チョコレート・コンフュージョン





     第二章 恋はまだ始まらない



「うそでしょ、夢じゃ、ないよね…………」

 非常口のそばに一人残された千紗は、先ほど北風から渡された真っ赤な手帳を開き、その内容に吐息を漏らす。

〈三春さん、本日は並々ならぬ愛情のこもったチョコレートをありがとうございます。貴女からこんな素晴らしいものを頂けるとは……あああ、恐悦至極に存じます。僭越ながら、私も同じく、愛しています――〉

 そんな、激情溢れる書き出しから始まった文章に、千紗はうるうると瞳を潤ませる。

 信じられない……! 私があの北風さんと両思いだなんて……!

 どうしよう、震えが止まらない。もう涙まで出てきそうよ。

 でもね、幸せすぎてどうしようとか、感激の涙が溢れそうだとか、そういうことじゃないの。赤い手帳をきゅっと胸に抱き、千紗は切に願う。

 ああもう、いっそ夢ならよかったのにっ……!

 だって……だってね、身に覚えがないの、全部誤解なの。


 私が北風さんを愛してるなんて、そんなことありえないからっ――――!


 もうやだ、本当にどうしよう。なんでこんな誤解しちゃってるの北風さん?

 全部勘違いですって言いたい。だけどそんなことしたら、きっと殺されちゃう。

「やだぁ、まだ死にたくないよ~~~~!」

 周囲に誰もいないのをいいことに、情けなさ全開、半べそ状態になって、その場にへたりこむ。やっぱりこれは悪い夢なんじゃないのって、ほっぺも腕も、一縷の希望を託して足の甲までつねってみたけど、残念ながらしっかり痛い。

 悲しいけど、これは現実。先週末から全然ツイてない……。

「神様なんて、どこにもいないんじゃないの……?」

 レディの武装であるハイヒールパンプスを見つめながらも、弱音をこぼしてしまう。

 どうしてこんなことになってしまったのかというと、話はバレンタイン前々日にまで遡って――――


「すみません三春さん、今いいですか? 南米向けの件でちょっとトラブルが……」

「あっ、後でこっちもお願いします。先方が急に仕向地の変更を依頼してきて……」

 しばらく席を外していた千紗がデスクに戻ってきた途端、入社二、三年目の後輩たちから次々に声が掛かる。

「いいわ、じゃあまず笹井さんから」

 椅子に深く座り直し、ニッコリと微笑んで彼女たちの相談に乗る。いつものことだ。

 海外営業の指示に従い、客先と連絡を取りながら、商品輸出のためのあらゆるアレンジを行う。それが、千紗の所属する輸出業務課の役目だ。海外事業部でも若手が多いこの部署で、課長の次に責任者とされるのが、まだ入社五年目の千紗だ。何かあるたびに後輩たちのサポート役に駆り出されるのも無理はない。

「なるほどね。これはもう先方と交渉するしかないけど、笹井さんにはまだ難しいから、今回は私が預かるわ」

 正直面倒な案件だ。それでも、任せてちょうだい、と笑顔は崩さない。恐縮そうに頭を下げる後輩の肩を、ポンと優しく叩いて、

「交渉メール、CCに入れておくから、手順を覚えて次回からはお願いね。――と、次は松沢さんかな? ああ、この件は…………」

 迅速かつ的確に判断して、問題点をフォロー。肩にかかる髪をサッと払いのけつつ、余裕の対応を続ける。

「大丈夫よ、今から手配すれば十分間に合うわ。昔似たようなことがあったんだけど、参考にするなら書類、出しておくわね。他に何かある人いる?」

 立ち上がって聞いてみる。大丈夫です、と首を振る後輩たち。

 よし、これでしばらくは自分の案件に集中できる。結構立て込んでるから、今のうちに片付けておかなきゃ! 気合いを入れ直して着席、パソコンのキーボードに手を置いたところで、

「三春さーん、ノンコマのインボイスってどうやって作るんでしたっけぇ?」

 隣に座る問題児、桃原(ももはら)ミホが、オフィスにはありえない金髪ツインテールを揺らしながらこちらを向く。

 ねぇ、今、何かある人いる? って聞いたとこだよね? あなたそのとき、ぽけーっと暇そうにスマホいじってたよね? それに――――

「桃原さん、それやるの何回目だっけ? もういいかげん覚えてもいいころじゃないかなー? 前やったときの資料、残ってないの?」

 あくまで笑顔、口調も柔らかーく聞いてみる。

「えー、そんなのとっくに捨てちゃいましたよぉー。ミホ、机周りゴチャゴチャしてるの苦手なタイプなんでぇ」

 桃原がツインテールの毛先を指でくるくるとさせる。うっわ~~、殴りた~~い。

「んー、でもね、少しは自分で調べたりしないと、いつまでも人に聞いてばっかりじゃ力つかないよー? ちゃんとメモ取ろっかー?」

 頬を引きつらせつつ、彼女のパソコンを覗く。作りかけの通関書類を確認すると、

「やだ、これだいぶ前にお願いしてたやつじゃない。それに仕向地間違えてる。台中(タイチュン)じゃなくて台北(タイペイ)向け。いつもと港違うから、ブッキングのとき気をつけてねって言ったわよね?」

「えー、そうでしたっけぇ? 忘れちゃってましたぁ」

 メモを取らないからよ、メモを!

「この船、航路的に台北には寄港しないはずよ。今すぐ予約取り直して。本船名とスケジュール変更になるから」

「えー! もうこのスケジュールでお客さんに連絡しちゃいましたよぉ? そうだ、同じ台湾だし、このまま行っちゃいましょーよ! 変更めんどいし、紛らわしい名前してる方が悪いんですよ」

「あなたねぇ、福岡に送った荷物を福井に届けられたらどうする? 問題でしょ? 本船変更したら、客先はもちろんウチの配送にも連絡を忘れないで、車の確保も必要だから。――と、どうしてこれ、インボイスとパッキングリストで個数が変わっちゃってるのかしら」

 画面上に、さらなるミスを見つけて指摘すると、

「もぅ、一度にそんなたくさんのこと言わないでくださいよぉ。テンション下がるぅ」

 ぶっすーっと不満顔になる桃原。

「あなたが文句言われないような手配をしていれば、問題はなかったはずだけど?」

「まあまあ、そんなに言わんでも。桃原君、まだ一年目ですけんねー。可愛いもんでしょーが」

 我慢できず声を荒らげる千紗に、やり取りを聞いていたらしい綿貫課長が口を挟む。小柄な体格のせいか、綿貫というより子狸といった印象の彼は、海外赴任した前課長に代わって、昨年の秋、配属されたばかりだ。貿易に関しては門外漢で、的外れな発言が多い。

「彼女、もうすぐ二年目ですけど? 可愛いじゃ済まされませんよ、こういう細かなミスがゆくゆくは大きな……」

「いかんよ三春君、女の子は愛嬌ないとー。怒ってばっかりじゃ、余計な小ジワが増えますけんねー。シワシワじゃ嫁のもらい手もなくなるんじゃないですかねー」

 前髪の後退したおでこを、定規でペチペチと叩く綿貫。ほっといてちょうだい。無言で聞き流す千紗に彼は続けて、

「まぁ仕方ないですわ、最近の子はみんな平成生まれ。ゆとりですけん、ゆ・と・り!」

 出た、ゆとり批判! ゆとり世代ってだけで、年配者はすぐバカにするんだから。

「課長、私もゆとり世代です。ゆとりだからと偏見を持つのはやめてください」

「あれー、三春さん昭和生まれやなかったですか? 昭和やのにゆとり! ははは、そりゃぁ災難やったねぇ」

 課長が額をペチペチとさせながら愉快そうに笑う。何がそんなにおかしいの。

 隣では、ゆとり仲間であるはずの桃原までもが「三春せんぱいって昭和なんだぁー。どーりで……」と吹き出している。何それ、どういう意味なのよ!

「とにかく三春君、新人さんには優しく優しくお願いしますよ。でないとすぐ辞めちゃいますけんねぇ。前いた支店の新人営業君、ちょーっと怒っただけで会社来なくなりましたよ。直帰でNRって白板に書いてましたけど、ノーリターンどころかネバーリターンですわ、ゆとりですけん!」

 わはははは、と腹から笑う課長。完全にゆとり世代を舐めている。ならいいわ、昭和全盛期の詰め込み教育を受けた方の実力、見せて頂きましょうか――と言いたいところだけど、

「それより三春君、このパソコンどうなっとるんかねぇ。前の壊れたんで新しくしてもらったんですけどね、画面触ったら勝手に動くんですわ。いや、マウスは使っとらんのですよ? それでもね、こう、文字をなぞって確認しようとしたら、画面が勝手にファアッってなって……言うとることわかります? ほら、ここここ! うわぁ、また動いた! 画面が勝手に切り替わるんですわー、困るんですわー」

 誰なのよ、課長にタッチパネルのパソコンなんて支給したのはっ! ダメだわ、これじゃ頼りにもできない。スタスタと課長のデスクに向かった千紗は、無言で問題のタッチ操作を無効化、すぐさま席に戻ると、隣に座る桃原に、

「さっきの件、まだ覚えてるかなぁ? すごーく申し訳ないんだけど、ブッキングの変更、頑張ってチャレンジしてもらえるぅー? とりあえずはそれだけでいいの。うん、じゃあやってみよっかぁー」

 甘ーい猫なで声で、まるで幼稚園児を相手にするように優しーく、優しーくお願いする。結構な厚さで魂がすり減った。だけど私はくじけない。だって一人前のレディなんだから。

 俯いた千紗は、足元のハイヒールパンプスを確認。よしっ、と気持ちを切り替える。

 大丈夫、私はまだ戦える。


「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった。急な出荷が入っちゃって」

 仕事を終わらせた千紗が駆け込んだのは、行きつけのダイニングバーだ。

 暗く入りにくい雰囲気のせいか、いつもガラガラの狭い店内。そのカウンター席にいるのは南城(なんじょう)恵里子(えりこ)――大学時代からの友人で、会社でも同期、国内向けの営業部で事務をしている。

「相変わらずそっちは忙しそうね。先始めちゃったわよ」

 グラスを掲げた恵里子が、ゴージャスな巻き髪を揺らす。胸元の開いたラベンダー色のニットに、スリットの入った黒のタイトスカート。ぴったりとフィットした服装が、彼女の豊満な体つきをより魅力的にみせているが、決して下品な印象はない。

 見た目と同じく、交友関係も派手な恵里子だが、性格がサバサバとしており、千紗とは馬が合う。その証拠に、週に一、二度はこうして飲んでいる。飲むといっても、千紗はもっぱらノンアルコールだが。

 恵里子の隣に座り、頼んだジンジャーエールを一気飲みして、ハァっと息をつく。

「お疲れね、また後輩ちゃんたちのお守? お酒頼んじゃえばいいのに。ほぐれるわよ?」

「ダメよ、明日も仕事だし。二日酔いなんてことになったら業務に支障がでちゃう。私、お酒弱いし」

 首を横に振ると、相変わらずねえ、と恵里子が呆れを含んだ同情の眼差しを向ける。

「そういえば今日の昼、カフェで見かけたわよ、笹井と松沢。あんたのこと、やたらと褒めてたわ。いつも凛としたしっかり者。面倒見もよくて、仕事はもちろんオシャレまで完璧なんて、大人の女って感じで憧れちゃうー! だって。よかったわね、随分と慕われてるみたいよ」

 声真似しながら再現してくれた恵里子。そう言ってもらえると悪い気はしない。気を良くしていると、

「でももうアラサーだっけー? イイ年だし、結婚しないのかなー。寿退社とかされたら、私たち困っちゃうけどー、とも言ってたけど」

 ガクッ。肩の力が抜ける。幸か不幸か、その予定は全くありません。

「まあ、その子たちならいいわ。可愛げがあるし、人の話を素直に聞いてくれる。手は焼けるけど可愛い後輩よ。問題は――」

 問題はあいつだ。頭をかすめるのは、オフィスにあるまじき金髪ツインテール、桃原ミホ。

「あの子だけはほんっとにひどい。メモも取らないし、ミスしても謝らない。そのくせ文句だけは一人前なんだから、いい加減にしてよって感じ」

「あー、あのお肌も頭もぷにぷに柔らかそーな新人? よくウチの会社入れたわね」

「それがコネみたいなの。そのせいか前の課長も甘くて増長しちゃった。ああいう子がいるから、これだからゆとりはーってバカにされるのよ。失礼しちゃうわ」

「新人ともなると、がっつり平成のゆとりか。おのれ、生まれた時からプッシュホン世代め」

「私たち、ギリギリ昭和のゆとりだもんね……。今日、課長にも笑われちゃった」

「ゆとりっていってもまだ黎明期で、そこまでゆるゆるだった覚えもないしね。あたし、円周率、小数点以下二〇桁まで言えるわ」

「私、私立だから土曜だって普通に授業あった。なのにゆとり世代ってだけで変な目で見られるんだもん。もうやんなっちゃう」

「いっそ、私ゆとりなんでーって手を抜いちゃえば? 向こうが舐めてかかってくるなら、こっちも、はいそうですねーって楽しちゃえばいいのよ」

「でもそれってバカみたいじゃない……」

「バカじゃないわ、バカのフリしてるだけ。むしろ賢い世渡り上手よ。侮ってくる相手をいいように使って、バカにし返してやるの」

 なるほどー、と一瞬思ったけど、ダメだ。私がバカやったら、ウチの課、明らかに回らなくなるし、それ以前にプライドが許さない。

 その辺、恵里子はうまいよなーと思う。扱えそうもない問題は適任者にポンと回してしまえる。できないことはできないと素直に甘えて、残業なんてほとんどしない。何でも一人で抱え込んでしまう自分とは大違いだ。

「どんなに頑張っても無理なものは無理だからね。できないものはやってもらって、できるものは全力でやる。おかげさまで、仕事もプライベートもそこそこ楽しませてもらってるわ」

 そう言って、何杯目かのカクテルを飲み干す恵里子。いい意味で肩の力を抜けたら、とは思うけれど、彼女のように器用には生きられない。

「それに、バカですまされるのも、甘えが可愛いのも、二十代前半まででしょ。アラサーの身にはちょっとキツいわ、もうすぐまた誕生日来るし……」

「あんた早生まれだからまだいいじゃん。あたしなんて四月でお先に二八よ。うかうかしてるとあっと言う間に三十路だわ」

「せめてもう少し遅く生まれてたら平成っ子だったのに……。そしたら桃原にも文句言わせないのになぁ。あの子、九〇年代生まれでもあるのよね、羨ましい……」

「バカね、そのうち九〇年代どころか二千年代の――新世紀生まれの若い子たちが、わんさか入社してくるわよ。そしたら平成桃原もみーんなまとめて、これだから旧世紀の人間は~~って言われちゃうんだから」

「ひぃっ! 怖いよー、恵里子助けてー!」

 サイボーグみたいなメタリックな新人を想像して鳥肌が立つ。新時代から、どんな刺客が送り込まれてきても大丈夫なように、もっと研鑽を積まなきゃ!

 身構えはしたものの、今以上に頑張るのはつらいなぁ、とも思う。正直、今の段階でいっぱいいっぱいなのだ。毎日が息苦しい。

 千紗には大人になったという実感が未だにない。仕事もしているし、選挙にも行く。お酒も飲めるし、喫煙だって合法だ。それでも、昔思い描いていた姿よりも、今の自分はだいぶ幼いと感じてしまう。大人というよりは、子どもが必死に大人のフリをしているといった方が近い。

 それでも、上司も後輩も頼れない今、頑張ってデキる大人を演じるほかないのだ。

 ゆとりだとバカにされたくないなら特に。

「あーあ、せめて先輩たちがいてくれたらなぁ」

「みんな辞めてったんだっけ?」

「そ。すごく頼もしくて素敵で、いつまでも一緒に仕事してたかったのになぁ。結婚とか出産とか、ライフステージの変化で辞めざるをえなくなっちゃったみたい」

「結婚に出産か……。キャリアをとるか家庭をとるか、女が絶対にぶち当たる問題よね。会社って基本、女に優しくない。特にウチみたいに古い考えのところは」

 吐き捨てるように言った恵里子に、千紗はこくこくこく、と何度も頷く。

「結婚しなきゃしないで、行き遅れてるとか揶揄されちゃうし。その点、男の人はいいなーって思う。女だったら『もう三〇』だけど、男は『まだ三〇』って感じだもの。独身でも、そこまでからかわれないし。女は何事も若い方がいいって風潮、どうにかならないかしら」

 もう若くもないのに、大人になりきれない自分への焦りも相まって、気分がズーンと重くなる。

「あーあ、いっそ男ならよかったのになぁー」

「そう言うわりにはいつもオシャレじゃない、そんな高ーいヒール履いちゃってさ。ちっとも女捨てる気なんてなさそう」

 千紗の足元を見た恵里子が、鋭く指摘する。

「そりゃ男に生まれてればって思うことはあるけど、現世ではムリ。どう転んだって私、やっぱり女だもん。男に合わせて働くしかないけど、男みたいにスーツにビジネスシューズ合わせたってなんにもならないし。女に生まれたからには、女として楽しめることは楽しみたいじゃない?」

「確かに。オシャレすると、それだけで気分アガるしね」

「そうなの! オシャレこそが私の武装! 中でもハイヒールだけは外せないわ」

 そう言って足元のパンプスをうっとりと眺める。今日履いているのは、シュッと先の尖ったシャープなフォルムが美しい一足だ。黒のレース柄で、甘さと上品さを兼ね備えている点も気に入っている。

「小さいころ、ヒールの高い靴に憧れなかった? 大人の女性の――レディの象徴って感じでしょ。この年になって言うのもなんだけど、今でも背伸びができるアイテムなのよね」

「それってメイクじゃダメなの? ハイヒールって、夕方キツいじゃん。あたし、勤務中はローヒールに履き替えてる」

 不思議そうな恵里子に、ダメなの、と即答する。

「お化粧じゃ鏡見なきゃ忘れちゃう、自分が大人だってこと」

 イイ年して未だに子どもな自分が、頼りない上司や後輩の前で虚勢を張るには、目に見える大人の証明が必須なのだ。くじけそうになったときはいつも、足元のハイヒールを見つめて、ちゃんとしなきゃ、自分は大人なんだからって思い出す。

「もう女子じゃないけど、凛としたレディではいたい。年齢とか教育とか性別とか、私を取り巻くものぜーんぶが足を引っ張ってくるけど、これがあれば、まだ戦えそうな気がするの」

 ニッと笑ってみせる千紗に、「それってしんどくない?」と、呆れ顔の恵里子。

 しんどくないかですって? そんなの…………

「しんどいに決まってるよ~~~~! つらい助けて誰か慰めて~~~~!」

 うわーん、と恵里子に泣きつく。さすがの武装も、親友の前ではあっさり解けてしまう。腕にぎゅうっとコアラみたいにしがみ付く千紗を、はいはい、と軽くあしらった恵里子は、

「優しく慰めてほしいならさ、彼氏でも作れば? ……そうだわっ、女を謳歌したいっていうなら、恋は外せないわよ!」

 何か思い立ったらしい恵里子が、急に声のトーンを上げる。

「恋ねぇ。それって、どうやってするんだっけ」

「枯れてるわね……。あんた、お世辞抜きに美人よ? あたしの次にだけど」

 そりゃどうも、と、野菜スティックを囓りながら肩をすくめる。

「まさかあんた、まだ引きずってんの?」

 片眉を上げた恵里子が、鋭い視線を向ける。

「そういうわけじゃないけど……誰と付き合っても長続きしないのよ。なんとなく信用できないっていうか、疑っちゃうのよね」

 千紗に初めて彼ができたのは大学一年のときだ。同じテニスサークルの、一つ上の先輩。明るくて話し上手で、サークル内でもいつも中心にいるような人だった。

 中高と女子校育ちだった千紗には、男の子と接する機会などほとんどなかった。そんな千紗の男性に関する情報源といえば、彼氏持ちの友達からキャアキャアと暴露される、過剰に美化されたのろけ話だ。そこに、甘ーい添加物のたっぷりのった少女マンガやラブストーリーを加えると、現実とはかけ離れた、キラキラ輝く完全無欠の王子様像ができあがる。今になって思えば、男性に対して理想を高く持ちすぎていた。

 付き合い始めて数日の、ラブラブ真っ盛りのとき、千紗は彼に聞いた。

 ――私のどこが好き?

 友達ののろけ話や、マンガやドラマでは、『彼』は決まって少し戸惑う。そんなの一言じゃ説明できないよ、言えるとしたら全部――君の全てが好きなんだ。そう言って、彼女を優しく抱き締める。だから私の彼もきっと――――!

 当時の千紗は、チョコレートとキャラメルとハチミツに、さらにメープルシロップを混ぜ込んだような、甘い甘い期待に胸を膨らませていた。

 それなのに、彼はためらいもなく『顔』と即答。いや、顔だって気に入ってもらえて嬉しいけど、もうちょっと他にあるよね? そう思っていたら、『美人の彼女って、自慢できるから最高なんだよねー』とか、『スタイルもいいよなー! 胸が小さいのが難点だけど!』なんて、誠実さに欠ける補足を笑いながら入れてきた。

 ショックを受けると同時に引いてしまっていたところを、突然押し倒されそうになってさらに引いた。断っても、『いいじゃん、好きだからだよ』とやめてくれなくて、それでも断ったら逆ギレされてドン引いた。愛想も尽き果てた別れ際、『じゃあさ、一回! 一回だけでいいから、最後にヤらしてくんない?』とせがまれ、引きすぎて銀河の果てまで見るはめになった。

「あいつは典型的な最低男だったね。女を消耗品のアクセサリーとしか思ってないタイプ。付き合う前、やめとけって忠告したでしょ? あんた聞かなかったけど」

「見抜けなかったのよ、男の子に免疫なかったし……」

「でもさ、大学生のころは確かにアレだけど、今はみんな、もうちょい落ち着いてきてるわよ。今ならもっと、いい意味で大人な付き合いができるんじゃない?」

「だけどこの年になると、なおさらそーゆーの避けて通れないでしょ? 中高生じゃないんだし、プラトニックな関係なんて逆に引かれちゃう。でも、初彼があんな感じだったから、他の人相手でも、どうせカラダ目当てなんじゃないのって疑っちゃう。だからなんとなく踏みきれなくて、今日はちょっと……なんて断り続けてるうちに、なんとなく気まずくなって、次第に連絡が来なくなって、結果、自然消滅――」

「まぁ、あんたに声かける男って基本スペック高いからね。言い寄ってくる子は山ほどいるでしょうし、女には困ってないでしょ。進展ないってわかったら、他に流れても無理ないわ」

「それって、やっぱりそーゆーのが目的ってことじゃない。そーゆーのしない私とはお付き合いできませんってことでしょ?」

「だってあんた、あたしの次にイイ女だし、とても処女には見えないじゃん。経験豊富なくせに、もったいぶってるーとか誤解されてんじゃない? 親友のあたしが奔放な分、余計に。下手に美人だと厄介なものね」

 自分でそれ言うかな。それに、そんな上っ面じゃなくて、もっと内面を見てくれたらいいのに。男の人って、やっぱり信用できない。

 振り払えない疑念だけがモヤモヤと広がって、誰と付き合っても長続きしなくて、気付いたら妙に潔癖になっていた。次第に男の人にときめくってこと自体がなくなって、口説かれることがあっても、心は全く動かない。

「たぶん恋愛回路が壊れちゃってるのよ。私、もう何年もドキドキしてない。男の人と話してるより、ウィンドウショッピングしてた方がよっぽどキュンキュンくるもの」

「それヤバいよ、枯れすぎだって。花も葉も茎も朽ち果てて、もう土しか見えない」

 額に手を置いた恵里子が、信じられない、と首を振る。

「私だって、できるものなら恋したいよ? なんかこう、胸の中の子猫が、みぃみぃ鳴き出すみたいな、甘く切なーい気持ちに浸ってみたいなぁって思う」

「ごめん、何言ってるのかわからない。まさかソフトドリンクで酔ってる?」

「え~~、わかるでしょ? 胸の中の子猫が甘えて擦り寄ってくるの。今はそっぽ向いてばっかりで、ちっとも応答ないけど」

「あんた、たまにすごい乙女チックなこと言い出すわよね。素面ならとても聞いてられないわ。恥ずかし過ぎて鳥肌立ってきちゃった、大根くらいならおろせそう」

 腕を組んだ恵里子が両の二の腕をさする。気心の知れた恵里子ですらこの反応だ。後輩にこんな話聞かれたら、病院に連れてかれちゃうかもしれない。

 だけど、いないと頭ではわかっているのに、どこかで期待してしまう。震える子猫に、ハイヒールのガラスの靴を、そっと差し出してくれるような王子様を――。形ばかりで中身はまだ子どもの情けない自分を、それでもいいよって、ただ抱き締めてくれる人。もちろん、変な下心はなしで。

「私だって、たまには誰かに甘えたい。片意地張らない本当の私を、よしよしって撫でてほしい。イイ年してこんなこと、大声じゃとても言えないけど」

「合コンでもやる? 運命の出会いがあるかもよ」

 とりあえず招集かけてみるか、と恵里子は早速スマホをいじり始める。男女問わず交友関係の広い彼女のことだ。その気になれば、明日にでも大規模な会合が開けてしまうのだろう。

「せっかくだけど、合コンはちょっと……」

 渋る千紗に、いやいや、そこは攻めていかないと、となぜかノリノリの恵里子。

 何か嫌な予感がするんですけど。警戒していると、ずいと身を寄せてきた彼女は真剣な表情で、

「週末のバレンタインどうよ? 誰かあげる人いないの?」

「いないよ? いるわけない」

「でもさ、会社で義理は配るんでしょ?」

「うちの課はしないの、女子率高いし。恵里子んとこは毎年やってるんだっけ? 営業部は仲いいもんねー」

 まあね、となぜか言葉を濁す恵里子。

「ねぇ、この際、課とか関係なく、可能性のある男どもにドカーンとチョコばらまいてみる気ない?」

「はぁ? なんでまたそんなこと……」

「実はここだけの話、いいブツがあるのよ。これなんだけど――」

 獲物を狙う女豹のように、ギラリと瞳を光らせた恵里子が、スマホでウェブページを開く。怖々覗いてみると、なぁんだ、ただの通販サイトだ。義理チョコが特価で売り出されている。

 大きなハート型のチョコに〈いつもありがとう〉なんてメッセージの入った、シンプルというより、野暮ったささえ感じる一品――税抜きで一つ三〇〇円。五千円以上のお買い上げで送料無料、全国配送承ります、とある。

「これがなんだっていうの?」

「これ、定価だと五〇〇円はするみたいなの。お買い得だと思わない? たくさん買って、独身のイイ男探して配り歩こ? 餌まいて一気に釣り上げるの。王子様の一人や二人、引っ掛かんじゃないかな」

「運命の相手を、そんな雑な方法で引っ掛けたくないんですけど……」

「大丈夫、あたしも協力するから。なんなら今からめぼしい相手リストアップする?」

 軽く流そうとするも、やる気満々の恵里子はスマホの連絡帳を開いて高速スクロール。膨大な数の登録者名が一気に画面を流れていく。

「いつまでも、あると思うなハリとツヤ! 今のうちに楽しんどかないと、あっと言う間に老後だから! 戦うなら今よ、三春千紗の恋愛革命っ!」

「ちょっ、ちょっと待って! さっきから何なの? 恵里子今日、絶対おかしい!」

 いつもはこんなに押しの強いタイプじゃないのに。どちらかというと、人の恋愛にはドライなタイプ。その恵里子が、不自然な熱意を燃やしている。これは何か企んでいるな、と長年の付き合いから嫌でもわかる。

「白状しなさい」

 生徒を叱る教師のように、威厳を込めて聞く。チッと舌打ちした恵里子は、

「実はこのチョコ、会社で配ろうと思って発注したんだけど、間違ってちょっと多めに注文しちゃったのよね。千紗が買い取ってくれると助かるかなーなんて……」

「ちょっと多めって?」

「五〇〇個。一四万近くの赤字よ――」

 遠い目をした恵里子が、ふぅっとエアタバコを吸う。いやいや、たそがれてる場合じゃないでしょ、なんでそんなことになったのよ!

「なんかねー、テレビ見ながらご飯食べつつ、スマホ片手にメールとツイッターやりながら、雑誌パラパラめくりーの、缶チューハイ飲みーのしながら、ノーパソで義理チョコ、サクッと注文したら、個数、一桁間違えちゃってた。あ、スカイプも同時にやってたわ、そんとき」

 お得なチョコゲットできたかと思ったら、とんだ大損失だわよ、とまたもエアタバコを吹かす恵里子。いやそれ、完全なる自分の不注意でしょ!

「今日はやけに恋バナに振ってくると思ったら、そういうこと……」

「いいじゃん、ハッピーバレンタインよ! 五〇個、いえ、三〇個でいいから買ってちょうだい! それで王子どもを一網打尽にするの! ね、お願い!」

 普段千紗には見せない、色のある声音で目配せする恵里子。妖艶な上目遣いに、思わずドキリとしてしまう。彼女に男が途切れない理由がわかる気がする。

「それじゃぁ……そうね、二〇個くらいなら買ったげる。王子乱獲用じゃなくて、自分用にだけど。チョコ好きだし、地道に消費していくわ」

「ナイス千紗! ありがと! これであと八〇個くらい捌ければなんとかなりそう」

 よっし、と呟いた恵里子が、スマホ上の集計表に個数を入力する。結構な数を転売できているところは、さすがの顔の広さといったところか。恐らくはお得意のツイッターで呼び掛けているのだろう。なんてやつだ。

「じゃあチョコ、明日会社に持ってくわね。ちょっとでも気になる人いるならあげちゃいなさいよ? 新たな出会いなんてそうはないんだし、適当なところで手を打たないと。若い子たちのぷるるんお肌には、どう足掻いたって勝てないんだからね?」

「心配してくれてありがと。だけど、チョコは全部私の胃袋行きだわ」

 胸の中の子猫はもはや仮死状態、ピクリとも動かないんだから。誰かにチョコをあげるなんてこと、万に一つもありえない――。

 自嘲気味に笑った千紗は、グラスの氷をカランと鳴らした。