Chapter 2 "For the Captain" ‐02-

「おお、ヨシくんか。大変なんだよ」


 悪夢のせいで寝坊してしまい、時間ギリギリにエイト・ビット・ワールドに出勤すると、いつもバックヤードにいる店長、ラデシュが、珍しく店の外にいた。


 いつも似たような赤いチェックのシャツとジーンズを着ているラデシュ店長は、赤い帽子に青いカバーオールで身を包んだ有名な配管工にそっくりだ。まさか意識して似せているわけではないだろうけれど、特にひげの感じが似ている。違いといえば、インド系の顔立ちで、鼻が丸の代わりに大きな三角をえがいていることくらいだ。


 日本のゲームが大好きで、人が集まる店にしたい、といつも言っている。実際、店内には古いゲームをプレイできるスペースやカードゲーム用のテーブルがあって、子供もよく出入りしている。

 そんな穏やかで優しい人なのだが、今日はどうも難しい顔をしている。

 そしてその理由を、俺はすぐに理解する。


「これは……」


 店のショーウィンドウには、再びグラフィティが書かれていた。しかしその大きさは、先日のものとは比べ物にならない。ほとんどガラス一面を覆っていた。

 グラフィティは、もこもこした奇妙な模様を中心にしていた。なんと書いてあるのかはいまひとつわからないが、おそらく文字なのだと思う。その横には、模様にもたれかかるようにして、ぬいぐるみめいた熊が書かれている。配色はグリーンとピンクが中心で、全体はポップでかわいい感じに見えるのだが、熊の表情は怒り狂っていて、長く伸びた爪にも血が滴っている。


「昨日のうちに誰かが書いていったらしい。まったく、困ったものだ」


 ラデシュはそう言うと、もともと下がった太い眉をさらに下げた。

 この間の様子を見る限り、こう大きくては、消すといっても一日がかりだろう。ひょっとしたら、数日かかるかもしれない。

 俺たちがなすすべもなくグラフィティを見上げていると、ブーディシアが出勤してきた。


「あ、ブーさん! 大変なんです。グラフィティが……!」


 ブーディシアはグラフィティを見て、固まる。

 彼女は目を見開いて、凍ったように立ちすくむ。やがて溶けた氷が水になってこぼれるように目線を落とすと、そのままつぶやく。


「……知らねー」

「あの、ブーさん?」

「うるせー! 知らねーって言ってんだろ!」


 そのまま走り去ろうとするブーディシアに手を伸ばすが、ラデシュが俺の肩に手を置いて、それを制止した。


「いいよ。ヨシくん」

「ラデシュさん、でも」

「ブーちゃんにもいろいろあるだろう」


 ラデシュはブーディシアの後ろ姿を見ながら、優しい響きでそう言った。


「さて。ふたりには悪いが、今日は休業だ。とにかくこいつをどうにかしないと。子供たちが怖がっちまう」


 ラデシュの柔らかいシャツからは、いつもスパイスの匂いがする。俺は店の中に入ってどこかに電話をかけるラデシュの後ろ姿を見ながら、帰る気持ちにもなれず、そこにたたずんで、大きなグラフィティを見つめていた。


「やあ、ヨシくん。……わ、店、すごいことになってるね」


 いったいなにをどうしたらいいのかわからなかったので、ジョージがたまたま通りかかってくれたことに、俺は感謝したいくらいだった。


「ええ、そうなんです」

「これは……まずいね」


 状況を共有してくれる人が現れてあんする俺の気持ちとは裏腹に、ジョージは深刻そうな顔をしていた。


「えっ、なにがですか?」

「実は最近、ライターの活動が活発になっているって報告があるんだ」


 報告。いったいどこからの報告なのだろう。


「あれ? 言っていなかったっけ? 僕はブリストル市の職員なんだよ。まあ僕に言わせれば雑用みたいな仕事ばかりなんだけど、グラフィティ対策も仕事のうちなのさ」


 俺の疑問に、先回りしてジョージは答えてくれる。


「対策、ですか」

「僕としては、推進、のつもりなんだけどね。無節操に書かれるのも困りものだ。自由に書ける壁を募ったりもしているんだけど、うまくいっていなくてね……。残念ながら市議会シテイ・カウンセルとグラフィティ・ライターは、対立しているのが現状だ」


 そう言いながら、柔らかく波打つ髪をくしゃくしゃとする。ジョージの困っている顔は、なんだか新鮮な感じがする。


「で、問題はこのグラフィティだよ。これ、なんて書いてあるか、読めるかい?」

「いいえ、正直、全然」

「こういうのはバブル・レターっていうんだ。ほら、文字レターが膨らんでバブルみたいだろ? ワイルド・スタイルに比べれば読みやすいから、丁寧に見ればわかるよ。ほら、最初のこれがR。次がE。それから、V、E、N、G、Eだ」


 俺はジョージに言われたとおりに目をこらす。最初はひたすらもこもこしていてよくわからなかったけれど、よく見れば変形の仕方に一定の法則があって、だんだんアルファベットと認識できてくる。


「ええと、ということは……リベンジ、ですか?」

「そういうことだ。聞いておきたいんだけど、この間のステンシルのグラフィティ、結局どうなったんだい?」

「あれは、ベアー・ピットのライターで……」


 俺はかいつまんで説明する。話をしていくうちに、ジョージの顔がみるみる曇っていくのがわかった。


「間違いないね。これは報復だよ」

「報復……」


 ジョージの言わんとしていることをまだすべてつかめてはいなかったが、それでも直感的に、嫌な感じがした。


「犯人はベアー・ピットのクルーの一員だったんだろう?」


 俺は背の高いジェイエフと、太ったペニーの姿を思い出していた。


「はい」

「前回のグラフィティ、実は似たものが最近増えているようなんだ。そのクルーのリーダーが、手下とステンシルを使って、あのグラフィティを書かせているんだろうね。ブーが捕まえたのは、その手下、というわけだ」

「なんのために?」

「それは僕にもわからない」


 ジョージは肩をすくめた。


「基本的にグラフィティ・クルーは反体制アウトロー集団だからね。ベアー・ピットは薬物取引の温床にもなってる。僕たち市議会も、簡単には手出しができない。ヨシくんも充分気をつけてくれ」


 不意に、背筋に冷たいものが走る。

 ペニーとジェイエフは、それほどこわもてというわけではなかった。けれど、この、店に書かれたグラフィティは、違う。営業している店の真ん中に、これだけ大きなグラフィティを書く。絵柄も合わせて、そこに敵意があるのは明らかだった。


 もしこれが、彼らによる報復だというのなら。


「……ブーさん」

「どうしたんだい?」


 相手はブーディシアの顔を知っている。

 このエイト・ビット・ワールドで働いていることも。

 向こうが報復する気だとして、ブーディシアが、クルーに見つかったら。


「ジョージさん。ブーさんがどこにいるか、知っていますか」

「いや、知らないけど……ちょっと、ヨシくん!」


 ジョージの言葉を待てずに、俺は走り出す。

 そうだ。

 ブーディシアが、危ない。

刊行シリーズ

オーバーライト3 ――ロンドン・インベイジョンの書影
オーバーライト2 ――クリスマス・ウォーズの炎の書影
オーバーライト ――ブリストルのゴーストの書影