Chapter 1 "To the Pit" ‐04-

「あの、ブーさん」

「あ?」

「これは無理です、やめておきましょう」


 無言のブーディシアの後ろを20分ほど歩いて、ついたのは画材店だった。

 画材店といっても古びた感じはなく、大きなガラス窓から店内がよく見え、明るい色の木の棚に商品が整然と並べられた、しやた雰囲気の店だった。

 看板には、四角く黒い文字でこう書かれている。


さあ、この街をアーティストで満たそうレッツ・フィル・ディス・タウン・ウィズ・アーテイスツ


 大きく書かれたそのメッセージは、立ち並ぶショップのなかでもひときわ目立っていた。実に力強いフレーズだ。まさかこれが店名ではないとは思うが、看板はほとんどこのメッセージで埋まっている。

 俺は迷いなくガラスのドアを開けて入っていくブーディシアに続いて、店内に入る。


 店の中の空気は、絵の具の匂いがした。棚には見たこともないようなさまざまな画材が並んでいる。そのすべて、ひとつひとつに異なる用途があるのだと思うと、圧倒される。

 見慣れないものばかりの店内に、俺はひとつ、見覚えのあるものを見つけた。


 94、と書かれた、スプレー缶。

 そう。

 あの日拾ったのと、同じものだ。


 ただ、違うのは、その量だ。

 同じ数字が書かれた銀色の筒が、棚に大量に並んでいる。何列にも渡って一面を埋め尽くしていて、まるでそれ自体が壁になっているようだ。

 よく見ると、缶の上の方にそれぞれ違う色がついていた。


「これって……」

「ん? スプレーだよ。グラフィティに使うやつ」


 俺が不思議そうな顔をしているのを見て、ブーディシアが説明する。


「幾つあるんですか?」

「189色」

「ええっ」


 想像よりずっと多い数に、俺は驚く。俺が知っているのは、子供のころ買ってもらった色鉛筆の24色が最大だ。そもそもそんなにたくさん色の名前を言える気がしない。


「94だけだぞ。モンタナだけでもハードコアとかウォーター・ベースド入れりゃもっとあるし、あっちにはベルトンもフレイムもある」


 言っていることはよくわからなかったが、とにかくたくさんあるということだけは、十分すぎるほどに伝わってきた。

 ブーディシアは迷うことなく、レジカウンターのほうに歩いていく。

 行く先に目を向けると、スプレーで埋め尽くされた棚とレジカウンターの間に、屈強な男が立っていた。


 きれいにり上げられたスキンヘッドが、陽光にさらして溶けたチョコレートのようにつやつやと輝く。分厚い胸の前で組まれた腕は、隆々と盛り上がり、競走馬の力強い筋肉を思わせる。色の濃いサングラスをかけていて、その目線はうかがうことができない。


 それを見て、俺はすべてを察する。

 この男が落書きをした犯人だ。

 これからこの男を追及して謝罪させ、グラフィティを消させるのだ。

 そんなこと、可能だろうか? 向こうが拳を突き出せば、ブーディシアは壁まで吹っ飛ぶだろう。それが俺でも同じことだ。

 そこで俺は、無理です、と声をかけたのだった。


さすがのイーブンブーさんでも勝てませんよ。いいですか、格闘戦というのは体重差が……」

「ちげーよ。っていうかさすがのイーブンってなんだよ。お前あたしのことレスラーかなんかだと思ってんの?」


 どちらかというと猛獣だ、と、思ったが、黙っておくことにした。

 そんなやり取りをしていると、こちらに気づいたサングラスの男が口を開く。


「……ブーディシアか? 驚いたな。君が顔を見せるとは」


 男の声は想像したよりずっと静かで、深く響いた。言葉通り驚いているとは思えないほどだ。

 そして男がブーディシアの名前を呼ぶのを聞いて、俺は自分の心配がゆうだと理解する。

 彼らは知り合いなのだ。


「うっせーアイオン。相変わらずでけーずうたいしやがって。名前で呼ぶなって言ったの忘れたわけじゃねーだろ」


 ブーディシアはいつもの調子で食ってかかった。言い回しこそきついものの、その声は俺やジョージに対してよりも、幾分か柔らかいように思える。


「君には似合っていると思うがね」

「てめー、やる気か」

違うネガテイブ。単に物事を肯定的に解釈しようという話さ」


 アイオンと呼ばれた男は、眉を動かさないまま薄く笑う。色の濃い肌と白い歯のコントラストがまぶしい。体重差以上に、そこにある不思議な余裕のようなものが、勝てないと感じさせる。背骨に鉄柱でも入っているのかという姿勢のよさには、ショップには不釣り合いな雰囲気さえあった。


「どーだかな。まあいいさ」


 ブーディシアは適当に話を流すと、隣の俺を指して、親指を軽く振った。


「アイオン、こいつヨシ。バイト先の日本人ジャパニーズ

「ヨシサン、コンニチハ。ワタシハ、アイオン、デス」

「え?」


 先に音が頭に入ってきて、後から意味が焦点を結ぶ。それは日本語だった。しばらく話していなかったから、認識が遅れる。俺は慌てて日本語で返事をする。


「俺はヨシです。はじめまして、アイオンさん。……お会いできて嬉しいですナイス・トウ・ミート・ユー日本語、大変お上手ですねユー・スピーク・ジヤパニーズ・ベリー・ウエル


 途中から英語に切り替えると、アイオンも英語に戻して満足そうに言った。


「ゼンに興味があってね。キョートとカマクラには何度か足を運んだ」

「いかつい顔のくせに、スピリチュアルなのが好きなのさ」


 けらけらと笑ってからかうブーディシアとは逆に、俺はむしろ納得する。その動じない振る舞いが、いかにも禅といった趣だったからだ。


「こう見えて私もライターの端くれでね。書いているのは地味なグラフィティばかりだが」


 意外、ではなかった。明らかに画材店の店員だけやっていてはつかない筋肉に覆われてはいるものの、壁のようなスプレーの前にたたずむさまは、実にんでいたからだ。


「なにが端くれだよ! こいつのストローク・コントロールはすっげーんだぜ。高圧ハイプレツシヤーでタグ書かせたらブリストルでも右に出るライターはいねーよ。もうホント、ゼンって感じ!」

「ありがとう、ブーディシア。しかし私はただ、問いの答えを見つけようとしているだけさ。壁に向かってね」


 急にはしゃぎはじめたブーディシアに対して、アイオンはあくまで穏やかにそう告げる。


「哲学的ですね」

「単純な話だ。アートは問いの連なりだからな」

「答え、ではなく?」

「答えはすぐに問いになる。同じことだ」

「なんだよーお前らー! 勝手に盛り上がんなよー!」


 話についていけなかったのか、ブーディシアは両手でドンドンとカウンターをたたく。子供っぽい仕草に、アイオンはほほみながら声をかける。


「ブーディシア、君もめいそうを試してみるといい。気持ちが落ち着くぞ」

「うっせー! あたしが悟りを開いたら、てめーら真っ先に涅槃ニルヴアーナたたんでやるからな!」

「はは、それはありがたい」

「ブーさん、涅槃ねはんは地獄じゃありませんよ。どちらかというと天国寄りの概念です」

うそつけ! あんなに暗いバンドが天国なわけあるかよ!」

「まあそこは、気にするなネヴアーマインド、というくらいですから……」


 あらゆる水準でひどい発言に目を白黒させていると、アイオンがつぶやくのが聞こえた。


「君たちは仲がいいな」

「は? ばっかお前なにいってんの? 今のでなんでそうなるんだよ。サングラスかけてると耳まで遠くなるんじゃねーの」

「まあ、そういうことにしておこう」


 アイオンは笑いまじりにそう言うと、仕切り直すようにパンと手を打った。


「さて、ブーディシア。なにから買うんだ。まとめて買うなら安くしておこう。ずいぶん待っていたぞ」

刊行シリーズ

オーバーライト3 ――ロンドン・インベイジョンの書影
オーバーライト2 ――クリスマス・ウォーズの炎の書影
オーバーライト ――ブリストルのゴーストの書影