アスナが三日、あるいは四日ぶりの食事に選んだのは、NPCベーカリーの売り場で最も安い黒パンひとつと、町のあちこちにある泉で好きなだけ汲める水ひと瓶だった。
現実世界でも食事を楽しいと感じたことはあまりないが、この世界での飲食の空しさたるや筆舌に尽くしがたい。どれほど豪華絢爛なご馳走を飽食しようとも、本物の肉体には砂糖一粒たりとも届かないのだ。いっそ食事というシステムも空腹感・満腹感も存在しなければいいのにと思うものの、三度三度お腹は空くし、その感覚は仮想の食べ物を摂取するまで解消されない。
それでもこの頃は、ダンジョンに入っている時だけは意志力によって偽物の空腹感を遮断できるようになってきたが、町に戻るとどうしても食べずにはいられない。せめてもの抵抗として最廉価なメニューを選んでいるが、ぼそぼそと粗い黒パンでさえ、少しずつちぎっては嚙んでいるとそれなりに美味しいと思ってしまうのが妙に悔しい。
トールバーナの町の中心部、噴水広場の片隅に置かれた素朴な木製ベンチに座ったアスナは、フードを目深に下ろしたまま口を動かし続けた。一コルという値段のわりに大きなパンが、ようやく半分がた消滅した、その時──。
「けっこう美味いよな、それ」
右側からそんな声が聞こえた。パンをちぎろうとしていた手を止め、鋭く一瞥する。
立っていたのは、数十分前に町の入り口で別れたばかりのあの男だった。黒髪、灰色コートの片手剣使い。ダンジョンの奥底で気絶したアスナをいかなる手段によってか外まで運び出し、途切れるはずだった道を無理矢理に繫いだ迷惑者。
そうと認識した途端、両の頰がかあっと熱くなった。死んで本望くらいのことを言っておきながら、生還するやいなや図々しく食事をしている所を見られてしまったのだ。強烈な羞恥が全身を駆け巡り、咄嗟にどうしていいか解らない。
半月型になった黒パンを両手に保持したまま無様に固まっていると、男は小さく咳払いしてから、ぼそりと言った。
「隣、座ってもいいか?」
普段なら、無言でベンチを離れ、振り向きもせずに立ち去っているシチュエーションだ。しかし今だけは、この世界ではあまり経験のない種類の動転に襲われ、反応できなかった。アスナの硬直を是認と解釈したか、男はベンチの右端に最大限距離を取って腰を下ろし、コートのポケットを探った。出てきたのは、黒褐色の丸形オブジェクト──売価一コルの黒パンだ。
途端、アスナは羞恥と混乱を一時的に忘れ、代わりに啞然と男を見やった。
迷宮区のあんな奥まで行ける実力や、全身の装備のグレードからして、この片手剣使いはレストランでまともなコースメニューを頼んでもびくともしないくらいの金額を稼いでいるはずだ。となると、超のつく倹約家か、それとも──
「……本気で、美味しいと思ってるの、それ?」
無意識のうちに小声でそう訊ねていた。すると男は心外そうに眉を動かしてから、深く頷いた。
「もちろん。この町に来てから、一日一回は食べてるよ。……まあ、ちょっと工夫はするけど」
「工夫……?」
意味が解らず、フードの下で首を傾げる。片手剣使いは言葉では答えず、代わりにさっきとは反対側のポケットに手を入れ、小さな素焼きのツボを取り出した。ことん、とベンチの真ん中に置き、言う。
「そのパンに使ってみろよ」
パンに使う、という言葉の意味を一瞬はかりかねてから、アスナはそれがネットゲーム独特の言い回しであることに気付いた。《鍵を扉に使う》《瓶を泉に使う》などと同じだ。おそるおそる右手を伸ばし、指先でツボの蓋をタップ。浮き上がったポップアップ・メニューから《使用》を選ぶと、指先が仄かな紫色に光る。《対象指定モード》と呼ばれるその状態で、左手に持った食べかけの黒パンを触れる。
すると、かすかな効果音とともに、パンの片面が白く染まった。たっぷり、というかゴッテリと盛られたそれは、どう見ても──
「……クリーム? こんなもの、どこで……?」
「いっこ前の村で受けられる、《逆襲の雌牛》ってクエストの報酬。クリアに時間かかるから、やる奴はあんまいないんだけどな」
真顔でそう答えると、片手剣使いは慣れた仕草で自分も《ツボをパンに使用》した。それで内容量が使い尽くされたのか、ツボは小さな音と光を放ちながら消散する。同じくクリームが山盛りに塗られた黒パンに、片手剣使いは物凄い大口を開けてかぶりついた。もぎゅもぎゅ、と効果音が聞こえてきそうな咀嚼っぷりに、アスナは自分の胃も、物凄く久しぶりに不快な痛みではなく健全な空腹感に襲われるのを感じた。
左手に持ったままだったクリームのせ黒パンを、おそるおそる囓る。
途端、いつもはぼそぼそと粗いだけのパンが、どっしりとした質感のある田舎風ケーキに変身してしまったかのような味が口中に広がった。クリームは甘く滑らかで、しかもヨーグルトに似た爽やかな酸味がある。頰の内側までがきゅうっと痺れるような充足感に打ちのめされ、アスナは二口、三口と夢中でパンを頰張った。
ふと気付くと、両手の中にあった食料アイテムは、文字どおり欠片ひとつ残さずに消滅していた。はっと隣を見れば、片手剣使いより二秒ほど早く食べ終わってしまったらしい。再び羞恥感が強烈に立ち上がり、この場から逃げ出したくなるが、ご馳走になっておいてそれはあまりにも礼儀知らずな行いだ。
何度も呼吸を繰り返し、どうにか精神を鎮めてから、アスナは消え入るような声で言った。
「…………ご馳走様」
「どういたしまして」
自身も食事を終えた片手剣士は、指貫きの革手袋を嵌めた両手をぱんぱんと払い、続けた。
「さっき言った牛クエスト、やるならコツを教えるよ。効率よくこなせば二時間で終わる」
「………………」
正直、心が動かなくもなかった。あのヨーグルトクリームがあれば、一コルの黒パンも立派なご馳走だ。味覚再生エンジンが作る偽の満足感ではあるが、もう一度……いや、できれば一日一回食べたいと思わずにいられない。
だが──。
アスナは俯くと、フードの下でそっとかぶりを振った。
「……いい。わたしは、美味しいものを食べるために、この町まで来たわけじゃないもの」
「ふうん。じゃあ、何のためなんだ?」
片手剣士の声は、ことさら美声というわけではないものの、耳障りな部分の一切ない、どこか少年のような響きを持っていた。それゆえか、アスナはこの世界に来て誰にも話したことのない心の裡を、そうと意識もせずにぽろり、ぽろりと吐露した。
「わたしが……わたしでいるため。最初の街の宿屋に閉じこもって、ゆっくり腐っていくくらいなら、最後の瞬間まで自分のままでいたい。たとえ怪物に負けて死んでも、このゲーム……この世界には負けたくない。どうしても」
アスナ──結城明日奈の十五年の人生は、戦いの連続だった。幼稚園の入園試験を幕開けに、次から次へと大小無数の試練が課せられ、それら全てに勝ち抜いてきた。一度でも敗れれば自分は無価値な人間になると思い定めたうえで、その重圧を撥ね除け続けてきたのだ。
十五年の戦いの果てに訪れた、この《ソードアート・オンライン》という名の試練には、しかし恐らく勝てない。余りにも未知、余りにも異質なルールと文化もさることながら、個人の力ではどうにもならない種類の戦いなのだ。
課せられた勝利条件は、百層に及ぶ浮遊城の天辺に辿り着き、最後の敵を倒すこと。しかしゲーム開始から一ヶ月も経つのに、既にプレイヤーの五分の一が退場し、しかも彼らのほとんどが腕に覚えのある経験者たちだったのだ。残された戦力は余りに少なく、立ちはだかる道のりは余りに遠い……。
そんなことを、アスナは心の蛇口が緩んでしまったかの如く、ぽつりぽつりと喋った。切れ切れの、首尾一貫すらしていないであろう独白に、黒髪の片手剣士は無言で聞き入っていたが──やがてアスナの声が夕風にさらわれるように途切れると、小さく、ほんのひと言だけ呟いた。
「…………すまない」
数秒経ってから、なぜそんな言葉が出たのかと、アスナは訝しんだ。
この片手剣士と会ったのは今日が初めてだし、彼が謝るべき理由は存在しないはずだ。フードの下からちらりと隣を見ると、ベンチに浅く腰掛けた灰色コートの男は、両肘を膝に乗せて項垂れていた。唇がかすかに動き、再び声が聞こえる。
「すまない……。──今のこの状況を生み出したのは……言い換えれば、君をそこまで追い込んだのは、ある意味では俺の…………」
しかし、その先を聞くことはできなかった。街の中央にそびえる、一際巨大な風車塔が、風力で動く時鐘を高らかに打ち鳴らしたからだ。
午後四時。《会議》の始まる時間。見れば、少し離れた噴水広場には、いつの間にか多くのプレイヤーが集まってきている。
「……行きましょう。あなたが誘った会議なんだから」
アスナがそう言って立つと、片手剣士も頷き、ゆっくりと体を起こした。彼が何を言おうとしたのか──。どうせもう二度と話すこともない相手だからどうでもいい、という気持ちの片隅に、小さく引っかかる棘のような感情が存在した。
知りたい。知りたくない。そのどちらが上回っているのか、アスナは自分でもよく解らなかった。