2(クウェンサー/学園都市)
「ハッ!?」
もごもごと音を立て、分厚い布(?)に包まれたままクウェンサーが目を覚ますと、そこは灰色の高層ビルと三枚羽の風力発電のプロペラが並ぶ不可思議な街だった。
大の字でしばし瞬きする。
クウェンサーの目から見ても近未来的な街だが、辺りを行き交う女性の合成音声や看板の文字などは読み慣れないものばかりだった。カンジ、ヒラガナ、カタカナ……雑多に混ざるものは流石に読めないが、まるで何かのオマケみたいにアルファベットが寄り添っているので、かろうじてニュアンスは掴める。
(……東洋、言語? 何だっ、一体何が起きた。まるでライブラリ映像の『島国』みたいじゃないかっ)
慌てて起き上がると、そこは巨大なスクランブル交差点だった。
市街地作戦演習用に造られたかきわりだらけのスタジオセットではない。
そして遠巻きに多くの人々の視線が突き刺さる。そのほとんどが中高生だった。サイコロを一〇回振ったら全部一だったような、統一が取れているが故の歪さに背筋が凍る。そもそも『島国』は『資本企業』所属だ。相手は民間人とはいえ、丸腰で取り囲まれるのはまずい。いいや、下手すると額に鉛弾一発より悲惨な事になりかねない。
「わっわっ、わわっ」
思わず両手で自分の顔や頭を覆うようにわたわたと振るクウェンサーだったが、
『ぶーぶーとんとん。みんな食べちゃうぞ、じゅるり』
なんか自分の声が変な風に歪んだ。違う、響きの問題だ。肺から喉へというより、お腹から頭のてっぺんに向かって変な風に振動が抜けている。そのせいで自分でも聞き取りにくい音の塊になってしまっているのだ。
たとえるなら、人間の喉の動かし方でライオンやペンギンを操るような。
それで思い出す。今の今まで自分が灰色の巨大な豚の作り物を着ていた事に。あまりのフィット感に状況を忘れるほどだし、改めて背中に手を回してみれば感触がない。何の? ファスナーのだ!!
「ちょお!? なっななな何だっ、ちょっと待て、これ何だ!? 怖いっ、一体どこに埋もれたんだファスナー!?」
『誰から食べようかな。柔らかそうな子が良いかな。ぶー、でもな、オレサマは偉い子だから好き嫌いはしない、残さず食べちゃうのができるオレサマ!』
そして周囲の様子がおかしい事に気づく。
作り物の豚を被っているとは思えない、得体の知れない臓腑の震えを感じるくらい全身をくまなく声の振動が貫く中、ひそひそ話す連中の目つきに明らかな敵意が滲み出ていた。
捻じ曲がった音はもはや意味をなくしている、と思いきや、改めて思い返してみれば確かに東洋言語っぽい。洞窟の中を反響する風の音がすすり泣きに聞こえるように、おかしな波長のぶつかり合いがたまたま彼らの言葉に良く似ているのかもしれない。
とにかくこれ以上悪化を促すのはまずい。慌てて口を閉じて馬鹿でかい口元を作り物の手で塞ぐ。なんか湿っていて熱かった。顔についてもそうだが、作り物の大きな手でそれを知覚できた事にも二重に驚く。
密着している、というより。
そのものになってしまった、というか……?
(……ヤバいぞ、何だこれ、今回はなんか決定的に流れが違うぞ!)
作り物の豚の中を反響する音がたまたま彼らの言葉に近い波長を作り出している。まるで犠牲者を詰めて外から火で炙ると絶叫が牛の鳴き声に聞こえるといわれたファラリスの牡牛だ。とりあえず無用な混乱を防ぐため、クウェンサーは必死で自分の声を押し殺す。頭の中だけで疑問を整理しようとしていく。
だが彼は気づくべきだったのだ。
不穏な沈黙は、時に雄弁に語る以上に負の感情を相手に誘発させると。
「もしもし、ちょっとよろしいですか? 風紀委員ですの」
年端もいかない、だが確実に嫌悪感の混じった少女の声に呼び止められた。言葉の内容までは分からない。明らかに敵意を持った高圧的な眼差しなのは間違いないが……。
(ていうか、もしも本当にここが『資本企業』の一員、『島国』だとしたら、身柄の要求をしているのかも。俺が『正統王国』だってバレたら銃殺……か?)
……ぐるぐる頭の中で粘ついた考えばかり脳裏をよぎったが、つまり答えは一つしかなかった。
「逃げるーっ!!」
『ぶー。お前黒いレースのひらひら死ぬほど似合ってないぞ』
ぬわんですってえ!! という叫びを背中に叩きつけられながら、クウェンサーは慌てて走り出した。早い、とんでもなく早い。完全に平素の全力を軽々と超えていた。
「一体何が起きてるってんだ!? 明らかに俺の体になってるぞ。脂肪とか筋肉とかがそのまんま拡張されているっていうか!!」
『ぶっぶっぶー。お嬢ちゃんはくまちゃんパンツが良く似合う。だってまだまだ子供だもの』
(ああくそっ、そしてまた腹の奥から頭のてっぺんまで変なルートで音の振動が突き抜けてる! なんていう風に思われてんだっ、せめてそれを教えてくれ!)
走る場所はアスファルトに留まらない。何しろ危機意識の低い『島国』の連中は四メートル弱の巨体がどすどす近づいてきても避けようとしない。みんな棒立ちで、下手すると携帯電話やスマホを真正面からこっちに向けてくる。ビルの壁、風力発電の柱、看板に街路樹。色んなものを蹴って重力の縛めを打ち破り、ピンボールみたいに跳ね回ってそうした人の壁の真上を飛び越していく。
「わたくしの空間移動からそう易々と、あら、そう易々と逃げられるかって言っているのにっ、ああもう密集地帯に逃げ込むから移動しにくい!!」
真後ろから迫る声は時々不自然に歪んでいた。走りながら後ろを振り返ってクウェンサーはぎょっとする。なんかツインテールが消えた。フィルムのコマが不自然に抜け落ちたように、走っている途中で唐突に見失ったかと思えばどう考えても辿り着けない場所に浮き出ている。見間違いとかではなく、それが頻繁に起こる。
クウェンサーはやはり二つの可能性を頭に浮かべた。
・彼の感覚器官に何かしらの異常が起きている。
・ツインテールは本物だ。彼女は空間を跳躍できる。
どっちにしたって恐ろしい。だがそうしている間にも体は勝手に動く。後ろを振り返りながら列車より早く走り続けているのに誰ともぶつからない。時に歩道を爆走し、時に車道を走る車の屋根へ気軽に飛び移り、信号待ちの横断歩道も気にせず越えていく。
「ああもうっ、どこ行きましたのー!?」
言葉は分からないがイラつかれている空気は嫌というほど理解できた。いかに空間を無視する存在とはいえ、標的指定には従来の五感を利用するらしい。高架の下を潜ると見せかけて垂直に飛び、その裏に張り付いたらツインテールは気づかずに走り去ってしまった。
が、一番驚いていたのはクウェンサー自身だった。
(……マジかよ。これ自分でやったのか)
これができてしまう、いいや頭の中で的確に次の足場を思い浮かべられる段階から、すでにクウェンサーは戦慄していた。
単に体の話だけでは留まらない、思考の部分から介入は始まっている。
高架の裏に三点で張り付いたまま、嫌な汗を拭う。それは内部に潜ったクウェンサーの話ではなく、灰色の巨大な豚の顔だったと遅れて気づく。じっとりした豚鼻は作り物とは思えない。
と、そろそろ降りようかなと思った矢先だった。
バタバタバタ!! と嵐の夜に窓を開けてカーテンが翻弄されるような音が響き渡る。音源に首を振ると、同じ高さで機械の瞳と目があった。黒塗りの装甲板の塊に高速回転して空気を引き裂くメインローター、挙句に細身の機体の左右から伸びた懸架翼にぶら下がった、戦車のように無骨な六門の砲身。
「攻撃ヘリ!! しかし何だあのメチャクチャなレイアウトは!?」
『ぷきー。鉄は硬くて美味しくなさそうだな。オレサマお肉の方が好き』
まるでモーターショーで出品される採算度外視のコンセプトカーのようだった。しかもそれだけに留まらない。地上では地上で機関砲つきの一〇輪装甲車が車道の流れを無視して高架下を陣取り始めた。
疑問はある。
だが、なまじ相手が『軍用』を持ち出してきた事で、クウェンサーの頭はかえってクリアになった。疑問の前に行動、という分かりやすい方向に意識がシフトする。
すでに新たな手足に振り回される事はない。
何本もレバーやペダルがずらりと並ぶクレーン車なんかと違って、何かを操っている感じもしない。完全に自分の手足だ。それもそれで気味が悪いが、今はとにかくこの状況を乗り切ってからだ。
「……、」
三点で張り付いたまま、灰色の豚が高架の裏を思い切り蹴飛ばす。その反動で流星のように落ちた。狙いはまず装甲車。元々弱点である屋根をさらしているのだ。空中で身をひねり、巨体の重量を全力で乗せて足から落着すると、車体全体が深く沈み込んだ。単にサスペンションが優れている、なんて話に留まらない。明らかに屋根がひしゃげ、件の機関砲が空き缶みたいに潰れている。
そして攻撃ヘリにとっては、真下の腹が弱点だ。多少の防弾プレートで補強しても、離着陸のためにもここに武装を固める機体はそうそうお目にかかれない。
沈んだ装甲車から身を引き剥がすように、もう一度。クウェンサーは強靭極まる筋肉を使って真上に。まさにピンボールであった。跳躍の直後に機関砲からの誘爆でもあったのか、派手に装甲車が爆発する中、人身豚面はヘリの真下にぶら下がる。
着陸用の支持脚にしがみついている訳ではない。ヘリの腹を太過ぎる右腕がぶち抜いていた。
バランスが崩れる。
クウェンサーが両足を前後に振って勢いをつけると、鉄棒のように攻撃ヘリごとぐるりと視界が回った。主導権を得る。どこに落とすのが安全か、冷静に考える頭さえあった。さらに二回転ほど縦に回って遠心力を得てから、灰色の豚は右手の先から攻撃ヘリを解放する。鋼の残骸は客足の悪いコインパーキングに落ちて大爆発を巻き起こした。
風力発電の柱のてっぺんに立ち、黒煙に目をやりながら、クウェンサーは考える。
(……無人機か? やられる間際にも混乱する様子はなかったし、何より人の焼ける匂いがしない……)
もしそうなら幸いだし、人が乗っていたとしても『軍用』の使い手だ。非戦闘員ならともかく、『島国』の敵兵相手に情けをかける理由は特にない。
と、そんな風に考えるクウェンサーの耳に、今さらながら月並みなパトカーのサイレンが聞こえてきた。
(やべっ、逃げなきゃ!)
不思議なものだが、『軍用』相手にシフトしていた意識がそれで再び一般社会に戻ってきた。クウェンサーは柱から飛び降り、再び逃走に入る。
3(ヘイヴィア/グランズニール)
イケメンの皮を被ったヘイヴィアもヘイヴィアで、広い大自然のど真ん中で呆然としていた。
(……何だ、ここ?)
潮の香りがする。海辺か、あるいは島か。それにしたってこの森は自然が濃過ぎる。今時、秘境の中の秘境だって四駆の轍や排気ガスの残滓くらいは残っているし、上空にはカトンボみたいなドローンが飛び交っているし、保護動物の腹の中にはICチップが埋まっているものなのに。
(火星の砂漠じゃねえんだぞ。こんなに人の匂いがしねえ森なんてアリなのかよ……?)
そもそも辺りに生い茂る木々から地面の草花、這い回る虫の一匹まで、見覚えのあるものが一つもない。これもまた衝撃だった。自分のサバイバル知識が全く通用しない。
その辺の茂みをがさりとかき分けて、絶滅したはずの首長竜が顔を覗かせても『安心』する自信がある。だってそいつは『同郷』だから。だけど一面の無害な草木にはそんな安心感さえ備わっていない。月の裏側はこうなっていました、くらいの絶望的な疎外感を覚える。
だけど、実際にやってきたのはそんなものではなかった。
女の子だ。
赤と銀の長い髪に、鎧の装甲とミニスカートを組み合わせ、たよう、な……?
実用性は皆無。
背中も含めて全体を見ればむしろ肌の露出面積の方が赤い装甲よりも大きい。一瞬、『貴族』向けの馬上槍大会のコンパニオンを思い浮かべるヘイヴィア。それくらいしか合理的に説明できる案を並べられない。
そして心の底からどうでも良かった。
目の前に水着同然の年若い女の子がいる。しかも今の自分は何故だかイケメンの顔を借りている! つまり何やってもバレない!! 旅の恥はかき捨てでござる!!!!!!
よってヘイヴィア=ウィンチェル上等兵に迷いはなかった。名門『貴族』の者だという前提も忘れ、まるでヒッチハイクでもするように親指を立てて全力の笑顔で語りかけた。
「へーい!! 誰だか知らねえがイケメンにしか許されない無礼講モードでぶつかられたくはねえかーい!?」
……。
……。
……。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………、」
あ、あれ。なんかヤバい?
まずい、ガワだけイケメンじゃあ一切警戒を解かないお嬢さんと見た……!?
だがヘイヴィアとて日々鉛弾や砲弾が飛び交い、銀髪爆乳の蹴りとお姫様の冷たい視線に背中を刺され、悪友と一緒になって何だか知らない内に二〇万トンの鋼鉄の塊を吹き飛ばしている身の上。そうそう滅多な事では取り乱したりしない。
そう、例えば。
ボンッッッ!! と炎が酸素を喰らう凶暴な音と共に、いきなり赤い少女の右半身が恐るべき炎に包まれたりしない限りは。
「ぎっ、ぎっ、ぎにゃあああああああ!? 美少女の人体発火丸焼きフルコースなんて俺にはまだ早すぎるうー!!」
微妙にズレたところで恐怖を覚えるヘイヴィアの前で、体の半分を火柱にした少女が悠々と腰からレイピアを抜く。まるで油でも塗ってあったかのように刃に炎が伝う。
地獄の家庭教師軍団が作成した歴史のテストにおいて、電球を発明した人は誰かという問いに『カッパ。光っているから』と真顔で書き込む程度の彼にも分かる事がある。
「イケメン死すべしかよ!? 今回は流れが違うッッッ!!」
余計なことを言っている間に大爆発が起きた。
4(クウェンサー/学園都市)
やはり四メートル弱の豚はとにかく目立つ。
一度撒いたと思った茶髪のツインテールと、その後何回鉢合わせた事か。
「ヤバい、ヤバい。あの地獄のツインテールがヤバいのか、あんなのから逃げ切った俺がヤバいのか……」
『ぶー、ぶー。やっぱり貧乳は美味しくない。脂肪が多い方が美味しそう!』
巨大な豚はビルの屋上に身を乗り上げていた。ざっと一〇階建て以上。だっていうのにこの豚ときたら、一瞬の事だ。ビルの壁と風力発電の柱をジグザグに蹴って飛ぶだけで、あっという間に屋上まで到達していた。
すごいけど、クウェンサーは不安だった。
これは何だ? こんなのが一〇基も二〇基も量産されたら整備基地だって結構ヤバい事にならないか、と。
「……どっ、どこへ行きましたの! わたくしの空間移動から逃げ切るだなんて一体どんな手品を使って―――」
何やら東洋言語で叫びながら地上の路地を走り抜ける少女に、屋上の豚は慌てて口を噤む。
おかしいと言えば、あの少女も負けず劣らずだ。どんなトリックを使ったか知らないが、途中で何度か目の前から『消える』ところを目撃している。
流石に人身豚面の五感がおかしい可能性は排除していた。むしろ平素のクウェンサーより何倍も調子が良い。特に嗅覚は、この距離からでも少女のうなじの匂いをうっすらと嗅ぎ取れるくらいだ。
(……ありゃあエスパー開発か、あるいはそう見せかける演出のお勉強会? 操縦士エリートにそういう実体以上のカリスマを植え付けたがるのは『資本企業』っていうより『信心組織』の方がらしいけど……まあ『島国』だもんな。色々文化が混ざっていても不思議じゃないか)
ぱたぱたという軽い足音は去っていった。あの地獄のツインテールがホッケーマスク被った殺人鬼の系譜とかでない限り、不意打ちのいないいないばあが襲ってくる心配はないだろう。今度の今度こそ、ひとまず撒いたようだった。
「ふうー」
『ぷきー……』
そっと息を吐く。巨大すぎる手で背中をさすっても、相変わらずファスナーの感触は掴めない。いや、本当に今でもファスナーはあるのか。物理的に考えれば当たり前のはずの答えが、どうしてもクウェンサーには出せなかった。出すのが怖い。
そして状況はゆっくりと考えるだけの時間を馬鹿に与えてくれなかった。
それはまたもや少女の声。
「びびび。びびびびび」
東洋言語だろうが何だろうが関係なかった。びびびは万国共通できっとヤバい。
(……冗談だろ。電波受け取ってる系でしかも自分で効果音つけているのかよ!?)
振り返りたくない。だがそのままにしておくのも怖い。あるいは背中のファスナーの有無が吹っ飛ぶくらいの黄色信号だ。赤か、青か。振り返った先で何かが明確に切り替わる。
庭先にスズメバチがたくさんいておっかないけど、バスケットボールみたいに大きな巣が見当たらない。どうも冷静に考えると家の中、物置辺りでブンブン鳴ってないか? といったような心境。
(確かめたくねえーっっっ!!)
どうにもならなかった。
巨大な灰色の豚はえらく人間臭い動きで背中を丸め、恐る恐るといった調子で首を回す。己の肩越しに現実をチェックしていく。
そこにいたのは、東洋人らしい黒いおかっぱに、死んだような無表情。そして部屋着なんだか外着なんだか判断の難しいピンクのジャージ。
「こんにちは、ボンジュール、ぐっどあふたぬーん、ニーハオ、うん? グッドアフタヌーン。うんうん」
いくつか言葉を並べられ、聞き慣れた英語の辺りでぴくりと反応してしまったのが運の尽きか。
近未来こけしはスピークイングリッシュでかく語りき。
「……南南西から信号が来てる。うん、そこのあなた」
(いやーだァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?)
5(ヘイヴィア/グランズニール)
逃げていた。
一体何から。答えは一人の少女からだ。
こうしている今も全力で森の木々の合間を縫って走り続けるヘイヴィア目掛けて曳光弾じみた光の球体が次々に撃ち込まれてくる。それらは大きく弧を描いて天高くから雨のように降り注ぐ。地面や太い幹にぶつかると勢い良く爆発し、ちょっとしたクレーターを生む。この密度、何もない平原なら頭を抱えて伏せてもタコツボに逃げ込んでも即死確定だっただろう。それでもヘイヴィアが死なずに済んでいるのは、
(爆発物は瞬発設定の砲弾みてえなもんか。地上に落着しねえで背の高い木の枝にかなり引っかかってる。見当違いな高さで爆発してんのも珍しくね―――)
「……ぼごあっ!?」
インテリぶった事を考える馬鹿に天罰でも下ったのか、枝の隙間を潜って光球の一つがまともにヘイヴィアの頭の上に落ちた。大爆発と共に走っていたはずの体が地面に叩きつけられ、身の丈よりも大きくバウンドする。
こんな時までイケメンはキラキラしていた。
いいや、というか、黒焦げになっていない。なんか背中から生えた白くて巨大な盾みたいなので守られている。
「っと、うわっ!? 何だこりゃ!」
跳ね上がっていた状態から羽の一枚が地面へ突き刺さり、空中で縫い止められる。勢いを殺してから足を地面に押し付け、そしてヘイヴィアは首を傾げた。
(……い、今のもスキンの機能か? どんだけ薄くて自由に動く素材なんだっ、これなら何でもありじゃねえかふはははー!!)
もういちいち逃げるのも面倒だ。というかこうなったらあの露出の多い鎧少女に少々キツめのお仕置きかましたい。そう思って頭上を見上げるヘイヴィアだが、それ以上何も起こらなかった。冷静になったらどうやってさっきの羽を出して動かすのか、方法も分からない。手や足を動かすのとは頭の使い方が違うのだ。
「くそっ、最新のスマホじゃねえんだ! 分厚いマニュアル省いてんじゃねえ!!」
何にせよやっぱり全力で逃げるしかなさそうだ。
加えて、爆風主体で辺りに燃え広がらないだけマシだが、今はクリーンもエコもどうでも良い。遮蔽に隠れてもいっしょくたに削り飛ばされる。材質不明の羽はいつの間にか引っ込んでしまったし、このままだとイケメンの顔を被ったまま五体バラバラにされる。ニヒルな二枚目スマイルがひっついたまま、体重分の人肉をかき集めていっしょくたに棺桶へぶち込まれかねない。
「冗談じゃねえぞ、くそっ!!」
髪もジャケットもドロドロにし、未舗装の緩やかな斜面を転がるようにしながらとにかく逃げ続ける。
榴弾砲を備えた装甲車や攻撃ヘリから、ではない。前述の通り、そして恐るべき事に、相手はあくまでもただの人間だ。華奢な少女だ。武器らしい武器は右手に掲げたレイピアだけだが、あれをどう使えば連装ロケットを使った本隊進軍前の地均しみたいな真似ができるのか全く想像がつかない。
しかも、
(本気じゃねえ)
ごくりと、イケメンの抜け殻の中でヘイヴィアは息を呑んで、
(あそこまでやっておいて全然本気じゃねえっ。真面目に追い駆けてくる様子もねえ! こんなんで片手間、だと? あの女、一人で何回戦争起こせるってんだ!?)
この関係はまずい。
チョキではグーに勝てないように、どうやっても覆せない。戦っても逃げても結果は同じ。一方的に削り殺されておしまいだ。
(何か、誰か……とにかく何でも構わねえ。パーはねえのかっ! よそからなんか来い、今すぐやって来い!!)
ひょっとしたらそいつはさっきの『羽』も当てはまったのかもしれないが、ひとまずあっちは保留だ。暗証番号をうっかり忘れてしまったクレジットカードにしがみついてもレストランの支払いはできない。カバンの底でも漁ってくしゃくしゃの紙幣が紛れていないか調べた方が建設的である。
多数の爆炎に身をさらされながら、ヘイヴィアは祈るようして走り続ける。『それ』が具体的に何なのかは分からない。どこにあるのか、どんな形をしているのか、どうやって活用するべきなのか、何もかも。
だから祈りなのだ。
計算はない。だが確率論や統計の話がちらついている。自分で手を伸ばさない者の成功率は〇%で固定だ。たとえ小数点以下でも可能性を動かしたいなら、闇雲で構わないからとにかく探すしかない。探し回るしかないのだ。
「んっ?」
やがて、それが一秒なのか一時間なのか体感時間は完全に狂いまくっていて何の参考にもならなかったが、とにかくヘイヴィアは小さな変化を掴んだ。
サラサラという涼やかなせせらぎの音だった。
清流がある。助走をつければ跳び越せそうなくらいで、飛び込んでも身を隠す事はできないだろう。だがヘイヴィアはチャンスだと思った。そのまま清流に沿って針路を変える。若干の希望が立て続けの恐怖と疲労をわずかだが麻痺させてくれる。
炎に対して単純に水を思い浮かべたのか。
川の周り、水辺には多くの生き物が集まる。彼は打開策に生物的な何かを連想していたのか。
それは分からない。
ヘイヴィア自身『それ』が何なのか定義しないまま走り続けているからだ。
結局は、統計と確率論だった。
つまり、偶然とやらとかち合うための努力をどれだけしてきたかで、何かのレールが切り替わった。
「ぶー?」
何かが唸った。
いいやそいつは確かにヘイヴィアにも分かる人語で、インコのようにただ音を真似て繰り返すでもなく、意味を理解する知性を備えた声色でそう『言った』のだ。
「どうしたお前、あちこち泥だらけだぞ。ぶーぶーは知ってる、人間は変化に弱いから綺麗にしていないとすぐ病気になるんだって。お前気をつけろ」
「なん……ッだ!?」
単純に『それ』だという確信があった訳ではない。だけどヘイヴィアは思わず立ち止まっていた。
水辺で井戸に落とすような取っ手付きの木桶で水を汲んでいたのは、灰色の人身豚面。身の丈は四メートルに届きそうなほどの、強靭な筋肉の上からでっぷりとした脂肪を張り付けた、あまりにも大きな異物だったからだ。
(あっ、ああ? クウェンサーのヤツが被っていた豚野郎が他にも? でも、だって、え、そうじゃなかったら、え……???)
これまでも辺り一面に生い茂る木々は一つとして見た事のあるものなんかなかった。そもそも背後から追ってきている火柱女だって、人間にできる所業なのかはスーパー疑問だ。でも、だけど、今度のはスケールが大きすぎる。違和感が許容の限界を超えて右脳と左脳がぱっかり割れて、馬鹿が天才になってしまいそうな頭痛に襲われる。
やはり、具体的な事は分からない。
だけどこいつは『破格』だ。ひょっとしたらヘイヴィアの信じてきた世界を丸ごと破壊しかねないほどに。
(どっちが勝つだの負けるだのじゃねえ)
判断は一瞬だった。
(とにかく後ろからやってくる火吹き女とこのデカブツをカチ合わせれば隙ができそうだ。その間に逃げられれば御の字! それ以上は望まねえ……!!)
「ぶー? どうしたお前」
相変わらずこの状況でも呑気な人身豚面。いける。何もしないで放っておいても勝手に戦闘が始まりそうだ。
そんな風に思っていた矢先、ぞわりと背中が蠢いた。何か危機的な存在を前に、あの『羽』が顔を出そうとしている。
「ぶーぶーに……」
真後ろから怨嗟の声があった。
今まで一度も聞いた事のない、美しい少女の声。
「……意地悪しようとするんじゃないっ、このさわやかボケナスがァァァあああああああああああああああああああああああああああ!!」
ただし、堪能している暇などなかった。
得体の知れない翼が飛び出すより早く、イケメンが丸ごとひしゃげる勢いで鈍器が顔いっぱいを埋め尽くした。首の辺りで嫌な音が響き、後ろに仰け反ってから、それが金属製のブーツの足の裏だとようやく分かる。
かなりの距離はあった。
それを一瞬で詰められた。
赤い少女の背中から炎でできた翼のようなものが広がっているのに気づいたのは、随分後の事だった。
それからぶっ倒れる直前、飛び蹴りを放った少女のミニスカートがハードにめくれて中の下着を目にしていた。見た目清純派なのに結構きわどい。
きっと今なら言える。
不可抗力だ!!