【第〇章】



「ゾンビと吸血鬼って、本気出したら勝ち負けとか決まるのかな」


 そんな話が出たのは入浴後の一幕だった。

 お風呂上がりっていうのは誰でも自然とケータイをいじくるものだと思う。『夕食なう』とか『散歩中』とか、割とどうでも良いSNSのメッセージはひっきりなしに飛んでいて、ちょっと目を離した隙にポンポン新着メッセージが溜まっているからだ。こんなものでも返信しないとみんなへそを曲げるので馬鹿にもできない。

 が、その日は少々事情が違った。

 一足先にお風呂に入っていた妹のアユミが、リビングのソファに寝転がったままアイス片手にこんな風に言ってきたのだ。

「テーブル置きっぱのスマホ、何度かぶーぶー震えていたけど。通話の呼び出しっぽかった」

「ん」

 何となくアユミの顔から目線を外しつつ短く答える。中学生のアユミは、ええと、なんていうか、目のやり場に困る格好だったからだ。黒髪は前髪をぱっつんと横一文字に切り、さらに長い髪をツインテールにして、先端をくるくると巻き髪仕様にしていた。成長途中の薄っぺらい身体を覆っているのは薄手のキャミソールとショートパンツで、寝転がっているだけで薄桃色に上気したお腹や太股の付け根近くまでばっちり見える。

 でもって顔と言わずお腹と言わず手足と言わず……とにかくあっちこっちに、出来損ないのぬいぐるみみたいな縫い痕がびっしり。


 別に深刻な闘病生活を送っているとかじゃないんだ。

 ただアユミがちょっとゾンビなだけで。


「んもー!! あつい、あっつい! 念入りに念入りに身体の水分も拭ったはずなのにあっちもこっちもベタベタするし、腐る、身体が腐っちゃうー!!」

「バタバタ暴れたってアイスは一日一本だ」

「ならお兄ちゃんちょっと扇いで! うちわ一つじゃ全然足りない、今はとにかく人手が欲しい!!」

 ソファに寝転がったままぐいぐいとうちわを押し付けてくる妹だけど、あれ、困ったな。キャミがぶかぶかなせいで、首元から慎ましいおっぱいがちょっと覗けそうになってる。

「それよりほんとに痒くなってきたら、防腐剤を使った方が良いよ。あれ冷やしてから血管通して点滴すれば体温が一気に下がるって話だったじゃないか」

「ふぐうー……」

 何故だか唇を尖らせるツイン先端縦ロールまたはバターロール。

 と、対面のソファで優雅にくつろぐ『もう一人』がにこやかな顔でこう口を挟んできた。

「違いますよ。アユミちゃんはまだまだサトリくんに甘えたいだけなんですものねー?」

「ちっ違いますう!! ほんとに暑くてどうにもならないんですう!!」

 大声で言われてもエリカ姉さんは笑顔を崩さない。

 こっちは腰まである長い金髪を豪快に縦ロールにしたグラマラスな美女で、目つきはおっとり系。学年はぼくより一個上。だけどアユミのヤツが成長したってこういう風にはならないんじゃないかって思ってる。

 でもって、姉さんの方も目のやり場に困る。寝間着なんだか下着なんだか良く分からない、地肌がはっきりと透けて見える薄い桜色のネグリジェを纏っていたからだ。

 この人は何で生徒会長をやっていないんだろうってくらいパーフェクトな人で、奇麗好きでやたらお風呂が長い事を除けばほぼ欠点がない。いやまあ、アユミのカラスの行水が長所なのかと聞かれるとこれまた微妙ではあるんだけど。

「お姉ちゃんはお姉ちゃんでさっきから何しているのよ?」

「お父さんもお母さんも外の突風のせいで電車が止まっちゃって立ち往生って話だったでしょ。お姉ちゃん、今かまだかと防災グッズの出番を待ち構えているんですけどっ☆」

 テーブルの上には缶詰の山に、蝋燭、携帯ラジオ、あとヘルメットやロープの束まで。でも缶詰の中身はパイナップルや白桃ばっかりだから、あんまり長生きはできなさそうなチョイスだと思う。

「停電なんて滅多に起こらないとは思うけどねー。なんてったってここは供饗市だよ?」

「うふふ、でもでも心躍るのは何故ですかね」

「お姉ちゃん、本気で停電の心配するなら、まず冷蔵庫の中身クーラーボックスにでも移したら? だって血液製剤とか代用血漿とかがおじゃんになったら困るでしょ」

 アユミは溶けかけたバニラアイスをガジガジ齧りながらそんな風に言う。

 ああ。ちょっと難しい話が出てきたけど、これはそんなに重たい話じゃない。


 別に深刻な闘病生活を送っているとかじゃないんだ。

 ただ姉さんがちょっと吸血鬼なだけで。


「……、」

 何でこんな事になっているのかは、実はぼくにも分かっていない。

 父さんの再婚話が持ち上がって、二人が新しい姉妹になった時には、もうアユミはゾンビで姉さんは吸血鬼だった。

 きっと何か深い訳が文章で書いたら各々四〇〇ページくらいあるんだろうけど、今はそんなのはどうでも良い。付き合い方さえ間違えなければガブリと噛まれる事もないんだし。

 ネグリジェの姉さんはおっとりした調子で、

「それより、サトリくん? アユミちゃんが言ってた通り電話がぶーぶー震えていましたけど、折り返さなくて良いんですか」

「そうだった、ちょっと失礼」

 テーブルの上のスマホを取って、何となくリビングから対面キッチンの方へちょっと離れる。着信履歴を呼び出して一番新しいモノに指先で触れてリダイヤルすると、聞き覚えのある声が飛んできた。

『ごめん、なんか立て込んでいたかしら?』

「大丈夫だよ。それよりどうしたの委員長」

『明日の件』

 そんな風に言う少女は、実はぼくのお隣さんだ。おでことメガネの幼馴染み。エリカ姉さんやアユミと違って、彼女は普通の人間である。

『十中八九例のごうごう風のおかげで休校になるとは思うけど、一応、宿題とかはちゃんとやっておかないとダメよ。ピーカンの青空見上げて絶望したって、私はノート見せてあげないからね』

「うへー」

『それに、たとえ休校になったって遊び呆けているのはダメだからね。むしろ先生が時間管理してくれない分、自分できっちり勉強しなくちゃいけないんだから』

「んもー、このデコメガネ委員長が」

「何だとコラー!!」

 電話じゃなくて窓の向こうから直接叫び声が飛んできた。

 というかお隣さんの家の窓が開け放たれ、猛獣みたいな顔つきで件のデコメガネがこっちを威嚇してきているのであった。

「その呼び方はやめれって小六の時に封印を誓ったはずよね―――どふあっ!? かっ、風が! 中にいても引っ叩かれる!!」

「それ以前に何でバスタオルなの!? 一応カメラのついた通信機器なんだからさ、お風呂にケータイ持ち込むのはまずいって!!」

「それ以前も何も―――わひゃあ!!」

「そして流石だ委員長!! お風呂の時にもメガネを手放さないだなんて!!」

「ばーかーにーしているでしょー!!」

 北風と太陽の第一ラウンドでもうコテンパンな委員長だったが、どうにかこうにかバスタオルの端を掴んで押さえにかかっている模様。

『ぜえ、ぜえ……。め、メガネについては、シャンプーとリンスの区別がつかなくなるから必要なのよ。でもって明日休校になったらどうしようか。お勉強見に行った方が良い?』

「お隣さんって言ってもこの暴風雨じゃ傘はバキバキ、ずぶ濡れになるでしょ。アユミもエリカ姉さんもいるから大丈夫だよ」

『……私としては、あの破天荒な二人がいるから危ないような気もするんだけど』

 委員長は何かぶつぶつ言った後に、

『まあいつも学校でやってるのと同じくらいの、無理のないペースでお勉強するなら他は何でも良いわ』

「委員長は明日どうするの?」

『映画観る』

 おい、自分のお勉強はどこ行った?

『部屋のお掃除していたら、ネットレンタルしたまま放ったらかしにしていたのが何本か出てきちゃってね。延滞料金は発生しないサービスのヤツなんだけど、でもタスク放ったらかしにしておくと気になって他の作業に進めなくって』

「ふうん、委員長の趣味っていうとやっぱりあっちのジャンルかな」

『(……私の趣味っていうか、あなた達に合わせているんだけど)』

「ん?」

『何でもないわ。ええそうよ、ゾンビに吸血鬼に斧持った怪人に謎の粘液型宇宙人。とにかくそんなのばっかり。ああ、化け物同士で対決するのもあるわね』

「へえー」

 何の気のない世間話のはずだった。

 もちろん他意なんてなかった。

 でもって、そんなデコメガネ委員長との話の中で、ついこんな話が出てきただけだったのだ。


「ゾンビと吸血鬼って、本気出したら勝ち負けとか決まるのかな」


 気づいていなかった。

 深刻さに気づいていなかった。

 何となく、窓越しのバスタオル委員長の艶姿に意識を持って行かれていた部分も否定はできない。

『そんなの世界の誰よりもサトリ君が詳しいんじゃないの。間近で見ているんだし』

「うーん、でもあの二人がほんとに髪の毛掴み合っているトコなんて見た事ないんだよね。そりゃアイスの取り合いで口ゲンカになったりはするけどさ」

『リアルなトコだとどうなのかしらね』

「どっちも怪力持ちで噛んで仲間を増やして暴れ回る系だしなあ」

 ひたりひたりと、後ろから何かが迫っている気配はあった……かもしれない。

 でもとにかく気づいていなかったんだ。

 まさかあんな事になるだなんて。

「比べようはないように思えるかもしれないけど、でも案外始めてみたらコロッと呆気なく決着ついちゃうかもね。ほら、柔道と空手の世紀の対決! なんていうのもさ、やってみたら第一ラウンドで話が終わっちゃって肩すかしーみたいな事も多いんだし」

『あはは、そんなものかも……ええと、ああ、うん、人の意見は人の数だけあるものだから、私には一概にどうこう言えないかも』

「うん? どうしたんだ委員長、いきなり話の流れをぐるっと変えちゃって」

『はははははそれじゃ私はもう切るわね。サトリ君、どんなアクシデントがあってもそれを言い訳にしてはダメよ、きちんとお勉強はやるんだからね?』

「?」

 プツッと通話が切れた。

 直後に、左右から猛烈な力で肩をガシィ!! と掴まれた。

 そのまんま真後ろを振り返らされるんだけど……、

「痛い痛い痛い痛い!! アユミが右回りで姉さんが左回りにしちゃうとぼくはどっちにも回れない! 何だっ、アジの開きみたいにしたいのか!?」

「……お兄ちゃん」

「サトリくん?」

 変な所で張り合ってらちが明かないと分かってきたのか、姉と妹はそれぞれ自分の方からぼくの正面へ回り込んでくる。

 笑顔が怖い。

 なんていうか深い影が差している。

「ねえサトリくん、さっきのお話なんですけどね」

「さ、さっきの?」

「うん、そうだよお兄ちゃん。ゾンビと吸血鬼はどっちが強いのかって話なんだけどさ」

 ああ。

 まずい。何となくこれはまずい流れだ。

 ようやく危機感の尻尾みたいなものを掴んだ、いいや踏んづけたぼくの顔へ、びっくりするほど自分達の顔を近づけて、にっこり満面の笑顔で彼女達はこう言ったんだ。


「そんなのゾンビ(あたし)に決まってるじゃん」

「そんなの吸血鬼(わたし)に決まっていますよね?」


 甘い匂いのする声は、完全に重なり合っていた。

 流石はお風呂に入っても縦ロールが解けないでお馴染みのお二人。こういうトコで息がぴったりなら、もうケンカなんてしないでほしい!!

「あっ、その顔は信じていないって顔だねお兄ちゃん!!」

「さては、吸血鬼は日光浴びただけで灰に還る病弱夜型人間だって思っているでしょサトリくん?」

 同時に言って、しかし今度はハモらず、バヂィ!! と視線で火花を散らすアユミとエリカ姉さん。

「だったら試してやろうじゃない」

「ええ、どちらが夜の女王に相応しいかどうか、簡単にお見せしてあげましょう?」

「ぷぷー、夜の女王だって! 吸血鬼って何なの、うはあ存在自体がイターイ」

「腐りかけの中学二年生が何言ってやがるんです。ていうかゾンビがてっぺんとか! ぷっくく、『聖属性』の即死技で一発ですか? それとも全体回復魔法で一人だけダメージ受けてしまう可哀想な子系とかwww」

「こいつ!!」

「何ですかこのーっ!!」

 キャミにショートパンツとすけすけネグリジェがどったんばったんやり始めた。ぼくとしては目のやり場に困る。ていうか頑として認めてはならぬなのだがでも多分ちょっと見えてる。もう完全にあっちこっちが見えちゃってる。

 うわあ、女の子ってこうなっているんだなあ。

 どうして良いのか分からずにオロオロしながらガン見しているぼくを放っておいて、姉と妹はぜえぜえはあはあ荒い息を吐きながら至近距離で言い合っていた。

「ああもう、こんなのじゃらちが明かない!!」

「ええはい同感ですっ、そもそもわたし達の真価は個人の殴り合いではなく陣取りゲーム。いかに多くの人材を取り込んで街を埋め尽くすかのパニックホラーなんですから! 一対一の殴り合いなんかやったって本気の決着なんかつけようがないですし!!」

「じゃあアレやる!?」

「言いましたね! 後悔しても知りませんからね!!」

 一体何をしでかす気なんだ。

 流れから置いていかれたぼくの前で、アユミとエリカ姉さんはこんな風に宣言していた。


「「この供饗市全体を使ってパンデミックだ! ゾンビと吸血鬼のどっちがいかに早く街を制圧できるかで決着つけてやる!!」」


 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 いやいや。

 いやいやいやいやいや!! ちょっと待て、ちょっと待った!!

 このモンスター達、今なんて言った!?

「だっ、ダメだよそんなの!! 姉妹ゲンカで街いっこ消えたとか馬鹿なのか!? 吸血鬼やゾンビになるのは美少女だけとは限らないんだ。脂ぎったおっさんのゾンビとか救いようがない! ちゃんと面倒見られるの!?」

「あ、そういう話ではなくっ」

 こちらを振り返り、ひらひらと手を振りながらネグリジェ姉さんが提案してくる。

「サトリくん、あなたの組んだ自作の環境シミュレータがあったでしょ。あれを貸してもらえません?」

「ヴァーチャルで完全再現したもう一つの供饗市。そこでリアルに逃げ惑う人々相手にガブリとやれば安全にパニックホラーできるでしょ。お兄ちゃん、あれ貸してよ」

 ……。

「それだってやだよ!! あれは大地震とか竜巻が起きた時にどこでどんな被害が出るか、逃げ惑う人達が渋滞を起こすか、きちんと逃げ切るためにはどうすれば良いかを調べるためのものであって、そんな悪趣味なFPSみたいな使い方をするためのものじゃあ―――」


「「ふうん?」」


 と、空気がねっとりした。

 ……何でこの二人はケンカをしている真っ最中でも息がぴったりの流し目をしてくるのか。

 そしてツインテールの先端を丸めてバターロールみたいにしたアユミが口火を切ってきた。

「じゃああれだ、パラメータ勝手にいじって宇宙人襲来イベントとか巨大ロボット大戦争とかやらかしているのは真面目な使い方だって言うんだあ」

「うっ!?」

「こっそりお隣の委員長ちゃんの精巧な3Dモデルを拝借して、きわどい水着を着せて艶めかしいダンスを踊らせているのも正しい使用方法だったんですねっ☆」

「ぐっぐはあーッッッ!!!???」

 何故知ってるし!?

 みっみみみ魅惑の委員長ダンスファイルセットはフォルダごと絶対見えない位置に格納しておいたはずだったのに!!

「もしも普段は真面目でお堅いデコメガネ委員長がレゲエダンサー以上に腰を振ったりするとしたら、長い人生で一度くらいは見てみたいと思うのが男の子ですもんね?」

「でも多分これ、イインチョに知られたら半殺しじゃ済まないんじゃないかなあお兄ちゃん。ああ、結局一番恐ろしいのはゾンビでも吸血鬼でもなく人間だった、なーんてオチになっちゃうかも」

 がくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがく!!

「で・す・か・らっ。シミュレータの『鍵』をちょーっと渡してくれれば、誰も彼も哀しい結末を迎えないで済むと思うんですけど」

「あれって本来の使い方は災害環境予測なんでしょ。だったらたまにはパラメータメチャクチャのこーんな事態を想定したっておかしくないって!! ゾンビVS吸血鬼! 最後に生き残るのはどっちだ!? ねっ、面白いテーマだよね、ねっ、ねっ!!」


 もうどうにもならなかった。

 涙目で首から下げていたUSBハードキーを差し出すしかなかった。


 こうして世紀の対決のお膳立てが整った。

 アユミとエリカ姉さんの二人は、それぞれワイヤレスのヘッドフォンみたいな機材を手に取っている。

 意識投入型のデバイスだ。自前の環境シミュレータ『マクスウェル』と直結させる事によって架空の災害(あと委員長の水着ダンス)を追体験するためのものだけど、そのニュアンスは五感を別のものに差し替えるというよりは、自分で望んだ夢をデータ的に裏付けした上で見る機材、といった方が近いのかもしれない。

 自分の部屋まで戻るのも惜しいのか、二人はリビングの対面ソファにぼすっと寝転がってしまう。

「それじゃお兄ちゃんは審判ね。神様目線で外のモニタからデータを眺めていてよね」

「うふふ。奇麗好きのお姉ちゃんとしては、髪と服を汚さなければ、多少のイタズラくらいなら許します」

 ヘッドフォン型の機材を頭にはめて、耳元のスイッチを弾いた直後だった。

 まるで電源を落としたようだった。

 ストンと彼女達はあっさり意識を手放してしまう。

「……ああもう」

 あれだけの大騒ぎが途切れると、窓越しのごうごうという風の唸りが急に大きくなってきた気がした。

 ここにいてもやれる事は特にない。妹の言った通り、部屋のモニタでヴァーチャル姉妹ゲンカの審判でもやろう。腹いせに彼女達が楽しみにしていた宝物のプリンを冷蔵庫から拝借すると、スプーンを口に咥えながら廊下へ。

 階段は寝室エリアである二階と、それとは別に地下へ続くものがあった。

 別に災害環境シミュレータ『マクスウェル』の本体がドカンと鎮座している訳じゃない。あれはこの供饗市ならどこのご家庭にだってあるトルネードシェルターの入口だ。小さな頃は銀行の大金庫みたいな丸くて分厚い扉にわくわくしたものだけど、結局今日まで一度も開いた試しはない。

 とんとんと階段を上がって自分の部屋に入る。

 勉強机の上にプリンを置いて、スリープ状態だったパソコンをつつくと、スマホの方に着信があった。

 ただしクラスメイトや幼馴染みのデコメガネ委員長じゃない。

「どうしたマクスウェル?」

 声を放つと、SNSに自前のアカウントを持つシミュレータがふきだしみたいなのを表示させた。そこにはぶつ切りな調子でこんな風に書き込まれている。

『優先度高、要求されたタスクについて懸念があります』

「具体的に」

 何しろゾンビと吸血鬼の直接対決だ。そんなのリアル志向の災害環境シミュレータには対処できなかったのかもしれない。どこでどんなエラーが出てハングアップしてしまうかは、ぼくにも予想はつかなかった。

 だがそんな話でもないらしい。

『マクスウェル』は続けてこう書き込んできたのだ。

『秘匿レベル最大に設定された、委員長水着ダンスファイルセットについてです』

「……、」

『シミュレーション作業中に彼女が死亡した場合、災害環境シミュレータとしてはその死因と対策を講じるため、自動的にデータが関係機関に送信されます』

「……ヤバいぞ」

『つまり現状発生しているゾンビ及び吸血鬼の案件により水着委員長が犠牲となった場合、今まで隠しおおせてきたファイルセットの存在が外に露見されてしまう恐れがありますが、いかがなさいますか?』

「ヤバいヤバいヤバいヤバい!! やーばーいー!! それだけはァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 頭を掻き毟った。

 顔も名前も知らないおっさん達に自分の『癖(へき)』がバレてニヤニヤされるなんて真っ平だ! まな板の上のコイどころじゃ済まなくなってるしッッッ!!

 慌ててパソコンの方へ……遠隔操作用の制御端末に指を走らせるが、

「マクスウェル、どうしてシミュレーションの中断命令が弾かれるのか説明を!!」

『シュア。天津エリカ及び天津アユミの両名は管理者の権限でログインしているため、現状の権限に優劣はつけられません。また両名が吸血鬼、ゾンビと際立ったパラメータを配してシステム全体を圧迫しているため、混乱が生じてコマンドを受け入れにくい状態が続いているものと推測されます』

「つまり」

『強制遮断は不可能です』

 ああもう!! と思わず叫び、ぼくは引き出しの中からヘッドフォンにも似た意識投入型デバイスを取り出した。

 ヴァーチャルな街はすぐにでもゾンビと吸血鬼で埋め尽くされる。そんな中で水着委員長が犠牲になったらぼくの社会生活が真剣に終わる。教授だの何だのお堅い肩書き持ったおっさん達にニヤニヤされるのはもちろん、あの水着ダンスファイルセットの存在が表に出たらデコメガネ委員長ご本人様からどんな目に遭わされるか分かったものではない。鉄拳……エルボー……ああ、確か剣道二段だったと思うけど、まさか木刀はないだろうな……!?

 ならばやるべき事は一つ。

「マクスウェル、権限奪取は考えなくて良い。一般ユーザーとして展開中のシミュレーションに潜り込む事はできるか?」

『シュア。ただし一般ユーザーは管理者より権限が劣るため、参加は可能でも各種状況で不利を被ります。例えばシミュレーション終結作業に関わる事ができないため、自らの意思で中断できず、管理者が望む状況まで付き合わされる事になります』

 今回のケースの場合、ゾンビと吸血鬼の直接対決できちんと決着がつくまで。

 どっちが勝つとしても、仮想の街が一個血の海に沈み切るまで。

 ただのヴァーチャルと侮るなかれ。

 そこは今日も自分達が息を吸って吐いてきたいつもの街並みと何も変わらない。それが大地震や竜巻に巻き込まれるのと同じように、ゾンビと吸血鬼によって崩壊していく様を最後の最後まで眺め続けなくてはならないのだ。

 災害環境シミュレータ。

 パラメータは突飛でも、その本分は存分に発揮される事だろう。

「……それでもやる。委員長にリアル世界で殺されるよりマシだ。マクスウェル、ログインの準備を。完了次第ぼくもそっちに行く」

『シュア。一部権限を書き換え、一般ユーザーとして再登録』

 目的は明快。

 ゾンビと吸血鬼が大暴れしてそこらじゅうで二次被害三次被害のモンスター達が暴れ回る中、決着の時まで何としてでも水着のデコメガネ委員長を守り切る事。

 さて、それじゃ根本的な疑問をもう一度繰り返そうか。


 ゾンビと吸血鬼って、本気出したら勝ち負けとか決まるのかな。