【第三章】


 いったん水着委員長から折り畳み自転車を預かると、それを担いでから彼女の手を引いて居並ぶ雑居ビルの一つへ飛び込んだ。地上階にはいたくないので、とにかく非常用の階段を使って上へ駆け上がる。

 窓の外に目をやり、水着委員長が呆然としたように呟いていた。

「うわあ、早速やっています」

「いきなりのゾウさんのご登場だよ」

「そしてあちらこちらで人間が骨格構造ごとぺちゃんこに―――」

「別に詳細を報告しなくても良いんだ、そんな余計なサービスにリソース割くくらいなら官能小説の朗読でもやってろ! お堅い委員長ボイスを駆使してな!!」

「―――パイプベッドに押し倒されたキョウコは覆い被さるような男の顔を見やって淡く笑う。くすり、そうくすりと。真っ赤なルージュを引いた唇の間から溢れる吐息の甘さはまさに」

「やっぱやめて、グロ場面の真っ最中にそんなの挟んだらこのビジョンがどこの引き出しに入っていくか分かりゃしないし! あと一体どこで官能小説のデータ取得してきたんだー!!」

 ぶわっ!! と見えない壁、鉄錆臭い『圧』は今までの比じゃなかった。

 思わず全力でフロアの窓を閉める。

 ヤバい。

 何がヤバいって、ゾンビになってその辺ふらふらしている連中までいっしょくたに吹っ飛ばしている。時には猛獣同士で角を突き合わせてケンカして、その大暴れだけで車だのバイクだのが潰されていくのが分かる。

 もう、なんていうか全体的にいっそ不謹慎な笑いさえ込み上げてきそうだった。

 つまりそれくらい現実味がないんだろう。

 なまじ初っ端から熊とかライオンとか出てきて人間がガブガブやられていたら、ぼく達も顔を真っ青にして震えていたかもしれない。でもゾウって何だ。繁華街の中心をドスドス歩いていくだけでそこにいたはずの人達が『モノ』に変わっていく光景は、もうまともに痛みをイメージできる世界の上限を飛び越してしまっていた。

 他にもサイとかカバとかいっぱいいる。

 ところどころでびくんびくん赤い血だまりが跳ねているのは……きっと生き残りじゃない。あのバイタルはゾンビのものだ。学校でも見たけど、やっぱり統率ゼロって感じかな。

 それにしたって妹の中では草食動物ブームでも来ていたのかもしれない。マズいな、この前雑学番組観ながら最強の動物は何か勝負で言い負かしたの根に持っているんじゃあ。だけどお兄ちゃん、ホントに草食動物が無敵ならあんなピラミッドにはならないと思うんだけどなー?

「でも妙だな」

「何がでしょう」

「例のアニマルゾンビ、アユミ達と比べるとボロボロっていうか、損傷が激しくない? 骨とか普通に見えてる連中もいるけど……」

 ゾンビはあくまで歩き回るだけで、死体がいつものペースで腐敗していくのならあんな風にはならない。アユミが動物園を襲ったのはついさっきのはずなんだから。

 猛獣同士で勝手にケンカしているからか? とも思ったが、マクスウェルの反応は違った。

「相性の問題かもしれません」

「?」

「実は新体操もフィギュアスケートもどんとこいの柔らか少女アユミ嬢と違い、猛獣は全身ゴツい筋肉の塊です。ゾンビパウダー劇症型により限界以上の出力を得た場合、その肉体の自壊速度はかえって上がる恐れもあるのでは、と」

「……何事も上手くはいかないな」

 思わず呻く。

 基本的に腐っていく一方で傷が治らないゾンビのサガってヤツなのかな。

 その考えだと象とかサイとか、体がデカくて破壊力が上限振り切ってるヤツほど早め早めにリタイヤしていくかも。自分の重さやパワーに自分でやられるからだ。

 ……とはいっても、やっぱり大暴れの超ド級どもが完全に動かなくなるまで自壊が進むのなんて待っていられないか。そんなの時限爆弾の解除方法が分からないからバッテリーが切れるまで同じ部屋で待ちましょうって言っているのと同じ。途中で爆発に巻き込まれるリスクの方が高そうだ。

「というか何でサイとかカバとか攻撃的になってるんだよー。ゾンビ化して食欲増しているなら草いっぱいの原っぱとか川沿いの水場とかを求めて大ゲンカするのが筋じゃないのか」

「むしろ人間ゾンビの方から猛獣に噛み付いて、反撃で大暴れしているかもしれません。ただアニマルゾンビには生身とゾンビの区別がつかないから、とにかく人間大のシルエットをみんなやっちまえ、と。フライドチキンの例の人形とかも猛攻撃されていますし」

「はた迷惑なコンビネーションだっ!!」

 猛獣達の大暴れ度というか撃墜マークは大雑把に返り血で分かる。トップランカーのアフリカゾウとかは全身まっかっかで、あちこちにほとんど皮だけ状態のぺちゃんこになった五体シルエットの残骸をべっとりとこびりつかせている。あれは元一般人? それともゾンビ? あんな状態でもまだ動くのか、流石にもう駄目か。何にしたってあのお仲間になるのは絶対に避けたい。

「というか、未だシミュレーションが終結する気配がないので無事だと判断していますが……最悪、この状況を作ったアユミ嬢本人が踏み潰されたり胃袋の中に収まったりする可能性も否定はできないような……?」

「いくらアユミでもそこまでバカじゃないと信じてやりたいけど、でも何しろアユミだからなあ」

 一〇〇・〇%ないとも断言できない辺りがいかにもアユミらしい。

 エリカ姉さんと違って、あんまり自慢できない方向に予測のつかないヤツだから。あいつ、お姉ちゃんに負けないオトナな下着を買ってくるんだーとか言って、気がつけば海外進出してえらく可愛らしいひらひらがついちゃった女子向けフンドシみたいなのを掴んでたりするし!

「それから、意外と建物の中にまでは入ってこないようです」

「何でだろ? 象とかサイにとっては狭すぎて怖いのかね。低い天井とか、棚でいっぱいの店内とか。木陰で休む事はあっても自分の体が窮屈になりそうな洞窟に逃げ込むってイメージはあんまりないし」

「ゾンビなのにですか?」

「アニマルゾンビなんか初めて見るからどう動くのかなんて分かんないよ」

 普通のゾンビだって思考を全部捨てても二足歩行のままなんだ。これは何気に人間だけの大きな特徴。ゾンビが四つん這いでその辺走り回らないのと同じで、他の動物ベースの場合だって何かしらの原始的な部分、『基本』は踏襲しているの、かも?

 とはいえ、上階にいるからって絶対安全とは限らないだろう。一番デカいのはとりあえず象で決まりっぽいけど、他にもアユミは色々用意しているはずだ。草食も肉食も、大きいのも小さいのも。テレビを観ながらの最強動物議論か……アユミはともかく、ぼくや姉さんはなんて言って草食動物派のあいつを涙目にしていたっけ。とにかく建物の中に入って階段を上ってくるヤツだっているかもしれないし、木登りするような猛獣なら雨どいとか伝って窓から入ってくる恐れもある。

 確かチーターとかがそうだったかな。あれ豹? 待て待て、ジャガーだっけ???

 とにかくざっくりあの辺!! ネコ科のデカいのに要注意!!

 ……ちなみにそういう肉食獣がいるとすると、普通の人間もゾンビもお構いなしにバクバク食べると思うんだけど、その場合ってアニマルゾンビの体内はどうなるんだろう。ミクロの話だからあんまり実感は湧かないけど、病原菌だって数が多ければ多いほど感染の可能性は増えるだろう。元からヤバいのは変わらないけど、ひょっとして噛んだ時の感染力がブーストするとか……?

 病原菌やバクテリアの力で破壊力を増すだなんて、コモド大蜥蜴(おおとかげ)の牙みたいな話だ。

 ……あっ、あれ、何だか無駄な雑学のせいで自縄自縛になってる気がする。アユミくらいバカで考えなしなら必要のない脅えなんじゃないか、これ。どっちみち猛獣に噛まれた時点でキレイなゾンビかズタズタゾンビかの二択ってのは同じなんだし。

「ユーザー様、これからいかがいたしましょう」

「うーん、一ヵ所に留まっているのもアレだし、屋上から屋上へ飛び移って移動できないか確かめてみようか」

 というか、馬鹿正直に地面を行くのは自殺行為だ。猛獣に一度ロックオンされたらもう逃げ切れないし、辺り一面はまっかっかなアレが敷き詰められている。でもって半端に潰れた例のアレが、どこまで人間でどこからゾンビなのか分からない。身動き取れないくらい踏み潰された死体ってのもそれはそれで厄介だ。ゾンビは歩いてくれなきゃ普通の死体と区別がつかないから。

 つまり、地雷原って可能性もある。

 血の海を走っている途中に、いきなり足元でむくりと起き上がったりされても困る。

 別にアニマルゾンビが凶暴だからって、それ以外の普通のゾンビが弱くなってくれるって訳じゃないんだ。どっちみち一発ガブリでゾンビ化待ったなしなのは変わらない。数が増えているのを考えれば絶望度は上がる一方だし。

 できる事ならビルの密集地帯を利用して優雅に空中散歩と洒落込みたい。

「それから、机の上にあるライターにも要注目です」

「DIYのショップで色々やったぼくに言えた義理じゃないけど、ついにマクスウェルまで略奪を覚えたな。でも真面目委員長の万引き少女ぶりはちょっと見てみたいからそのままキープ」

「違います。相手がアニマル系なら火を焚けば遠ざけられる可能性はないでしょうか」

「うん、動物は火を怖がるって良く聞くけど」

「何でしょう」

「……実際のところ、信憑性ってどれくらいあるんだろう、その都市伝説みたいな話。山火事とかで過去に痛い目に遭っているならともかく、動物ってほんとに火を怖がるものなの? むしろ光を見ると集まってきそうな感じもするけど。ほら、街灯に集まる羽虫みたいに」

「……、」

 水着委員長は手の中で弄んでいたライターを無言で手放す。

 立ち向かうより安全に逃げる方法を確保しなくちゃ。素のままだって象を殺すとしたらマグナム弾かスラッグ弾が必要になる。手製の投石武器で何とかできるレベルを完全に超えてる。ぼくはスマホを取り出しながら傍らの委員長にこう言った。

「マクスウェル」

「何でしょう、撮影ポーズでしょうか?」

「違うそれはまた今度!! 上に飛ばしていた風船型のドローンはどうなってる? 今ぼく達のいる真上は表示できるかな」

「シュア」

 画面に目をやる。

 水着委員長も横から覗き込んできた。ヴァーチャルなのに良い匂いがした。

「命令を待機中……」

「マクスウェル、屋上から屋上に飛び移れないかな。ほら、ビルの間隔は結構狭いようなんだけど」

「実際にスケールを見てみない事には何とも。……というか、これは……」

「ああ、あっちもこっちも街いっぱい血みどろだよ」

 空からの目で見下ろしてみると、改めて動物園の凄まじさが浮き彫りになってくる。空撮だっつってんのに道路一面がスペイン辺りのトマト投げまくる奇祭みたいに真っ赤に埋め尽くされていた。一体何人分の命を材料にしたアートなのか、もう想像がつかない。

「うおーい、映像を引いても引いてもグロエリアしか見えないんだけど」

「目一杯やられていますね」

「ああ……結局限界まで引いてもまっかっかのままだぞ。一体どれだけ死んだらこんなになっちゃうんだよ」

「計上中……出ました。はっぴゃく―――」

「別に詳細が知りたいって訳じゃないんだ! はっぴゃ、にしたってひどいな!?」

 単にこの繁華街だけの話じゃない。流石にブロックの離れた住宅街や高層オフィス街の様子までつぶさに観察する事はできないけど、あっちこっちから黒煙が立ち上っているのが良く分かる。

 一点の染みは、もう街全体に広がっているんだ。

 ぼく達の視点がミニマムだから分からないだけで、八〇万人が巻き込まれている。

「何にしても、早めに商店街を脱出した方が良さそうです」

「外はアニマルゾンビの群れに、いつどこで誰がガバッと起き上がるか分かんない真っ赤な地雷だらけなのに? 闇雲に動くのも危なくないか」

「もちろん。ただし世に蔓延るウィルスはゾンビパウダー劇症型だけとは限りません。あれだけの死体が一斉に腐敗を進めれば別の病原菌をばら撒くきっかけになるかと。それこそ空気感染するようなものなら最悪です。……いえ、そもそもあの数ですと、腐敗時に発生するガスの濃度だけでも危ないかも……」

「……、」

 いやあ探せばあるもんだ、吸血鬼だのゾンビだのにやられるよりもヒドい死に方。

 竜巻や水害の兆候、被害を確認するウェザースフィア越しに街を眺めている人達はどう思っているだろう。八〇万が血の海に沈み、逃げ場もほとんどないだなんて悪夢的だ。画面の向こうで首でも吊っている可能性もある。

 リミットまでどれくらいかは分かんないけど、でも人間より動物園の猛獣の方が雑菌をたくさん持っている気がする。つまり腐敗も早く進み、様々な生物毒が撒き散らされる。となれば真っ赤な培地に『蔓延』するより早く、さっさとずらかるに限るんだけど、

「ゾウにサイにカバに……こっちのは何だ。キリンってこんな凶暴なの!?」

「パンダが人を襲う場面はなかなかのレアです」

「ヤツは熊の仲間だからな」

「というか、地面が波打っているのはどうした事でしょう。ハムスターの群れとか?」

「いや、ひょっとしたら苔か何かかも……。あのボコって膨らんだコブみたいなトコ、脳みそでも模しているとかで」

「もしや植物もアリなのですか」

「いや確証はないけどさ、あいつがやたら大食いで食べ残しを許さないのってそういう事だったのか? 半分齧ったリンゴとかカボチャとかも放っておくと動き出すっていうんじゃないだろうな」

「システムは要求通りにパラメータを入力しているだけなのですが、これをウィルスパニックと命名したら細菌学や免疫学の専門家が怒り狂いそうですね」

「……というかアユミのヤツ、もうその辺に生えてる苔だって岩ごと平気で噛み付くほど見境なしなのか……」

「バカが極まってやがるぜ(前歯キラリンッ)」

「おっ、言うじゃないかマクスウェルさん」

 ふと映像の中で何かが横切った。鳥か何かかと思ったけど、正体はぼく達とは別口のドローンみたいだ。でも誰かが操縦している感じでもない。ふらふらと頼りない動きで、延々と同じ方向に向かっていく。

 まるで地上で操縦していた何者かからの信号が途絶えてしまったような。

「ユーザー様、不明機が最後まで追い駆けていたものですが」

「ピンつけてクローズアップ。……何だこりゃ、観光バス?」

 一方通行の標識を無視して商店街に突っ込んできた大型のバスがあった。路上で倒れる死体や起き上がった死体なんて露知らず、全てを強引に薙ぎ払って繁華街全体からの脱出を狙っているらしい。

 でもそれも儚い夢。

 ドゴァッ!! と観光バスの横っ腹にとんでもない衝撃が走った。正体は例のアフリカゾウ。脇道から突っ込んできたその巨体は八トン以上、正面衝突ならともかく横から突撃されたらトラックだってひっくり返る。まして相手はアユミの力でゾンビ化している訳だ。車に対して攻撃的って事は、象も象ですでに何回か自動車からの体当たりでも喰らっていたのかも。

 バランスを失って、バスが横合いのオシャレな輸入食材スーパーへ突き刺さった。

 そこへサイだのカバだのが群がっていく。

 反対側の窓を割って、何人もの影が飛び出していった。

 体格の良い、黒ずくめの、何だろう? 警察や消防とも違うみたいだけど……。

 とにかく『彼ら』は最初に下りて、さらに後続の一般人の途中下車を支えるべく両手を窓の方へ伸ばしていたけど、

「ゾウさんが来ましたね」

「あーあー! うわあ……ヤバい! ヤバいヤバいヤバい! すごい! ヤバい!!」

「ユーザー様、ヤバいとすごい以外も使いましょう」

「まっかっか以外に言葉がないよお!! 脱出を諦めて車内に留まっても死を待つばかりだし、今さらのようにバスの屋根に上ったところで」

「完全に詰みです。ゾウさんの鼻って触手みたいですね」

 素性も分からない救援チームと何十人単位の要救護者の阿鼻叫喚を眺め、ぶるりと体の芯が恐怖で震える。馬鹿デカい鋼鉄の塊を使っても強行突破できない死の繁華街に、生身の手足でどう立ち向かえって言うんだ。

 折り畳み自転車は金属パイプの集まりだから振り回せば鈍器にはなるけど、あんな地図ごと均します的な超重量軍団と真正面からやり合ったらどうなるかなんて目に見えているし。

 とにかく非常階段を使ってビルの屋上へ。

 がつんと鼻っ柱を殴られたように濃密な匂い。

 吸って吐くだけで若干鉄錆臭い風に全身を叩かれる。

 でもって、

「ユーザー様、ここを跳躍で飛び越えるのは可能と思いますか?」

「無理だろうな!」

 思わずそんな声が洩れていた。

 上空から眺めるとビルとビルの隙間はみっちり状態で、ちょっと勇気を出せば渡れそうに見えていた。だけど実際には建物の高さは均一じゃない。三、四階分低い別の屋上へ跳んだら足首を折ってしまいそうだし、逆に高い建物はそれこそ一%の可能性もない。

 かと言って、さっき結論を出した通り、地上に下りての移動も絶望的。何せ一〇トン以上の観光バスが丸ごとひっくり返るような有り様だし、こうしている今もパオーンとかブモーとかとんでもない大音響のオンパレードだし。クレーン鉄球を両手で受け止められる超人でもない限りあそこを走破するのは無理だ。ああもう、普通の人間ゾンビの方から無駄に噛み付くから蜂の巣つついたような騒ぎになって猛獣の動きを予想しにくいし。あれじゃあ缶詰とか匂いの強い靴下とか投げてさあ今の内にって訳にもいかなさそう。

 となると、

「マクスウェル、梯子か木の板みたいなものを探そう。高低差があっても渡して通れるような『何か』を使えば……」

 言いながら、来た道を振り返るように唯一の出入口へ目をやった時だった。

 階段を上ってやってきたのか、馬鹿デカい蛇と鉢合わせた。

 というか目が合ったぞ。

 こいつはアナコンダさんかな?

 ざっと見て一〇メートルはありそう。意外とカワイイ瞳だなこーいつう!!

「……ッッッ!!!!!!」

 無理にすっとぼけても恐怖は消えなかった。

 互いに一歩動く前に、もう心臓を鷲掴みにされていた。分厚い透明な壁のような威圧が、物理の制約を超えてこっちの芯を砕きにかかる。

 その直後だった。

 バシュシュ!! と『何か』が弾けるような、炭酸飲料の何十倍も激しい音が響き渡った。そう思った時には空中を『何か』が突き抜けていた。

 最初、噴射煙が尾を引いて、ロケットかミサイルでも飛んできたのかと思った。

 でも違う。

 何か重たいものが大蛇に激突した。それは五体満足だった。つまりは人間。噴射煙に見えたのは、彼の体の表面がさらさらと灰色の粉末状に崩れているから。この陽射しの中で全身が灰になっていくって事は……吸血鬼? 当然、体当たりくらいで何とかなるものではないけど、新しい標的が見つかればアナコンダの意識はそっちに向く。ぼく達なんてそっちのけで喰らいつき、絡みついていく。

「やーっほー☆」

 ぼく達より高いビルの屋上から、間延びした女性の声が飛んでくる。

 見上げれば、姉さんだった。

 姉さん?

 今はまだ日中で、吸血鬼の姉さんは表を歩けば直射日光を浴びて灰になってしまう。……はずなのに、実際にはそうはなっていない。

 何故? って……、

「うわあ。うわあ、うわあああああああああああーっっっ!!!???」

「うふふ。でっかいリアクションありがとうございますっ☆」

 姉さんは優雅に佇んでいた。そしてその周りにたくさんの老若男女がいた。まるで人体を使った立体的なジグソーパズル。あるいは巨大な傘かドーム。それが姉さんの直上に覆い被さり、太陽の光を完全に遮っているのだ。

「やっちゃったよ! この人ついにやっちゃったよ!!」

「ユーザー様、先ほどから文法が狂いまくりです」

「このサイケなビジョン見て冷静でいられる方が不思議なんだよぉー!!」

 不気味極まりない傘もまた、姉さんの配下の吸血鬼なんだろう。

 前に姉さんは『熱い』と言っていたけど、実際にはどんなものなんだ。生きたまま肉体を灰に、乾いて粉末状にされるっていう感覚は。とにかく立体パズルを作るドームの外から人体が灰になっていく。でも彼らは動じない。どこからどうやって調達したのか、すぐに別の吸血鬼が飛び込んできて穴を埋めていく。その繰り返しで、クイーンたる姉さんだけは傷一つない。

 そして、

「あら、まだ動くんですね」

 エリカ姉さんはまるで世間話みたいな調子で呟いていた。

 目線の先にいるのは、ザラザラと灰を撒き散らす人体を相手に右往左往しているゾンビ大蛇。

 そしてクイーンは気軽に指を鳴らす。

「何とかしなさい」

 ゴッ!! と姉さんの真上を何かが飛び越した。ミサイルやアクロバット飛行のように灰の尾を引いているのは、今まさに太陽の光で消し飛ばされそうになっている吸血鬼達。勝っても負けてもどっちにしろ消滅の道を行く決死隊。その彼らが猛烈な速度で馬鹿デカいアナコンダの横っ腹へと突き刺さっていく。

 ゾンビ化して強靭になったのか、外からの攻撃はみんな弾かれてしまう。

「外からは、です」

 人間日傘の下で姉さんがそんな風に言って笑った時だった。

 せっかく戦っても生肉を手に入れられず、勝手に獲物が灰になるのを嫌ったのか、アナコンダがまだ生きている(?)吸血鬼の丸呑みにかかる。

 そして。


 ぐじゅり!! と。

 アナコンダの両目から、米粒ほどの芋虫が滂沱の涙のように溢れ返ったんだ。


「わたし達吸血鬼は、様々な動物に化けます」

 ドレスのエリカ姉さんは語る。

「コウモリ、狼、ネズミや蛾。猛獣の大きな口を使ってブロック肉単位で呑み込まれれば、その体内での変化も可能。今回の場合は無数の蛾の幼虫となり、太い血管でも食い破って頭の方に達すれば作戦完了です」

「あ」

「ゾンビは脳を破壊されると機能停止する。アユミちゃん達の特徴でしたよね?」

 指先がゾワゾワする話だった。

 でっかいハンマーで頭を叩かれたり、石段を転げ落ちておでこを角でぶつけたりとは意味合いが全く違う。体の内側から何十何百もの小さな芋虫が駆け上がり、頭蓋骨に内側へ潜り込んで脳みそを粘土のように掻き回す。死ぬまでそれが続く。一体どんな地獄なんだ。

 熊にしても虎にしても鰐にしても、みんな一緒。

 噛む力が強大で、いちいち獲物を小分けにする必要がないからこそ。

 姉さん達吸血鬼が化けた虫が蠢くスペース、トンネルが体内にできてしまう。

 ぼく達の見ている前で、巨大なアナコンダがびくんっ!! と一度大きく跳ねた。脳を完全にやられたのだろう。両目や口からボロボロとこぼれる虫の滝は、陽の光を浴びた途端に灰となって崩れていく。

「吸血鬼とゾンビ。……お互いが噛み合ったら、吸血鬼の方が勝つって事?」

「さあ、そこまでは。アユミちゃんみたいな小さな口で噛み千切られたら動きにくいはずですし、そんな状況でゾンビパウダー劇症型を揉み込まれたら肉片の制御を失うかもしれませんね。吸血鬼がゾンビに噛み付くというのも現実的ではありません。ウピオルのような例外でない限り、わたし達吸血鬼は基本的に生者の生き血を吸うものですし。……それに、仮にウピオルを引き当てたとしたら、そんな風にゾンビパウダー劇症型と戦わせるのはもったいないです」

 まあでも、と姉さんはいったん区切ってから、

「一発五万円のロケット砲で一両一〇億円の戦車を吹き飛ばせるとしたら、痛み分けとは言い難いと思いません? ゾウやカバのような大戦力猛獣グループは内側から虫を溢れさせて脳をかき回せば良いし、そこまでいかない、人間大より小柄なアニマルゾンビなら直接打撃で外から潰せる。これなら怖いものはないでしょ」

 ゾンビも死ぬし吸血鬼も助からない。

 弾丸を使って獲物を仕留めるような、消費が前提の戦術。

「ユーザー様」

 水着委員長が控え目に言ってきた。

 上空のドローンからの映像を表示しているスマホだった。

 地上の方でも、街中で、似たような決死隊が猛威を振るっていた。太陽の光を浴びながら、時に三段ロケットみたいに複数の吸血鬼が絡み合って、一人一人使い潰して標的の猛獣達へ突撃を仕掛けていく。自ら喰われる事が織り込み済み、体内で小さな小さな虫の群れに化けて脳をかき回し、仕事が終われば陽の光で消滅していく。それだけのサイクルを完璧にこなすために。

 あれだけの死の暴力が、あっという間にゴリゴリと削り取られていく。

「……、」

 猛獣の方もただではやられない。というか、サイやカバがやられた途端、その表面に張り付いていたほとんど皮一枚のぺちゃんこ人間ゾンビ達がもぞりと動き出したんだ。脳さえやられなければゾンビは死なない。巨大動物を仕留めたばかりの吸血鬼達へと組みついていく。

 ただでさえ、日光の下だ。

 明確に決着をつけなくても、わずかに時間を稼ぐだけで吸血鬼は灰になってしまう。

 これが生身の人間なら、やっと強敵を倒してホッとしたところで包囲されてガブリという悪夢のびっくり箱みたいな顛末になっていただろう。

 ……あんなぺちゃんこな状態でも脳だけ残っていればビクビク動くって事は、ひょっとして肉食獣の胃袋の中にもまだ動くゾンビがいくらか残っているかも……? いや、流石に食道の太さを考えれば脳を壊さずに丸呑みは無理か。でもゾンビを食べれば食べるほど病原菌の濃度は増すはず。姉さんは自分達吸血鬼の細かい肉片にゾンビパウダー劇症型を揉み込まれたら制御を手放すかもしれないみたいな事を言っていたし、ひょっとしたら思わぬ反撃として機能しているなんて可能性もゼロとは限らない。つまり体内に群がる蛾の幼虫はもっとミクロな攻撃を受けて何割か死滅しているって線だ。

 でも、だけど。

 何にしたって。

 そもそもコスパしか考えない姉さんは自陣からの犠牲なんて問題視してない。これは、戦車にしがみついて運ばれてきた兵士達をいったん無視して、本体の戦車を先に爆破するようなもの。散り散りに逃げる兵士は別途撃破していけば良いと考えているから、吸血鬼サイドは痛くも痒くもない。

 ロケット弾で戦車を吹っ飛ばした。

 同じ弾を詰めて個別に逃げる雑魚を狙えばそれでよし。

 一つの戦術を使い回して対応できるのなら、敵の種類を問う必要はない。

「よっと」

 重さを感じられない動きで、ゴスロリドレスの姉さんは優雅にこっちの屋上へと飛び降りてきた。陽の下で動きたいというわがままを聞くためだけに、多くの下僕がサラサラと音を立てて消えていく中、クイーンはくすりと笑ってこう告げる。

「はいお久しぶりです、サトリくん。わたし本当は奇麗好きですから、こういうゾンビパニックってあまり好みではないんですけど。でもサトリくんのために頑張って一肌脱いでしまいましたっ。きゃっ☆」

「……、」

 ちょっと遠い目になる。その人間日傘は、もじもじと両手で顔を覆う姉さんの美的感覚では許容されるものなんだろうか。

 奇麗好きの定義がちょっと見えなくなってきたぞ!

 思ったんだけどやっぱり姉さんもアユミと一緒で根っこはバカだって答えが出かけていないか!?

「でもひどいですサトリくん、そんな頑張り屋のお姉ちゃんの顔を見た途端に全力疾走で逃げ出してしまうだなんて」

「姉さんって、一見ほんわかだけど超ドSって答えが出たの?」

「うふっ☆ 人間のふりして紛れ込むのも面白かったですけど、この辺りが限界かと思って、正体晒してしまいましたっ。サトリくん達のために有利な状況を崩して応援にきてあげたんですから、お姉ちゃんもっと喜んでほしいんですけどね?」

「しょう、たいを……?」

「ええ。市議会に警察署、あと放送局や新聞社も。あちこちでバリケードを築いて人類最後の抵抗をやってくれていた場所は、軒並み内側から食い破られて簒奪は拡大。元から命令系統は骨抜きにしていましたけど、これで治安維持関係は全滅ですかね。まあいくらか外回りの警官は残っていても、組織としての体裁を保てなければ何の力も発揮できませんし、ね?」

 姉さんはピアノのコンクールでもらった賞状を見せびらかすような、褒めて褒めてオーラ全開の笑顔で言う。

「後は、そうですね、劇場や球場なんかの民間人向け要塞も連鎖スポットとして動き始めました。街の人口の三分の一と、主要機関はわたし達吸血鬼がいただきです!! きゃはーっ☆」

「きゃはーじゃないでしょオネエチャーン!!」

 ゾンビと吸血鬼はどこかどう違うんだ。今の今までそう思っていた。

 でも違う。全然違う。

 ゾンビは……妹のアユミがやっているのは、ひたすらに秩序の破壊だ。街を壊し、人の結束を乱し、表を死者で埋め尽くして、文明全体にストップをかける。そういう種類のパニックホラー。

 でも吸血鬼は、エリカ姉さんは全くの正反対。

 彼女は秩序を作る側だ。それも人間が今まで築いてきた文明なんて全無視で、ただひたすらにクイーンをてっぺんに掲げる新たな秩序で街を国を世界を埋め尽くしていく。途中までは人の社会に溶け込んでも、ある一定のラインを超えた段階で全てひっくり返す。昨日までの常識が通用しない、狂った吸血鬼の世界へと突き落とす。

 同じパニックホラーでも、ゾンビと吸血鬼じゃ毛色が全く違う。

 これじゃあ誰にも勝てない。

 思わず頭の中で、そんな風に浮かべてしまう。

 ……んだけど。

「うっぷ」

「姉さん?」

 お上品に片手で口元を押さえた姉さんは、何故だかそこでくるりと後ろを向いた。

「ちょっと待ってサトリく……うぐ、うっぷ。お姉ちゃんここで一回深呼吸したら大丈夫になりますから」

「あーもー、ほら姉さん、お弁当箱超小さいのにそんな無理するから」

「だめっ、だめですサトリくん! 今お姉ちゃんの背中をそんな優しくさすったら、やだっ、喜んでいる場合じゃないのにわたしっ、むぐっ、あっ、あっ、ああああー!!」

 突如としてエリカ姉さんはサイケ極まりない人間日傘と一緒に走り出してしまった。行き先は四角いビルの屋上の端、そこから身を乗り出して……って!?

「ぶっ、ぶごふうー!!」

「うわあー!! ばかっ、何で下界にぶちまけちゃってんだ!? 姉さん真っ赤な爆撃みたいになってるってば!!」

「う、うう……せめてサトリくんの目の前でだけはやるまいというお姉ちゃん渾身のプライドが全く理解されていないようで哀しいです」

 人間日傘の下で、姉さんは体を折り、形の良いお尻をこっちにぐいっと突きつけるような格好のまま何やら嘆いている。

「……大体、これくらいやらないとお姉ちゃんバカにされそうですし。ぶう」

「えっ?」

「回転寿司の時も、ビュッフェの時も、ケーキ食べ放題の時も、いっつもサトリくんはどれだけあっても無限に美味しそうに平らげるアユミちゃんを餌付けして喜んでいますし……今だってお姉ちゃんのお弁当箱は超小さいって……」

「ひょっとして姉さん、あんな肉バカのドカ食いに憧れていたのか!? 清楚で優しい年上のオネーサンにそんなの誰も求めてないよ!!」

 何だっ、プロ野球ゲームの最強選手か。もう他に伸ばせる場所見つける方が難しいくらいだから、ポイント入れて成長させられるトコならどこでも突っ込むのか!?

「(……ユーザー様、ユーザー様)」

 と、ちょいちょいと横から人差し指で肩をつつかれた。

 見れば、近くに寄っていた水着委員長が小声で耳打ちしてくる。

「(手すりのない屋上の縁、身を屈めるエリカ嬢、こちらは見ていない。これはひょっとしたらチャンスなのではないでしょうか?)」

「?」

 キョトンとする僕に、ヤツは言いやがった。


「(つまり、両手でお尻をドン! で真っ逆さまでは?)」

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「い、いや、ダメだと思うよ? そんなのやって失敗したら取り返しつかなくなる! 姉さん怒ると笑いながら手の中でくるみをバキバキ握り潰したりするんだから!」

「そうですか」

「大体、屋上から突き飛ばしたくらいで吸血鬼が死ぬのかどうかって統計も取れていないし」

「では優柔不断なユーザー様をサポートするという意味で、このシステムがアシストしたいと思います。そーれっ」

「ちょ、ばかっ、まくすうぇええええええええええええええええええええええええる!?」

 理科の実験で、複数の鉄球を一列に並べてコチコチ振り子の力を伝達させる実験がある。思わずあれが脳裏をよぎった。

 つまり水着委員長がぼくの背中を突き飛ばし、ぼくの両手がドレス姉さんの大きなお尻を鷲掴みっていうか吹っ飛ばした。

「あっ」

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?

 姉さんが奇麗に消えた。

 引きずられるようにドーム状の人間日傘も一緒に落ちていく。

 割と本気で頭が真っ白になる。慌てて身を乗り出す。ここ何階建てだっけ? 下はコンクリート、アスファルト? 何にしたって大惨事だ!!

 ……と思っていたんだけど。

「サトーリくーん?」

「ひぃあああああああああああああ!? 壁にっ、垂直の壁に張り付いてるううううう!?」

「吸血鬼の握力は人間の一〇倍から二〇倍くらいあるのでボルダリング如き楽勝ですっ☆ それより今、お姉ちゃんのお尻は大きいとか何とか考えませんでした?」

「ヤバい、怒りのゲージが違う! コンクリの壁がみしみし鳴ってるう!?」

 ちなみにジグソーパズルのピースで立体的なドームを作ったような人間日傘もがっつり無事だった。組体操で世界を狙える連中がわさわさと屋上へ上ってくる。

 笑顔のままクイーンは語る。

「サトリくん、お姉ちゃんがどれくらい怒っているか当ててみてください」

「ぷっ、ぷんぷんくらい?」

「やだもう、ビキバキくらいでーす」

「格闘漫画とか不良漫画の血管みたいになってるー!?」

「そんな訳でお姉ちゃんはサトリくんにご機嫌取りを所望しますっ、覚悟はよろしいですか?」

「なっ、なに?」

 思わずたじろぐ。

 ゴスロリドレスの姉さんは両手を後ろに回したまま、腰を折って顔をこっちへずずいと近づけてくる。

 ふわりと甘い匂い……じゃないな。鉄錆臭い例のアレが漂ってくる。

「流石にリアル世界じゃ自重してきたんですけど、せめてヴァーチャルでなら……ねえ、甘ぁいキスでがぶがぶちゅーちゅーやっちゃっても良いとは思いません? ねっ、ねえ? ねーえーってば。わたし、必要に迫られていたとはいえ好みでない連中の血ばっかり吸ってちょーっと嫌気が差していたんです。煙草、お酒、香水、脂身、全部ダメ。お話になりません。その点、サトリくんったらパーフェクトですっ☆」

「やっぱり来たなこの流れ!! ゾンビいなくなるって事は吸血鬼フィーバーって事でしかないもんね!! 平和が遠ォい!!!!!!」

「うふふ、諦めてお姉ちゃんに身を委ねてしまいなさーいっ☆」

 がばりーん☆ と真正面からほっそりした腕で抱き締められた。ううっ、姉さんの大っきな胸がぶつかってくる。すりすりと頬ずりされるだけで全身に電気が走ったみたいに体が動かなくなる。

「姉さっ、タイム、これちょっとタイム、ほんとにまずくなってきてるー!!」

「ふふっ、そんな事を言っても心臓の鼓動は、血の営みは誤魔化せませんよっ?」

 ちゅぷ、と首筋の辺りで湿った音が鳴る。

 牙、じゃない。

 唇を押し付け、あくまでも甘く肌の感触だけを味わってぞわわわわわわわわわ!!

 そして肩越しにやなものを見つけた。

「まっ、マクスウェル! 委員長の顔で冷たく見放すのはやめてー!!」

「いえ別に。暇を持て余したシステムは命令待機中ですのでお好きにどうぞ」

 ひいいー!! 何この背徳的な感じー!?

 そして姉さんも姉さんでぼくに抱き着いたままヒートアップしているようだしいー!!

「ああ、ああ。この薄皮一枚向こうに、サトリくんの頸動脈が、熱い血潮が、若さの塊が……ふふ、うふふ。はあ、はあ、どうしましょうっ、お姉ちゃん冗談のつもりだったのにほんとにドキドキし過ぎて我慢ができなくなってしまうかもしれま……おっと」

 と。

 いきなり素に戻った姉さんがわずかに身を退いた。

 直後の出来事だった。

「い・ま!!」

 最初に甲高い叫び声があった。

 振り返れば、やっぱり別のビルから飛びかかってくる、

「な・に・を・か・ん・が・え・た! お兄ちゃーん!!」

「何って―――ぶふぉお!?」

 着地を誤ったのか計算通りなのか、いきなりぼくの視界が埋まった。

 何に?

 多分この柔らかいのはアユミの股かあぎゅるべる―――!!



 あまりの衝撃にユーザー様が前後不覚に陥ったようですので、非常手段的にこのマクスウェルが一時中継を引き継ぎたいと思います。

 長い黒髪をツインテールにし、さらに毛先を巻き髪状にあしらった華奢で小柄な可愛らしい造形の天津アユミ嬢は別のビルからこちらへ飛来。両足を開き、ちょうど肩車を前後逆にするような格好でユーザー様の頭部をがっつり左右の太股で挟み込むと、そのまんま二人してごろごろごろごろと縦回転。全体的に義理の妹の股に顔を突っ込んだまま至福の時を過ごしていただいたのち、二人して屋上の手すりから掴んでいた折り畳み自転車ごとダイブしてしまわれました。

「あら大胆。若いって羨ましいです」

「そういう問題以前にユーザー様の首が折れていないのが不思議でなりません。これも若さの為せる業でしょうか?」

 以上、マクスウェルがお届けしました。



 ―――ぐるめるのめヴぁりゅそしてそのまんま屋上を飛び越えたのか、奇妙な浮遊感がぼくの全身を包んでいた。

 ようやく頭の左右をアユミの(ゾンビなのに)大変健康的な太股から解放される。

 でもやっぱり空中で襟首を片手で掴まれた。

 落下の恐怖なんて感じる暇もなかった。さらにぐるんぐるんと縦回転し、三半規管がメチャクチャにされたところで、数階分下の地上にあった柔らかいものに背中から激突した。

 姉さん達との戦いでくたばったゾウさんの死骸の上であった。

 仰向けに転がったぼくの上に、アユミは完全に馬乗りになっていた。

 ほっぺたが超膨らんでいた。

「ふぐうー!!」

「アユミ、まずは人に分かる言葉で話をするところから始めようじゃないか」

「どうせ今あたしの事バカにしてたんでしょ!! 所詮ゾンビのあたしじゃ吸血鬼のお姉ちゃんになんか勝てないって! 中途半端な腐りかけの中ボス止まりだってー!!」

「考え過ぎだって」

「いっつもお姉ちゃんのおっぱいばっかりジロジロ見て! こっちはたとえお風呂上がりだってそのまんま素通りだし!!」

「いやそれはだって姉さんとアユミとじゃ痛っ!!」

「だったらイインチョはどうなのよー!?」

「お馬鹿さんめっ! 委員長は小ぶりだが輝く存在感という稀有な才能を発揮しているのが何故分からなあぐぐぐぐぐぐ!!」

「どうせっ、どうせあたしなんて……ふぐうー!!」

「たっぷ、たっぷ!! アユミ、とにかくお前の考え過ぎだ。きっとぼくはお前がぐるぐる思い悩んでいるような事なんか思ってない。ていうかお前の頭の中なんて分かんない」

「……ほんとに? いや所々ムカつく言い回しもあった気がするけど」

「ああ、そもそも委員長(に全てがバレて殺されるの)が心配過ぎてお前の事なんかいちいち何も……あぼるげるげごるちゅ!!」

「ッッッ!!!???」

 馬乗りのままがっくんがっくん襟首を揺さぶられて思わず嘔吐しかけた。

 そしてそんなぼく達を、ビルの屋上から姉さんは優雅に見下ろしていた。

「アユミちゃーん」

「お姉ちゃん!!」

「虎の子の切り札はもう品切れですか? 他にも策があるなら早い内に出しておく事をオススメしますけどっ☆ だーって」

 人間日傘に守られたまま、クイーンはピッと細い人差し指を真上に向けて、

「……すでに日は傾き、夕刻へ。これではもうすぐ『夜』がやってきますから、ね?」

「がるがる!!」

「そして何だか他人事のサトリくん?」

「実際他人事なん―――痛たたたたたたたたたたたたたっ!!」

 アユミに耳を引っ張られているぼくに、やはりクイーンたる姉さんは動じない。

「良いんですか。わたしはあなたに対する切り札も手に入れているんですけど」

「?」

「か・の・じょ」

 一度は真上に上げた手を、横へ。蠱惑の指先で細い顎をなぞられ、手前に引き寄せられていくのは、

「……委員長」

「すぐには噛みません」

 エリカ姉さんは蕩けるような笑みを浮かべていた。

「だってそれじゃ張り合いがなくなってしまいますからっ。ねえ、サトリくん?」

「ッ!!」

 構図が見えてきた。

 ゾンビサイドには妹のアユミとぼく。

 吸血鬼サイドには姉のエリカと委員長。

 ……いったん重要なピースを両陣営に配置した上で、奪い合いをやろうと言っているのか、姉さんは。

「だめ、お兄ちゃん……」

 同じく屋上を見上げていたアユミが、そんな風に呟いた。

 馬乗りのまま、改めて、今度は両手でぼくの襟首を掴んで。

「こんな所でお兄ちゃんまで渡さない! だから短絡的なアクションなんて許さない!!」

 ぐんっ!! と凄まじい力で振り回された。

 勢い良く立ち上がったアユミに引っ張られる形で、手にした折り畳み自転車にまたがるチャンスもなく、血みどろグチャグチャの街を走らされている……というより、もはや振り回されているにも等しい。

 どこに何人分の死体があって、その内どれがゾンビとしていきなり起き上がったり足首を掴んでくるかも分からない状況だけど、気にしていられなかった。

 もっとヤバいものがある。

 吸血鬼のクイーンに背中を見据えられている。

「くすくす」

 姉さんは、無理に追ってこなかった。

 余裕の表れでもあっただろうし、人間日傘があると言っても、やはり陽射しの下ではアウェーなのだろう。

 時間はエリカ姉さんに味方している。

『こちら』が手をこまねくほどに夜が迫る。姉さんの独壇場がやってくる。

「くすくすくす。くすくすくすくすくす」

「ふぐうー……!!」

 嘲弄というより家族の成長を温かく慈しむようなその笑みが、かえって妹の背中を叩く。

 唇を噛んで耐えるアユミと一緒になって、ぼくもまた繁華街を抜け出していく。


 あんな化け物相手に何ができる?

 本当に、姉さんの手に落ちてしまった委員長を助け出す方法なんてあるのか?