3 シャナ

 シャナにとっての二日目の授業は、前日と同様、突っかかった教師の壮絶な自爆という、一種こつけいでさえあるざんこくショーのようそうていしている。

 教師は恐れ、生徒はおののき、という状況が三時間目まで続いて、しかし四時間目で一方に大逆転が起こった。

 四時間目の授業は体育だった。

 その授業を担当した体育教師(男性・三十三・独身)は、最近、ひらゆかりという生徒が騒ぎを起こしている、と同僚たちから聞いたらしい。

 授業を受け始めてわずか一月程ながら、いんけんかつおうへい、しかも女生徒をいやらしい目で見ることで、すでに悪評が定着しているこの体育教師は、生意気な生徒を許容できないタイプでもあった。彼は、自分の授業でその平井とやらをへこませてやろう、とかくさくした。

 彼は、いきなりクラス全員に無制限のランニングをするよう言った。

 この一月の記録を見れば、平井ゆかりは特別優秀な成績を残しているわけでもない。すぐに根を上げるだろう、と思った。ヘバっても、しばらくは無理矢理走らせてやる、とサディスティックなえつを覚えつつ、体育教師は不満顔の生徒たちをえんえん、走らせた。

 ところが予想に反して、ひらゆかりは涼しい顔で走り続ける。

 小学生にしか見えない、体操服に着られているようながらな少女が、授業時間の半ばを超えても、全く同じペースで足を動かしている。

 体育教師はれたが、そもそも彼女をいじめることが目的なのだから、彼女がヘバるまではランニングを止めることができない。フレイムヘイズと持久力を競わされるになった、ゆう始めクラスメートたちこそ、いい迷惑だった。

 やがて、あまり体の丈夫でない女生徒が一人、トラック上でうずくまった。

 いらちから、体育教師がり声を上げる。

「こらー、よしぁ! なにをサボっとるか!!」

「吉田さん!」

かず!」

 息を切らして胸を押さえる、吉田という女生徒に、クラスメートたちがけ寄った。

 普段から貧血などをよく起こしている、こういうことになるのは分かりきっていたのに、という生徒たちの批難の視線を、体育教師は全く感じることができない。

「なにを勝手に集まっとる、貴様ら!」

「先生、一美を休ませて上げてください」

 と吉田の背をさする女生徒が訴えたが、体育教師は、標的である平井ゆかりに、吉田の不調にも動じることなく走り続ける姿を見せつけられて(と彼は感じた)気が立っていた。

「うるさい! そう言ってサボってたら、いつまでたっても体力がつかんだろうが! 立て!」

 そのとき、ふと誰かがらした。

「だいたい、なんでいきなり持久走なんだよ」

 無能な小人物というのは、自分の痛いところを突かれると逆上する。

 体育教師は何を思ったか、いきなり吉田の手をつかみ、無理矢理引き起こした。

「貴様がサボっとるから、みな足を止めてるだろうが! 立て!」

「……っ」

 の動きだけで息をしているような吉田が、声にならない悲鳴をあげた。

 驚いた生徒たちが抗議する、ついでに悠二が『出る足』を制止する、

 その前に、

 体育教師が思い切りしりばされ、すっとんだ。

 不意の出来事に一瞬、ぼうぜんとした生徒たちが我に返って見た先に、平井ゆかりことシャナが、小さな運動靴の底を見せて立っていた。

 息も乱れず、汗もせいぜいひとすじの、なく引き締まったたい

 後ろで一つにまとめられた、長くつややかな黒髪が、りのいんのようにふわりと舞っていた。

(……あちゃー、やった……!)

 制止の届かなかったゆうが頭を抱えた。

 シャナが体育教師を蹴り飛ばした理由の大半は、たまたま自分の走行ライン上を体育教師がふさいでいたということだが、それでも、よしをしっかり片手で受け止めてもいる。

「さっきからずっと走るだけ……これ、一体なんの『授業』なわけ?」

 一応、どんな内容のものなのか、試していたらしい。自分の肩にもたれかかってヒュウヒュウ息をいでいる吉田を見て、まゆを寄せる。

(どうせ、可愛かわいそう、とかじゃなくて、非効率的だ、とか思ってるんだろうな)

 と悠二は、その内心を正確に察している。

 あんじよう、シャナは言った。

「馬鹿な訓練。ただむやみに体を動かすだけなんて、疲れるだけでなんの意味もないわ」

「き、貴様……!!」

 土まみれの顔をぬぐって、体育教師は起き上がる。汚れた顔は、怒りで真っ赤になっていた。

 もちろんシャナは、そんなふんには毛ほどのかんめいも受けていない。

「おまえ、この授業の意味を説明しなさい」

 と問いただすだけだ。

(やれやれ、やっぱり、こうなるのか)

「……シャナ」

 そうどうを確信した悠二が小さく声をかけると、シャナは、肩に持たせかけていた吉田を放って寄越した。

 悠二は受け取った少女のきやしやな体と弱々しい息づかいに驚いて、思わずその顔をのぞき込む。

「だ、大丈夫?」

 吉田は青ざめた顔を、それでもわずかにうなずかせた。

 それほど深刻な状態でもなさそうだ、と悠二はあんして、すぐほかの女生徒に吉田を預ける。

 彼らの背後では、体育教師がげつこうした声を張り上げていた。

「貴様、教師を足蹴りにしたな!」

 体育教師は、シャナの話になど耳を貸さない。彼女に詰め寄り、『ひらゆかりには通じない』と同僚から散々忠告されたはずの、権威による攻撃を始める。

「この不良が!! 教師に暴力をふるいおって! 停学、いや退学にしてやるぞ!!」

 たけり狂うおおがらな体育教師の前で、腕組みして平然と立つ小柄なシャナは、一言。

「説明さえできないの?」

「分かってるな! 問題だ、これは問題行為なんだぞ!!」

 話が全くみ合わない。

 体育教師が話をしようとしていないのだから当然ではあった。この男は、自分の感情をぶちまけることしか頭に無いのだった。

 彼の周りにいる生徒たちの方は無論、その狂態に、完全にシラケている。

 そしてとうとう、

ざわりなやつ

 す、とシャナのまゆへいたんになった。彼女の戦闘開始を告げる表情だ、と一目で察知したゆうは、我ながら最高と思えるタイミングで叫びを上げていた。

りだ!」

 シャナが、動く、そのしよぱなに受けた、みような指示。

「?」

 やめろ、と言われていたら、シャナは無視して、目の前でえる無能者の顔面にこぶしたたき込んでいただろう。しかし、そうでは無かったので、彼女は悠二の指示通りに気持ちよく、無能者を蹴り飛ばした。

 彼女にしてみれば軽く脚を出した程度の、しかし常人にはとんでもない威力の蹴りが、ギャグマンガのように体育教師をすっとばした。

 体育教師はきれいな放物線を描ききって、地面に激突した。ぎぴ、と変な叫びが上がる。

「あ〜あ……」

 悠二は自分の指示ながら、その蹴りの無茶な威力にため息をついた。クラスメートたちの注視の中、一度頭をいてから大きく息を吸い、わざとらしく声を張り上げる。

「先生、トラックの中に危ないでしょう!」

 シャナがげんな顔をする。

 メガネマンいけが、さすがに付き合いの長い友人らしく、最初に悠二の意図を理解した。同じく大声で、周りに聞かせるように叫ぶ。

「蹴っ飛ばされても、ようがありませんね!」

 とうが、にっと笑って、周りのクラスメートをあおる手つきで両手を振り上げ、後に続く。

「だよなー! ひらちゃん、足速いから!」

 それと顔を見合わせたなかが、最初に声を張り上げる。

「そりゃ、急にゃあ、止まれねえわな!!」

 ようやく察したクラスメートたちが、いつせいに声を上げ始めた。

 悠二や池と肩を並べて、佐藤や田中と声を合わせて、歓声にも似た大騒ぎをトラック上に巻き起こす。

「僕、見てましたよ、先生が平井さんの前に飛び出すところ!」

「私も!」

「あはは、センセ、カワイソ!」

おれだって目がかすんでよ、前がよく見えなかったって!」

「交通事故みたいなもんだよな!」

 この、自分に全くのないけんそうの中、それでも体育教師が、

「……き、きさま、ら……」

 と、いつくばった姿勢の影から、じゆのような声をらす。

 騒ぎに隠れるように、ゆうかたわらのシャナに体を傾けて、密かにく。

おどしとか、できる?」

 なんだか自分もシャナに影響されて、いい性格になってきてるなあ、と悠二は責任をてんしてみたりする。

 同じく騒ぎにまぎれて、体操服の内側に隠れるアラストールが、こっそりと言った。

「そうだな、ときによくやる方法でどうだ」

「そーね、たしかに、かくで黙りそうな顔してる」

 なんだか普段の生活が想像できそうなぶつそうなやり取りを経て、シャナが再び歩き出す。

 それだけの動作に、クラスメートが再び静まり返る。

 体育教師は、突然訪れた静寂の中に、足音だけが残っていると気付いて、そうはくになった。

 せんりつ台詞せりふ

「ひっ、ひあ……」

 体育教師が逃げ出そうともがいた、その鼻先に、ズドン、と脚がみ下ろされた。地に付けた腹をも震わせる、そのひとみが、再び上げられる。

 目の前、しっかりと固められたトラックが、靴底型の穴を五センチからの深さ、けていた。

 きようがくと恐怖に目をく体育教師に、悠二が最後のを押す。

「先生、

「……分かった?」

 シャナがとびきりきようあくな笑みとともに言い、体育教師は何度も全力でうなずいた。

 悠二が付け足すように、にこやかに訊く。

「もう、解散してもいいですよね?」

 体育教師はさらにぶんぶん頷いて、

「あ、あとは、じじ自習だ!」

 と言い捨てると、腰くだけに走って逃げ出した。

 今度こそ、生徒たちの間で完全無欠の歓声が爆発した。

 そんな中、悠二は傍らを見て、

「素早いなあ……っと待った待った! 追わなくていいって!」

 走り出そうとするシャナをあわてて引き止める。

「なんでよ、敵はつぶせる内に潰し……!?」

 その二人を、クラスメートが押し包んだ。

 意味もなくたたいたり、興奮した声でめそやしたり、いやみなく冷やかしたりと、もみくちゃにされる。ともに過ごしたのが一月だけというクラスメートたちは、このとき初めて同じ気持ちで、大騒ぎに騒いでいた。

 ゆううれしかったり驚いたり、ついでにシャナの反応におののいたりしながら、体中に打ち込まれる平手打ちに悲鳴を上げる。

 シャナは、目を白黒させて、彼女を押し包む歓声と好意の触れ合いにほんろうされていた。

 この中、いけは一度だけ悠二の頭を軽くはたくと、すぐ人の輪からはずれた。同じく悠二の背中を……こっちは思い切りぶっ叩いていたなかを呼ぶ。

「おーい田中ぁ、よしさんをかついでくれ」

「ほいきた」

 別の女生徒にひざまくらされている吉田(とうが、それをうらやましげに見ながら、吉田の顔をハンカチであおいでやっている)を、太い腕で軽く担ぎ上げ、保健室へと運んでいく。

 そんなこんなの騒ぎの後、

 残った時間を、悠二たちはのんびりと、春のしばに寝転んで過ごした。



 というわけで、ひらゆかりことシャナは、本人の意図する所によらず、クラスメートたちから人気を集めることとなった。

 その人気がどれくらいかというと、着替える際にほかの女子が、芝に寝転んで草だらけになった彼女の髪に皆でくしを通してくれるくらい(彼女のづくろいのとんちやくさを見かねたらしい)。……残念ながら、悠二はその心温まりつつもヒヤヒヤものな光景を見ることはできなかったが。幸いシャナも、何かを言い立てるでもなく、おとなしくしていたらしい。

 とはいえ、いきなりそれで完全に打ち解けられるほど、シャナも近付きやすくはない。とりあえず『無法者』から『用心棒の先生』にランクアップした、という程度だ。

 それでも今日は、体育の授業直後の昼休みになっても、昨日ほど露骨に出て行く者はいなくなっていた。クラスメートは半分方、教室に残っている。

 悠二としては、本意なのか不本意なのか……彼女をクラスにませる、という行為にどれほどの意味があるのか、よく分からない。

 それでも、昨日一昨日のことで僕にクソ度胸が付いたこと、それだけは確かみたいだ、巨大人形や首玉、カードの嵐や爆発の後じゃ、威張るだけの体育教師なんかやぶ一匹ほどにも恐怖を感じない、いやいや、危ない考えを持ちすぎだ、後がないからって、投げやりになっちゃだ、残った時間を有意義に使わないと、でもそれがなんになるんだ……

 つれづれ考えてから、改めて教室内に、目線だけを泳がす。

(まあ、寂しく取り残されるよりはいいか)

 結論の出ない考え事はめて、ゆうは今ある状況を素直に受け入れることにした。

 昨日と同じ、コンビニおにぎりにかぶりつく。ちなみに、彼がいつもコンビニおにぎりなのは、母に弁当を作ってもらうことが格好悪い、という少年的な見栄からだ。

「それで、今日も夕方まで居残りするのか? 今日の授業はそこまでないからいいけど」

 パリパリとくだきつつ、隣席に声をかける。

「ううん、夕刻までにここを出るわ。相手がちょっとでかいから、せめてこっちに有利な場所で戦わないと」

 シャナも相変わらず、メロンパンをしそうに食べている。食料袋は、やはり満杯だ。

 この体のどこに入るんだ、と悠二は、片手で抱えられそうな細い腰を見て思う。

「……どこ見てんのよ?」

 シャナににらまれて、悠二はあわてて目をそらした。

「え、いや、別に……それで、有利な場所なんてあるのか?」

「とにかく、ほかに人間がいないとこ。おまえってば、放っとくと、すぐに変な真似してじやするから」

「そうか、ありがとう」

 悠二は素直に感謝の言葉をかけた。

「うるさいうるさいうるさい。私のやりたいようにやる、って言ってるだけよ」

 シャナは乱暴に、メロンパン最後の一切れを詰め込む。続いて、今度は子供用の、甘いコーヒー飲料のパックを袋から取り出した。なかなか開かない口を、いじりまわしつつ言う。

「せめて、おまえの中身がなんだか分かれば、こっちにもやりようがあるんだけど」

「そんなみようなものが僕の中に?」

 悠二はこうして日常の中にいると、はずれた世界のことを、つい忘れそうになる。

 自分が、故人のだいたいぶつ〝トーチ〟であり、

 同時に〝ともがら〟のほうを身の内に宿したくら〝ミステス〟であることを。

 あるいは、無意識に忘れようとしているのかもしれない。

 それを許さないように、外れた世界のあかし・シャナが、確たる存在感を持って目の前にいる。

「うん。なんだかやつかいな物っぽいのよね、アラストール?」

 アラストールが珍しく、返答を遅らせた。

「……うむ。その中身を確かめるには、まずもって貴様を消さねばならん」

 パックの口と格闘するシャナはそれに気付かず、ただその内容を補足する。

「でも、宝具の質が分からないのに開けたら、何が起こるか分からないの。前に、それでひどい目にあったこともあるし」

「やれやれ、僕の安全は、その程度のものなのか」

「うん、その程度のもの」

 シャナはわざと意地悪く、事実を突きつけるつもりで言った。

 しかしゆうは、これに平然と答えた。答えることが、できるようになっていた。

「ふうん、そうか」

「……おまえ、最初みたいに、生き死にをぐちゃぐちゃ言わなくなったわね」

「ん? いや、今でも自分が少しずつ消滅に近付いてることは、恐いと思ってるよ。でも、それを言ってもようがないし」

「……」

 シャナは、悠二の平然とし過ぎた様子が、なぜかかんにさわった。

 この〝ミステス〟は道具。なら何をどう思っていようと構わないはず。それがなぜ癇にさわるのか。何かを期待しているのか。それを裏切られるのがいやなのか。

 ふといたそれらの思いと、そんなことを考える自分への言い知れない腹立ちとが、胸の中でうず巻く。思わず、責めるような声を出していた。

あきらめたの?」

 これにも、落ち着いた答えが返ってきた。

「さあ。実はよく分からない。でも、あんたやアラストールがいてくれるのは、すごくありがたくてうれしい……それだけは、はっきりと分かるよ」

「……?」

 意外すぎる言葉に、シャナは不可解なものを見るような目で、悠二を見た。

 悠二の顔にはまた、静かな微笑がある。

すべてを分かってもらえる相手がいるってのは、それだけで結構支えになるものさ」

「私たちが支えですって?」

 シャナはせせら笑って返した。

 何かを期待されている、それは自分がさっき思ったことと、どこか同じ……互いに分を越えたにおいを持っていると気付いて、急に突き放したくなったのだ。

「おまえに終わりを運んできた者たちを、支えにするって言うの?」

「本当のことを教えてくれただけだろ。あんたが僕を殺したわけじゃない」

 悠二は、これだけは真剣に否定した。

「ふん、同じことでしょ」

「いや、違うね」

「同じよ」

「違うね」

「同じ」

「違う」

 言い合う内に、二人は真正面からにらみ合っていた。

「……」

「……」

 静かな、しかし火花が散りそうなこの対決に、遠慮がちに、小さく、声がかけられた。

「……あ、あの……」

 二人が振り向いた先に、控えめな印象の少女が、真っ赤になった顔を伏せて立っていた。

 ほんの少し前にトラック上で倒れ、シャナが(結果的に)助けたクラスメート、よしかずだった。保健室から戻ってきたらしい。顔色もそれほど悪くはなさそうだった。

「吉田さん?」

 意外な人物の登場に、ゆうは少し驚く。

 シャナは、存在のざんからその少女の記憶を拾い上げる。ひらゆかりの友人だったらしい。さして親しくはなかったようだが。

「その、ゆ、ゆかりちゃん、さっき、体育の時間……あ、ありがとう」

 吉田の声は小さすぎ、しかも途切れ途切れなので、聞き取りにくいことこの上ない。

 シャナは、まだ機嫌を直していない。悠二との言い合いをじやされた事のやっかみも手伝って、ことさら無情にく。

「なんか用?」

「ば、馬鹿、お礼言ってるんだから、どういたしまして、くらい言えよ」

「なにが馬鹿よ」

 シャナは、ほかでもない悠二の助け舟に、むっとなった。吉田とは正反対の、強い声で言う。

「私は、私の邪魔するやつを片付けただけよ」

「あ〜、まあ、そうなんだけど」

 この少女のようしやのなさを悠二は分かっているつもりだが、それでも今の物言いが、いつも以上にキツくなっているのが分かる。

 そうでなくとも、吉田は気が弱い。今も、シャナの言葉に小さくなっている。

 ほとんど自分との言い合いのとばっちりを受けた形の彼女が、悠二は気の毒になった。どうなぐさめようか、と思って彼女を見れば、その前にそろえた手の中に、片方のてのひらでも隠せるほどに小さな弁当箱がある。

「あ、弁当……一緒に食べる?」

「え、は、はい……!」

 言われた吉田が、パッと顔をほころばせた。の小花に雲間の日が当たったような、ふとれいなものを見つけさせられたような気持ちにさせられる、そんな微笑ほほえみだった。

 悠二は、この微笑みに、ほっとさせられた。

(シャナとはえらい違いだな)

 フレイムヘイズたるシャナの(馬鹿にするとき以外の)笑みは、まさしくほのおのような、強烈に自分から輝く力そのもの……

(って、なに比べてんだ、僕は)

 意味も無く照れたゆうは、すように、よしのためにいた席を寄せてやる。

「シャ……ゴホン、ひらさん、なにが困るわけでもなし、一緒に食べて話するくらいいいだろ」

 実は悠二は、同じクラスになってから一月になるが、彼女とはほとんど話をしたことがない。さっきのそうどうを含めて、二、三回あるかないかだ。いつも自分の席でおとなしく本を読んでいる子、という程度の印象しかない。

 それでも、女の子と仲良くするというのは悪い気分ではない。

(吉田さんって、よく見れば可愛かわいいしね)

 悠二は少年らしい健全かつよこしまな精神の元、ほおゆるませる。

 シャナの方は、

(さっきのことをきっかけに、〝存在の力〟が薄れて遠ざかってた平井ゆかりと、また仲良くしようとしてるのかな)

 と、内心で冷静に判断し、そのついでのようにぶっきらぼうな声で返す。

「好きにすれば?」

 もう少しほかに言葉があるだろ、というゆうのぼやき並みに小さく、よしが答える。

「あ、ありがとう……」

 そこに、

「お〜い……」

 と聞き慣れた声がかかる。

 吉田の後ろの方で、声をかけたいけを始め、とうなかが、恐る恐る手をあげている。今まで事態を静観していたらしい。

 悠二は苦笑して手招きした。

 この三人が加わり、にわかに机を寄せた昼食会が始まる。

 田中が大声で話を始め、佐藤がまぜっかえし、池が締めて悠二が補足する。吉田はときどき小さく笑って、しかし会話には加わらず、弁当をつつく。

 シャナはそんな彼らをよそに、自分の食料袋から、あんまん、まんじゆう、チョコレートなどを取り出して黙々と食べ続けている。しばらくして悠二が会話からはずれると、そのそでを引っ張って顔を寄せ、文句をつけた。

「アラストールと話しにくい」

「いいだろ別に。たまには普通の人と接してみろよ」

「なんでそんな余計なこと」

「いいから。さっき取り囲まれたときだって、まんざらでもなかっただろ?」

「わけわかんなかっただけよ」

「そういうところを直すためにも、やっぱ接しとくべきだって」

「直す? どういう意味よ」

 そうやって顔を寄せてひそひそ言い合う二人を見て、吉田が初めて口を開いた。

「……二人とも、な、仲、いいんですね」

「そ、そんなことないよ!」

 そのうかがうような視線と質問に、手を振って必死に否定する悠二だが、池たちはみようせんぼうをこめて、口々に言う。

「いや、いいぞ」

「うんうん、いいな」

「いいって、絶対!」



 昨日より早く訪れた放課後。

 悠二は、池たちに寄り道を誘われない内にと、シャナとともにだつの如き勢いで教室を出て行った。

 そのけ去る二人の後ろ姿を、教室の戸から顔を出したなかとうが、あきれ顔で見送る。

「うむむ、いきなり二人して逃げ出すとは。さてはデートか? 許せん」

「許す許さんはともかく、あのひらちゃんと、ね。やっぱマニアックな趣味だよなあ」

 言ってうなずき合う二人を寄り道に誘おうと、いけが席を立つ。と、その前で、よしがきょろきょろと、あたりを見回している。

「吉田さん、平井さんならさかと一緒に帰ったよ」

「え……ゆかりちゃんと……?」

 池は、会話の主語が、みように食い違ったことに気が付いた。一瞬、宙をあおいでから、吉田に提案する。

「あのさ、吉田さん……」

 その頃、学校から離れたゆうとシャナは、学校前からさきおおはしへと続く、大通りのざつとうに混じっていた。

 日はまだ高く、夕方までは間がある。

「こりゃ、絶対に池たちは誤解してるだろうな」

 悠二は、かたわらをおおまたに歩くシャナに合わせて、やや早足になっている。

「なにを?」

「いや、こっちの話」

「?」

 人のいない場所に、といいながら、かシャナの足は市街地へと向けられていた。

 二人は、学校のある住宅地と、その対岸にビルを林立させる市街地をつなぐ、御崎大橋へと差し掛かる。

 悠二は、最初の夜のように、トーチのあるなしを見渡していた。

 りようたんに広い歩道のつけられた大鉄橋には、やはり胸にあかりを抱くトーチが幾人も行き来している。最初意識していたときよりも簡単に、はっきりと見えた。感覚をぎ澄ますコツがつかめてきたのか、灯自体は小さいのに、距離があってもそれと分かる。

 そんな気の滅入るながめの中、悠二は口を開く。

「そういえば、一つ、きたかったんだけど」

「なに」

「こっちで〝存在の力〟を喰ってるのは、世界にゆがみなんか出ても構わないっていう、乱暴な連中だったよな。なんでちようめんに、喰いかすをトーチに変えたりするんだ?」

 歩く二人の傍らをまた一人、自分たちと同じ年頃の女の子が通り過ぎる。かなり薄い、消えそうな灯を胸の内に宿して。

「……トーチは、世界の空白が閉じるしようげきを和らげるためのもの、だっけ? そんな回りくどいことしなくても、とにかくたくさん喰って力を蓄えれば、フレイムヘイズなんか気にしなくてもいいんじゃ?」

 シャナは首を振った。

「私たちフレイムヘイズは、世界のゆがみとか、力を〝自在〟に振るうのを感じて、〝ともがら〟を追うの。やみに喰って、世界のバランスを大きくくずすような真似をするやつがいたら、世界中からフレイムヘイズが群がり寄ってきて、そいつを狩り出しにかかるわ」

 その胸元から、アラストールが続ける。ざつとうまぎれているので、人の注意は引かない。

「フリアグネほどの〝王〟ともなれば、もちろん並みの〝徒〟とは比べ物にならない力を持っているが、あいにくと我を始め、フレイムヘイズに力を与えている〝徒〟、その全員が〝王〟なのだ。戦えば、まず無事では済まん。単純な力の強さでは推し量れない者たちもいる」

 再び、シャナ。

らんかく者たちは普通、そんなやつかいでなんの得にもならないフレイムヘイズたちと戦うのを、できるだけ避けるの。そのためなら、トーチを作る手間くらいは取るでしょうね」

「ふうん、なるほど……それで、あのフリアグネをやっつけるとして、どうやって見つけるんだ? あいつ、有名なんだったら、ほかのフレイムヘイズと情報を交換して、手の内やねらいを割り出すとかしてみたら……」

「ああ、それ無理」

 シャナはゆうの提案を簡単にきやつした。ひょい、と鉄橋の手すりの上に飛び乗る。

「わっ、危な! ……くないのか……それで、なんだって?」

 周囲から向けられるこうの視線の中、シャナは片方にかばんを持った手を横一杯に広げて、かるわざのように平然と歩く。

「無理って言ったの。偶然に出会う以外で、連絡なんか取り合ったことなんかないんだもの」

「はあ?」

 細い手すりの上でまれるステップには、まるで踊っているような躍動感がある。

 そのはずごとあわてる悠二の様子がなんだか面白くて、シャナは、わざと大きくんだりしてみる。

「っと……フレイムヘイズはそれぞれの事情と理由で戦ってるし、自分の力だけを頼むようなやつばかりだから、群れることには向いてないの」

 その弾む様子に寄せられる好奇の目線に真っ赤になっていた悠二は、うん、とうなずく。

「それはよく分かる」

「なんか言った?」

「いやなんでも」

「……とにかく、世界をうろついていれば、〝徒〟の喰いかすであるトーチは自然と目に入るものなの。あかりの燃え具合で新しいか古いかは分かるし、あとはその付近を見張っていればいい」

「意外にアバウトなんだなあ……もっとはっきりと相手をとらえられないのか?」

「だいたいの感覚で、いるらしい、ってことは分かるし、近くに来たりふうぜつしたりすれば、かなり細かく場所を特定できる。おまえを最初に見つけたときも、そう。急いで飛び込んだら、間抜けな顔したトーチがあわあわ言ってて、思わず笑っちゃったわ」

 いかにも馬鹿にした様子で言うシャナに、ゆうはしぶとく反撃する。

「……スカート」

 目線ギリギリを、ひらひら上下にれていたその奥からりが飛んできて、悠二の視界が暗転する。鼻を押さえる内に気が付けば、シャナは手すりから下りて、横に立っている。

「連中が喰うために封絶すれば、そこに割って入る。向こうがみ付いて来たら、それを倒す。簡単なもんよ」

「つまり、フレイムヘイズは個々人で、いきあたりばったりに戦ってるのか」

「そんなとこ。〝ともがら〟の理屈で言えば、この世にもぐり込んで喰うのも勝手なら、それを追ってち滅ぼすのも勝手ってこと」

 アラストールが、むっとした声で言う。

「勝手などと気軽に言うな。我がこの世に渡り来て、愚かとはいえ同胞を討ち滅ぼすようなをしているのは、両界のバランスを憂えるたいあってのことだ」

「はいはい、ちゃんと分かってるってば」

 シャナは、これには気持ちよく笑って答えた。アラストールに対するときは、こういう可愛かわいげのある顔もするんだけどなあ、と鼻をさする悠二は不公平なものを感じる。

「でも、最初来たときから思ってたんだけど……この街ってみようなのよね」

 シャナが目の前、のしかかるようにそびえる市街のビル群を見上げる。

 幾つかの路線を連絡し、大きなバスターミナルも含むさき市駅の駅ビルを中心に、市役所やオフィス街、デパート群、地下を含む繁華街などが二人の前に連なり建っている。

 悠二も見上げてく。

「妙って、なにが」

 言われれば、なんでもそう思えそうだった。

 今まで気にかけたことも無かった、当たり前の光景。しかしその薄皮の向こうには、どこまでも深く遠く広がっている、別の、はずれた世界があるのではないか。

「あのフリアグネ一人が普通に喰った結果としては、トーチの数が多すぎるのよ」

 シャナは、悠二が自分たちの参考になるような意見を、思わぬ観点から出すかもしれない、という期待を込めて言った。自分の使命に関することだけに、この期待からは学校でのようないらちは生まれない。

「燃え方も、昨日喰われたような新しいのから、消える寸前の古いやつまで、はっきり言って多過ぎだわ。この街に定住でもしていなければ、ここまでにはならないはずなんだけど」

「……それが?」

 その頼りない答えに、シャナはがっかりした。

「察しが悪いわね」

 やはり勝手に期待して勝手に失望して……その自分らしくない、他人を気にかけているという事実に、シャナは今さらながら、むかっ腹を立てた。それが自分の勝手だと分かってはいても、声に不機嫌の色が落ちるのは隠せない。

「力を、喰って使って遊ぶのなら、うろつけばいいわけだし、普通〝ともがら〟はそうするの。これだけの数のトーチが、少しずつにでも一つ所で消えたら、世界のゆがみも大きなものになる。フリアグネは、フレイムヘイズに発見されるようなリスクをわざわざ負っている……ということは、この街に何かあるか、この街で何かをしようとしているかのどちらかってこと」

「なにかって、なに」

 もう少しほかになにか言えないの、と思いつつ、ぶっきらぼうに返す。

「そんなの、分かるわけないじゃない。あのフリアグネってやつ、たくさんほうを持ってるそうだから、それが関係してるんでしょ」

 なぜかいきなりシャナが不機嫌になったので、ゆうは最低限のことだけをいた。

「……で、結局どうするつもりなんだ?」

「日暮れ前まではここらをうろついて、それから先はおまえの家で待ち構える、ってとこ」

「なんだ、やっぱり向こうのアクション待ちってことか」

 悠二も、無自覚に鋭いことを言う。

 シャナは、さらにむっときて、黙った。

 悠二はまたビル街を、人探しにも物探しも向かない場所をながめた。当たり前の光景、その薄皮の向こう、外れた世界のことを想像する。

「……こうやってる間にも、誰かが喰われたり、消えて忘れ去られたりしてるのかな」

 いまさらの話題を、シャナは簡単に肯定した。

「そうよ。世界中で、昔からずっと」

 じんな仕返しのつもりで言ってみる。

「これがおまえの知った『本当のこと』……恐い?」

 二人のかたわらを、また、消えかけのあかりを宿した女性が通り過ぎていった。二十過ぎくらいの、赤いスーツを着た美人。最も輝いて過ごせる日々の中にあるはずの人。

 でも、もう、すぐにいなくなる。

 これが、本当のこと。

 自分の、避け得ない未来の姿。

 悠二はそのことを思い、しかしなぜか静かな気持ちで答える。

「言ったろ。もちろん、恐いよ。でも、そうだな……どこか、すっとしたんだ」

 その不思議な答えに、思わずシャナは、今までの不機嫌を忘れて、悠二の顔を見上げていた。

 ゆうが気付いて見返し、少し笑う。自然な、力の抜けた笑み。

 シャナはあわてて視線をらした。ずんずんと歩調も荒く歩き出す。

「……行くわよ!」

「どこへ?」

「分かるわけないでしょ!」

 悠二は全く、わけが分からない。

「……あのさ、さっきから、なにを怒ってるんだ?」

「怒ってない!」

 言えるわけがなかった。

 その顔は、少し良かった、などと。

 そういう事を考えてしまった自分に、困ったりまどったり……とにかく怒って見せる。それ以外にやりようを知らない、接し方が分からない。

「やっぱり怒ってるじゃないか……変なやつだな……?」

「怒ってないったら怒ってない!!」

「はいはい……」

 首をかしげる悠二を引き連れて、シャナはおおまたざつとうを貫いていった。



 人通り激しいさきおおはし

 悠二とシャナのいる、橋のたもとあたりから少し離れた支柱の影で、少年少女が四人して固まって、二人を観察している。

「おっ、やっと歩き出した」

 先頭にいるのは、眼鏡めがねをターゲット・スコープのようにきらめかせるいけである。

 その背後から、よしがこっそりと不安気な顔をのぞかせている。

「で、でも、いいんですか、つけたりして……?」

 その遠慮がちな声に、とうが軽く笑って答える。こっちは全く隠れていない。

「気にすることないって、吉田ちゃん。別にじやしてるわけじゃないんだしさ」

「は、はあ……」

「向こう楽しい、俺たち無害、つまりオールオッケーってこと」

 れ馴れしい口調でも、不思議といやみにならないのが、この美のつく少年の特徴である。

 その佐藤と吉田の後ろに、そびえるようになかが立つ。大作りな顔に好奇心をき出しにして叫ぶ。

「そうとも! ここは我々としても、後学のためにさかひらさんの心温まる交流の一部始終を見届けねばならん! 行きましょう、吉田さん!」

「は、はい」

 にぎこぶしと一緒の力説に、よしは勢いでうなずかされる。

「おい、あんまり騒いで見つかるなよ。さかはともかく、ひらさんが恐……っと、す、すいません」

 いけが、なかに顔を向けたひように、赤いスーツを着た若い女性に肩をぶつけた、

 気がした。

「ん、どした、池」

 とうが不思議そうにいた。

 池は、ふと振り返る。肩をぶつけたはずの……何だったか?

「え? いや」

 池自身も、首をかしげる。

 そんな彼の後ろから、ためらいがちに、吉田が小さく声をかけた。

「あの、二人、行っちゃう……」

「お、急げ急げ! 決定的瞬間を見逃しちまうぞ」

「なにを期待してるんだ?」

 田中の叫びにあきれ声を返しつつ、池は二人の後を追う。吉田らも続いた。

 そこで消えた一つのトーチには、誰も気を払わなかった。

 そこで途切れた一人の女性の存在に、誰も。

 世界は変わらず動いている。



 そんな世界を見下す、あやふやな白い姿が、とある高いビルの屋上のふちにある。

かりうど〟フリアグネである。

 そのれいようぼうに、困惑の色が濃い。

「久しぶりの〝ミステス〟が、まさかフレイムヘイズと一緒に現れるとはね……しかもそうなることで、私は……いんの糸の、なんという複雑さだろう」

 その足下に、まつな人形・マリアンヌが、ビル風に毛糸の髪をなびかせて付き従っている。

「ご主人様。あのフレイムヘイズ、仮にも〝てんじようごう〟の契約者です。みような底力でかき回されるかもしれません、ご用心を」

 フリアグネは、それに目線だけを流して、急に穏やかな顔になった。いんの狂った声で、優しく言う。

「大丈夫だよ、マリアンヌ。私は、……そうだろう?」

「はい。しかし、せっかくふところに飛び込んできた〝ミステス〟、戦う前になんとか手に入れておきたいものです」

 主に似て、マリアンヌもほうへのしゆうちやくが強い。

 フリアグネの顔が、物憂げに曇る。

「そうだね……連中は、こっちから手を出しさえしなければ、なにもできないはずだから、まだ時間はあるだろう。計画のじやをされないよう、狩りの準備をしよう」

 す、と手を差し伸ばす。

「そうとも、今さら邪魔などさせるものか……君を、君という存在を、私は作って見せるよ、私のマリアンヌ」

「ご主人様……」

 マリアンヌも、ふわりと浮いてその手を取る。

 無数に繰り返してきた、とうのようなぐさ

 フリアグネは、この世で作り、そして恋した人形を胸に抱く。

「君を、〝りん〟などという道具ではない、この世で生きてゆける、一つの存在にしてみせる」

「すでに十分な〝意思〟は頂きました……まだ、足りないのですか?」

 これも、何度となく繰り返されてきた問いと、答え。

「ああ、足りない。今の君は……〝燐子〟という存在は、とても不安定だ。〝存在の力〟を集めることはできても自分に足すことはできず、私たち〝ともがら〟に力を供給されなければ三日ともたずに消えてしまう……あまりに、はかなすぎる存在だ」

 その心中を表すように、声の音律はふらふらと乱れている。

 マリアンヌは逆に、確信を声にする。

「私は、それがご主人様との、分かち難いきずなであると信じています」

うれしいよ、マリアンヌ。だけど、私は君のためにできること、すべてを行う……それこそが、今、私がこの世に存在している、全ての理由なんだ」

 誓いつつ、フリアグネは抱く腕に力を込める。

「ようやく、君のために必要なだけの力を得られるがついたんだ。今さらじやなど、させはしない……狩ろう、これまでのフレイムヘイズどもと同じように、狩ってしまおう」

 いつしか顔には満面の笑みが浮かんでいたが、またすぐ、こんがんするような表情、口調になる。

「そうしよう、マリアンヌ、そうするべきだよね?」

 抱かれた人形・マリアンヌの顔は、変わらない。

 声だけが、じようを込めてつむがれる。

「はい、その通りです、ご主人様」

 ぱっ、と子供のように顔を明るくして、フリアグネは高らかに、調子っぱずれにうたう。

「歓迎の準備をしよう、マリアンヌ! 可愛かわいい子らを集めて、盛大におもてなししよう!!」

「はい、ご主人様!」

 フリアグネはいた手を大きく振って、愛する人形ともども、薄白い火花となって散った。

 その火花も、すぐに陽光に溶け、風にまぎれ、消える。



 夕暮れに少し間を残す、白けた昼。

 その気だるい空気の中、ゆうとシャナは、ようやくの家路についていた。

「つ、疲れた……本当に歩き続けさせるんだもんな……」

 悠二はほとんど足を引きずるようにして歩いていた。

 結局、何の成果もなかった。そもそもが、手がかりはなし、あるのは目的だけ、相手の出方を待つ、という探索だ。当然と言えば当然の結果ではあった。

「うるさいうるさいうるさい。最初に言った通りのことをしただけでしょ、後で文句言わない」

 言うシャナの足取りは、当然と言うか、全く変わりがない。とりあえず、機嫌がなおっただけでもましとすべきか、と悠二はポジティブにものを考えてみたりする。

「ふう……ま、帰って一休みできるからいいか」

「な〜に、お気楽なこと言ってんの。夕方にはまた一戦あるかもしれないんだから、警戒は続けるわよ」

 シャナは悠二の希望をさっさとくだくが、これは機嫌の問題ではなく、単にそういう性格なだけだ。

 悠二は、そこまで彼女を理解できている自分に、思わず苦笑した。

「はいはい……ん?」

 信号待ちで足を止めた悠二は、その反対側の人込みに、たまたまトーチを五人ほど見つけた。

「なに?」

「いや……昼に言ってただろ。トーチが古いとか新しいとか……それで今日は、歩くついでに注意して見るようにしてたんだけど、たしかによく見れば分かるもんだな、って」

 悠二の目には、その五人のトーチの胸にともあかりの色やさの違いが、ありありと映っていた。

 真中の、つえをついた老人の灯は、まだ新しい。

 はしの、親と手をつなぐ男の子は、もういくらももたないだろう。

 なんとも、道理からはずれた、不条理な世界だった。

「なんだ、そんなこと」

 シャナは笑い飛ばした。

 悠二も、この外れた世界に引き込まれる気分を吹き飛ばそうと、あえて軽口で返した。

「そう、そんなこと……でも、やっぱり気分のいいもんじゃないな。人ごとに不気味にどうしてるなんて、まるで心電図をのぞき見してるみたいで落ち着かないよ」

「……鼓動? なんのこと」

 シャナがげんな顔をして振り向いた。

「え? あかりが、れたりふくれたりしてるだろ。ほら、古そうなやつは遅く、新しそうな奴は速く……見えないのか?」

「うん、見えない。アラストール、あなたは?」

「我にも見えん」

 シャナはじろじろとゆうを見る。

「おまえって、本当に変な〝ミステス〟ね。なに入れたら、そんな力が出るの?」

「こっちこそきたいよ。見えるものは見えるんだからようがないだろ」

 信号が青になって、人が流れ始める。

 二人も歩き出した。

「でも、アラストールにも見えないのに……それ、本当?」

 シャナの疑わしげな様子に、悠二は少し傷つく。

「ちゃんと見えてるって。ほら、前の新しいトーチの中、速く動いてるだろ」

「だから見えないんだってば。新しいってのは分かるけど」

 不意に、アラストールが言う。

すべて、と言ったな?」

 この〝の王〟には、きっちりしっかり、答えさせられるかんろくがある。

 悠二は改めて周りを見回し、確認する。

 大通り沿いの歩道には、一巡り見回すだけで、二、三十はトーチが見える。それぞれ、胸の内に抱く灯のさや燃え具合に応じて、元気だったり弱々しかったり……。

 自分はどうか、と確認すれば、それは速くも遅くもない。

 規則正しいどうを、深く、静かに行っている。

 悠二は求められた問いに、自分の持つみような力への責任を持って答えた。

「うん、全部、鼓動してる」

「トーチの多さと関係あるのかな」

 シャナの疑問に、いつもならすぐに返ってくる答えがない。

「……アラストール?」

 やはり答えはない。

 シャナも悠二も、彼の答えを待ち、ただ黙って歩く。

 次の信号に差し掛かる頃になってようやく、アラストールは口を開いた。

「かなり昔、西の果てに、自分の喰ったトーチにをして、とんでもない世界のゆがみを生んだ〝王〟がいた」

 いきなりの昔話に、二人は面食らった。

を〝ひつぎおり〟といったその〝王〟は、我らがフレイムヘイズを大々的に生み出す契機ともなった事件を引き起こした」

 シャナが、く。

「……どんな事件?」

「『みやこらい』」

 その、たった一言の持つ、すさまじく不吉な響きに、ゆうは震え上がった。

 目の前で、信号が赤に変わる。



 シャナはスーパーに入っても、目の前の生鮮品には目もくれない。通常の買い物の順路を無視して、その中心辺りにあるお菓子売り場に向かう。

「……」

 気の抜けた顔の悠二が、その後に続いている。

 赤信号になった歩道の横が、たまたまスーパーの入り口で、シャナが、戻るついでと夜食を買いに寄った。それだけのことなのだが、

(にしても、スーパーで敵のいんぼう云々について話をするかな、普通……)

 震え上がった自分が馬鹿みたいに思えてくる悠二である。

 アラストールは、このシャナの行動をとは受け取らないらしい。変わらず深刻な口調で、話を続ける。

「その〝ひつぎおり〟は、己の喰ったトーチに〝かぎの糸〟という仕掛けを編み込んでいた。彼奴きやつの指示一つで、だいたいぶつけいがいを失って分解し、元の〝存在の力〟に戻るという仕掛けだ」

「それが、なんになったの?」

 買い物カゴを下げたシャナも、別に不真面目なつもりはない……というか、彼女がこういうことでふざけることなど、まずなさそうだが。

「彼奴は、ひそんだ都の人口の一割を喰らうと、仕掛けを発動させた。トーチはいつせいに代替物としての機能を失って元の力へと戻り、そうされていたつながりを突然大量に失ったその都には、人を物を巻き込む、巨大な世界のらぎが生じた」

 シャナは棚から袋菓子を取りながら、そのついでのように悠二を見る。

「……おまえ、ついてきてる?」

「まあ、なんとか。要するに、人一人いなくなることを、ゆっくり存在感をなくしてくことでたんさせないようにしていたのがトーチ、と」

 悠二は確認するようにシャナを見、そのうなずくのを受けて続ける。

「なのに、それがいきなり、たくさんいなくなったら、世界が矛盾だらけでちやちやになるってこと……かな?」

「よろしい」

 シャナはもう一度頷いて、次の棚に向かった。

 今のはめてくれたのかな、とゆうはわずかな自己満足にひたる。

「アラストール、それで?」

「うむ、後は簡単だ。その巨大ならぎは、トーチの分解に触発され、雪崩なだれを打つように都一つ、丸ごとがばくだいかつ高純度な〝存在の力〟へと変じた。〝ひつぎおり〟は、本来我らが喰らうに適さないものもすべて、かてとする法を編み出したのだ」

 シャナは話題への緊張感もなく、冷蔵棚から子供用の甘いコーヒー飲料を取りつつ言う。

「それが『みやこらい』……でも、その〝棺の織手〟は討滅できたんでしょ?」

「多くの〝王〟とフレイムヘイズたちによる、長い戦いを経て、ようやくな。なにしろ、〝棺の織手〟は都市一つ分の力を喰らい、しかもそれを〝自在〟に操れるだけの……当時のらんかく者の中では最強の〝王〟だったのだ」

 悠二は、にわかに危機感を感じ始めていた。

「……それで、その大昔のとんでもない秘法が今、ここで進められてるっていうのか?」

「一つ所におけるトーチの異常な多さと、その中の不可思議な仕掛け……状況があのときとこくしている。フリアグネが、あの〝棺の織手〟の秘法を、そう簡単に使えるとも思えぬが……その可能性がわずかでもあるならば、フレイムヘイズとしてはなんとしてもつぶさねばならん」

 可能性と言いつつも、アラストールはほとんど確信しているようだった。

「そうか、そうだよな……」

 実は、この話を聞くまで、悠二はフリアグネ一党を、『たちの悪い通り魔』程度にしか思っていなかった。身近なようで、しかし実際には襲われたのは自分だけ。自分が抱え込んでいれば周りにその脅威は及ばない。その内シャナがやっつけてくれる。

 そんなを持っていた。

 しかしもし、連中が本当に『都喰らい』の成就を企てているのなら、をすればすぐにでも、皆が皆、トーチのいつせい崩壊に巻き込まれて、このさき市ごと喰われてしまうことになる。

 自分どころか、母も友人も、暮らしていた街さえ、消滅してしまう。

 悠二は初めて、フリアグネ一党への敵意を覚えていた。

 恐怖ではない、敵意を。

 シャナはそんな悠二をよそに、気楽そうに言う。

「でも、見た限りじゃ、トーチの数もまだ一割には程遠いわね。つぶすなら、早い内がいいんだろうけど、見つけるのは難しいし」

「本当に、向こうのアクションを待つしかないのか?」

 急に意気込んで言う悠二に、シャナは意外そうな顔をした。

「ん〜、とりあえず、こっちにもえさはあるけど」

「餌?」

「おまえよ、〝ミステス〟。なんせあいつは、〝かりうど〟だもの。せっかく目の前にぶら下がってるお宝を、みすみす『みやこらい』に巻き込んだりしないでしょ」

「そうか、そういうことでなら、僕でも何かの役には立てるな」

 えさ扱いにも関わらず、みように意欲的になっているゆうを、シャナは不審気に見た。

(……? ま、いいか)

 いつしか買い物カゴを一杯にしていたシャナは、最後にレジ近くの棚でパンを選ぶ。やはりその視線を釘付けにしているのは、メロンパンだった。さっきまでの話題など頭から消えたかのように、何種類もあるメロンパンを、しんちように吟味する。

 悠二が後ろからのぞき込んで、一つ、値段の高いものを指差す。

「これは? 本物のメロン果汁入りとか書いてるぞ」

よ」

 言下に否定された。

「なんでさ。値段なんかどうせ関係ないんだろ?」

 シャナは、買い物カゴとかばんを持った両の手を器用に腰に当てて、胸を張る。

「メロンパンってのは、網目の焼型が付いてるからこそのメロンなの! 本物のメロン味なんて、ナンセンスである以上に、じやどうだわ!」

 突然の大声と主張に、周囲の買い物客たちからも、おお、と声がれる。

「はあ」

 と悠二も、その堂々たるポリシーの表明に、同意するしかない。

 結局、厳選の作業には、それから十分の時を要した。



 二人はスーパーを出た後も、トーチ内のどうを観察するため、ゆるゆると歩いてきたので、家に帰り着いた頃には、すでに黄昏たそがれの色は深くなっていた。

 今にも襲撃を受けそうなみような緊迫のまま、悠二たちは家の前に立つ。

「……」

 しかし悠二は家に入らない。門の脇から狭い庭に回って、へいぎわの茂みの中にしゃがみこむ。

 シャナが不思議そうにく。

「なにしてんの?」

 悠二は、じとっとした視線をシャナに向ける。なるほど、たしかに彼女はこういうことを考えなさそうではある。

「母さんが一緒にいるようなときに、昨日みたいなそうどうがあったらまずいだろ。せめて日が沈むまでは、ここに隠れとくんだよ」

「ふうん、家族思いなのね」

「普通はそうだろ」

 ゆうは言ってから、何の気なしに思う。

 シャナは、元この世の人間だと言っていたが、フレイムヘイズになる前は一体どこでどうしていたんだろうか。彼女にも家族がいたんだろうか。

 そう考える間も、シャナは無表情に固まっていた。やがて、簡単に答える。

「……まあね」

 シャナも悠二の側にしゃがんだ。スーパーの袋から、キャンディの袋を取り出す。

 それを見た悠二が、やることもないので、手を差し出す。

「一つくれよ」

いや。私のよ」

 例によって身もふたもない答え。

 ぴくりとほおを引きつらせて、それでも悠二は求める。

「いっぱいあるじゃないか。一つくらいくれよ。甘い物は疲れたときにいいんだ」

「嫌。知ったこっちゃないわ」

「くれよ。今日は『みやこらい』のこととかでも役に立ったじゃないか」

「嫌。たまたまのがらで偉そうにしないでよね」

 だんだん、二人とも意地になっていく。

(……やれやれ……)

 アラストールがくため息にも気付かない。ひたすら言い合う。

「くれよ」

「嫌」

「くれ」

「嫌」

「く」

「嫌」

「ケチ」

 悠二が戦法を変えた。

 今度はシャナがほおを引きつらせる。

「……なんですって? よく聞こえなかったわ」

「どケチ」

 びし、と青筋がシャナのひたいに走る。

「ど、を付けたわね……?」

「聞いてたんじゃないか。くれよ」

「絶対嫌!」

 二人は庭の茂みの中で、額をぶつけるようににらみ合う。

「絶対、を付けたな!?」

「付けたがどうしたのよ!」

「どケチの証明したってことだよ!」

「あ、また言った!?」

「言ったがどうした!」

 その二人の頭上から、声が降ってきた。

ゆうちゃん、そんな所で、なにしてるの?」

 二人して上を向くと、おっとり顔の女性……悠二の母親であるさかぐさが、窓から顔をのぞかせて、こっちを不思議そうに見下ろしている。

「……見つかっちゃったわね、?」

 ぷぷっ、とシャナが口元を押さえて笑う。

「……」

 わずかに目元を引きらせるゆうは、あえてシャナにではなく、もう一人、冷静で頼りになってものが分かっていて話しやすくて大人な対応をするはずの〝王〟にく。

「…………アラストール」

「なんだ、?」

「……………………もう、夕方は過ぎたよな」

 いつしか頭上はやみの黒。



「……なんでこーなってんの」

「僕は知らん」

「我も知らん」

 シャナは、さか家の食卓についていた。

 彼女を見つけて玄関先にけつけたぐさの、にゆうようぼうによる異様な押しの強さにひるむ内に、気付けばここに座らされていた。

ゆうちゃんが、家にガールフレンド連れてくるなんて初めてだわ」

 と満面に喜びを示した千草は今、台所で、これでもかとばかりにごそうを作っていた。すでに食卓にはサラダと汁物のほかに二品も並んでいるのに、まだ何か焼いている音が聞こえてくる。

 シャナは伏目がちに、対面に座るゆうにらんでみる。

「おまえの母親、なんで、息子むすこと、庭の茂みの中で、りあっていた、その相手を、夕食に、招待したりするわけ?」

 一言一言を強調しながらの抗議は、目の前の皿に盛られた、エンドウの巻き揚げの香ばしい匂いに妨害されて、いまいち迫力が足りない。

 悠二の方も、ほおづえを突いているのか頭を抱えているのか、みような体勢でぼやく。

「って言うか、なんでこのちびっ子に対して、ああいう解釈ができるんだ」

 好物の、ぶり大根の煮付けも、今日ばかりはつまみ食いの手を伸ばす気が起きない。

「昨夜のことといい……貴様、実は本当に、そういう趣味を持っているのではなかろうな」

「あのね!」

 アラストールの真剣なねんって返す悠二を、千草が呼ぶ。

「ちょっと悠ちゃん、これ運んでくれない?」

「あ〜、はいはい」

 言われて、ゆるゆるしぶしぶ、悠二が立ち上がる。奥に入るや、その叫びがあった。

「こ、この上オムライスまで!? 作り過ぎだろ!」

「いいじゃない、ヒミツの隠し味が入っててしいわよ。それに、ひらさんにはウチの、いい印象を持ってもらわないと、悠ちゃんも困るでしょ」

「なんに困るんだよ!」

「またまた〜、ふふ、かんろうさんとのことを思い出すわねえ」

「もうその話はいいって!」

 奥で交わされる会話を聞いていたシャナは、ふと目を閉じる。

「……」

 目を開ければ、温かな、家族に食べさせるための食事がある。

 目をやれば、のれん越しに振り向いた母親の、優しい微笑ほほえみがある。

「……」

 また、目を閉じる。

 やがてぐさが、大皿を持つゆうを従えて入ってきた。

 皿の上には、やけにドでかいオムライスが一つっている。さか家のローカルルールでは、オムライスは全員で……といっても普段は二人だけだが、切り分けて食べるものなのだった。今日は三人分なので、いつもよりもさらに大きい。

 千草が、人のよさそうな……というより、人のよいとしかいえない笑みを浮かべて言う。

「さあ、召し上がれ。遠慮しないで、たくさん食べていってね。デザートも用意してあるから」

 そんな千草の笑顔にられて、シャナは自然と、表情をゆるめていた。

 ゆうは初めて、彼女の自然な微笑みを見た。



 夕食の後も延々、『二人のお話』を迫って引きとめる千草から引きがすように、悠二はシャナを脱出させた。

 千草が『ゆうちゃんのガールフレンド』との別れをしんで表の通りまで出てきたので、シャナは角を曲がってから、ほかの家の屋根伝いに坂井家に帰らなければならなかった。

 ついでに、

「暗くなってるから彼女を送ってあげなさい」

 との千草の命令を受けた悠二は、送る当の本人がか先に帰ってしまったので、

「守るとか言ってたくせに、襲われたらどうするんだ、まったく……」

 などと、非常に情けない文句を言いつつ、近くのコンビニで時間をつぶになった。

 そんなシャナが、屋根の上に孤影ながら二人として、座っている。

 悠二は部屋の窓のかぎを開けてくれていたはずだが、シャナは今、何となく、入りたくなかった。屋根の傾斜に三角座りする、その右に千草が持たせたお菓子の袋を、左に自分が買ったスーパーの袋を、それぞれ置いている。

 そろえたひざに、小さなあごを載せて夜景をながめる。

 今日の空には、雲がない。月が明るかった。

「ねえ、アラストール」

 なんということもなく、話を始める。

 悠二と出会って以来、なぜかこういう癖がついてしまった。

 それまでは、騒がしいとき、静かなとき、止まってるとき、動くとき……どの場合も、沈黙を保つことが義務であるかのように、口数少なく過ごしてきたというのに。

「あなたのには悪いと思うけど……そういえば、私は別に、激情に燃えたりしてるわけでもなかったのよね」

「分かっている。おまえの契約文言は、いろんな意味で傑作だった」

 目の前、手にからめたペンダント〝コキュートス〟の中から、〝てんじようごう〟アラストールが、遠雷のように重く低い声で答えた。

 そう、この恐ろしげな名の割には結構な人格者で世話好きな〝の王〟は、答えてくれる。

 今までも答えてくれたのだろう、自分が勝手に押し黙っていただけのことなのだろう、誰かのおかげでそれが……とまで思って、なんだかしやくなので打ち切る。

 そういう心の動きに関係しているのか、力の抜けた笑みがもれた。

「ふふ、ありがと」

「おまえは、ほかのフレイムヘイズが、自身を燃えたぎらせるものを得る、その時間や過程をすべて抜かして契約し、幼くして『ち手』となった……ただ〝ともがら〟を討滅するための存在だからな」

「普通に火が出せないのは、そのせいかな……もし〝てんもくいつ〟から『贄殿にえとののしや』を奪ってなかったら、ずっとなぐってって、それだけでしか戦えなかったんだろうし」

 その声は、わずかに沈んでいた。

 アラストールは声に苦笑を混じらせる。

「フリアグネに言われたことを気にしていたのか。案ずることはない、おまえを本気にさせるだけの敵に、これまで出会えなかった、その結果に過ぎん」

「うん。ただ契約どおり、冷静に確実に、〝紅世の徒〟を討ち滅ぼすために戦ってきた、それだけなんだけど」

「我だけを連れてな。誰と交わることもなく」

「交わらなくても、なにも困らなかった」

 それはシャナの本音だった。

 アラストールも本音で答える。

「そうだな。交われば、むしろ困ることが増えるだろう。しかし」

「?」

「悪くはなかろう?」

 ふと、ゆうの顔が浮かんだ。周りを包むクラスの連中の様子が、ぐさの微笑が浮かんだ。

 答えを、いつものように明確に返せない。

「……そうかな」

 シャナは、ひざがしらほおを乗せた。す、とまぶたを閉じる。

(今日は、登って来て欲しくないな……)

 思う内に、寝息を立て始めていた。

 悠二も、今日は探索と監視に加え、夕食後の神経戦という押しを喰らったため、余力がい。帰るや風呂、さらにベッドへと直行、ごうちんしていた。

 一人、小さな手にからめられた〝コキュートス〟の中から、アラストールだけが静かに月をながめている。

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