Chapter 1 "To the Pit" ‐02-

いらっしゃいませハイヤ。……ああ、ジョージさん」

「やあ、ヨシくん。おはよう」


 愛想のいい笑顔と柔らかい声でそう挨拶すると、ジョージはすらりと長い指のついた手をふわりと上げた。


「うわ、嫌なやつが来た。回れ右して帰れパセリ野郎」

「ご挨拶だね、ローストビーフちゃん」

「うっせー、誰が肉だ。てめーを焼くぞ」


 ジョージはこの店の常連客だ。常連といっても、日中ふらりと来ては、特になにを買うわけでもなく、こうしてブーディシアと言い合いをして去っていく。


 高い背を生地のいいスーツで包んだいかにも英国紳士といった外見で、上からレインジャケットを羽織った気取りすぎないところもかえって洒落ている。穏やかな口調と優雅な身のこなしは、なんだか大きな犬を思わせる。そういう意味では、ブーディシアとは対照的な人だった。けれど不思議と似た雰囲気もあって、年の離れた兄、と言われたら、信じてしまうかもしれない。


 ブーディシアはなぜかいつも嫌がっているが、俺としてはジョージから世間話を通じてイギリスの様子を知るのは、今やここに来る楽しみのひとつでもあった。


「あーもう、なんであたしの周りはこんなのばっかなんだよ」

「シンデレラ読んだことないのかい? 態度の悪い姉は王子様とは結婚できないんだよ」


 ブーディシアの当たりの強さもひどいものだが、ジョージの切り返しもなかなかだ。様子から察するに、古い知り合いか親しい友人なのだろう。


「そっちこそ知らねーようだな。いじわるおおかみは赤ずきんにぶっ殺されるんだぜ」


 ブーディシアはニヤリと笑うと、赤いパーカーのフードをかぶって爪を立てる仕草をする。どう見ても赤ずきんとおおかみが混ざってしまっている。


「そんな暴力的な話でしたっけ」

「そうだよ。だからずきんが赤いんだろ」

「絶対に違いますよ」

「あ、そういえばさ。さっき入ってくるとき見たんだけど」


 ジョージは思い出したように親指で肩越しにドアを指差す。


「店のガラス、落書きされてたよ」

「え、本当ですかリアリー?」

本当さリアリー


 俺は急いで外に出ると、ショーウィンドウを見渡す。

 落書き? そんなものあるわけがない。だってさっき俺が来たときには……。


 しかし、確かにジョージの言う通りだった。

 ガラス窓の右下。その隅に、青緑色の不気味なガイコツが描かれていたのだ。

 大きな帽子をかぶったガイコツは、ボートの上で、やりのようなものを振り上げている。その表情は、なんだか笑っているように見えた。サイズはだいたい広げた手の平におさまるくらいだろうか。小さいが、精巧な絵だった。


「こんな絵、いつの間に……」


 俺が片膝をついてその落書きを観察していると、左からガシャリとドアを開ける乱暴な音がした。


「これか。……ナメたしやがって」


 店から出てきたブーディシアは俺の隣にかがむと、握った左手を伸ばしてガイコツをノックするようにたたいた。てっきり激怒するものと思っていたが、意外に落ち着いた様子だ。急に顔が近づいてきて肩が触れたので、俺はどぎまぎしながら半歩右にずれる。


「いったいなんでしょうね、この絵」


 奇妙だった。突然出現したとしか思えない。論理的には、そんなはずはないのだが。

 ブーディシアは無言で俺を見る。ぱちぱちと数度まばたきするのにしたがって、長い金色のまつが上下した。


「……あのさ、悪かった」

「え?」

機知ウィットがないって言ったの、気にしたんだろ。真面目はお前の取り柄だよ、うん。こう言っちゃなんだけどさ、その冗談ジョーク、マジでつまんねーからもういいって。ごめんな」


 話が見えない。どういうことだろう。


「いや、別に冗談ではないんですけど」

「こんなのよくあるグラフィティだろ」

「グラフィティ」


 突然登場した思いもかけない単語を、俺は思わずそのまま繰り返してしまう。


「……マジでシリアスリー? グラフィティ見たことねーの? そんなことあるかよ」

「聞いたことはある気がするんですが……」


 俺は正直に答えるが、ブーディシアは納得がいっていないらしい。


「いっぱいあるだろその辺に! スプレーとかでさ、こう、シャシャって!」


 少し考えてみたけれど、心当たりはなかった。


「ローストビーフちゃん、その説明じゃ、ヨシくんもわからないと思うよ」


 そんな声が聞こえてブーディシアの肩越しに目をやると、ジョージが笑いながら店内から出てくるところだった。


「どう考えても目に入らねーほうがおかしい!」


 立ち上がってブーディシアが言うと、金色の髪が遠心力でさらりと揺れた。しかしジョージはそんな反論も意に介さない。


「気にしていなければ、そんなものだよ。むしろ僕は、興味を持ってくれたことのほうをうれしく思うね。いいかい、ヨシくん。グラフィティっていうのはね……」


 まるで水を得た魚のように、ジョージはグラフィティについてとして語りはじめる。


 スプレーやペンを使って、街の壁などに書くアートであること。

 最初は本当に落書きだったこと。

 70年代に本格化し、90年代にピークを迎えたこと。

 ニューヨークを中心に、世界中で発展したこと。

 本来はヒップホップ・カルチャーの一部であること。

 多くの場合、犯罪であること。


 そのほとんどすべてが、俺にとっては、未知の情報だった。


「グラフィティはね、自分のニックネームを落書きするところから始まって、その文字がどんどん派手になっていったというのが定説なんだ。だから〈描くドロー〉でも〈塗るペイント〉でもなく、〈書くライト〉って動詞を使うんだよ。グラフィティを書く人も〈ライター〉だね。敬意を込めて、グラフィティ・アーティストっていうこともあるけれど」


 百科事典のように情報をすらすらと並べていくその知識と教養に、俺は圧倒される。


「ジョージさんはグラフィティが好きなんですね」

「グラフィティに限らず、アートはなんでも好きだよ。小さい頃からね。ブリストル美術館は僕のホームみたいなものさ」

「ずいぶんカビくせー家だけどな」

「美の追求の歴史を馬鹿にしたものじゃないよ。もう少し敬意を払いたまえ」

「でさ、ここブリストルは、そのグラフィティの聖地なんだぜ」


 ブーディシアはジョージの言葉を無視しつつ、得意げに腰に手を当て、胸を張った。ジョージは特に気を悪くすることもなく、うなずいて続けた。


「グラフィティが有名な街なら幾つもある。ロンドンだってそうだし、パリやメルボルン、それにベルリンの壁の跡だってそうさ。でも、このブリストルは、グラフィティの世界ではもっとも有名なアーティストを輩出している。そういう意味では、特別な場所なんだよ」

「もっとも、有名な……」

「そ。あいつだよ。バンクシー」


 反応しない俺を見て、ブーディシアはやれやれといったふうに腕を広げる。


「知らねーって顔してんな」

「いや、まあ……」


 言いよどむ俺の様子を見て、芝居がかった調子でジョージが説明する。


「バンクシー。神出鬼没の覆面アーティスト。その正体は誰も知らない、謎めいた存在さ。わかっているのは、ブリストル出身だということだけ。にもかかわらず、彼の作品は世界中で高く評価されている。世界最大のアート・オークションのひとつ、サザビーズで落札された彼の作品が、いったい幾らになったと思う? 100万ポンドさ」

「ひゃく……まだ生きている人ですよね?」


 日本円にするなら、おおよそ1億5000万円。想像を絶する額だ。


「そう、そこがバンクシーのすごいところだ。価値を創り出す天才だよ。でも本当にすごいのはここからさ。なんと彼は、落札直後にその作品を……」

「あー、もういいよ。ジョージはホント、バンクシー好きな」


 もう飽きた、というふうに、ブーディシアが遮る。俺が聞くのは初めてだが、きっとふたりにとっては何度もしているやり取りなのだろう。


「そりゃそうだよ。あんなインパクトを持った存在は、美術史上でもまれだよ。アンディー・ウォーホルやマルセル・デュシャンにも比肩する。ブリストル出身なら、ダミアン・ハーストと並ぶ双璧さ。僕は彼と同じ街に生まれたことを誇りに思うね」


 そんな存在が、今自分がいる街で暮らしていたとは、なんとも不思議な感じがした。


「ひょっとして、これもバンクシーだったりします?」


 俺はグラフィティを指差して、一応聞いてみる。


「いや、さすがにねーな。あいつはもう、この辺には住んでねーし。ま、ブリストルでもたまには書いてるみたいだけどさ」


 答えは予想通りだったけれど、もしこれが本当にバンクシーでも、俺はきっと気づかないだろうなと思った。


「なににしても、ここに書かれるのは迷惑ですよね」

「さすがの僕も、これはアートというほどでもないと思うかな」


 ジョージは口の端を下げ、肩をすくめる。


「まったくだ。消させてやりてーとこだが……」


 俺はブーディシアの発した言葉になにかひっかかるものを感じて、その違和感をゆっくりと手繰り寄せる。


「ブーさん」

「なんだよ」

「ひょっとして、犯人が誰か、わかっていたり、しません?」

刊行シリーズ

オーバーライト3 ――ロンドン・インベイジョンの書影
オーバーライト2 ――クリスマス・ウォーズの炎の書影
オーバーライト ――ブリストルのゴーストの書影