チョコレート・コンフュージョン


 帰宅後、いつものように入念に手洗いうがいを済ませ、リビングの戸を開けると、

「あー、龍生おかえりー」

 ソファにうつ伏せに寝転んでいた莉衣奈(りいな)が、スマホから目を離さずに言った。

 生意気にも兄を呼び捨てにする彼女は、現在二十歳の現役女子大生、龍生とは一五も年の離れた妹だ。両親亡き今、残された家で二人は比較的仲良く暮らしている。

 もっとも、莉衣奈の方は龍生をウザいと思っているかもしれない。というのも、

「こら、テレビがつけっぱなしじゃないか、見ていないなら消しなさい。それに机の上も相変わらず散らかったままだ、早く片付けなさい」

「テレビは見てないけど聞いてるのぉ! 机は後で片付けるよー」

「後でって、昨日も一昨日も、その前もそう言ってただろう。お前の後ではいつだ? 来世か!」

 スマホをいじりながらの生返事に、龍生は語気を強める。ソファのそばにあるローテーブルには、読みかけで伏せてある本、開けっぱなしのDVDケース、電源コードがぐるんぐるんに絡まったゲーム機などなど、様々な物が、少しの秩序もなく入り乱れている。見ているだけで、心がこじれてきそうだ。

「大丈夫だよー! 本もDVDも、置いといて腐るもんじゃないしー!」

「いいや腐る! 大気が腐るっ! ええい、換気だ換気!」

 もわーんと纏わり付く、生暖かい空気に不快感を覚えた龍生は、カーテンを開き、窓を全開にする。びゅうっと、冷たくも新鮮な風が頬を洗った。

「んもー、そんなに怒ってばっかだと、怖い顔がますます怖くなっちゃうよー?」

 ようやくスマホから顔を上げた莉衣奈が、ボブショートの毛先を弄びながら言った。

 私が怖い顔ならお前もだろう、と反撃してやりたいところだが、莉衣奈は兄のひいき目なしに可愛い。くりっと大きく、愛らしい瞳に、少しぷくりとしたほっぺ。まるで子リスのような愛嬌のある顔立ちは、龍生との血の繋がりを一切感じさせない。

 龍生が両親の鋭いパーツを全て受け継ぎ、さらに尖らせたような風貌なのに対し、莉衣奈は丸い部分のみを踏襲、さらに甘くしたような外見をしているのだ。ここまで似ていない兄妹というのも珍しかろう。

「龍生はさー、昔っからパパ役で融通がきかなかったけど、最近は小言まで増えて、ママ役まで兼任してるみたいになった。もううんざりだよー」

 案の定、莉衣奈がウザそうな声で言った。

 父は、龍生が中学二年のころ――莉衣奈がまだ母のお腹の中にいるとき、事故で亡くなった。父親を知らぬ莉衣奈に、龍生は父のように厳しく、そして優しく接してきたつもりだ。それはこれからも続いていく。三年前に他界した母親役も加え、今まで以上にしっかりと。

「莉衣奈が立派な大人になれるよう、監督するのが私の務めだからな」

「えー! 私、二十歳だよー? もう立派な大人! 昔ならともかく、今さら保護者やってくんなくていいからー」

「そういうわけにもいかんだろう。まったく、大学が休みだからといって、毎日だらしない。夕飯は? ちゃんと食べたのか?」

「食べた食べた。ほらっ!」

 いつまでも子ども扱いしないでよね、とカウンターキッチンへ視線を送る莉衣奈。嫌な予感がする。まさか――!

 龍生が駆け込むと、予想的中、眼前に広がるのは地獄絵図だ。油や調味料が飛び散ったガスレンジ。そこに、使用済みの鍋やフライパンが放置されている。シンクにはああ……汚れた調理器具や食器が山積みになっている。あの量……まさか朝食分から溜めているのか……?

「うわぁぁぁぁっ、なんて恐ろしいことをするんだお前はっ!」

 あの日のことを忘れたのか莉衣奈よ! 本やゲーム機はよしとしても、これだけはいかんっ! 忌まわしい過去の記憶に戦慄した龍生は、即座に腕まくり。己の食事も忘れて食器洗いに取りかかる。

「置いといていいよ、後でやるからー」

「だからお前の『後で』はいつなんだ! 今際(いまわ)か? 死ぬ前にふと思い立って片付け始めるのか? 夏休み最終日になって宿題を始める子どもじゃないんだぞ?」

 この有り様で、もう大人だの保護者はいらないだの、どの口が言うんだ。

 スポンジにたっぷりと洗剤を垂らして泡立てた龍生は、食器を手に取り、素早く、しかし確実に汚れを落としていく。

「だいたい、どうして用意してあるものを食べないんだ。冷凍庫にストックがあったろう。片付けられもしないのに、料理などするからこんなことになる」

「だって龍生のごはん、どれも地味なんだもーん。ひじきの煮物とか、きんぴらごぼうとか、里芋の煮っ転がしとかー。黒と茶色ばっかり。メインだって、ぶり大根とか豆腐ハンバーグだしー」

「母さんの残したレシピだぞ?」

 カウンターから顔を覗かせて抗議すると、莉衣奈はソファの上で、足をパタパタとさせながら、

「ママはちゃんと若向けのとバランスよくローテしてたー! 毎日おばあちゃんみたいな献立じゃ飽きちゃうよ! たまには全部お肉でできたハンバーグが食べたかったのーっ! 口に入れた瞬間、肉汁がじゅわぁぁぁっと滴ってくるやつー!」

 そうか、コンロ周りを汚しているのは、ハンバーグを焼いたときの脂か……。

「母さんたちの分もお前に長生きしてほしいと、わざわざ健康的な献立を選んでやっているというのに……。それに、肉料理ならストックにもあったろう」

「肉料理って、ささみの蒸したのとか、ささみの蒸したのとか、ささみの蒸したのとかのこと?」

「蒸しささみだけじゃないぞ、飽きないように、ちゃんと鶏そぼろも用意してある」

「だぁーっ、もう、そーゆーのじゃないのっ! 私が食べたいのは、同じ鶏でも唐揚げとか照り焼きとか、部位で言えば、ぷりっぷりジューシーなモモ肉が食べたいのーっ! 龍生の料理、口の中乾いてきちゃうもんばっかで、このままじゃ心までパッサパサに枯れてきちゃうよー…………って、そうだっ!」

 急に何か思いついたらしい莉衣奈が、バタバタとリビングを出ていく。

 落ち着きのないやつめ。肩を落としつつも、食器洗いを終え、キュッキュと音がするまでガスレンジを磨き上げた龍生が、完璧だ! と達成感に酔いしれていると、

「はいっ、バレンタインおめでとー!」

 戻ってきた莉衣奈が、レジ袋を片手で差し出す。中に入っていたのは、特にバレンタイン仕様というわけでもない、ごく普通のミントガムだ。コンビニにダッシュして買ってきたのだろうか。バレンタインに莉衣奈から何かもらうなんてこと、これが初めてな気がする。これはいったい、どういう現象だろうか。

 困惑に眉を寄せていると、ニコニコ顔の莉衣奈は、

「チョコだと甘くて食べられないでしょ? だから、お兄ちゃんでも大丈夫なガムにしたんだー!」

 おっ、お兄ちゃんだと――? 気持ち悪いな、いつもは呼び捨てにするくせに。

 これは絶対、何か裏がある。

「今度は何だ?」

 見透かして促すと、「バレたかー」と、莉衣奈は小さく舌を出す。

「ミッシェル・ロザリーってブランドの春物の靴がね、もうすっごーく可愛いの! ライトピンクのエナメルがツヤツヤ輝いてて、取り外しできるリボンもついてて、でもお値段の方はちょっと可愛くなくて、三万以上しちゃうんだけど……」

「それをホワイトデーのお返しにしろと?」

「わぁお、ご名答! さっすがお兄ちゃん! いいえ、お兄様っ!」

 祈るように手を組み、高速瞬きをしながら見上げてくる莉衣奈。ああこれは、義理チョコではなく、海老で鯛を釣るおねだりチョコ……いや、おねだりガムだったか。

「寝言は寝てから言いなさい」

「えー、ひどーい! 誰からもチョコをもらえない、献立はおろか、精神的にも枯れてる可哀相なお兄ちゃんに少しでも潤いを! って妹の心遣いを無下にするつもり?」

 いーじゃん、ほらこれもあげるから、と冷蔵庫から調達したヨーグルトを渡してくる莉衣奈。やめなさい、それは私が買っておいたやつだ。それに――

「チョコなら一応、会社でもらった。義理以下の拷問チョコではあるが……」

「あはは、またすっごい失礼な渡し方されたんだー? 去年は確か、社内便でウイスキーボンボンだっけ? 今年はなぁに? 物陰から吹き矢でアーモンドチョコでも飛ばされてきた?」

 や、そこまで失礼ではなかった。が、まぁ、似たようなものか……。否定しきれず頷きかけた龍生は、カウンターの上に飾られた蘭に、はっとする。

「いや……そうだ、今年はちゃんとした物をもらった…………!」

 思い出されたのは、ふわりと漂う、甘い花の香り――。ああそうだ、夢を見るなと己に言い聞かせ、いつものような帰宅からの、いつものような妹とのやり取りですっかり忘れていたが、確かにもらった。義理は義理でももう一つ、とびきりスペシャルなチョコレートを! もしあれが、白昼夢でなければ――!

 確認すべく、カバンを置いた自室へと急ぐ背中に、

「強がらない強がらない。誰にチョコもらえなくても、私はお兄ちゃん大好きよ! ミッシェル・ロザリーのパンプス買ってくれたら、もっと好き~~~~!」

 性懲りもなく叫ぶ莉衣奈の声が響く。気にせず部屋に向かって確かめてみると、

「やはり、夢ではなかった…………」

 カバンから出てきたのは、赤い包装紙に包まれた小箱。それを両手でしかと握り締めた龍生はリビングに戻り、「これを見よ!」と、ご老公の印籠のようにかざす。

「これ直接もらったの? フェイス・トゥ・フェイスで? 防具越しでもなくて?」

 信じられない、と目を見張る莉衣奈。無理もない、もらった自分でさえ未だに信じられないのだ。さぁ、共に奇跡に感謝しようぞ、妹よ!

「まぁなんだっていいや。チョコなら私もらうねー!」

 感無量の龍生とは対照的に、あっさりと切り替えた莉衣奈が小箱を奪い取る。

「なっ、誰がやると言った! それは私の心のオアシス、三春さんからもらった特別なもので……」

「けど龍生、甘い物苦手でしょ? それなら私が美味しく食べてあげた方が、チョコもその三春さんって人も喜ぶと思うけどなぁー。龍生に無理されるよりはー」

 もっともらしく言った莉衣奈が、包みを留めるシールをベリッと乱暴に剥がす。

「わっ、こらっ! やめなさい! もうちょっとありがたみを持ってだな! まずは仏壇に御供えしてから……そうだ、母さんたちに報告しないと!」

「いい年した大人が義理チョコもらいましたって報告? ないない。本命ならまだしも、義理でそんな報告、天国のみんながため息ついちゃうよ!」

 ビリビリビリッ! 制止を無視して包装紙を破り開ける莉衣奈。ちぎれた赤い紙がひらひらと舞い散る。あああ、どうしたらそこまで汚く開封できるんだ、野生児め!

 あまりにも無惨な光景に、くらくらと立ちくらみがしてくる。そんな兄をよそに、いっただっきまーす! と、脳天気な声を上げて箱を開ける妹――が、次の瞬間、

「何これ…………」

 莉衣奈が固まった。ただでさえ丸い目を、さらに真ん丸にして呆然と立ち尽くす。

 明らかに様子のおかしい彼女に、胸騒ぎがする。

「莉衣奈……?」

 続きを促すと、まるで幽霊でも見たかのような驚き声で彼女は、

「た、たたたた龍生っ! こっ、これマジチョコだよ、義理なんかじゃない……!」

 どうやら兄をからかう気らしい。おねだりガム失敗の逆襲というわけか。

「義理じゃないって、どうしてそんなことがわかる」

 そんな手に引っ掛かるものか。冷静に反応してやったが、それでもめげぬ様子の彼女は「だ、だってほらこれっ!」と、チョコの入った箱をこちらに掲げ――――

「なっ、なんだこれは…………!」

 ズドーン! と、雷に打たれたような衝撃! 

 全身にビリビリと電流が走り、心臓が有り得ないほどに揺さぶられる。息ができない。が、それでも視線はチョコレートに釘付けで、瞬き一つをも許さない。

 なぜなら、箱に入っていたハート型のチョコには、こう書かれていたのだ。


〈愛しています〉


 何かの間違いではないのか。そう思い、莉衣奈から引き取って、上下左右、あらゆる角度から何度も確かめる。どの姿勢から見ても、確かに書いてある。一字の間違いもなく確実に、チョコの上からピンクのデコペンで記されている。

〈好きです〉でも〈大好き〉でも〈めっちゃ好きやねん〉でもなく、〈ジュテーム〉でも〈チョベリグー〉でもない。〈愛しています〉という、あまりにもストレートで熱く、それでいてどこか奥ゆかしく誠実な、愛の言葉が――。

「まさか……そんなことが、本当に…………?」

 あまりのことに、全身から力が抜ける。とても立ってはおられず、床に両膝をつく。感涙をこらえきれない。ぼた、ぼたぼたぼた――大粒の涙がフローリングを濡らした。

「やだ、龍生泣いてるの?」

 心配した莉衣奈が、腰を屈めて覗き込む。

「誰にも……わかってもらえないと思っていたんだ……。だってこの顔だぞ? 恐ろしいやつだと誤解され、避けられるばかりの人生だった。それなのに――――」

 ぼたぼたぼた。またも溢れ出る涙。どれだけ愛に飢えていたんだ、落涙が一向に止まらない。

 だがそれも致し方ない。義理だと何度も言い聞かせてきたチョコに、それもあの麗しのマドンナ、三春千紗からのチョコに、特別な思いが込められていたのだから。

「おおお、見てくれ莉衣奈! やはり〈愛しています〉と書いてある! あああ、神だ! 三五年間、恋愛に関しては微笑むことを忘れていた神が、ついに本気を出してきた! 長年にわたるブランクを帳消しにするべく、超高速の連続技で、ニコニコニッコーと微笑みまくっているっ! くぅぅ、無茶しやがって! 明日頬が筋肉痛になるぞ? スマイルの大バーゲンだ、笑顔の価格破壊だ! 多幸感が尋常じゃないぞ、うわぁぁぁぁぁっ!」

 興奮のせいか体が沸々と熱くなってきた。いかん、放熱でチョコが溶けてしまう!

 危険を察知し、箱から勢いよくチョコを掴み出した龍生は本能のままにかぶりつく。

「わっ、何してんの龍生! それ私が食べるつもりだったのにぃーっ!」

「駄目だ。義理ならともかく、本命は譲れんっ! ぬぅっ、胸焼けが、ぬぅぅ~~!」

 女神からの贈り物は、お世辞にも美味いとはいえぬ代物だった。ぬちゃぬちゃと、もたつくような過剰な甘さに、体が拒絶反応を起こす。――が、せり上がってくる吐き気を必死に飲み下し、さらに一口、もう一口と、むさぼり続ける。

「三春さんからの愛、一かけたりとも無駄にするものかっ……! ぬうぅっ!」

「ちょっ、もうやめなよ! チョコってそんな涙目で食べるもんじゃないよ! ほら、体なんて痙攣してきちゃってるし、人間が見せちゃいけない顔になってるよ、龍生!」

「止めてくれるな、愛とは時に苦しいものなのだ! そう、これは愛の味っ! 見える、見えるぞ天国がぁぁぁぁっ!」

 込み上げる嘔気も、迸る胃液も、全てが愛のスパイスなのだ。顔面蒼白ながらも、残りのチョコを一気に口内へ押し込んだ龍生は、勢いに任せて手元の箱にまでかじりつく。

「ぬうぅぅぅ~~! 愛のスパイス! ぬうぅぅぅ~~!」

「落ち着け龍生! それは食べられない。とりあえず人間に戻って!」

 冷静な莉衣奈が、発作的な奇行に出た兄を一喝する。

「――で、チョコもらうとき、その三春さんって人から何か言われたの? お返事待ってまーす、とか」

「いや、特には。よかったら受け取ってくださいと、それだけ言って、走り去ってしまったんだ……」

 言葉少なにチョコを差し出してきた三春。華奢な手は震えており、つぶらな瞳がうるうると切なげに輝いていた。今思えば、たかが義理チョコを渡すのに、あんな表情をするわけがない。

 そうか、直接愛を打ち明けたい――それなのに勇気がなくて言い出せない。そんな思いを、チョコと熱い眼差しに託し、必死に訴えようとしていたのか!

 ああ、それなのに最悪だ! 私ときたら、なんと気の回らない男だろう。不測の事態にお礼さえも言えず、ただ呆然と立ち尽くしていたなどと……一生の不覚だ!

「すみません三春さん! チョコレートに込められた熱き乙女心、遅まきながら確かに受け取りました! 貴女のいじらしい想い、決して無駄には致しません!」

 三五年ぶりの奇跡が、錆び付いていた心のスイッチをオン――これまで一度も使われたことのなかった、ポジティブ恋愛回路がついに通電した。

「おお神よ! 不肖北風、三春さんの愛に全身全霊を傾けて応えていくことを、ここに誓いますっ!」

 歯形の残る小箱を、しかと握り締めた龍生は、これまでの後ろ向きな姿勢に終止符を打つべく心を決めた。


 バレンタイン明けの、いつもとは違う、心弾む月曜の朝。足取りが軽すぎたせいだろうか、いつもより一つ早い電車に間に合った龍生は、いつもより早く出社。会社のビルに足を踏み入れた途端、可憐な乙女――三春千紗の姿を見つけた。

 これはもう運命だ、さっそく彼女に巡り会えるなんて――。

 この機を逃す手はない。そう信じた龍生は、大股早足で彼女に近付く。

「三春さん、ちょっとよろしいでしょうか!」

 出だしは好調。どもりもせずに、はっきりと言い出せた。

「北風さん……?」

 驚いた彼女の、宝石のような瞳が揺れる。こういう話を人に聞かれるのは面映ゆい。

「とりあえず、人目に付かないところへ」

 そう言って、エレベーターホールとは逆方向にある非常口付近へと三春を誘導した龍生は、

「私も同じ気持ちですから……」

 恥ずかしそうに俯く彼女を安心させようと、緊張に上擦る声で、なんとか思いを伝える。それから、用意してきたものをスーツの内ポケットから取り出し、意気揚々と差し出した。燃えるような恋をイメージした、深紅色の手帳だ。

「詳しくはこちらをご参照ください。これからどうぞ、よろしくお願いします!」

 思いが通じたことに感激しているのだろうか。彼女は、うう……と口元に手を当て、声にならない声を漏らす。ドキドキがこちらにまで伝わってきそうな、そんな震える手で手帳を受け取った三春は、照れくさそうに小首をかしげ、ニコッと小さく笑った。

 ああ、これが恋の実る瞬間なのか――。

 初めての経験に感慨もひとしお。超弩級の幸せに眩暈がしてきそうだ。長きにわたる冬の時代は終わり、私の元へもようやく春風が吹いてきた。

 今までとは全く違う日々の幕開けに、龍生の心はピョンピョンと跳ねるウサギのよう。くるくるとその場で五回転ジャンプできそうなほどに、高く舞い上がっていた。