星なき夜のアリア アインクラッド第一層 2022年11月

 先刻みずから口にもしたが、この世界にけるあらゆる行為のなかで、唯一本物と呼べるのは《睡眠》だけだとアスナは考えている。

 あとは何もかも仮想のにせものだ。歩く、走る、話す、食べる、そして戦う。それらの動作とその結果は、ソードアート・オンラインを動かすサーバーが演算したデジタルコードに過ぎない。アバターが何をしようと、現実世界のどこかに横たわっているであろう生身の体は指一本動かないのだから。唯一の例外が、アバターがベッドで眠りにつく時、本物の脳も眠るのであろうということ。だから、町の宿屋で寝る時だけはせめてきちんとじゆくすいしてやりたい──のだが、それがなかなかむずかしい。

 フィールドやダンジョンで戦っている時は無我夢中だから振り返る余裕もないのだが、町に戻り、個室のベッドに横たわると、どうしても一ヶ月前の自分の行動をリプレイしてしまうのだ。なぜあの日、妙な気まぐれを起こしたのか。なぜナーヴギアに触るだけで満足しておかなかったのか。なぜいかついヘッドギアを頭にせ、《リンク・スタート》のひと言をつぶやいてしまったのか──と。

 そんなかいこんとともに浅い眠りに落ちると、決まって悪い夢を見る。中学三年の冬という大事な時期に、たかがゲームのせいで大きくつまずいたアスナをあざわらう同級生たち。この先何年も続くレースから脱落してしまったアスナをあわれむしんせきたち。そして──どこかの病院のベッドでこんすいするアスナをじっと見下ろす、表情の見えない両親──……。

 びくりと体を震わせながら飛び起き、視界左下の時刻表示を見ると、長くても寝入ってから三時間とっていない。その後はもう、いくらまぶたを閉じてもえる一方。逆に言えば、毎晩ちゃんと眠れるようなら、三日とか四日連続のはげしいダンジョン攻略におのれを駆り立ててなどいなかったかもしれない。

 ゆえにアスナは、まっていくコルを、せめて上等な寝室とベッドに費やしたいと常々考えていた。この世界の宿屋ときたら、部屋は狭くてうすぐらいしベッドは何をしんざいに使っているのかゴソゴソと硬い。あれがイタリア製の高反発性ハイテクウレタンフォーム……とまではいかずとも普通のラテックスなら、三時間の睡眠が四時間になるかもしれないのに。ついでに言えば、部屋に浴室か、せめてシャワーくらい付いていてほしい。それは、入浴だって仮想体験であり、現実世界の身体からだは病院でそれなりに洗浄してもらっているのだろうが、こればかりは気分の問題だ。ダンジョンの奥底で一人死ぬ覚悟はもうできているが、その前にもう一度、偽物でもいいから熱いお湯の中で思うさま手足を伸ばしたい…………

 ────という切なる願いをちよくげきしたのが、黒髪使台詞せりふであったのだ。


「………………なんですって?」

 無意識のうちに相手のえりくびめ上げながら、アスナはかすれ声で問いただした。大脳聴覚野のさつかくでなければ、剣士はさっき確かに……

「み、ミルク飲み放題……?」

「そのあと」

「べ、ベッドがでかくていい眺め……?」

「そのあと」

「ふ、つき……?」

 ──どうやら、聞き間違いではなかった。相手のハーフコートを解放してから、き込むように続ける。

「あなたの部屋、一泊八十コルって言ったわよね?」

「い……言った」

「その宿、あと何部屋空いてるの? 場所はどこ? 私も借りるから案内して」

 そこでようやく、使は状況をみ込んだようだった。ウホンとひとつせきばらいしてから、妙にしかつめらしい顔になり、言う。

「あー、おれさっき、農家の二階を借りてるって言ったよな」

「……言ったわ」

「それって、丸ごと借りてるって意味なんだ。ゆえに空き部屋はゼロ。ちなみに一階には貸し部屋はなかった」

「なっ………………」

 いつしゆんひざからくずれそうになってから、危うくん張る。

「…………そ、そのお部屋…………」

 そこまで言っただけで、相手は省略部分を察したようだった。黒いひとみを泳がせながら、申し訳なさそうにつぶやく。

「いやまあ、俺はもう一週間近く泊まってたんのうしたし、代わってあげるにやぶさかじゃないんだけど……実は、借り部屋システムの最大日数……十日分宿賃を前払いしててさ。あれって、キャンセル不可なんだよな」

「なっ………………」

 再び体がよろけるが今度もどうにか持ちこたえ、アスナは巨大なかつとうわれた。

 宿屋以外にも借りられる部屋が存在し、そういう所には豪華版もある、と眼前の剣士は言った。なら、探せばこのトールバーナにもまだお風呂つき物件があるかもしれない。だがこの町には、フロア攻略を目指すプレイヤーが数十人単位で詰めかけているのだ。当然いい部屋から先に埋まっていくはずだし、そういう状況だからこそ黒髪の剣士も可能な限りの日数いまの部屋を押さえたのだろう。

 ならば、ひとつ前の村まで戻るか? しかしこのあたりのフィールドは、日が沈むとあなどれない強さの怪物がばつするし、明日は朝十時にふんすい広場集合だ。もともとあまり乗り気でなかった集団でのボス攻略ではあるが、役目を振られてしまった以上──たとえミソッカス扱いでも──遅刻や無断欠席は性分ではない。

 となると。残る選択肢はたったひとつ。

 アスナは数秒間、全身ぜんれいかつとうした。現実世界なら天地がひっくり返っても有り得ない行動だ。だが、ここは万物がデジタルデータで構成される仮想世界であり、そこには自分自身のアバターも含まれる。それに相手は、はや行きずりの他人とは言えない。並んでクリームパンをかじり、ボス攻略では同じ単位に押し込められ、そうだ、だいたいこの男はさっき、どこかでなにかを説明すると言っていたはずだ。その説明とやらを受けるついでということならば、大義名分もどうにか立つ……であろう。きっと。恐らく。

 相変わらず視線を彷徨さまよわせている剣士に向けて、アスナはぐいっと頭を下げ──どうにか相手に届くかどうかくらいのボリュームで言った。

「…………あなたのとこで、お、貸して」


 黒髪の剣士が借りているという農家は、トールバーナの町の東に広がる小さな牧草地沿いに存在した。予想していたよりずっと大きい。きゆうしやおもを合わせれば、現実世界のアスナの家と同じくらいはあるかもしれない。

 しきわきをきれいな小川が流れ、設置された小さな水車がごとんごとんとのどかな音を立てている。二階建ての母屋は、一階にNPCの農夫一家が暮らしていて、玄関をまたいだアスナに陽気そうなおかみさんが満面の笑顔を向けてきた。暖炉近くの揺りでこっくりこっくり船をこぐおばあさんの頭上に金色の【!】マーク──クエスト開始点の表示──が浮いているのが気になったが、今はスルーする。

 剣士を追ってどっしりした階段を上ると、短い廊下の突き当たりにドアがひとつだけあった。剣士がノブに触れると、自動でがちゃりとかいじようおんひびく。触ったのがアスナなら、このドアは決して開かない。プレイヤーの借りた部屋に対しては、鍵開けピツキングスキルも完全無効だ。

「……ま、まあ、どうぞ」

 ドアを押し開けた剣士は、ぎこちないジェスチャーで入るよううながした。

「……ありがと」

 小声で礼を言い、部屋に入った──そのたん、アスナは思わず叫んでいた。

「な、何これ、広っ…………こ、これで私の部屋とたった三十コル差!? や、安すぎるでしょ…………」

「こういう部屋を速攻見つけるのが、けっこう重要なシステム外スキルってわけさ。……まあ、おれの場合は……」

 そこで剣士が不自然に言葉を切ったのでを向けたが、相手は小さく首を振っただけだった。アスナはもう一度室内を見回し、盛大なため息をついた。

 二人が今いる部屋が、最低でも二十畳はあろう。東のかべに見えるドアが寝室なら、そちらも似たようなサイズがあるはずだ。そして西の壁に、【Bathroom】のプレートが下がったドア。風変わりな書体のアルファベットが、アスナにはじゆつ的誘引力を放っているように思える。調度もぼくながら雰囲気抜群で、剣士は素早く背中の片手剣と手足の防具を武装解除すると、柔らかそうなソファにどかっと体を沈めた。

 うーんと長く伸びをしてから、思い出したようにアスナを見て、せきばらいしながら言う。

「えー、その、見ればわかると思うけど、そこだから……ご、ご自由にどうぞ」

「あ……う、うん」

 だれかの部屋を訪問して、いきなり浴室に突進というのもどうなのかと思わなくもないが、ここでえんりよするのも今更すぎる。「じゃあ」とつぶやき、ドアに向かおうとしたアスナを、剣士の声が追いかけてきた。

「そうだ、念のため言っとくけど、風呂って言っても現実世界まんまじゃないぞ。液体かんきようはナーヴギアも苦手らしくてさ……あんま、過剰な期待するなよ」

「……お湯がたくさんあれば、それ以上なにも望まないわ」

 本心からそう応じ、アスナはバスルームのドアを開けた。奥にすべり込み、即座にノブをしっかりと引く。

 ……お湯のほかにもうひとつ、バスルームにかぎを掛けられることも。

 閉めたばかりのドアを見詰め、内心でそう付け足したが、それは残念ながらかなえられそうもない。ノブの付近にはノッチやボタンのたぐいは見当たらず、念のため指先でタップしても、この部屋本来の借り主ではないアスナではそうメニューを呼び出せないようだ。

 とは言え、もはやこの状況で鍵の有無などに過ぎる。何せ、昨日出会ったばかりの男性の部屋に押しかけ、お風呂を借りようというのだから。黒髪の片手剣士は──考えてみればまだ名前も知らない──年齢も性格もどうにもとらえようがないが、少なくともいきなりバスルームに突入してくるような人間ではなかろう、恐らく。まあ、万が一突入してきたところで、《犯罪防止コード》とやらが働いている《街区圏内》では、何をできようはずもないのだが……。

 と、そこまで考えたところでようやくドアから視線を引きがし、アスナは南側へと向き直った。

「…………すごい…………」

 そして思わず小さな声を発した。

 この部屋も相当に広い。北半分は脱衣所で、床には分厚いカーペットがかれ、壁に材の棚が作り付けてある。そして南半分の床は石をみがいたタイルきで、面積の大部分を、船のような形の白いバスタブが占領していた。

 西側のレンガかべの高いところに、怪物の顔を模した吐湯口がもうけられ、そこからかなりの勢いで透明な液体がほとばしり落ちている。それは真っ白い湯気を上げながらバスタブをなみなみと満たし、ふちからあふれて、タイル床のすみにある排水口へと流れ込んでいく。

 ──常識的に考えれば、この建物のモデルとなっているのであろう中世ヨーロッパの荘園屋敷に、こんな大掛かりな給湯設備が存在するはずがない。しかしアスナの胸中に、仮想世界の考証的不備を責める気持ちはみじんもなかった。ふらりとした動きでメインメニュー・ウインドウを開き、画面右半分に表示されている《装備フィギュア》の武器防具全解除ボタンを押す。

 今までずっとかぶっていたフードつきケープと、胸をおおう銅のよろい、両手の長手袋と両脚のブーツ、そして腰にるした細長い剣が一気に消滅し、長い栗色のストレートヘアがばさりと背中に流れた。残ったのは七分そでのウールカットソーと、タイトな革製ロングパンツだけ。さっきのボタンが《衣服全解除》に変わっているので、それをもう一度押す。すると上着とパンツが消滅し、簡素な綿の下着二枚がわずかに残存する。

 アスナはもう一度ちらりとドアを見てから、更に変化した《下着全解除》ボタンを押した。たった三度のそうでアバターは完全な無装備状態となり、仮想の冷感がひやりと素肌をでる。アインクラッドという奇妙な名前のこの城は、四季をいちおうながら現実と同期させており、十二月初旬の今は室内温度もかなり低い。

 そそくさと部屋を横切り、陶製らしいバスタブの縁をまたいで、左足をお湯に沈めたたん、発生した複合的な感覚信号が頭のてつぺんちよくげきした。そのまま全身ザブンと行きたいというしようどうこらえ、まずは吐湯口から流れ出ている水流を頭で受ける。温感が全身の表面を覆い、大気との温度差がかんされたところで──

 どばしゃーん。

 と背中からお湯に落下した。

「…………うああ…………」

 再び、堪えようもなく声がれた。

 確かに、黒髪の剣士が言ったとおり、現実世界のおそのものを再現できてはいない。素肌とお湯がむ感じ、体に掛かる水圧、顔の下で揺れる水面の反射光、それらすべてが微妙に違和感を残す。

 だが、食事と同じである程度はプリセットされた《入浴している感覚》が送り込まれているらしく、を閉じて手足を伸ばすとまつな違いなどもう気にならなかった。これはお風呂だ。しかもお湯をぜいたくに掛け流した、バスタブの長さ約二メートルの豪華版だ。

 眼をつぶったままくちもとまでをお湯に沈め、全身をこの上なくかんさせながら、アスナは考えた。

 ────これでもう、いつ死んでもいい。思い残すことは何もない。

 二週間前にはじまりの街を出てから、ずっと思い続けていたことだ。このデスゲームがクリア不可能なしろものである以上、とらわれた一万人はいずれ全員が死ぬ。それが早いか遅いかは、万物がニセモノの仮想世界ではいかなる意味も持たない。ならばいっそ、ただがむしゃらに前へ前へと進んで、動けなくなったら倒れて死ねばいい。

 昨日、今日と開催された《攻略会議》の様子を眺めながら、アスナは内心でどこか冷めていた。だれが元ベータテスター(その言葉の意味も正確にはわからなかったが)だとか、アイテムの分配だとか、どうでもいいではないか。明日の日曜に挑もうとしているのは、今まで二千人の命をみ込んだアインクラッド第一層最大最後の関門なのだ。そんなもの、たかが四十数人で、しかも初回の挑戦でクリアできるはずがない。かなりの確率で全滅、そこまでいかなくても敗北・かいそうは必至だ。

 アスナがごろの行動はんから大きくいつだつしてまでおに入りたいと思ったのは、つまり、《死ぬ前に一度くらい》ということなのだ。それがこうしてかなった今、明日の対ボス戦でこの世界から消えることに、もう何の未練も…………

 ────あの、クリームのせ黒パン。

 ────死ぬ前に、あれももう一度、食べたいな…………。

 不意に胸中にき上がってきたそんな欲求に、アスナはまどった。を開け、お湯の中で少し体を起こす。

 確かに味は悪くなかった。でも、あれはかんなきまでにニセモノだ。ポリゴンの見たと、プリセットされた味覚信号。それを言うなら、このおだってそうだ。お湯に見えるものは、透過率と反射率をそれらしく設定された数学的な境界面に過ぎない。全身を包む温かさも、その実体はナーヴギアから発せられる電子信号のれつなのだ。

 でも…………、でも。

 一ヶ月前まで暮らしていた現実世界で、これほど何かを食べたいと思ったことが、果たしてあっただろうか? これほどまで強くお風呂に入りたいと思ったことがあっただろうか?

 食べたくもないのに、親に言われるがまま機械的に口に運んでいたオーガニック食材のコースメニューと、口につばくほど体が求める仮想のクリームパン。そのどちらを、《本物》と呼ぶべきなのか…………?

 アスナは、自分が今、何かとても、とても大事なことを考えているという感覚に打たれ、そっと息を詰めた。

刊行シリーズ

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