない。砕け散った風景を立ち尽くしたまま眺めて、文句も言わずに復興のため働かなくてはならない。あなたの文化で語るなら、何度も、何度も、理不尽に石の塔を崩される賽の河原の幼子達のように」
「……、」
「そう、理不尽。こんな理不尽が、あってたまるか」
そして僕も見た。
最後の一欠片まで消失し、完全に夜空から光が消える瞬間を。JBが作ったのは、惑星だ。月より派手に自己主張をしていたんだ。そんな大質量の塊がああもあっさりと、途中で空中分解も許さずに。
あそこまでできるなら、それを傷つけるために振るえるとしたら、もう僕達なんかの手に負えないんじゃないか。あれと戦うとしたら、まず一体何から準備すれば良いんだ。
僕達は、ただ見上げているしかなかった。
そして僕は呟いた。
あの格好は見覚えがある。黄金の槍と盾。コロシアムでバニーガールをしていたカレンと同じ、鎧とスカートの組み合わせ。
つまりは。
冷え切った星空を背に宙に浮かぶ、天災を己の武器とする本当の虐殺者は……。
「ヴァル、きりー……?」