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外観上、人間と全く区別のできない機械、
つまりはTOWAがヒトか機械かと問われれば、
彼女達はやはり、機械に違いありません。

しかしながら、もしそのことをもって、
彼女達に対する非道な行為が正当化されるのだとしたら、
それは我々人類にとって、大きな脅威になると、私は考えます。

なぜなら私達の人間性は普段、外観上、人間として認識される
他者を大切に想い、そしてまた大切にすることによって、
保持されているからです。


──佐藤菖蒲 元ブラックアイリス社代表取締役社長CEO
(二〇二九年一月二七日 ニューヨーク)




 二〇二一年、冬、某日。

 目の前の作業台の上に、「アン」は横たわっていた。
 僕が「アン」と名付けた八十一番の身体に、人間の少女の遺体との違いを見出すことは不可能だった。
 身体にはいくつもの青あざが出来ていて、目元は大きく腫れあがり、その口元には乾ききった赤い液体がこびり付いていた。彼女達の象徴でもある長い銀色の髪は、土埃で薄汚れ、本来の輝きを失っていた。
 それなのに……。
 肩を揺さぶれば、何事もなかったかのように、パチリと目を開いてくれるような気がしていた。しかし穏やかなその顔は、もはや彼女が痛みや恐怖や、苦しみや悲しみのない世界に旅立ったことを告げていた。
 彼女が受けたのであろう暴力を想像した。
 彼女がどれほど苦しかったのかを想像した。
 かつて彼女を作っていた時の僕には、彼女が将来このような姿になるなんて、露ほども想像することができなかった。
 アンは僕が担当した最初の子で……
 他の子よりもずっと大人しい性格で、そしてその分、他の子よりも、優しい性格をしていた。
 読書が好きで、小さく……でも、可愛らしく笑う子だった。
 僕の目に涙が溢れて、熱いものがとめどなく頬を伝った。
 この世界には、こんなにも残酷なことが存在していて、そしてその原因の一端として僕という存在が確実にあったことに、
 僕の心は押し潰され、
 僕は、壊れた。
 会社で暴れて病院送りとなった僕に仕事を続けていくことは不可能だったとは思うけれど、僕が辞職を申し出ることも、はたまた解雇を言い渡されることもなかった。
<be>  恐いくらいに真っ白な病室の中で、僕は、勤めていた会社の倒産を知った。




第一章 愚か者の僕とニセモノの君


 二〇二三年の七月十四日のことだった。

 昨日の夕飯が何だったのかさえ曖昧な僕が、何故そこまで正確な日にちを覚えているのかというと、二〇二三年の七月十四日は、実はその年の梅雨明けの日だったのだ。
 自己紹介が遅れてしまって恐縮だが、僕の名前は若宮氷雨(わかみやひさめ)という。
 名前の由来は、僕が生まれた六月十八日のその日に、空から氷の粒が降って来たということにある。その日まで僕の名前は「雄大(ゆうだい)」になるはずだったのに、その日にたまたま氷の塊が空から落ちて来て、そしてそれがあんまりにも珍しかったせいで、僕の名前は急きょ変更されることになった。「氷雨」というのが夏の季語であったことも、両親の琴線に触れたらしい。
 そう。
 僕は梅雨真っ只中に産まれた人間で、そして名前には「雨」の文字が入っている。
 これは小学生時代の梅雨の時期、僕にとって看過できない重大な問題をもたらした。
 皆が、僕を冷たい目で見るのである。
 まるで、校庭で遊べなくなった原因の全てが、僕にあるとでも言うかのように……。
 この憂鬱な期間はかつて、天気予報が梅雨入りを告げた朝から始まり、梅雨明けを告げる朝まで続いた。
 こういった理由で、僕は昔から梅雨明けという日にやたらと敏感になってしまった。それは大人になった今でも、まるで習慣になってしまったかのように変わらない。

 そう、二〇二三年の七月十四日だった。

 僕はこの日も相変わらず、茨城の片田舎にある実家の自室でごろごろしていた。
 つい先日二十四歳になった僕が真っ昼間から家でごろごろしていられる理由。それはつまり、単純に僕がニートだからである。アルバイトさえもしていない。何か夢があって勉強をしている訳でもない。
 テレビに流れている刑事ドラマをぼんやり眺めながら、僕はおせんべいをかじっていた。
 梅雨明けとはそれ即ち夏の始まり。湿度が高く、蒸し暑い日だった。
「ちょっと氷雨~。下りてきて~」
 一階から、母のちょっとのんびりした声が聞こえて来た。
 面倒くさいので、カバの欠伸のような返事でやり過ごそうとしたのだけれど、暫くするとまた同じように呼ばれる。どうも買い物を手伝え、といったような些事ではないらしい。
 重い腰を上げて一階まで下り、テーブルについていた母の前に座る。
 母は僕の顔を見ると、僕とは違ってそこそこ整っている顔に左の手の平をあて、ふう、と小さくため息を吐いた。
「氷雨、良いお仕事見つかった?」
「いや、まだ……」
 これがここ最近の二人の挨拶になっている。
 母は「そう……」といつも通りため息混じりにその話を終わらせたが、何故かその先を続けない。何の用だろうと思っていると、母は眉尻を少し下げてから僕のことを見た。
「氷雨、ちょっと相談があるんだけど」
「うん?」
「春香ちゃんがね。急に相続した鎌倉市のお家、氷雨に住んでもらえないかって言ってるの」
「は?」
 話が良く分からずポカンと口が開く。
 「春香ちゃん」と言うのは母の妹であり、つまりは僕の叔母だ。
 「急に相続した」という話には、心当たりがあった。
 実は、春香叔母さんは三か月ほど前、急に旦那さんを病気で亡くされていた。そして、その約三か月前、その旦那さんのお母さんも、お亡くなりになっていたのだ。
 つまり、旦那さんが相続した鎌倉にある家を、今度は春香叔母さんが相続したということなのだろう。問題は、何故そこに僕が住むという話になるのか、というところだ。
「それがその家、どうも凄く荒れているみたいなのよ」
「……はあ」
 母がちょっと誤魔化すように微笑んだ。
「だからつまり、ちょっと住んでもらいながら、ちょっと綺麗にしてもらいたいな、ってことみたいなの」
「ええ~?」
 凄く面倒くさい。
 その気持ちを顔全体で表現すると、母が困った顔をして口を開く。
「お父さんも、いいんじゃないかって」
 心臓の温度がほんの少し下がった。
 ……父さん。
 ここしばらく、まともに会話すらしていない。
 その「しばらく」の前まではやはり、「仕事は?」という声を良く掛けられていた。最近は、そう言われることもない。
 父さんは、これまで多分、僕に結構期待してくれていたのだと思う。
 そこそこ有名な大学に進学した時も、一番喜んでくれたのは父だったし、そこそこ有名な企業から内定をもらった時も、一番喜んでくれたのは父だった。
 でも僕は、その内定を蹴って、ベンチャーに入社した。
 どうしても関わりたい仕事があったのだ。
 会社の名前を、「ブラックアイリス(BI)」という。
 次世代型ヒューマノイドを製作する業界の最高峰。BIの作るそれは、外見上、普通の人間と全く区別がつかないレベルにあり、他社の三十年先を行っているとまで言われていた。
 大学でロボット工学を専攻していた僕にとって、正に夢のような企業だった。
 優秀な就活生が数多く集まる中、記念受験のつもりだった僕は、何故だか内定を勝ち取った。
 行かない理由はなかった。
 大企業大好きな古い考えの父には、全く理解できない選択だったらしく、その話をした時の父はとても動揺していた。
 結局、父の反対を半ば無視する形で入社したBIは、僕の入社一年目に倒産した。そして僕は、とある事情から働くこと自体も困難になり、茨城にすごすごと帰って来た。
 もの凄く、苦痛だった。
 父は僕に何も言わなかった。労りの言葉も無い代わりに、非難の言葉も無かった。
 それがむしろ、自分に対する強烈な批判のように思えた。
 父の勧める未来を蹴って、自分の夢を追いかけると言い、一年も経たずして東京から茨城の実家に逃げ帰ってきたバカ息子。評価出来る要素がまるでない。
 そして父は今、自分に家から出て行くことを勧めている。……こっそりと。
「ちょっと、考えさせてくれない……」
 そう母に答えた時の僕の気持ちは、もうほとんど固まっていた。

 鎌倉市は神奈川県の南縁にあり、三浦半島の付け根の部分に位置している。
 言わずもがな鎌倉幕府の舞台があったことで歴史上も有名な地であり、幕府が置かれた理由、山に囲まれており、かつ海に面しているということから、独特の風光明媚な景観をなしている。
 横浜に隣接しているためアクセスが良く、寺社仏閣も多いことから、国内外問わず観光客にも人気がある。
 こう考えると、大学の一、二年時に横浜市に住んでいた僕が鎌倉市に来たことがないというのは、自分でも結構な驚きであったが、近くていつでも行けると思っていると、人間案外腰が重くなるのかもしれない。
 生まれて初めて長谷駅に降り立つと、潮の香がほんのりと風に乗って届いた。
 うだるような暑さの中、それだけで少し気分が明るくなる。
 せっかくだから、この近くにあるという鎌倉の大仏でも見に行こうか。
 ふとそう思った時、リュックサックのショルダーストラップが僅かにぐっと肩に食い込み、その案について再考を促した。
 確かに、そう急ぐこともない。近くていつでも行ける……はずなのだから。
 そう思った僕は、何か引っかかりを覚えつつも、長谷駅から一度海の方に向かう。
 もちろん海に向かう訳ではなく、海の手前の道を右折した。
 さすが鎌倉。もう目の前に山があり、緑がある。
 僕の着ている紺色のTシャツは、既に汗を吸ってほんのり色が変わっていた。うす曇りでははあるけれど、この空の下は夏の真っ盛り。額から流れる汗が止まらない。
 幸いなことに、春香叔母さんの家は、坂の登りが本格化する手前にあった。
 勝手な想像通り、小さな家だった。しかし想像とは違い、とても小綺麗な家だった。
 一言で言うと、個人経営のカフェのような印象だ。
 腰くらいの高さの白いブロック塀、その上には、同じく白いお洒落なフェンスが立っていた。花は咲いてはいないものの、恐らくバラらしき植物がそのフェンスを飾っている。
 ブロック塀の一角が空いていて、そこから敷地に入る。
 中には小さいながら庭があり、家庭菜園なら十分に楽しめそうなくらいの広さがあった。と思ったら、実際に花壇があり、そこに植わっているものの中にトマトがあった。夏の光を受けて、赤々と色づいている。多分、春香叔母さんが植えたのだろう。
 家は二階建ての白い建物で、一階には大きな窓が、南側に並んでいた。
 ドア枠に手をかけ、ゆっくり引いてみた。
 カランコロン、と美しい鐘の音が鳴り、心に一瞬、涼やかな風が吹く。
「あら。思ったより早かったわね」
 中にいた女性、母の妹である春香叔母さんが雑誌から顔を上げた。
 僕はペコリと頭を下げる。
 驚いたことに、中は本当にカフェのような作りになっていた。
 とは言えとても小さい。
 四人掛けのテーブルが二つあり、春香叔母さんはそのうちの一つに座っていた。
 奥、と言ってもすぐ目の前なのだけれど、そこにはカウンターテーブルがあって、その向こう側がキッチンになっている。
 僕の視線に気づいた叔母さんが、眉を八の字にして小さく笑った。
「お義母さん、ここで小さな喫茶店をしていたのよ。思ったより綺麗な家でびっくりした?」
「はい、もっとこう、荒れ果てた家かと……」
 叔母さんが明るい声で笑う。
 僕の母と叔母さんは顔立ちが結構似ている一方、性格はかなり異なっている。母は陸ガメのようにおっとりとした性格だが、叔母さんはカモシカのようにテキパキとした性格だ。
「私も最初相続するって聞いた時は同じこと思った。でも意外といいところでしょ? ちょっと実家を離れて、ゆっくりするのにはいいかなって」
 なるほどそういうことか、と思う。正直……かなり有難い。
 そろそろ父や母と顔を合わせるのが、結構な苦痛になっていた。就職活動をするにしても、企業の数の多い東京圏にいた方が、チャンスも増えるとは思う。
 僕は叔母に、少し深めに頭を下げた。
 叔母はそれを見てニッコリと笑い、僕に鍵の束を渡してきた。
「もう完全に私のモノらしいから、好きに使ってくれて良いよ。別にここで商売してくれても良いし。なんなら彼女さん連れ込んで一緒に住んでも良いし」
「いや、そんな人いないし……」
「あらそうなんだ? 氷雨、結構聞き上手だし、年上の女性とかに可愛がられそうだけどねえ」
「何それ? 年齢とか関係なく、女性に好かれた経験なんて一度も無いんだけど。……あ」
 うっかり余計なことまで口にしてしまった。
 叔母さんの目が丸く広がり、急に口元がニヤニヤし始めた。
「え? 何々? 氷雨まさか、Cボーイなの?」
「……何? シーボーイって」
「チェリーボ」
「やめて」
 頬が凄く熱い。
 こちらを見てぷぷぷ、と笑っている叔母さんのことを軽く睨んだ。と同時に僕は内心、少し安心していた。
 三か月前、叔父さんのお葬式の場で、僕は春香叔母さんが泣いているところを生まれて初めて見た。泣いているというより、あれは絶叫に近かった。
 自分の身体の一部をもぎ取られたって、あんなに悲痛な声は上がらないと思う。
 優しくて、ハンサムで、頭も良かった叔父さんのことを、叔母さんは深く深く愛していた。
「氷雨。恋は、良いよ。それだけで、生きる理由になる」
 突然叔母から穏やかな声が上がり、僕はまじまじと彼女のことを見た。
 叔母は優しい、そして悲しい目をして、窓の外を眺めていた。
 大切な人を失って、人間がそんなに簡単に立ち直れる訳がない。
 叔母さんが僕に振り向いた。瞳が少しだけ濡れていて、照れたような笑顔になる。
「何だろう。変な台詞言っちゃった。ま。とりあえず、就活頑張ってね。いや、せっかくの夏の海だ。『脱・独り身!』。それが、今年の夏における君の最優先課題だ」
 びしっと人差し指をさされた僕は、ため息をついて片眉を上げる。
 そんな僕をカラカラ笑って、叔母は扉に向かって歩いていく。
「それじゃ、またね。何かあったら、気兼ねしないでいつでも連絡して」
 言うなり手を振って扉から出て行く。
 もうちょっとゆっくりしていくのかと思っていたので、驚いてその姿を見送った。
 もしかしたらだけれど……叔父さんの事を思い出してしまって、早く一人になりたかったのかもしれない。
 ……突然一人になる。
 つい先刻まで、その洒落た雰囲気で温かく迎えてくれていたカフェスペースも、一人になった途端、他人の部屋として急によそよそしく、どこか作り物めいた雰囲気さえする。
 カフェスペースの奥には白い扉があり、そこの先が玄関、そして生活スペースになっていた。
 一階に和室が二つ、そしてバスとトイレ。二階には洋室が二つ。二つの洋室とも、ベッドが設置されていた。なるほど、一人で住むには十分すぎるほど広い。
 家を一度出て、ぐるりと周囲を回ってみる。
 家に隣接して、小さなガレージがあった。
 シャッターを上げてみると、中に一台の軽自動車があり、その隣にやはり車一台分位の作業スペース。そして、ガレージの壁や作業台に、様々な工具が置かれていた。
 理系畑を歩き続けて来た自分であっても、これほどの工具が一斉に集結している姿はあまりお目にかかったことがない。最近まで住んでいたらしいお婆さんのことさえ良く知らないくせに、それより大分前に亡くなったというお爺さんについては、何となくその人柄が偲ばれる。
 きっと、モノを大切にする優しい人だったに違いない。
 見たこともないお爺さんに対して、僕は少し好感を抱いた。

   それから二日後。
 僕は実家にいた三日前までと変わらず、一階の和室の一つでゴロゴロと寝ころんでいた。
 「それではいけない」という気持ちはあるものの、どうにも行動という結果に結びつかない。
 いつの間にか点けていたテレビの中で、刑事が犯人を崖に追い詰めた時だった。
 ふと何かの気配を感じて僕は起き上がり、窓の外に視線を向けた。家の前に、一人の年配の女性が立っているのが目に入った。
 まさか覗きでもあるまいし、と思いつつ、窓に近づいてみると、どうやらそもそも家の方ではなく、道路の方を向いているらしく、携帯電話を耳に当てていた。反対車線に止めてある車を時々指さして、困ったように首をひねっている。
 何だろうと思って僕は家の外に出てみた。ブロック塀から道路に出た時、ふいにその女性と視線があった。ちょうど電話を終えたところらしく、気まずそうにこちらに会釈する。つられて頭を下げる。
「ごめんなさいね。五月蠅かったかしら。ちょっと、車が故障しちゃって」
 少し身体が丸みを帯びている、五十歳後半くらいの女性だった。お洒落な花柄のシャツに白いパンツ。仕草から見ても、なんとなく品の良さそうな女性である。
「いえ、全然そんなことは……。大丈夫ですか?」
 女性は困ったように眉根を寄せて、反対車線に止まっているフォルクスワーゲンのゴルフを見た。紺色のボディの一か所が、夏の日差しを強く反射して光っている。
「それが、急に動かなくなっちゃったの。そこのお家の後藤さんにね、パッチワークの教本を借りに伺ったんだけど……。この後のお教室、今日はキャンセルになっちゃうわね……」
 言って残念そうに肩を落とす。
 何だか気の毒だ。
「あの、僕で良ければ、ちょっと見てみましょうか?」
 その申し出に、女性は目を丸くした。
「え? でも、いいの?」
「はい、お気になさらないでください。……暇ですので」
 ……本当に。
 突然平日の昼間に現れた謎の若者の申し出に、しかし女性はまるで砂漠の真ん中で水を分けてもらったかのような感謝の顔を見せた。
 正直そこまで期待してもらっても困るのだけれど、と思いつつ、運転席に乗り込む。
 セルモーターを回す。反応アリ。ただし、音がかなり弱い。
 もう一度回す。やはり同じ反応。
「分かりました」
 車から降りて来た僕に、女性は先ほどより更に目を丸くした。
「えっ? もう?」
「はい。多分バッテリー切れですね。もしかしたら、エアコンつけっぱなしでしたか?」
 女性は一度顎に手を当ててから、そういえば、という感じで頷いた。
「あ~。やっちゃったわ~。またロードサービス。一万円が飛んでいく~」
 がっくりと肩を落とす。
「ジャンピングスタート出来るか試してみましょうか?」
 女性は聞きなれない単語だったのか顔に「?」を浮かべたが、どうも僕が何かしら修理的なものを申し出ているというのは理解したらしく、「いいかしら?」と控えめに聞いてきた。
 ガレージにあった車の状態を確かめてはいないのだが、運が良ければ簡単に直せるはずだ。
 僕はガレージの車にキーを挿し、エンジンがかかった瞬間、ほぼ勝利を確信した。
 僕の車(本当は叔母の車なのだけれど)のバッテリーと、女性の車のバッテリーとをブースターケーブルでつなぎ、僕の車のエンジンをスタート。暫く充電してから女性の車のエンジンをかけると、ドイツ車の低く太いエンジン音が鳴り響いた。
「凄い凄い! 何、あなた車に詳しいの?」
「いえ、その、大学の時、機械系の学部にいまして……」
 突然褒められてしまい、後頭部をポリポリかきながらボソボソと返す。
「本当に助かったわあ。パッチの教室にも間に合うし。これ、お礼だから取っておいて」
 女性は突然、大きな財布をパカリと開け、一万円をこちらに渡してきた。
「い、いえっ。こんなにもらえません。そんな大したことしてないのに」
「でもロードサービス呼んでいたら、同じ金額とられた上に、パッチのお教室に間に合わなかったんだもの。いいからいいから、ね? 気持ち」
 ぐいぐいお札を押し付けられて、断るのも逆に申し訳ない気持ちになってくる。
「ではすみません……。遠慮なく。ありがとうございました」
「何言ってるのよ。お礼を言うのはこっちの方、それじゃ、私行くわね。本当にありがとう」
 女性はそう言って車に乗り込むと、一度窓越しに手を振って、坂を上がっていった。
 手の中の一万円をしげしげと見て思う。……これは、いけるのではないだろうか?
 どうもこの辺には、ご高齢の方が多く住んでいるらしいことは、この二日のうちに理解していた。車だけではなく、エアコンやテレビ、そういった修理の仕事を始めてみたら、そこそこ依頼が来るのではないだろうか?
 もちろん就職が決まるまでの間の繋ぎのつもりだが、得意なことで人の役に立てるならば、それはとても嬉しいことだ。幸いなことに、道具だけはガレージに山のようにある。
 僕は家に入ると、早速地元紙への掲載の方法を調べ、ウェブサイトの製作にとりかかった。

 思い立ったが吉日で、車の修理をしたその日に、「由比ガ浜機械修理相談所」は立ち上がった。
 もちろん登記さえしていない、名ばかりの組織。
 何でも屋と変わらない。できそうな仕事は引き受け、できなさそうなら断る。
 競争優位は店長が暇なところ。
 すぐに駆け付ける迅速性、そして、手厚いアフターサービスが自慢、になる予定だ。

 そして三日。
 やって来たお客は一人だけ。それも最初の日に一人。
 この唯一の客は、僕にこの商売について大きな期待を抱かせた。
 何せ開店初日で客が来るとは思っていなかったのだ。
 三日前の僕は、我ながら自分の先見性の鋭さに感嘆を禁じえなかったものである。
 依頼された犬型ロボットの修理を無事に終え、最初のお客さんの嬉しそうな笑顔を見た時、僕は自分の選択が間違っていなかったと確信した。
 そして今。
 ……僕は何をするでもなく、カフェスペースの机にべったり寝そべっている。今日も朝からうだるように暑く、机に張り付いた左頬はべっとりと汗ばんでいた。
 お客さんが、来ない。
 「先見性」などよくもそんなアホなことを考えていたものだと思う。先天性のアホの間違いではないだろうか。
 僕は家、というよりカフェの入り口をぼうっと見る。
 ドアベルが涼しい顔をしてこちらを見ている。
 音が聞きたいならお前が鳴らしに来い、と言っているかのようだ。悔しいので、今日は終日勝手口を使おう。
『カランカラン』
 綺麗な音が唐突に響き、僕は驚いて顔を上げた。
 ドアから、一人の男性が入って来た。
 年齢は五十歳くらいだろうか。このクソ暑い中、紺色のネクタイをきっちり締め、黒いスーツのジャケットまで羽織っている。右手に、小型の黒いボストンバックを持っていた。
 髪はオールバック。目つきは鋭く、まるで狼の群れのリーダーのよう。
 ヤクザ? と一瞬思って身構える。
 その時、男性の後ろから、もう一人部屋の中に入って来た。
 その人を見て、僕の心臓に穴が開いた。
 美しい女性だった。
 その人の髪は、まるで光を放つかのように美しいプラチナブロンドで、そしてその人の瞳は、澄んだ青い色をしていた。
 僕のかつてのボス、ブラックアイリス社の社長だった佐藤菖蒲(さとうあやめ)は、その青色を、「青三十八号」と呼んでいた。名前の通り、彼女が思考錯誤の結果作り出した三十八番目の青色だったからだ。
 その色は人をして、夕焼けに残る青空の色、と言われる。
 夕焼けに焼かれる空の赤。夜に染められる空の黒。そしてその中間に、ほんの少しだけ伸びる優しい青の色。それが、青三十八号の目指した色だった。
 見る人に、安らぎと癒しを与える色。
「TOWA(トワ)」だった。
 部屋の中に入って来た彼女。白いワンピースに、麦わら帽子をかぶっている。
 あまりにも人に似すぎた外見。もしここが青い目やブロンドの髪が珍しくない国だったなら、彼女のことをまさか機械であるなどと疑う人間なんていないに決まっている。
 彼女は、かつて僕が働いていた会社、ブラックアイリス社の作り出した主力ヒューマノイド「TOWA」だった。
 呆然とする僕を一度不思議そうに見て、最初に入って来た男性が口を開く。
「ここは、由比ガ浜機械修理相談所、であっているだろうか?」
 その声にはっとして、僕は「はい。……そうです」とやっとのことで返事をした。
 喉が、ゴクリと鳴った。



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