Chapter 1 "To the Pit" ‐05-
待っていた? どういうことだろう。考えられる状況を数えるより先に、ブーディシアの鋭い答えが返る。
「勘違いすんな。……うちの店にグラフィティ書いたやつがいるんだよ。正直、関わりたくはねーが、放っておくわけにもいかねー」
「君がいるとわかってやったのなら軽率だな。まあ、おおかた偶然だろうが」
俺はその言葉の意味をしばし考えてみて、それから質問した。
「あの……どうして店にグラフィティを書くのが軽率なんですか」
「
アイオンは人差し指で俺を指して、
「グラフィティには競争という側面がある。多くのライターは主な活動エリアが決まっていて、中には縄張り意識を持つ者もいる。他のアーティストの縄張りだとわかってわざとグラフィティを書くなら、それは宣戦布告と受け取られる場合もある」
そんな文化があるとは知らなかった。そしてこの情報は、おのずからもうひとつの事実を明らかにする。
「ということは、ブーさんもライターということになりますね」
「げっ」
「それも、けっこう有名なんじゃありませんか?」
考えると、つまりそういうことになる。
「なんだ、ブーディシア。話していないのか」
「うっせーな。……つまんねー話をする趣味がねーだけだ」
なんとなくその反応は予想していたが、アイオンの次の言葉は、さすがに意表を突くものだった。
「有名どころじゃない。そこのお嬢さんは、一級のグラフィティ・ライターだ。このあたりで〈ブリストルのゴースト〉の名前を知らない者はいないさ。誰もが
ブーディシアは、冷蔵庫の隅に腐ったリンゴを見つけたような顔をしている。しかしアイオンは旅先のレストランの話をするときみたいに、満ち足りた表情で続けた。
「グラフィティは競争でもあると言ったが、そこには絶対の不文律がある。それは〈
「
「そう、街の壁の数などたかが知れている。埋まれば上から書くしかない。より手をかけて、より素晴らしい作品を。そうして競い合いグラフィティは発展してきたというわけだ」
「アイオン、てめーいい加減に……」
「ブリストルのゴーストは、
アイオンの言葉は、それ以上続かなかった。
ブーディシアが、バン、とカウンターを左手で
カウンターに置かれた小さな花瓶が揺れて倒れそうになるのを、アイオンは眉ひとつ動かさずに受け止める。花瓶に差された赤い花が、ぐるりと揺れた。
「行儀がよくないぞ、ブーディシア。やはり君には
そっと花瓶を立てながら、アイオンはたしなめる。ブーディシアの行動に驚いた俺とは違って、落ち着き払っていた。
「てめーが黙らねーのが悪い。それに……頭なんていつだって空っぽだよ」
ブーディシアは我に返ったのか、気まずそうにポケットに両手を突っ込んで、目を逸らしながら
「……うちの店が落書きされたって言ったろ。
「ベリル・グリーンだと? それは……」
「ああ。まず間違いねー。あいつらが動いてる。……アイオン。最近ベリル・グリーンのスプレーを買ったやつはいるか」
俺はそこまで聞いて、ようやく思い至る。
アイオンが犯人でないなら、ブーディシアはなぜここに来たのか。
決まっている。情報を得るためだ。犯人についての。
「顧客のプライベートを
「ったく、協力する気ねーのかよ」
「心当たりは一切ないが……腹が減ったな。ベアー・ピットのブリトーが食べたい。それと」
アイオンは、太い腕を組んで、白い歯を見せた。
「グラフィティを消すなら、
「はっ、食えねーチョコレート野郎だ」
「
「うっせー」
褒められているのに、ブーディシアは喜んでいるようには見えない。嫌そうな顔をしながらコインを取り出すと、バラバラとカウンターの上に置いた。
「そらよ。溶剤寄こせ」
「
アイオンはわざと定型句を述べて、まるでカクテルを客に出すバーの店主のように洗練された手付きで、溶剤をカウンターの上に置く。
ブーディシアは左手でそれをひったくるようにして
「行くぞヨシ」
「えっ、どこにです?」
「決まってんだろ。ベアー・ピットだ」
溶剤を片手に、店を出たブーディシアはずんずんと歩みを進めていく。俺はやや小走りになって並ぶと、横から話しかける。
「……アイオンさんって、何者なんです?」
「何者って、ライターだろ」
「そうじゃなくて。
「知らねーよ」
「え、知り合いだと思っていました」
「そうだけど、あいつのグラフィティがあいつだよ。それ以外は興味ねー」
その言葉に、俺は少し面食らってしまう。アーティスト、いやグラフィティ・ライターというのは、みんなそういうものなのだろうか。
俺は歩みを緩めないブーディシアについていきながら、街に目を向けてみる。今まで落書きとしか思っていなかったが、確かに注意して見てみると、色も形もさまざまなグラフィティが、さまざまな場所に書かれている。
しかし。
あの霧の日に出会ったグラフィティには、なんというか、なにも知らない俺をも圧倒するような迫力があった。このあたりで見かけるものは、なんとなく書いてみました、という感じで、そういうパワーがほとんど感じられない。
グラフィティ、といってもいろいろあるのだろうが、比べるとどうにも物足りない感じは否めなかった。
「……やっぱり、アートって感じじゃないけどな」
「ヨシ、なんか言ったか」
「あ、いや」
「今、馬鹿にしたろ」
「してません。単に思わずちょっぴり疑問が口から出ただけです」
「お前、意外と正直だよな……」
いつもの皮肉も忘れるほどだったのか、ブーディシアはストレートに
「取り柄のひとつということにしてください」
「ふん、いいさ。ま、お前の言ってることも間違っちゃいねー」
ブーディシアは立ち止まると、ちょうど壁に書かれていたグラフィティに拳を当てた。
「あたしに言わせれば、こんなのは三流だ」
そして、ニヤリと笑う。
「ちょうどいい。本物のグラフィティを、見せてやるよ」



