Chapter 1 "To the Pit" ‐03-

「な……」


 彼女は信じられない、といった顔で、俺を見る。俺はその表情を見て、自分の推測が正しかったことを確信する。


「俺はどうやって消そうか、と思っていました。事故か災害みたいなもので、誰かがやった、という意識がなかったので。でも、ブーさんは違った。消させてやりたい、と言いました。やろうと思えば犯人まで辿たどりつけるのではないかな、と」

「くそっ、細けーとこばっか気にしやがって。バラの品評家かお前は」


 ブーディシアの妙にしやた罵りを聞いて、ジョージが大声で笑った。


「鋭いね、ヨシくん! 君の負けだよブー。これはもう、話さないわけにはいかないんじゃないか?」

「どうなんですか、ブーさん。誰がやったんですか」


 俺は聞いてみたかった。こんな、いつ書いたかもわからないグラフィティの犯人を、果たして特定できるものだろうか。


「あー、もうしょーがねーなー。……言っとくけど、全部はわかんねーぞ」


 気乗りしなさそうに、ブーディシアはそのグラフィティを指差す。


「いいか、よく見ろ。グラフィティは普通スプレーで書くんだが、こいつはスプレーで直接書いたんじゃねー。それにしちゃ細かすぎるだろ」

「確かに」


 俺は眼鏡を直し、顔を寄せて確認する。


「ほら、ここ。ちょっとボケてる。切り抜いた型紙を使って、上からスプレーを吹いてんのさ。ステンシルってやつだな」

「そうか、それなら一瞬で書けますね」


 答えがわかればシンプルだ。だが、シンプルであるからこそ、驚いた。そんなこと、考えもしなかったのだ。


「多くのグラフィティは犯罪だからねえ。のんびり書いていられないのさ。素早く書くテクニックはいろいろあるんだ」


 確かに、書かれた方は迷惑極まりない。器物損壊ヴアンダリズム、ということになるのだろうか。

 ブーディシアは、改めてガイコツのグラフィティに顔を近づける。


「こいつ、絵はそこそこうまい。この調子なら100は書いてる。ここまで書けるやつはブリストルでもそうはいねー。でも細かいところのペイントの入り方が甘いんだよ。絵そのものの技術と釣り合ってねーんだ、ステンシルは本来の作風スタイルじゃねーんだろうさ。このツヤなしマット低圧ロープレッシャーは、多分モンタナ。それは普通にしても、色がベリル・グリーンってのが妙だ。ステンシルは黒とか赤で書くことが一番多い。わざわざこんな色を使うのには理由があるだろうな」


 情報量が多すぎる。身構えて聞いていたつもりだが、はんすうしてみても半分もわからなかった。

 それでも、最後の言葉は気にかかる。


「理由、ですか」

「あらかた誰かにステンシルを渡されて、この色で書いてこいって命令されたんだろ」

「複数犯、ということですか?」

「ああ。ひょっとしたら二人組かもしれねー。ひとりがステンシルを押さえて、ひとりがスプレーを吹く。そっちのほうが速く書けるからな」


 俺はなるほど、と感心した。このグラフィティから、そこまでのことがわかるなんて。


「すごいですよ、ブーさん。まるでシャーロック・ホームズじゃないですか」


 せっかくイギリスに来るからと読み込んでいた小説の主人公の名前が、口をついて出てしまう。


「ほ、ホームズ? いや、そんな、こんなの誰でも見りゃわかるし……」


 ブーディシアはそう言いながら右手をポケットに突っ込んで、左手の指先でパーカーのひもをくるくると巻く。うつむき気味に目線を外して口をとがらせる表情を見て、俺は、こんな顔もするんだな、と思った。


「ブーがホームズなら、さしずめヨシくんがワトソンといったところかな。顧問探偵コンサルタント・ディテクティブならぬ、落書き探偵グラフィティ・ディテクティブというわけか。なかなかいいコンビじゃないか」


 ジョージはどこか満足そうに、ブーディシアと俺を順番に指差した。俺にワトソンほどの存在感があるかはともかく、ブーディシアの洞察力に驚いたことは確かだ。


「で、犯人は誰なんです」

「しつけーな。言ったろ。あたしも全部はわかんねーって」

「ごまかさないでください。突き止める方法はあるんでしょう」

「なんであたしを問い詰めてんだよ!」


 犯人が誰かも気になるが。

 なにより気になったのは。

 この、バイト先の美人だけれど態度の悪い先輩が、いったい何者なのか、だった。


「いいから教えてください」

「あーもう! わかった! わかったよ」


 ブーディシアは両手を上げて言った。多分〈まいった〉と〈もうたくさんだ〉の両方の意味合いがあるジェスチャーだろう。


「ま、ナメられっぱなしってわけにもいかねーからな。落とし前つけさせるのも悪くはねーか」

「じゃあ……」

「ああ。これをやったやつをシメに行く」


 俺は内心、小躍りした。


「そうと決まれば、君たち、今すぐ行くしかないね」


 ジョージは新しいおもちゃを手に入れた子供のように微笑んだ。


「でも、さすがにまだバイト中ですから……」

「あー、もう融通効かねーな。そういうときはな、イギリスじゃこうすんだよ」


 ブーディシアは店の中に入り、そこにあったペンで適当な紙になにかを走り書きすると、すぐに戻ってきて、手に持った紙をテープでドアに貼った。


「これでよし」


 そこにはめちゃくちゃな字でなにかが書かれている。


「……なんて書いてあるんです?」

「は? 読めるだろ!」

「いや、ちょっと……」


 俺は顔を近づけてみるが、いっこうに読めない。想像を絶する字の汚さだ。イギリス人は概して字にこだわりがないが、それにしてもひどすぎる。


「これは〈ランチ休憩アウト・トゥ・ランチ! 一時間で戻りますビー・バック・イン・ワン・アワー〉だね」


 不満そうなブーディシアをよそに、ジョージが横から読み上げる。

 確かに、どこかでそんな張り紙を見たことがあった。まさか、そんな自分勝手な理由だなんて。もちろん全部が全部そうではないのだろうけれど、一時間後に行っても開いていないことがあった理由はわかってしまった。


 というか、読めないと張り紙の意味がないのでは。

 あらゆる水準の適当さに俺がぼうぜんとしているうちに、ブーディシアはガチャリと店のドアの鍵を閉めた。


「なにボーッとしてんだよ。行くぞ、ヨシ」

「いやはや、ブーが人の言うことを聞いて動くとはねえ」


 ジョージは笑いをこらえながら、俺たちを交互に見比べる。


「あたしが言うこと聞いてんじゃねー。ヨシが人の話を聞かねーんだよ」

「これ以上ないほど耳を傾けてますけど」

「そういうとこだよ! そういうとこ!」

「ま、犯人がわかったら、ぜひ教えてくれたまえ。それじゃふたりとも、幸運を祈るよグットラックー」


 手を振るジョージを後にして、悪態をつきながらも、ブーディシアは歩き出す。俺は彼女に置いていかれないように、後に続いた。


 いったい、これからどこに行くのだろう。

 なにが起きるのだろう。


 俺はこの奇妙な体験に、心が躍るのを感じていた。

 まるでガイドについて未知の世界に分け入っていく冒険家みたいに、俺は意気揚々と、ブーディシアの背中を追いかけていった。

刊行シリーズ

オーバーライト3 ――ロンドン・インベイジョンの書影
オーバーライト2 ――クリスマス・ウォーズの炎の書影
オーバーライト ――ブリストルのゴーストの書影