2 夕日、雨の夜、そして朝

 重い気持ちを抱いて、ゆうは自分のクラス、さき高校一年二組の教室に入った。始業直前のあわただしく騒がしい、しかし明るさと楽しさに満ちた朝の教室。

 いつも通りの、日常の風景。

 悠二は教室を見回して、中学以来の友人、頭脳めいせきの人格者『メガネマン』いけはやの姿を求めるが、今その姿は見えない。クラス委員などもして、他人に頼られるやつだから、どこかに出ているのかもしれない。

 もちろんこれは単なる毎朝の習慣で、彼に相談したりするつもりはない。まともな頭の人間に、今の自分の立場を理解してもらえるとは到底思えない。

(いっそ誰かが、僕の見えるもの感じることすべてがもうそうで、おかしいのは僕の方だって教えてくれるんなら、に悩むこともないし、気も楽なのに)

 と悠二は後ろ向きに思いつつ、のたのたと教室の真中辺りにある自分の席へと、足を引きずってゆく。席に腰を下ろすと、

(そういえば、一時間目の日本史、小テストだっけ……範囲はどこら辺だったかな)

 と日常を過ごす、その必要性から思い出した。いつものように右隣の席に座っているひらゆかりに、出題範囲を教えてもらおうと振り向く。

 そして、そこに発見した。

「な……!」

 自分の正気の完全な証明を。

 日常の破壊者を。

 平井ゆかりが座っているはずの席に、座っていた。

「遅かったわね」

 フレイムヘイズの少女が。

 しい顔立ちを引き締め、腰の下まである長くつややかな髪を背に流し、堂々と胸を張って、制服のセーラー服まで着て……あのフレイムヘイズの少女が、座っていた。

「なんであんたがにいるんだ!?」

「おまえをねらやつらをるには、やっぱりその近くにいた方がいい、ってアラストールと話したの。ま、私もこういう場所にはめつに来ないし、見物がてら、ってとこ」

 少女がスカートの中で足まで組んで、全く当然のようにせんきよしているそこは、昨日まで、平井ゆかりというクラスメートが座っていた席。

「ひ、ひらさんはどうしたんだ」

なら、私が割り込んだから、もうなくなったわよ。おまえの隣で、ちょうどよかったしね」

「……トーチ……平井さんが……?」

 予想していた最悪の事態は、あまりにもあつなくやってきた。

 自分の日常がくずれる……いや、崩れていたことを、知らされる。

 それを知らせた少女は、昨日と全く変わらない。平然と、非情の声をく。

「そ、本人はとっくに死んでた。私は、その残りかすに私って存在を割り込ませて『平井ゆかり』になってるわけ」

「か、顔とかが全然違うだろ!」

 思わず悠二は声を荒げていた。驚いたクラスメートたちの注視に、あわてて声をひそめる。

「……なんで誰も気付かないんだ」

「存在に割り込む、ってのは、元の人間に似せるとか、そういうことじゃないの。ほかが認識していた平井ゆかりって存在を、私にげ替えるってことなの。おまえは私たちの干渉を受けたからおかしく感じられるだけ。気にしないで」

「気にするに決まってるだろ! 平井さんはどうしたんだよ!」

 ああもう、と少女は頭をかいて、あきれ顔を作って見せた。

「さっきから言ってるでしょ。だって」

 少女の言うとおり、クラスメートは誰もたん者がまぎれ込んでいることに気付いていない。

 いや、彼女が以前からここにいるものととらえているのだ。

 悠二は、説明の細かい内容はともかく、これら彼女がやったことの意味はだいたい理解していた。しかしそれでも、言わずにはいられなかった。

「そういうことじゃなくて!! 元の平井さん、本当に、昨日までここに座っていた『平井ゆかり』は、どうなったんだ!?」

 また大声を出した悠二を……挿げ替わった平井ゆかりではなく悠二の方を、クラスメートたちがげんな顔で見ている。

 悠二はそれらの表情で知らされる。

 彼らからすれば、おかしいのは自分の方なのだ。

 しかしそれでは、自分が知っている彼女は、彼女の存在は、あまりにも。

「昨日説明したでしょ。……そういうこと。どうせあかりも消えかけてたし、そのときはおまえも忘れてた。思いわずらうことなんかない」

「……」

 特別に親しかったわけではなかった。目立たなかったし、おとなしかった。この四月から一月ほど、偶然隣席にいた、それだけのクラスメートだ。印象深い思い出もない。

(でも、彼女は、ひらゆかりは、確かにいたんだ)

 そのことを、本人が覚えていて欲しかったかどうかは分からない。そんなことを考えるだけの事情も知らないままほかのトーチが消えるときのように、ふと、すべてを失う、そんな終わりを迎えたのだろう。

 それでも、ゆうは彼女のことを覚えていたかった。

 今、同じ席に、平井ゆかりとして座っている少女。

 それは彼女ではない。

 それを自分は知っている。

 それが、恐らくは唯一の、彼女が存在したあかしなのだ。

「……あんたの名前は?」

「名前?」

「『フレイムヘイズ』ってのは、怪物退治するやつら全員の名前だろ。あんた個人の名前は、なんていうんだ?」

「……え」

 予想外の質問だったらしい。少女は不意に、顔を曇らせた。しさを生む意思の力がらぎ、寂しさのはしが、さつかくのようにわずかにのぞく。胸に下げた、あの声の出るペンダントをしようちゆうでもてあそびながら、小声で答える。

「私は、このアラストールと契約したフレイムヘイズ、それだけよ。それ以外に、名前なんかない」

 その顔から寂しさは消えていたが、今までの平然としたそれとは少し違う。

 表情を消した顔だった。

「他のフレイムヘイズと区別するために、〝『贄殿にえとののしや』の〟って付けて、呼ばせてはいたけど」

「ニエトノノシャ……?」

「『贄殿遮那』。私が持ってるおおの名前」

「そうか。じゃあ……そうだな、僕はあんたを〝シャナ〟って呼ぶことにする」

 平井ゆかりと、彼女は別人だ。

 だから彼女には、別の呼び名が必要なのだ。

 それは悠二にとっては重要な行為だったが、当然と言うべきか、シャナと名付けられた少女にとってはどうでもいいことだった。彼女は首をかしげて、軽く答える。

「勝手にすれば? 呼び名なんかどうでもいいし、私は私の役目を果たすだけ」

「それは、僕を守るってこと?」

「守る……?」

 シャナは、あからさまにげんな顔つきになった。

「ま、おまえに喰いつく奴がいる内は、そういうことになるかもね」

 まったく、この少女の言い方は身もふたもない。

 ゆうはため息をついて、しかし密かに、そんな彼女の言葉に、なぜか自分の暗く重い悩みを吹き払うような……じんそうかいさを覚えてもいた。

 その、から元気のような、よく分からない気持ちのまま、悠二は当面の不安を口にする。

「それよりシャナ、あんた授業とか受けて、大丈夫なのか?」

 シャナは、さっきとは別の理由でまゆひそめる。

「勝手に名付けて、いきなり呼び捨て? ま、いいけど……それに、授業ってのも、この程度のお遊びでしょ?」

 かばんから教科書を取り出して、ひらひら振ってみせる。

 そんな、見た目は中学生さえ怪しい少女の、いかにも小馬鹿にしたような様子に、悠二はきなくさい顔つきになった。

 始業のれいが、その耳にきつな音色を響かせる。



 四時間目、英語の授業も終盤に差し掛かろうとしている。

 教室は静寂と緊張の中にあった。

 生徒たちは立てた教科書の中に顔を隠している。最初こそ通常通りに授業を行っていた英語教師も、今はひたすら板書を続けていた。

 この異様な雰囲気を、圧倒的な迫力と存在感で作り出しているがらな少女が、教室のど真中の席にじんっている。実際の動作としては、座っている、それだけなのだが。

 少女は、教科書を閉じて、ノートもとらず、ただ腕を組んで教師を見ていた。

 この何でもないはずの態度が、教師を動揺させている。彼女の視線が、まるで野生動物でも観察しているかのように無遠慮で、敬意や尊重を全く含んでいないと、分かってしまうからだった。こんな授業態度を、朝から四時間連続で取っている。ちなみに、そうどうはすでに三時間連続して起きている。

 特に突っかかってくるわけでもないのだから、放置しておけばよいのだが、教師というのは、おおむけんめんにこだわり、盲信されることを欲し甘える生き物なので、こういう、自分を一個の人として計るような態度を取られることを嫌う。

 そしてとうとう、この英語教師も前三者と同様に、少女の無礼な態度に我慢できなくなった。

 不幸なことに。

 板書を終え、英語教師は振り向いた。この、教えと多い宿題で不人気な中年男は、口を二度ほど開け閉めしてから、ようやく裏返りかけの声を出した。

「ひ、ひら、おまえ、だぞ。ノートを取らんか」

 平井ゆかり……悠二が名付けたところの少女・シャナが、答えるのではなく、ただ、言う。

「おまえ」

 いきなりこれである。

 見かけの幼さにり合いな、押しのきいたしい顔立ちが静かな気迫を発して、英語教師を半かなしばり状態にした。

「その穴め問題、全然意味のない場所がいてるわ。クイズじゃないんだから、前後の文脈で類推できる所を空けなさいよね」

 シャナは、腕組みさえ解かない。

「う……!?」

「正しい答えは『That which we call a rose, By any other name world smell as sweet.』だけど、原文を覚えてないと出てきっこない」

 かんぺきな発音。誰もが正解であることを確信できる、そんな答え方だった。

 さらにようしやの無い追いちがかかる。

「その板書も、段落で見たら、あと二文も足りないわ。おまえが持ってるマニュアルのページ単位で書き写しているだけだから、そんなことになるのよ」

 反論の余地の無い、痛烈で的確な指摘に、英語教師は思わず一歩下がった。

 普通なら、肩書きや立場といった、自分の能力とは無関係なきよしよくが彼を勇気付けるところだが、この、なぜか最近生意気になった少女の前では、そんなものが毛ほどの威力も持たないことを自覚させられてしまう。

 弱者に弱者たることを自覚させる、強者のかんろくというやつだった。

 しかもこの強者、いつたん口火を切るとようしやなく相手をたたつぶしてしまう。

「おまえ、教師のくせに、学力がなくてマニュアル外に手が届かないし、説明もでダラダラ要領を得ない話をするだけ……なってないんじゃない?」

 英語教師の顔がざんゆがんだ。

「私に教えるつもりがあるなら、ちゃんと勉強してから出直しなさい」

 生徒たちはいちまつれんびんとともに、英語教諭が四人目のじきとなったことを知った。



 そういうことが延々四時間も続いたので、昼休みになるとクラスメートは息抜き……というより息ぎを求めるように一人、また一人と教室を出てゆき、結局、ゆうはシャナと二人きりで弁当を食べるになった。

 悠二が予想していた騒ぎは、暴力面においては完全なマイナス方面に裏切られたが、精神面においては完全なプラス方面に裏切られたわけだった。

 暴力を振るわれるよりも、アイデンティティをふんさいされる方が、実質ダメージは大きいと思うので、あるいはこれはさんげきと呼んでもいいんじゃないだろうか、と悠二は思った。

(何人、立ち直れるかな)

 ただでさえ昨今の教師たちは、肩書きに無条件で与えられていた権威や信頼を(ほとんど自らの行いで)失いつつあるというのに……などと社会派を気取りつつ、コンビニおにぎりに喰らいつくゆうである。

 隣の席を見れば、さんげきを引き起こした当の本人も、メロンパンをぱくついている。しさを感じているらしい、自然な顔のほころびなどには、見かけの年齢どおりの可愛かわいさがある。机の上にっている、どこぞのスーパーの袋の、むやみな大きさはどうかと思うが。

「なあ」

「なに」

 外は騒がしいのに教室には二人だけ、そんなみように違和感のある光景の中、悠二は言う。

「あそこまでしなくてもいいだろ」

 シャナはしんそこ不思議そうな顔でき返した。

「なにを?」

「……いや、もういい」

 シャナは首をかしげて、またメロンパンを口に運ぶ。

 昨日怪物を圧倒した姿がうそのような、その幸せそうな横顔に、悠二は気負いや深刻さといったものががれてしまうのを感じた。

「昨日もタイヤキ食ってたけど……あんたも腹がすくのか」

「んむ、当然でしょ」

 ほおりながらシャナが答える。

 悠二はついでとばかりに、昨日から気になっていたことを尋ねてみた。

「ところでさ……その声の出るペンダント、通信機なのか?」

「似て非なるものだ」

 セーラー服の胸元に出されているペンダントから、午前中は黙っていた声が答えた。ここに二人しかいないからだろうか。

「これは、この子の内にぞうされた〝ともがら〟たる我、その意思だけをこの世にけんげんさせる、〝コキュートス〟という神器だ」

「……ウチニゾウサレ? ケンゲ?」

 シャナが、横目でにらんで、それでも解説を加えてやる。

「アラストール本人は、契約者である私の中にいて、このペンダントは、その意思を表に出す仕掛けってこと」

 悠二は、不思議を理屈で考えるのをやめた。説明に素直に納得して、きたいことを訊く。

「契約者……そういえば朝も、この彼(?)と契約してフレイムヘイズになった、とか言ってたな。あんた、やっぱり元は人間なのか」

「そうよ」

 とシャナ。

「なんでフレイムヘイズなんかに?」

「おまえの知ったことじゃないわ」

 それは名前をいたときとは違う、カラッとした明快なきよぜつだった。

 ゆうはそんな彼女のぶっきらぼうな物言いに、かえってそうかいなものを感じる……まあ、拒絶には違いないのだが。

「……じゃあ、さ」

 ふと、教室を見渡す。誰もいないので、アラストールの話も聞けてちょうどいい。

ほかの事でいいから……少しくわしく話を訊いていいか?」

 悠二としては、特に深い意図を持って言っているわけではない。ただ、山積みの疑問を片付けないと気持ちが悪い、それだけのことだった。

 シャナの方は、これは当たり前だが、あっさりしたものだ。

「さっきから訊いてると思うけど……で、なに?」

 とりあえず悠二は、根本的なことから尋ねてみる。

「そもそも、グゼってなんなんだ」

 そんなこと? という顔で、シャナはメロンパンの最後の一切れを口に放り込んだ。

「ん〜、〝〟……『クレナイのセカイ』よ。この世の。ずっと昔、どっかの詩人さんが、〝うず巻くらん〟に、そういう気取った名前を付けたんだってさ。そこの住人を〝紅世のともがら〟って呼んでるの」

「異次元人……みたいな?」

 これにはアラストールが答える。

「貴様らの概念で言い表せば、そうなる。貴様を襲ったのは、〝徒〟自身ではなく、そやつがこちら側で作った〝りん〟というぼくだが」

「こっちの世界を乗っ取りにきた侵略者とか?」

「さてな、目的は各々による。いちがいには言えん。ただ、我ら〝紅世の徒〟は、この世において〝存在の力〟を〝自在〟に操ることでけんげんし、またそれを変質させて事象を左右することができる。その事実ゆえに、この世に侵入する〝徒〟は後を断たない」

「……なんだって?」

 まったく、アラストールの言い回しはむずかしい。悠二はその半分も理解できない。

 シャナがまた説明を加えてやる。今度はため息をつきながら。

「この世には、〝存在の力〟っていう根源的なエネルギーみたいなものがあるの。それがあって初めて、どんなものも存在できる。別の世界〝紅世〟から来た、本来この世に『存在しないもの』である〝徒〟たちは、その力を得ることで、この世に存在できる……分かる?」

「ん〜、な、なんとか」

 こめかみに指をやって必死に理解しようとするゆううなずいて、シャナは続ける。

「で、この世に居座るためには当然、〝存在の力〟を使い続けなきゃならない。だから、彼らは人間からその力を集めてるの」

「〝存在の力〟を集める、って昨日の、あれのことか……」

 悠二の脳裏に昨日の、怪物がほのおと化した人々を喰らう光景がよみがえり、おぞ気を呼ぶ。

 シャナは気楽に頷く。

「そ。で、それぞれの目的とかねらいとかのために、その力を〝自在〟に操って不思議を起こしたり、ぼくを作ったりするってわけ」

「この世の理からはずれた、起こるはずのない現象、居るはずのない存在、そして何より、それらを生み出すための力のらんかくが、この世と〝〟、両界全体の存在のバランスをくずすやも知れぬというのに……まさしく愚者のゆうというべきだ」

 アラストールが、予想外にぶつそうで重い話で締めた。

 それをよそに、シャナは袋の中から取り出した一パック三本入りのみたらし団子をパクついている。ほくほくと、しそうに。

「そのバランスを崩さないために、乱獲者をやっつけるのがフレイムヘイズ、か……」

 言いつつ、悠二もおにぎりをまた一個、口に運ぶ。

 さっきのおぞ気は未だ背筋を冷やしているが、目の前のシャナがあまりにとんちやくに、しかもニコニコして食べるので、さへの腹立ちやら単純な対抗心やらで、こっちも食べずにはいられなくなるのだ。これが生きてる気分かな、などとに深く考えつつ、さらにく。

「はぐ、んで、その〝存在の力〟を吸い取るのは……まあ、話を聞いてたら、ほかでもまずいとは思うけど……人間のでなきゃ、なのか?」

 アラストールは、物を食べながら話をするという無作法を気にしないらしい。変わらず重く低い声で答える。

「当然だ。我らと近しい、深く強い意思ある存在であればこそ、力を得る意味がある。ぞうぞうを飲み込めば、かえって薄められてしまうのみだ」

「チカシイ? 〝紅世のともがら〟って、僕らと同じような人間なのか」

「貴様らの概念での説明はむずかしい。もし言い表すならば、論理より詩情が必要となろう」

 悠二は、スポーツドリンクのプルを開けてため息をつく。

「ふうん……でも、昨日今日、見た限りじゃ、飲み干される日も遠くなさそうだけど」

「そうでもない。我らは古くからこの世に侵入し続けているが、人間は増え続けている。貴様が生まれる前から世界はそうやって動いていたのだ。大勢に変化はなかろう。〝徒〟の暴走を食い止めんと動く、我らフレイムヘイズという存在もある」

「これが、頼りになるのかな」

 ゆうが見る先で、最後の一本をれいに食べたシャナが、指に付いたタレをめている。

「ん〜、だから言ったでしょ。おまえっていうほうくら〝ミステス〟が燃え尽きるか、それをねらってくる、ここの〝ともがら〟をち滅ぼすまでは、守ることになるって」

 本当に、この少女は身もふたもない言い方をする。

 その悪意のない、ひたすら事実をぶつける率直さに、悠二はなんだか慣れてきている自分を感じた。腹立ちよりも苦笑がいてくる。

「心強いお言葉……でも、ろくちゆう一緒にいるつもりなのか?」

「とりあえず、夕方を警戒するわ」

 周囲の世界とのつながりを一時的に断ついん孤立空間、〝ふうぜつ〟は通常、人々が自己の存在を明確に認識する日中と、やみの中で別の自己を目覚め演じさせる夜間、それらの境目である夕方と明方……つまり『変わろうとするらぎ』に乗じて行われる。

 だから、しゆうげきもまず、その時間帯にあるということだった(不意打ちなどの回りくどいを、普通〝の徒〟は行わないらしい)。

「封絶……昨日、聞いたっけ。ゲームとかでよくあるけつかいみたいなもんか……って夕方!?」

 悠二は納得しかけてから、とある事実に気付いてぎようてんした。

「今日は授業が遅くまであるぞ! したらここに、学校に来るじゃないか!」

 シャナが、ほおづえの上であきれ顔を作る。

「なに当たり前のこと言ってんのよ。私がなんのためにここにいると思ってんの?」

 一瞬、あんを覚えて……しかしふと彼女の性格に思い至り、いてみる。

「皆も守ってくれる、とか……?」

「なにそれ?」

 悠二は立ち上がった。

「どこ行くの」

「トイレだよ!」

 と言い捨てて教室を出る。

 歩きつつ、そういえば彼女は『食うだけ』なのかな、などと少々下品なことを考えていた悠二は、トイレの前で呼び止められた。

「おい、さか……!」

 その、声をひそめた叫び、という器用な呼びかけに振り向くと、仲のいいクラスメートが三人、彼を手招きしていた。

 そういえば、朝からシャナとのことにかかりっきりで、彼らとはあいさつ一つ交わしていなかった。悠二はけ寄って声をかける。

「みんな、今日は食堂だったのか?」

 その一人、中学からの友人で、頭も人もいい、メガネマンこといけはやが首を振って答えた。

「違うよ。それよりさか、おまえ、よくあんな騒ぎのあとで、事の張本人と飯が食えるな」

 その横、美をつけてもいい容姿を持ちながら、みように軽薄っぽい少年、とうけいさくが続ける。

「ホント、勇気のあるやつすると、おまえまでセンセーどもに目ぇつけられるってのに」

「だいたい、おまえらって、そんなに仲良かったか? 抜けけは許さん、許さんぞ〜」

 とからんできたのはなかえいおおがらだがあいきようがあるので、ぼうには見えない。

「いや、仲がいいとかそんなのじゃなくて……」

 ゆうとしては言葉をにごすしかない。まさか本当のことは話せないし、話したくもない。

(…………っ)

 悠二はふと、この親しい友人たちを……目前にある日常の光景が本物なのかどうかを……朝に一度確かめたというのに、また確認してしまっていた。そんな自分がいやになる。

 友人たちに変わりはない。むしろ変わったのは自分で、彼らはそのことをく。

「二人っきりで弁当食べて会話して。十分『そんなの』だろう」

ひらちゃんも、たしかに可愛かわいいといえば可愛いけど、なんつーか、マニアックな趣味だな」

「実はロリ属性持ちだったのか。あなどれん奴め」

 さすがに血圧が上がってきた。

「あのな……」

 言い返そうとして、ふと声が途切れた。

 夕方。〝ともがら〟。しゆうげき

 何事につけ考えることを昨日から繰り返しているせいか、それともトーチの確認を行うたびの習慣になったのか、はずれた世界のことを思い出す。

 早退するべきだろうか。そうすれば、少なくともここが戦場になることはない。

 そのみような間が、友人たちの誤解を呼ぶ。

「やっぱり、やましいところがあるな?」

 池がメガネをきらめかせて追及する。

 今になって気付いた大事なもの。

「ああいうに手を出せる神経を見込んで、話がある。ほかの女子とも渡りをつけてくれ」

 佐藤がな顔でずうずうしいこんがんをする。

 なんということのない、馬鹿なやり取り。

 日常。いつもの風景。

 無くしたくない、変えたくないもの。

(怪物一味だって、昨日の今日で来たりしないんじゃないか?)

 悠二は、れんからくる希望的観測にすがっていた。

(そうさ、取り越し苦労ということもある、今日来るとは限らない、今日一日くらい……)

 そうだとは分かっていても、すがりたかった。

「このムッツリが! おとなしい顔して、一体どういうくだを使った!! 教えデッ!?」

 とりあえず、詰め寄るなかなぐっておいた。



 そして、しかし、敵は来た。



 切れ切れの雲の彼方かなたに沈みつつある夕日が、すべてをせきりようの赤に染めている。

 ホームルームを終えて、教室を出てゆきつつあった生徒たちをも染める、

 その赤が、

 こうずいのようにあふれかえり、空間を満たした。

「う!?」

 授業が終わった、何事もなかった、と完全に油断していたゆうは動転した。あわてて席から腰を浮かし、あたりを見回す。

 陽炎かげろうの壁が、窓の外と廊下の一部を含めて、周りを囲んでいた。

 床に火線が走り、もんしようらしきかいな文字列を描いた。

 生徒たちが、それぞれ動作の途中でピタリと静止した。

 悠二は、これが何であるか、知っていた。

(……ふうぜつ……世界が、変わる……)

 全身に響く世界の違和感、あるいは流れの変調のような感触にせんりつする。

 やはり自分は、ほかの生徒たちのように静止しない。

 この異世界の側に立っていた。

 自分の中に収められた〝何か〟のために。

 その隣席で、シャナがおもむろに立ち、言った。

「来たわね」

 その強い線を描くくちびるはしが、り上がる。

「ほ、本当に、今、ここに!?」

 れんから引き起こしてしまった最悪の事態。

 悠二の胸に、恐怖と後悔が押し寄せた。

「本当に、今、ここに、来たわ」

 シャナは、そんな悠二に無自覚の断罪を下し、さらに強くたたくように、宣告する。

「さあ、やるよ」

 シャナは軽く床をひとりして、窓と悠二の間のじように飛び乗る。足を肩幅ほどに開き、堂々と窓に向かって立つ。腰の下まであるつややかな黒髪がわずかになびき、

 そして火のいてしやくねつの光をともした。

 その舞い咲く火の粉の向こうに、いつしかびた黒のコートをまとい、右手にせんりつの美を流すおお贄殿にえとののしや』をにぎる、フレイムヘイズの姿があった。

 一瞬、その後ろ姿にれたゆうは、はっと我に返って叫んだ。

「ま、まだ皆が! ほかの場所でできないのか!?」

 ふうぜつの中で止まるクラスメートたちの中には、いけもいた。か教科書ではない問題集をかばんに入れている格好で止まっている。

「封絶したのは敵よ。向こうに言えば?」

 シャナの言葉はいつも無い、しかし反論の余地の無い正しさを持っている。

「くっ!!」

 すでにそういう彼女に慣れてしまった悠二は、どうせろうに終わるだろう反抗などせず、すぐさま行動に移った。とにかくマネキンのように固まったクラスメートを、シャナの立ち回りそうな場所から離さねばならない。

(ぼ、僕のせいなんだ! 僕がやらないと!)

 幸い、ホームルームの後でもあり(ついでにシャナから早く逃げようとして)、教室内に残っていたのは、自分たち以外では四人ほど。シャナが向いている窓側には、なかむらとかいったはずの女生徒、一人だけしかいなかった。

 悠二はその、窓際に立ってしようちゆうで止まっている中村にけ寄る。

「ちょ、ちょっとゴメン」

 くちびるを突き出した、かなり間抜けな格好で止まる彼女の腰を、大急ぎで抱え込む。床に脚が張り付いていたらどうしよう、と一瞬心配したが、これはゆうに終わり、当人の体重どおりに動かすことができた。もちろん、並みの体力しかない悠二は、持ち上げたりかついだりに苦労する。

「っと、お、重いな、この!」

 と本人が聞けば二、三度は殺されそうな感想をらしつつ、廊下側の壁の影へと放り出す。

 再び教室に入って見れば、シャナはまだ机の上で立ったままだった。大太刀は両手で構えられ、じんるぎもない。わずかに火の粉が、えんぱつから舞い落ちているだけ。

 その痛いほどの静けさの中、シャナの向き合う正面、窓の外に一点、何かが小さく浮かんだ。

 悠二はその不思議なものに目を止め、立ち止まっていた。

 赤く燃え、揺れる陽炎かげろうの光を受けて、鋭くエッジを輝かせるそれは、長方形。

 くるりと回って見せたがらは、スペードのエース。

(……トランプ?)

 その宙に浮く、一枚の薄いカードから、はらり、と、ありえない二枚目が落ちた。続けて三枚、四枚……赤い光の中に、カードが次々とこぼれ落ち、舞い上がり、どんどん増えてゆく。

 どうに宙を固まって舞うそれは、やがて速さを増して窓の外をめ尽くす。

 と突然、そのカードのどうが一方に指向する。

 ゆうに。

 うんの如きカードのとうが、窓枠やガラス、壁さえ吹きくだいて教室になだれ込んだ。

「……っ」

 叫びをあげるための空気がを通る前に、それは悠二の眼前に迫り、

 そして、食い止められた。

「わあ! ……?」

 びた黒色の壁に。

 シャナが左腕を一振り、コートのすそを広げて伸ばし、悠二を守るたてとしていた。その表面に突き立つカードの怒涛は、触れるそばから燃え上がり、裏には一点のへこみもつけられない。

 シャナはその間すでに、左腕を再びつかに戻し、つかがしらを左脇の奥に引き込んでいる。右肩をやや前に突き出す、とつの構え。

 ほのおの輝きをともす二つのしやくがんが、カードの怒涛、その力の源泉を見抜いた。

 瞬間、

 机の板がはじけて砕け、脚のパイプが折れ飛ぶほどのみ切りを付けて、シャナはぶ。

 カードの流れの一点へ、横合いからおおの切っ先が突き立つ。

「ぎ、ぐああああッ!!」

 絶叫が上がり、カードの流れにらぎが生じる。

 ごたえと刺さり具合の感触を得るや、シャナは大太刀をひねって抜く。再び鋭く振りかぶり、頂点でのとどめを置かず、真っ向から切り下げる。

 刃のせきほのおが走り、一気にカードへといんした。

 爆発が、教室をしようげきふくらませ、かき回す。

 シャナは、その爆発を眼前に受け、しかしまゆ一つ動かさない。

 コートの壁をはさむ悠二の頭上と足下からも炎があふれ、思わず悠二は飛び上がっていた。

「うう、わッ!?」

 爆風が収まると同時に、コートのすその壁が取り払われる。

 悠二の目に、ようやく教室の全景が入った。

 床は焼けげ、フローリングも半分方ぎ取られてコンクリートのが出ていた。窓ガラスはすべわくごと吹き飛んで、机やの破片がざんに散らばっている。

 悠二にとっては、自分の良く知る場所だけに、昨日の繁華街での光景よりも、受けたしようげきは大きかった。

 その光景のはしに、シャナがいる。あれだけの爆発が起こったというのに全くの無傷で、相変わらず、がらな体をごうぜんきつりつさせている。

 その前に軽く差し上げた大太刀の切っ先に、とある物、あるいは者が、引っ掛けられていた。

 昨日、シャナにられたときに逃げていくのを見た、まつな作りの人形だった。

(たしか、〝りん〟とかいう、〝ともがら〟のぼく……?)

 その人形が、肩口から胸まで斬り下げられた切っ先を深々と体にめ、のハヤニエのように掲げられている。その腹には、最初の叫びの原因と結果らしい、別の大穴がいていた。中の綿も見えるその傷口からは薄白い火花が散って、噴き出す血を思わせる。

「ぎ、う……」

 その赤い糸でわれた口が、どうやってか低いうめき声をあげる。

 シャナが、その人形に何か言おうとして、ふと周りを見回した。

 さっきから散っていた薄白い火花が、地面をね、彼女を取り囲んでいた。火花は跳ねる内に体積を増し、彼女を中心に回り始める。

「う、く、くく……!」

 いつしかうめきを忍び笑いに変えていた人形の傷口から、いきなり大量の火花が噴き出した。

 それは一粒一粒をセルロイドのドールの頭に変えて、人形の全身に張り付く。その頭だけのパーツが、人形を中心としたいびつなきよまたたく間に組み上げてゆく。

 周りを跳ねていた火花も同じく、ドールの頭に変わって、くすくすと笑い出す。不気味な包囲網が彼女を取り巻いていった。

 その異様な光景にあとずさって壁に張り付いたゆうは、目線を動かしたひように、教室のはしに投げ出されているクラスメートたちを見つけてギョッとなった。

 男子生徒が三人、さっきの爆風に吹き飛ばされて、教室の隅に押しやられていた。そのところどころげた体はガラスの破片にまみれ、や机のざんがいに打たれ、されている。

 そのざんな姿に、悠二はショックを受けた。シャナにただ守られている、それだけでも非力な自分の身には余って、ほかのことにまで気を回せなかったのだ。

(……甘かった! 僕の考えが、全部、僕が!!)

 後悔が、罪悪感が、彼をき動かす。

いけ!」

 倒れている中の一人、友人の名を呼んでけ出した。

「く、ききき……」

 ドールの頭で組み上げられた巨躯の中心で、人形が笑った。その太い両腕がシャナのおおの刀身をがっちりとつかみ、固定する。

「もらったわよ、フレイムヘイズ!!」

 その叫びを受けて、包囲網を作っていたドールの頭が、瞬時に巨腕を形成し、池に取りすがる悠二へと向かう。

「なにを?」

 シャナは平然と答え、両爪先を支点にくるりと脚をさばく。

 しやくがんが光を引いて流れ、えんぱつが火のいてひるがえる。

 体をいっぱいにねじって、人形に背を向ける。

 同時にすさまじいみ切りが、き出しのコンクリの床に破壊寸前のしようげきほのおもんを広げ、

「は?」

 人形の視界が突然、高速で流れる。

 シャナが、人形のきよを丸ごと刀身に抱えたまま、跳躍していた。

「っだあ!!」

 シャナがえ、ゆうに迫っていた巨腕を、刀身をつかんでいた人形の巨躯でたたつぶした。

 一撃で巨腕が、巨躯がばくさいされる。

「っな、わ!?」

 わけも分からず、倒れたいけの上に(かばったわけではなく、位置上たまたま)おおかぶさった悠二の背を、爆風がたたいた。

 その、しびれや痛みもかすれ、遠くながめがれるような感覚が、何秒か何十秒か……やがて、意識が鮮明になり、振り向く悠二、その眼前に、ぼろきれと化して切っ先にぶら下がる人形が差し出されていた。

「っわわ!!」

 悠二は池を背に隠すように、腰をずり下げた。

 今や人形は、毛糸の髪も根元から炭化し、ボタンの目も片方がちぎれていた。服どころか、体内の綿もほとんど吹き飛んで、ようやく肌色のフェルトがを垂れているのみ。

「ひ、ひどいな……」

 ざんな人形の姿を見て、悠二は思わず感想をらした。

「助けられといて、なに言ってんのよ」

 簡単に答えたシャナは、その無惨な姿の人形を、おおを軽く振って床に放り落とした。冷たくく。

「おまえの主の名は?」

 人形は、赤い糸もほつれた口で、息を荒くするのではなく、音の飛ぶCDのように、途切れ途切れに答えた。

「わ、たし、が言うとお、もうフ、レイ、ムヘイ、ズ」

「ううん、ただの確認。でもまあ、ごまをちょろちょろ出ししみするくらいだから、よほどの馬鹿なんだろうけど」

「……う、ぐ」

 人形は、あからさまなちようろうに声を詰まらせる。

 そこに、

「うふふ、有益な威力ていさつ、と言って欲しいね」

 とみよういんを浮かせた声がかけられた。

 シャナが声のした瞬間、体を向け、ゆうがその意味するところに気付いて見る。

 その先、破壊され開けられた窓の外に、長身の男がたんぜんと一人、浮いていた。

 背負った赤い陽炎かげろうか染まらない純白のスーツと、その上に羽織った、同じく純白のちようが、まるでシーツのお化けのようなあやふやな印象を見る者に与える。シャナの圧倒的な存在感とは正反対な、まるで幻想の住人だった。

「こんにちは、おちびさん。おうが時に相応ふさわしい出会いだ」

 触れればりんかくがかすれそうな、線の細い美男子。つむぐ声は、調律の狂った弦楽器のような、みような韻を含んでいる。

 悠二は直感する。

(こいつが、〝ともがら〟だ)

 ここにあることがおかしい、そんな違和感のかたまり

 シャナが、その男の声とはまた逆の、りんとした強い響きで返す。

「あんたが主?」

「そう、〝フリアグネ〟、それが私の名だ」

 アラストールが、わずかに声を低くして言う。

「フリアグネ……? そうか、フレイムヘイズ殺しの〝かりうど〟か」

 フリアグネと名乗った男は、薄い切り口のようなくちびるを、笑みの形に曲げた。

「殺しの方で、そう呼ばれるのは好きじゃないな。本来は、この世に散る〝ともがら〟の宝を集める、それゆえの〝かりうど〟のなのだけれど」

 その視線が、シャナの胸元のペンダント〝コキュートス〟の中を刺す。

「そう言う君は、我らが〝紅世〟に威名とどろかす〝てんじようごう〟アラストールだね。直接会うのは初めてかな。こっちの世界に来たことは聞いていたけれど……君の〝フレイムヘイズ〟も初めて見たよ」

 次いで、シャナに目をやる。

「……なるほど、が君の契約者『えんぱつしやくがんち手』か……うわさにたがわぬ美しさだ。でも、少し輝きが強すぎるな」

 勝手な感想を並べるフリアグネをよそに、アラストールは小声でシャナに注意をうながす。

「なよなよした見かけや言動に惑わされるな。多数のほう使し、フレイムヘイズを幾人もほふっている強力な〝王〟だ」

「うん、感じてる」

 シャナは足裏をわずかにこすって、み込みの体勢を取る。

「ふふ、そんなにしかめっ面をしなくても……」

 言って、フリアグネは何気なく床に放り出された人形を見る。

 そのたん

「マリアンヌ!!」

 急に表情が悲しみの色に染まり、調子っぱずれな叫びがあがる。

「ああ、ごめんよ、私のマリアンヌ! こんな恐い子と戦わせてしまって」

 芝居がかった動作で振られた手にはめられた、やはり純白の手袋の先に、一枚のカードがはさんである。ぴ、と指の振りとともにカードが浮き、

「ん」

「わっ!?」

 シャナとゆうの周りで、げたカードがいつせいに宙を舞った。

 その焦げたカードが風を巻いて、フリアグネの指先に浮かんだカードへとしゆうそくしてゆく。それが収まると、一枚となったカードは、その四分の三ほどを焦がし、欠けさせていた。

 それを見たフリアグネは、またころりと表情を感嘆へと変えた。

「へえ、私自慢の『レギュラー・シャープ』を、腕っぷしだけでここまで減らすとは」

 再び指先で欠けたカードを取ると、れんだつの手品師のような流れる手つきでカードをそでぐちすべり込ませる。

 もう片方の手には、いつの間にか、ぼろぼろの人形・マリアンヌが柔らかく抱かれていた。

 また急に、フリアグネは泣く寸前の顔になって、愛する人形の有様をながめやる。

「ああ、全く、フレイムヘイズはいつもひどいことをする」

 マリアンヌが、ほつれた口元をうごめかせてびる。

「申、し訳あ、りませ、ん、ご主人、様」

あやまらないでおくれ、マリアンヌ。君を行かせた私も悪いんだ。まさか剣一本で、ここまでひどいことをされるとは思っていなかったんだよ」

 フリアグネは、今度は過度に優しい笑みを浮かべ、ふ、と息を、マリアンヌに吹きかけた。

 すると、昨日のゆうのように、マリアンヌが一瞬、薄白い輝きの中で燃え上がり……そして、元のくたびれた人形の姿を取り戻していた。

「さあ、これで元通り。慣れないほうなんか持たせて、ごめんよ」

 フリアグネはマリアンヌを抱き寄せ、調律の狂った猫で声とともにほおりする。

 その頬を寄せられたマリアンヌが、わずかにうるんだ声で答える。

「身に余るお言葉です、ご主人様……でも、今は」

 うん、とマリアンヌに甘く返事すると、フリアグネはようやくシャナの方に目を向けた。今度は、表情が変わらない。笑みのまま。

「うふふ、昨日と今日で分かったよ。君はフレイムヘイズのくせに、ほのおをまともに出せないようだね。戦いぶりが、いかにもみみっちいな」

 シャナが、ぴくりとまゆを片方ね上げる。

「……なんですって?」

「なにせ、かの〝てんじようごう〟との契約者だ。どんな力があるかと警戒していたのに……その、かなりのわざものらしい剣の力を借りて、ようやく内なるほのおを呼び出している程度とはね。違っているかな? 私の宝具への目利きは、かなり確かだと自負しているのだけど」

「……」

 シャナ、無言のしぶい肯定に、フリアグネは笑みを深める。

 アラストールが再び、低い声で答えた。

「なるほど、〝りん〟を最初に当てたのは、我らの力の程を見極めるためか。うわさどおり、そくな狩りをする」

 この皮肉にも、フリアグネの笑みはくずれない。

「いやいや、昨日の戦いのてんまつを聞いて、さほどの危険はないだろうとんではいたよ? 今日、様子見をしていたのは、あくまで念のためさ。私のマリアンヌの意思でもあったしね」

「昨日の恥をそそごうと……かえってざまをさらしてしまい、申し訳ありません、ご主人様」

「うふふ、だから、それはもういいって言ったろう?」

 頭を垂れる人形の髪に、軽くキスをしてみせる。

「さすがに、剣一本でここまでやるとは思わなかったけれど、まあ、それだけのことだね。ただでさえ、人の内に入ってきゆうくつだというのに、契約者も貧弱ときては、君の〝王〟たる力も、まさに『宝の持ちぐされ』というところかな。ふ、ふふふ」

「……貧弱かどうか、見せたげるわ」

 シャナが、しやくがんの光を強めて身構えるが、フリアグネは、今度は急に困った顔を作った。っ子に対するように、首を振ってため息をつく。

「ケンカの押し売りかい? すいな子だなあ……私は、そうやってムキになったフレイムヘイズが、力を暴走させて爆死するのを何度も見ている。そんなことになって、そこの〝ミステス〟が中身ごとこわされたら、私のかりうど〟にとってはほんまつてんとうなんだよ」

 フリアグネは、また表情を薄笑いに改め、ゆうに視線を流した。

「別に急ぐでもなし……もう少し、やりやすい状況を作ってから、また伺うことにするよ」

 悠二という存在ではなく、悠二というほうを秘めた〝ミステス〟を、悠二の中にある宝具を、穴のくほどに強烈な欲望を込めて、見る。

 悠二は、その視線の無情さに、ぞっとなった。

「なにが入っているのかな、その中……うふふ、楽しみだ……」

 その薄白い姿が、みように浮いた声が、その背に負った陽炎かげろうの壁のらぎと混じり、溶けてゆく。

 その揺らぎに目を焼く内に、気付けば、フリアグネは去っていた。



「やはり、ただの〝ともがら〟ではなかったな。〝王〟、それも〝狩人〟フリアグネとは」

「ふん」

 重く声を響かせるアラストールに、シャナが短く鼻を鳴らして返す。

 悠二が、切り傷や火傷やけどだらけのいけを抱え起こしつつ、いた。

「あいつが〝徒〟なのか……」

 これには、むくれるシャナではなく、アラストールが答えた。

「うむ。〝の徒〟の中でも、とりわけ強大な力を持つ〝王〟の一人だ。我のように、人の身の内に存在を封じず、ゆえにこの世の〝存在の力〟を喰らい続け、両界の均衡をくずらんかく者……我らフレイムヘイズの敵だ」

「〝王〟……怪物の親玉だから、もっとすごい化け物みたいなやつかと思ってた」

「見た目は判断材料にはならぬ。我らは、己が望む形で存在することができるのだから」

 二人の会話に、シャナが割り込んだ。

ふうぜつ内を直すわ。そいつ、使うから」

「え?」

 シャナがあごで差す、そのぐさは、悠二の腕に抱えられる、ぼろぼろのいけを差していた。

「使う? どういう意味だ?」

「そいつの〝存在の力〟を使って、封絶の中のこわれた場所を直すの」

「!」

 ゆうは昨日の出来事を思い出した。

 シャナが何人分かのトーチを火のに変え、ふうぜつ内を復元したことを。

 そして、その人々が、封絶の解けたあとの世界に欠けていた……まるで最初から存在しなかったかのように、欠けていたということを。

 悠二はあわてていけを抱え込んだ。

「き、昨日、トーチになった人たちを消したみたいに、池を使うってのか!?」

 シャナはあっさりと認める。

「そうよ。ここには昨日みたいに連中の喰い残しのトーチがない。だから、その死にかけを使うの。トーチになる前の人間なら、死にかけ一人分で全部直せるわ。ついでにほかの人間の傷もなおすし、そいつの残りかすもトーチにして配置する。なんの問題もないでしょ」

「おおありだよ!! 池がって事だろ!?」

「当たり前じゃない。まきがなければ火は燃えないでしょ。元になる力が無いと、物は直せない、人も治せない」

「……くっ……」

 シャナは、常に事実を突き付ける。

 悠二には、その事実をね返せるだけのものが、なにもない。

「分かった? そいつが知り合いでいやだってなら、ほかやつを使ってもいいわよ」

「そ、そういう問題じゃない!」

「じゃあ、どうしようってのよ。こわれたまま、傷だらけのまま、封絶を解くっての? 言っとくけど、今のいん孤立状態を解いて、この空間が動き出したら、そこに転がってる連中、確実に死ぬわよ」

 シャナは、やはり事実を突き付ける。

 悠二も、彼女が理屈として正しいことを言っているのは分かっている。

 腕の中にある池の、破片に切られ、ほのおに焼かれた傷が深いことは、しろうと目にも容易に分かる。世界が動き出せば、重傷は間違いない……いや、シャナの言うとおり、死ぬのだろう。

 しかし、倒れるクラスメートの中からトーチにする人間を選ぶことなど、悠二にできるはずもなかった。そもそも、彼らを巻き込んでしまったのは自分なのだ。

 シャナの言うことが正しい、そのことは分かっていた。

 正しいし、分かっているが、それでも、できないことはあるのだ。

「……」

 黙りこくって解決法を探す悠二に、いい加減れたシャナは、

「それじゃあ」

 と馬鹿にするように言う。

「おまえ自身でも使う?」

「なんだって?」

 シャナは、ことさらに意地悪な口調で提案する。

「おまえの残りをいくらかでもけずれば、物も人も直せるわ。もちろん、その分おまえの〝存在の力〟……『燃え尽きるまでの残り時間』は目減りするけど」

 その提案が持つ意味の重さを理解したゆうは、しかし一瞬で決断した。

「分かった。それでいい」

「!?」

 シャナは驚き……そしてなぜか、わずかに怒りを感じて、言う。

こねてた割には、やけに簡単に決めるのね」

 これにも悠二は即答、断言した。

「簡単なもんか」

「じゃあ、なんで残された存在と時間を、みすみす捨てたりするのよ」

 知らずの内に責めるような口調になっている問いに、静かで強い答えが返ってくる。

「こうなったのは僕の責任なんだ。それに」

 シャナは、悠二が微笑していることに驚き、その声を聞く。

「捨てるんじゃない。生かすんだ」



 その夜。

 夜半を越えて空に垂れ込めた雲が、街に雨のとばりを下ろし、まばらな灯火をぼやかせている。

 その片隅、さか、と表札を掲げたごく普通の一戸建ての屋根に、大きな黒いかさが一輪、咲いている。

「なによ、なによ、なんなのよ、あの〝ミステス〟は!?」

 その傘の下から、怒りの声があがった。

 雨にぼやける街灯に、その姿をおぼろに浮かべるのは、シャナである。

 傘をさし、セーラー服で行儀悪く胡座あぐらをかいて、屋根の上に座っている。

 本降りの雨は、彼女の周りですべはじかれ、かわいてゆく。ちなみに、彼女が怒っていることとその現象は、全く関係がない。

「燃え残りのくせに、生意気よ!」

 封絶内の復元は結局、悠二の希望通り、その残り火を削った力で行われた。

 教室の破損、およびクラスメートたちの傷と服は、一応無事に復元された。一応、というのは、力の量的にギリギリに削ったため、教室は所々手抜き工事のように古びてしまい、友人たちにも打ち身程度の後遺症が残った、ということだ。

 それらの様子を見たゆうは、青ざめた顔で再び笑った。

 悠二のその笑いが今、シャナをいらつかせている。

「本当に、なんて変な、じゃない、みような、違う、いやな、そう、嫌なやつ!」

 上がる声には、彼女らしくない、や文句のような、ひねた響きがあった。

 シャナは、帰り道も悠二に付いて行ったが、話はしなかった。悠二も何度か話し掛けたが、そのたびにらみ返されたので、やがてあきらめて黙った。家の前で別れたときも、それじゃ、と言った悠二に、うむ、と短く答えたのはアラストールだった。

 それからすぐ、シャナは屋根の上に飛び乗って、フリアグネ一党への警戒に当たっている。

 状況や相手の性格からして、ほとんど意味のなさそうな行為ではあったが、二人としてはほかにすることもない。念のため、というだけのことだった。

 そしてシャナは、屋根に座ったたん、それまでの沈黙の壁がけつかいしたかのように、延々文句をアラストールにぶつけ続けていたのだった。

 そんな彼女のいつにない荒れよう……あるいは取り乱し様に、アラストールは、ようやくしそうに声をかけた。

「つまりアレは、おまえが久しぶりに、まともに接した人間ということだ」

 期待してもいなかった、不意な胸元からの言葉に、シャナは内心で驚き、なぜかあわてた。それを隠そうと、ことさらに冷たく、しかしいつものようにしっかりと事実を言う。

「アレは〝ミステス〟、本人の残りかすよ」

 うむ、とその明確な答えに満足の声を返したアラストールは、それでも彼女に問い掛けるように続ける。

「自分では、そう思っていない……いや、それは人間にとって、自己の存在にとって、さして重要ではない、ということかも知れぬ」

「でも、残り滓よ。アレがなにをどう思っても、もうなにも、どうにも、なんともならない……そう、ならないのよ……」

 アラストールは、シャナのかたくなな答えに、わずかに怒りと悔しさがにじんでいることに気付いた。一見れいこくな、しかし実はそうではない答えを返す。

「その通りだ。しかし、現実には多様な面が存在する。一つのことがらに、一つの現象しかないとは限らん。例外や事故、想像以上の出来事は、常にあるものだ」

「……」

「とはいえ、アレが元気なのも、今はまだ〝存在の力〟に余力があるからだ。いつかは、その思考能力も、意欲も、存在感も、薄れて燃え尽きる」

 重く深いアラストールの声は予想外の打撃となって、シャナの、次の言葉を遅らせた。

「……………………ふん、せいぜいフリアグネをち滅ぼすまで、もてばいいわ」

 そのとき、がちゃん、と金属がぶつかる音がした。

 シャナが見れば、屋根のはしに掛け金具が突き出している。はしの先だった。

 そこからひょっこりとかさが、次いでゆうの顔が現れた。

「ああ、やっぱりいた」

 シャナは不機嫌さを隠さず、一言。

「いて悪い?」

 けんもほろろなその言い草に、意外にしゆうねん深いな、と悠二は苦笑する。

「……そこにいられると、なんだか落ち着かないんだけど」

「ふん、おまえの知ったことじゃ」

 ない、と言いかけて、シャナは気付いた。

「……おまえ、どうして私たちがここにいるって分かったのよ?」

 首だけ出した悠二はそれをかしげ、考え考え言葉をぐ。

「いや、なんというか……流れ、みたいなものかな。今日のふうぜつとかの小さいやつ……それを感じたんだ」

 アラストールが納得の声を出す。

「そうか、そうだな、あれだけ力の発現の場に立ち会っていれば、分かってもくるだろう」

 普通はそれに気付くことも無く力をしようもうし、また消費されてゆくものだが、とまでは、さすがに言わない。

 今度は首だけの悠二がく。

「僕のことよりも、あんたたち『ひらゆかり』なんだろ? こんな所にいて、平井さんの家とかは、放って置いてもいいのか?」

 シャナは、ふん、と鼻を鳴らした。

「そんなの、どうでもいいわ。『平井ゆかり』をしてるのはついでだし……それに、家族で喰われたんでしょうね、両親もトーチだった。なんとでもせる」

 なんともひどいやぶへびだった。もっとも、言った当人にその自覚はない。

「それより、こっちは忙しいんだから、用が済んだらとっとと引っ込みなさいよね」

「忙しい?」

 見た目には座っているだけのようだが。

「……そうなのか?」

 悠二はシャナの胸元のアラストールに訊いてみる。

てんじようごう〟などとぶつそうな名を持っている割に、この異世界の〝王〟は、物腰が落ち着いていて話しやすい。

むずかしい質問だ」

 うそのイエスも不義理のノーも言えない、という答え。

 悠二はなんだか、このシャナを気遣い、しかし暗に悠二へ答えを示している〝王〟が好きになりそうだった。その彼に敬意を表して、質問を変える(必然的にシャナの抗議はきやつされた形になるが、やはりアラストールは何も言わない)。

「雨の中で、ずっと警戒を?」

 シャナは、自分以上に『正しいに決まっている』アラストールに文句を言うこともできず、しぶい顔をして言う。

「そうよ。連中はおまえをねらってるんだもの」

「ふうん、でも、なにもこんな所で……うわ、っと」

 ゆうは危なっかしい身のこなしで、屋根の上に登った。なぜかリュックを背負っている。片手にかさを差しつつ、れたかわらうようにしんちように伝ってゆく。シャナの前までたどり着くと、濡れるのも構わずに座った。

 さすがに胡座あぐらをかいていたシャナも、足を閉じて座りなおす。

 その胸元から、アラストールが言う。

「貴様の気にすることではない」

 うん、と悠二はうなずいた。

「そうだけどね、ちょっときたいことがあってさ」

 言いつつ、背負っていたリュックを下ろし、魔法びんを取り出した。

「……?」

 シャナは無言で、悠二をにらむ。

 悠二はその視線の中、器用にかさを差しつつ、カップ兼用のふたはずして中身を注いだ。

 ホットコーヒーだった。ちゃんとミルクも入れてある。

「ほい」

 湯気の立つカップが差し出される。

 こばむ理由は、特に無い。仕方なく、シャナは受け取った。

 温かい。

 カップ、それだけではない。店での売買や力を振るう以外での、手と手のこうを感じた、本当に久し振りの、ほのかな温かさだった。

 シャナはカップを胸元に持ってきて、顔を傘で隠した。その影から言う。

「で、なによ。これの代金程度なら答えたげるわ」

 ありがとう、の一言もないが、その辺りは悠二としても期待していない。押し付けだと言うことも自覚していた。

「うん」

 悠二は、意味のない返事をして心の準備をする。

 やがて、傘を打つ雨の音がはっきり聞こえるほどに落ち着いてから、改めて口を開いた。

「僕が消えたら、ほかの人たちは僕のことをすべて忘れる、って言ったよな」

「そうよ」

 シャナは無情に断言した。

 ゆうは、自分がシャナのこういう、厳しく思える率直さを快く感じる理由が、何となく分かってきていた。

 この少女はに慰めない。余計なふんしよくで本質を隠したりもしない。知りたいことを問えば、その答えを明確に、包み隠さず示してくれる。自分はそれを快く、またうれしく思うのだ。

(つまり、僕が欲しいのは気遣いじゃない、ってことか)

 悠二は……なんだかみような話ではあったが……自分の心の有様を、このシャナとの会話によって自覚させられていた。どうも、自分は悲壮にえるがらではないらしい。

 もちろんシャナも、悠二のために、そんな話し方をしてくれているわけではない(と悠二も断言できる)。彼女は単に、気遣いなどに意味を認めていない、というだけのことだ。

 ただの結果としての、この符合を、悠二はおかしいとさえ感じていた。

 そのおかしみを微笑にして、悠二は再びく。

 率直な答えが欲しい問いを。

「じゃあ、シャナ、アラストール、あんたたちは、どうなんだ? あんたたちも、僕のことをだんだん忘れていったり、感じられなくなったりしていくのか?」

「……」

 シャナにとっては実際どうでもいい、簡単な問いだった。これもほかの問いと同じように軽く答えてやればよかったが、しかしなぜか一瞬、声が詰まった。

 そしてその間に、アラストールが答えていた。

「いや。我らは、貴様のを、消えてゆく過程を、すべて認識する。我らは、この世の流れからはずれた存在であり、〝存在の力〟のしんぷくや、起こった事そのものを感じ取ることができるからな」

「……そうか」

 シャナが、かさの影から言う。

「そうよ。でも結局は、普通の記憶と同じように、これからの出来事の下にもれてくだけよ」

「僕を見ていてくれるってだけで、十分だよ」

 シャナは悠二の顔を見なかったが、なぜか彼が笑っていることが分かった。その、みように居心地の悪くなる確信をすように、黙ってコーヒーを口に運ぶ。

「……」

 温かかった。

 しかし、

「砂糖!」

「ちゃんと入れたんだけど」

 ゆうは、今度は声を出して笑った。リュックの中から、念のために入れておいたシュガースティックを取り出しながらく。

「ところでさ、一晩中そうしているつもりなのか?」

 シャナはスティックを三つむしり取って、それを全部入れる。

「そうよ。座って寝るのには慣れてるし、なにかあったらアラストールが起こして……」

 かき混ぜるものがない。遠慮なく求める。

「スプーン」

「あ」

 忘れていた。要領が良いようで、どこか抜けている。ここが『みように』が付く所以ゆえんだろうか。悠二は、取りに戻ろうかと一瞬考えて、なんだか馬鹿らしくなった。

「そういえば、なんで屋根の上なんかで張り込む必要があるんだ? 僕から隠れたりする意味もないのに」

「……中に入れっての?」

 シャナはかさを上げて悠二をにらむ。馴れ馴れしくされるのには慣れていない。

「一晩中、雨の中に座ってる女の子を上に置いておくってのは、はっきり言って安眠ぼうがいだと思うんだけど」

「知ったことじゃない、けど……アラストール?」

「ふむ、たしかに、なにかを守るようなケースは、これまでなかったな」

「なにかを、じゃなくて、誰かを、って言って欲しいんだけど」

 悠二もむなしい抗議だと分かってはいるが、とにかく一応してみる。

 もちろん二人して、

「どうでもいいことよ」

「そう、どうでもよいことだ」

 と返された。

「……それより、中に入るのはいいけど」

 シャナが、傘の奥からギロリと睨んでいる。

 悠二にはその意味が分からない。

「?」

「変なことしたら、ぶっとばすわよ」

「……そこまで特殊な趣味はしてな痛だっ!?」

 スカーン、と中身入りのカップが顔面に命中して、悠二は危うく屋根から転げ落ちそうになった。



「ちょ、ちょっと待て!」

 実際に待てと言われたのはゆうの方だが、とりあえず、そう返答せざるを得ない状況である。

 現在使う者のない父のしよさいで寝ようと部屋を出かけたところで、シャナとアラストールに引き止められた……というより、制止命令を受けたのだった。

 一階にいる母に気付かれないよう声をひそめて、それでも精一杯の声で反抗する。

「中に入れとは言ったけど、一緒の部屋で寝るとは言ってないぞ!?」

 シャナがベッドの上でポンポンとねながら言う。

「おまえを守るために中に入ったのに、なんでわざわざ別の部屋になんなきゃいけないのよ」

あきらめてここで寝ろ」

 アラストールの、完全に命令者としての指示。

 その彼の意思を表すペンダントを、シャナが首からはずし、枕の下に押し込んだ。

「……何やってんだ?」

「見れば分かるでしょ、着替えるから、見えない所に行ってもらったの」

 枕の下から、フゴフゴともった声が続ける。

「そういう決まりなのだ。分かったら、早く貴様もどこかにもぐり込め」

 そう言われても、と見回すと、ちょうど良い所に(?)押入れがある。

「……」

 シャナに目を戻すと、うん、とうなずかれる。

「……普通、ここって、押しかけた方が入るもんじゃないのか?」

 とぶつぶつ文句を言いつつも、押入れに向かう悠二だった。

 その背中に、

のぞいたらぶっとばすわよ」

 と、絶対にじようだんとは受け取れない声でのおどしがかかる。

 悠二はため息をつきながら、押入れのふすまを開けた。下の段は、古いマンガやら使わないとんやらで一杯なので、上の段に上がる。もっとも、ここにも古い玩具おもちやそのほかがひしめいているので、その間に体育座りして体を収めなければならないが。ほこりが目鼻にしみる。

 目の前にある、か捨てられない大きなロボットのソフビ人形と目が合った。

「ちょっと入れてくれ、いてて」

 しりで、作らないまま置いていたプラモの箱を押しつぶしてしまった。

「なにやってんの、早く閉めなさいよ」

「そうかさなくてもいいだろ。どうせ見られて困るようなスタイルでもないぶふっ!?」

 ごいん、と今度は目覚し時計が後頭部に直撃した。プラスチック製で良かった、と情けないあんを覚えつつ、悠二は中からふすまを閉めた。

「……」

 そのふすま一枚へだてた向こう、ベッドの方で、シャナがごそごそ動く気配がする。きぬれの音からして、服をいでいるらしい。

「…………」

 さっきはからかったものの、さすがにこういう状況は気まずい。ゲフン、とわざとらしくせきばらいして、ゆうしにいてみる。

「……寝巻きとか持わっ!?」

 また何か、かたいものがふすまにぶつけられた。

のぞくなって言ったでしょ!」

「覗いてないって! ふすま見れば分かるだろ!?」

 なんでこんな目に、などと思いつつも、か言い訳口調になる。こういう場合、男は果てしなく立場が弱い。押入れのやみの中、得がたい人生経験を苦くわびしく味わう悠二である。

「ね、寝巻き持ってるのか、って訊いてるんだよ」

「ないわよ。あるのは替えの下着だけ。体の汚れはアラストールが清めてくれるから、替えるのただの気分だけど」

「ふうん、そりゃいいな……あ、忘れるとこだった。ベッドの横の引き出しにジャージが入ってるから、それ着てくれ」

 下着のままで寝られたりしたら、どんなひようで(自分が)危険な目に会うか、分かったもんじゃない……とまで考えて、ふと疑問がく。

「ん? そういや、荷物なんて持ってたっけ」

「だいたいの物は入ってる」

「どこに?」

 ズバッ、と布か何かが広がるような音がした。

「アラストールのフレイムヘイズがまとう、こくの中」

 悠二は思い出す。

 この音はたしか、教室で襲われたときに、自分を壁のように守ってくれた黒い……。

「ああ、あのコートか……そういえば、刀も収めてたな」

 悠二は、どこぞの便利なポケットのようなもんか、と自分論理で納得する。

 その間に、ベッドの方では、またわずかな衣擦れの音が。

(……替えの……下、着……?)

 ふと、先の会話の中から浮かび上がったその単語に、悠二は思わず、ごくり、と息をむ。

 今、ふすま一枚向こうで展開されている光景

 を一瞬想像して、すぐに猛烈な後ろめたさに襲われる。想像の進展をじやするために言う。

「ところでさ、いつまで入ってりゃいいんだ」

 無情の声が返ってくる。

「夜中、ずっとに決まってんでしょ」

「んな馬鹿な」

 ゆうは脱力した。

 と、そのひように、下に敷いていたプラモの箱に体重をかけてしまった。紙の箱から折れたランナーが突き出て、その尻を刺す。

「ぅ痛っ!?」

 反射的に飛びのいた。

「あ」

 気付いたときには、もう遅かった。ふすまを押し倒して、悠二は押入れの外に、頭から転がり落ちていた。

 逆さになった視界の中心に、ちょうど全部脱いだ所だったらしいシャナが、悠二には理解不能な形状の小さな布切れを手にして、立っていた。

「……」

 シャナも、予想外すぎる事態にきょとんとした顔になって、さかさまの悠二を見ている。

「……」

 つややかな黒髪の中に浮かぶ、小さな、一点の曇りもないはくのようなたい

 未成熟ゆえにあからさまなふくらみのない、ただりゆうれいな曲線によって描かれる、せいれつの姿。

 ゆうが、自分の存在が過去最大の危機にあることも忘れて見入るほどの。

(……きれ



 真夜中、せき的にボコボコにされただけで済んだらしい悠二は、痛みで目を覚ました。

「……」

 カーテン越しに入る街灯だけを明かりとする薄暗さの中、まだ逆さまの視界をベッドの方に動かす。毛布に包まった、小さなふくらみが見えた。

 ところで、

 そのベッドの前の床に、抜き身のおお贄殿にえとののしや』が突き立っている。

 このあからさまな意思表示を、転げ落ちたときのままの格好でながめつつ、悠二はつぶやく。

「……今度は、ってもなおしてくれないんだろうな」

「当然だ」

 どこからか、アラストールがフゴフゴと答えた。



 翌日、明けてみると空は快晴。

 部屋にも、カーテン越しに澄んだ朝の光が差し込んでいた。

 あるいは明方の襲撃があるのでは、とアラストールは枕の下で警戒していたが、結局、何事も起きず何者も訪れず、シャナの熟睡はさまたげられることはなかった。

 一方、間に『贄殿遮那』を置いた反対側の壁際。その床で、真夜中に寝直した悠二が、みのむしのように毛布にくるまって寝ている。

 その彼の、タオルケットを丸めた枕もとで突然、目覚し時計のアラーム音が鳴り響いた。

 わずか半秒で悠二は音源を察知、見もせずにアラームのスイッチをたたき、黙らせる。

「……ん……」

 重いまぶたを開けて最初に見る物は、金属バット。別に、普段からこんな物を抱いて寝る趣味があるわけではない。単なる用心、あるいはな手立ての一環である。もちろん、用心している相手は、ベッドの中の少女ではない。

 悠二はむっくりと半身を起こした。伸びをしようとすると、体の節々が痛む。

「あ、っ痛ちち……」

 板敷きの床に寝ていたせいか、どうも体がみような感じにこっている。その代わり、というべきか、昨日ボコボコにされた所は、もう痛まない。シャナが手加減してくれていたのか、それとも単に、自分の若い回復力によるものか……まあ、まず後者だろうが。

 悠二は、ベッドの小さな膨らみに目をやる。目覚ましの音が半秒で消えたせいか、起きる気配もなく、かすかな寝息を立てている。その手前に突き立つけんのんおおがなければ、平和な光景に見えなくもない。

 ふと、その大太刀で思い出したように、ゆうは自分の胸を見る。

 なんということもなく、見る。

 灯火が、現れた。

「…………はあ」

 昨日とは別の意味を持つ、ため息だった。

 絶望や恐怖が、ほとんど実感を持てないほどに薄れている。

 それに気付いたための、ため息だった。

(人間は慣れる動物だっていうけど、こんな状況でもそうだってのは、なんだかすごいな……それとも、今までと同じ日々を過ごしたいってしゆうちやくの現れなのかな)

 シャナを起こさないよう、静かに立って、ベランダに通じるガラス戸を開ける。

 せまいベランダに出て、外をながめる。

 朝のせいりような空気が肺を満たす。

 家の前の道を、通勤、通学の自転車が通り過ぎてゆく。

 その道のはしが、昨日の雨の名残なごりに黒く湿しめっている。

 空は、広く青い。

 すべて、いつもと変わらない、さわやかな朝だった。

(……変わったのは、僕……ここにいて、これを感じる僕、か……)

 今、体に感じているものが、存在の消滅などという、言葉や理屈だけでしかとらえていないものを、いかにもそらごとのように思わせてしまう。なんとも、現金な話ではある。

 後ろのベッドの中で、その感じるものの一つ、痛さの原因が、少しむずかった声をあげる。

 足下を見ると、昨晩、屋根に登るのに使ったはしたたんで寝かせてあった。

 悠二は昨夜の、シャナやアラストールとのやり取りを思い浮かべた……多少、不純な映像も混じっている気がするが、そのこと自体は大して重要ではない、はずだ、と弁解する。

(ああやって、少し話をして、少し笑って、少し騒いで……その程度のことで……)

 自分は、消滅の絶望と恐怖を忘れてしまえるのだろうか。

 自身の存在そのものの問題を。

(……忘れる?)

 その言葉には、どこか違和感があった。

 また少し考えてみるが、その違和感の意味はよく分からない。

(まあ、そう簡単に答えが出るものでもないか)

 と思い、悠二は笑った。

 そして、笑える自分を自覚して、驚いた。

 そんな、重いのか軽いのかはっきりしない気持ちのまま、ベッドに声をかける……恐る恐る。

「おーい……シャナ、そろそろ学校に行く時間、だぞ……?」

 ぱたんととんね上げられて、シャナが半身を起こした。

 昨日のことを思い出して、あわてて目を伏せようとしたゆうは、そのシャナがジャージを着ているのに気が付いた(つまり、しっかり見ていた)。自分が言っておいた通りにしてくれたらしい。ぶかぶかなので、ほとんど首元からもれるような格好だ。

 あん半分、残念半分の悠二に、シャナが顔を向ける。その寝ぼけ顔は、見掛けの年齢並みに可愛かわいい。長い髪も、後ろで簡単に一まとめにしばっていた。

「……ん〜、言われなくても分かって……!?」

 ねむたげな声で悠二に答え、その顔を見たシャナが突然、きようがくに目を見開いた。

「な、なんだよ?」

 悠二は慌てて自分の体を見回すが、胸の内のいまいましいあかりも含めて、特別変わった様子はない。

 そうやっている間に、シャナは再び布団の中にもぐり込んでいた。

 少し待ったが、出てくる気配が無い。さっきの様子だと、別に昨日のことを怒っているわけでもなさそうだが。

「……勝手に用意して出かけるからな? 見つからないように出てってくれよ」

 悠二は声をかけて、部屋を出ていく。

 布団の中で、シャナは珍しくこんわくの表情を作っていた。

「……ねえ、アラストール、、どういうこと?」

 枕の下から、アラストールも深刻な声で答えた。

「うむ、気付いたか」

「どうして? 考えられない」

「中にあるほうの力、だろうな」

 アラストールは、実は今の悠二の様子から、一つのほうの存在に思い当たっていた。

 ふうぜつの中でも動ける、みような〝ミステス〟さか悠二。

 なるほど、もしその中に入っている物が、あれだとしたら、この奇妙さにも、さっきの様子にも説明がつく。

 しかし、それは同時にあり得ないはずの物だった。

ともがら〟秘宝の中の秘宝。

れいまい』。

 もし、そうだとしたら、絶対にフリアグネには渡すわけにはいかない。



 そしてシャナも、今の悠二の様子に、一つの気持ちを芽生えさせていた。

 もしかしたら、とせつ、胸をよぎっただけの、無自覚な、小さな、気持ち。

 昨日、手渡されたコーヒーのような、ほんの少しの、温かさ。

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