Chapter 1 "To the Pit" ‐06-
「熊、ですね」
「ああ。名前はウルサ」
俺はその巨大な熊、ウルサを見上げていた。
「こんにちは」
「熊に挨拶するやつがいるかよ」
「一応敬意を払っておこうと思いまして」
「
エイト・ビット・ワールドから数分北東に行けば、ショッピング・クウォーターと呼ばれる大きな商店街をはじめとして、ギャラリーズやキャボット・サーカスといったショッピング・モールがある、ブリストルの中心街だ。
その
ウルサ、という名前の熊の彫刻は、このベアー・ピットのシンボルのようだった。彫刻といっても木や石を掘り出したものではなく、白と黒の板を張り合わせて作ったものだ。どこかポリゴンのような印象を与える直線的なディフォルメに、なんともいえない味わいがある。二本足で直立した姿勢を取っていて、間近に立つと見上げる感じになる。実際の熊よりずっと大きく作られていて、かなりの迫力だった。
熊の前から離れて広場のほうへと歩いていくブーディシアに、俺は続いた。
「どうしてここに来たんですか?」
「色がベリル・グリーンなら、やったのはここを根城にしてるクルーの誰かだ」
「ええと、クルー、というのは」
「グラフィティのチーム。群れねーとグラフィティも書けねー、しょーもねーやつらさ。ベリル・グリーンはやつらのチーム・カラーみてーなもんだ」
そんなものが存在するなんて、初めて知った。グラフィティというのは、ひとりで書くのだとばかり思っていた。
「言っとくけど、余計なことすんじゃねーぞ。血の気の多いやつもいるからな」
「えっ」
振り向いたブーディシアは、さらっと恐ろしいことを口にする。
「ま、普通にしてりゃ大丈夫さ」
「それ、大丈夫かどうかは普通の定義によりませんか」
「ビビってんじゃねーよ。ほら、行くぞ」
ベアー・ピットは、円形のスペースが周囲から一段下がった、変わった構造の広場だった。円周に沿って配置された階段を下りると、トンネルのような通路を潜って広場にアクセスすることになる。
驚いたのは、その階段と通路の、壁面だった。
どちらもあふれんばかりのグラフィティで、隙間なく埋め尽くされている。
「すごい……」
一言でいうなら、それは
四角い文字、人の顔、なにかのキャラクター、リアルな動物。あらゆるイメージ、あらゆる色が、お互いに一歩も譲らずひしめいている。
ひとつひとつは、決して美しいというような類のものではない。けれど、この空間から伝わってくるエネルギーには、圧倒されてしまう。
これが本物のグラフィティ、ということか。
「すごい。美術館の絵とは、全然違いますね」
「ああ。額に入った死体みてーな絵と一緒にされたくねーな。グラフィティは生きてんだ」
それはあまりにも乱暴な意見だったけれど、それでも納得してしまいそうなほどのパワーが、この空間にはあった。
「……どうして書いているんですか?」
「ん?」
「これを書いた人たちは、なんでこんなにがんばって、ここに絵を書いているんだろうって」
疑問だった。どんなにすごいものを書いたって、壁に書かれている以上、売れるわけでもない。むしろ反社会的な行動ですらある。なのに、ここに書かれているどのグラフィティからも、すさまじい熱意が伝わってくる。
「んー……もっとかっけぇグラフィティを書くため、かな」
俺はアイオンの教えてくれた、グラフィティの不文律を思い出す。
それがライターを駆り立てるリズム、グラフィティを洗練させるハーモニーなのだ。
「
物騒な言葉とは裏腹に、まるで長年飼っているペットを
「……そんでさ、これはかっけぇ! って思えるやつができたとすんだろ? そしたら、そいつは
道理だと思った。不文律から考えると、優れた作品ほど
「そういうときだよ。……生きてる、って感じがするのはさ」
俺ははっとして、ブーディシアの横顔を見る。
寂しそうな、切なそうなその表情を見て、俺は、なにか言わないと、と思った。
「あの」
「ん? なんだよ」
「ブーさんが書いたやつは、ないんですか」
彼女は無言で、隅の方を指差す。
そこには小さなオバケの絵と、〈BOO〉という文字が書かれていた。丸みを帯びたオバケは牙を
なんだかちょっぴりブーディシアに似ているな、と、俺は思う。
「これだけですか?」
続けて余計なことを聞いてしまったのは、思いがけず親しみのある姿を目にして、油断してしまったからだ。
聞くべきではなかったと思ったときには、もう遅かった。
「ああ、これはたまたまはみ出た隅っこのサイン。残りはもう全部、
ブーディシアはそう答える。言い方は乾いていたけれど、表情は湿っていた。笑っているようでいて、なにかを堪えているような。
かける言葉が見当たらなかった。
俺が反応に困っていると見て、彼女はつとめて明るく言う。
「そんな顔すんなよ。あたしは負けた。それだけのことさ。あたしは別に、天才なんかじゃないんだ。この壁がそう言ってんだから、そうなんだろ」
ブーディシアは壁から体を離すと、大きく伸びをして、あくびをする。それからなにも言わず、俺に背を向けて、さっそうと歩いていく。その後ろ姿は、なんだかやっぱり野良猫みたいだった。尻尾をピンと立てて、お
俺は慌てて、彼女を追いかける。
「さて、と」



