星なき夜のアリア アインクラッド第一層 2022年11月

 アスナが三日、あるいは四日ぶりの食事に選んだのは、NPCベーカリーの売り場で最も安い黒パンひとつと、町のあちこちにある泉で好きなだけめる水ひとびんだった。

 現実世界でも食事を楽しいと感じたことはあまりないが、この世界での飲食のむなしさたるや筆舌に尽くしがたい。どれほど豪華けんらんなごそうを飽食しようとも、本物の肉体には砂糖一粒たりとも届かないのだ。いっそ食事というシステムも空腹感・満腹感も存在しなければいいのにと思うものの、三度三度おなかくし、その感覚は仮想の食べ物を摂取するまで解消されない。

 それでもこのごろは、ダンジョンに入っている時だけは意志力によってにせものの空腹感をしやだんできるようになってきたが、町に戻るとどうしても食べずにはいられない。せめてもの抵抗として最れんなメニューを選んでいるが、ぼそぼそとあらい黒パンでさえ、少しずつちぎってはんでいるとそれなりにしいと思ってしまうのが妙に悔しい。

 トールバーナの町の中心部、ふんすい広場のかたすみに置かれたぼくな木製ベンチに座ったアスナは、フードをぶかに下ろしたまま口を動かし続けた。一コルという値段のわりに大きなパンが、ようやく半分がた消滅した、その時──。

「けっこういよな、それ」

 右側からそんな声が聞こえた。パンをちぎろうとしていた手を止め、するどいちべつする。

 立っていたのは、数十分前に町の入り口で別れたばかりのあの男だった。黒髪、灰色コートの使。ダンジョンの奥底で気絶したアスナをいかなる手段によってか外まで運び出し、途切れるはずだった道をつないだ迷惑者。

 そうと認識したたん、両のほおがかあっと熱くなった。死んで本望くらいのことを言っておきながら、せいかんするやいなやずうずうしく食事をしている所を見られてしまったのだ。強烈なしゆうが全身を駆け巡り、とつにどうしていいかわからない。

 半月型になった黒パンを両手に保持したまま無様に固まっていると、男は小さくせきばらいしてから、ぼそりと言った。

となり、座ってもいいか?」

 普段なら、無言でベンチを離れ、振り向きもせずに立ち去っているシチュエーションだ。しかし今だけは、この世界ではあまり経験のない種類の動転におそわれ、反応できなかった。アスナの硬直を是認と解釈したか、男はベンチの右はしに最大限距離を取って腰を下ろし、コートのポケットを探った。出てきたのは、黒褐色の丸形オブジェクト──売価一コルの黒パンだ。

 途端、アスナは羞恥と混乱を一時的に忘れ、代わりにぜんと男を見やった。

 迷宮区のあんな奥まで行ける実力や、全身の装備のグレードからして、この片手剣使いはレストランでまともなコースメニューを頼んでもびくともしないくらいの金額をかせいでいるはずだ。となると、超のつく倹約家か、それとも──

「……本気で、しいと思ってるの、それ?」

 無意識のうちに小声でそうたずねていた。すると男は心外そうにまゆを動かしてから、深くうなずいた。

「もちろん。この町に来てから、一日一回は食べてるよ。……まあ、ちょっと工夫はするけど」

「工夫……?」

 意味がわからず、フードの下で首をかしげる。使は言葉では答えず、代わりにさっきとは反対側のポケットに手を入れ、小さな素焼きのツボを取り出した。ことん、とベンチの真ん中に置き、言う。

「そのパンに使ってみろよ」

 パンに使う、という言葉の意味をいつしゆんはかりかねてから、アスナはそれがネットゲーム独特の言い回しであることに気付いた。《かぎを扉に使う》《びんを泉に使う》などと同じだ。おそるおそる右手を伸ばし、指先でツボのふたをタップ。浮き上がったポップアップ・メニューから《使用》を選ぶと、指先がほのかな紫色に光る。《対象指定モード》と呼ばれるその状態で、左手に持った食べかけの黒パンを触れる。

 すると、かすかな効果音とともに、パンの片面が白く染まった。たっぷり、というかゴッテリと盛られたそれは、どう見ても──

「……クリーム? こんなもの、どこで……?」

「いっこ前の村で受けられる、《ぎやくしゆううし》ってクエストの報酬。クリアに時間かかるから、やるやつはあんまいないんだけどな」

 真顔でそう答えると、片手剣使いは慣れた仕草で自分も《ツボをパンに使用》した。それで内容量が使い尽くされたのか、ツボは小さな音と光を放ちながら消散する。同じくクリームが山盛りに塗られた黒パンに、片手剣使いはものすごい大口を開けてかぶりついた。もぎゅもぎゅ、と効果音が聞こえてきそうなしやくっぷりに、アスナは自分の胃も、物凄く久しぶりに不快な痛みではなく健全な空腹感におそわれるのを感じた。

 左手に持ったままだったクリームのせ黒パンを、おそるおそるかじる。

 たん、いつもはぼそぼそとあらいだけのパンが、どっしりとした質感のある田舎いなか風ケーキに変身してしまったかのような味が口中に広がった。クリームは甘くなめらかで、しかもヨーグルトに似たさわやかな酸味がある。ほおの内側までがきゅうっとしびれるような充足感に打ちのめされ、アスナは二口、三口と夢中でパンを頰張った。

 ふと気付くと、両手の中にあった食料アイテムは、文字どおり欠片かけらひとつ残さずに消滅していた。はっととなりを見れば、片手剣使いより二秒ほど早く食べ終わってしまったらしい。再びしゆう感が強烈に立ち上がり、この場から逃げ出したくなるが、ごそうになっておいてそれはあまりにもれい知らずな行いだ。

 何度も呼吸をり返し、どうにか精神をしずめてから、アスナは消え入るような声で言った。

「…………ごそう様」

「どういたしまして」

 自身も食事を終えた片手剣士は、ゆびきの革手袋をめた両手をぱんぱんと払い、続けた。

「さっき言った牛クエスト、やるならコツを教えるよ。効率よくこなせば二時間で終わる」

「………………」

 正直、心が動かなくもなかった。あのヨーグルトクリームがあれば、一コルの黒パンも立派なご馳走だ。味覚再生エンジンが作るにせの満足感ではあるが、もう一度……いや、できれば一日一回食べたいと思わずにいられない。

 だが──。

 アスナはうつむくと、フードの下でそっとかぶりを振った。

「……いい。わたしは、しいものを食べるために、この町まで来たわけじゃないもの」

「ふうん。じゃあ、何のためなんだ?」

 片手剣士の声は、ことさら美声というわけではないものの、みみざわりな部分のいつさいない、どこか少年のようなひびきを持っていた。それゆえか、アスナはこの世界に来てだれにも話したことのない心のうちを、そうと意識もせずにぽろり、ぽろりとした。

「わたしが……わたしでいるため。最初の街の宿屋に閉じこもって、ゆっくり腐っていくくらいなら、最後のしゆんかんまで自分のままでいたい。たとえ怪物に負けて死んでも、このゲーム……この世界には負けたくない。どうしても」

 アスナ──ゆうの十五年の人生は、戦いの連続だった。幼稚園の入園試験を幕開けに、次から次へと大小無数の試練が課せられ、それらすべてに勝ち抜いてきた。一度でも敗れれば自分は無価値な人間になると思い定めたうえで、その重圧をけ続けてきたのだ。

 十五年の戦いの果てに訪れた、この《ソードアート・オンライン》という名の試練には、しかし恐らく勝てない。余りにも未知、余りにも異質なルールと文化もさることながら、個人の力ではどうにもならない種類の戦いなのだ。

 課せられた勝利条件は、百層に及ぶ浮遊城のてつぺん辿たどり着き、最後の敵を倒すこと。しかしゲーム開始から一ヶ月もつのに、すでにプレイヤーの五分の一が退場し、しかも彼らのほとんどが腕に覚えのある経験者たちだったのだ。残された戦力は余りに少なく、立ちはだかる道のりは余りに遠い……。

 そんなことを、アスナは心の蛇口がゆるんでしまったかのごとく、ぽつりぽつりとしやべった。切れ切れの、首尾一貫すらしていないであろう独白に、黒髪の片手剣士は無言で聞き入っていたが──やがてアスナの声が夕風にさらわれるように途切れると、小さく、ほんのひと言だけつぶやいた。

「…………すまない」

 数秒ってから、なぜそんな言葉が出たのかと、アスナはいぶかしんだ。

 この片手剣士と会ったのは今日が初めてだし、彼があやまるべき理由は存在しないはずだ。フードの下からちらりととなりを見ると、ベンチに浅く腰掛けた灰色コートの男は、両ひじひざに乗せてうなれていた。唇がかすかに動き、再び声が聞こえる。

「すまない……。──今のこの状況を生み出したのは……言い換えれば、君をそこまで追い込んだのは、ある意味ではおれの…………」

 しかし、その先を聞くことはできなかった。街の中央にそびえる、ひときわ巨大な風車塔が、風力で動くしようを高らかに打ち鳴らしたからだ。

 午後四時。《会議》の始まる時間。見れば、少し離れたふんすい広場には、いつの間にか多くのプレイヤーが集まってきている。

「……行きましょう。あなたが誘った会議なんだから」

 アスナがそう言って立つと、片手剣士もうなずき、ゆっくりと体を起こした。彼が何を言おうとしたのか──。どうせもう二度と話すこともない相手だからどうでもいい、という気持ちのかたすみに、小さく引っかかるとげのような感情が存在した。

 知りたい。知りたくない。そのどちらが上回っているのか、アスナは自分でもよくわからなかった。

刊行シリーズ

ソードアート・オンライン プログレッシブ9の書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ グルメ・シーカーズ2の書影
ソードアート・オンライン28 ユナイタル・リングVIIの書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ ミステリ・ラビリンス 迷宮館の殺人の書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ グルメ・シーカーズの書影
ソードアート・オンライン IF 公式小説アンソロジーの書影
ソードアート・オンライン27 ユナイタル・リングVIの書影
ソードアート・オンライン26 ユナイタル・リングVの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ8の書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ7の書影
ソードアート・オンライン25 ユナイタル・リングIVの書影
ソードアート・オンライン24 ユナイタル・リングIIIの書影
ソードアート・オンライン23 ユナイタル・リングIIの書影
ソードアート・オンライン22 キス・アンド・フライの書影
ソードアート・オンライン21 ユナイタル・リングIの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ6の書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ5の書影
ソードアート・オンライン20 ムーン・クレイドルの書影
ソードアート・オンライン19 ムーン・クレイドルの書影
ソードアート・オンライン18 アリシゼーション・ラスティングの書影
ソードアート・オンライン17 アリシゼーション・アウェイクニングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ4の書影
ソードアート・オンライン16 アリシゼーション・エクスプローディングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ3の書影
ソードアート・オンライン15 アリシゼーション・インベーディングの書影
ソードアート・オンライン14 アリシゼーション・ユナイティングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ2の書影
ソードアート・オンライン13 アリシゼーション・ディバイディングの書影
ソードアート・オンライン12 アリシゼーション・ライジングの書影
ソードアート・オンライン11 アリシゼーション・ターニングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ1の書影
ソードアート・オンライン10 アリシゼーション・ランニングの書影
ソードアート・オンライン9 アリシゼーション・ビギニングの書影
ソードアート・オンライン8 アーリー・アンド・レイトの書影
ソードアート・オンライン7 マザーズ・ロザリオの書影
ソードアート・オンライン6ファントム・バレットの書影
ソードアート・オンライン5ファントム・バレットの書影
ソードアート・オンライン4フェアリィ・ダンスの書影
ソードアート・オンライン3フェアリィ・ダンスの書影
ソードアート・オンライン2アインクラッドの書影
ソードアート・オンライン1アインクラッドの書影