実務的な議論は一切行われない会議だったが、それでもプレイヤーたちの士気を上げる効果だけはあったらしく、第一層迷宮区二十階はかつてないスピードでマッピングされた。会議の翌日、十二月三日土曜日の午後にはついに最初のパーティー(今回もディアベル以下の六人だった)がフロア最奥の巨大な二枚扉を発見し、彼らの歓声はすぐ近くでソロ戦闘をしていた俺の耳にも届いた。
ディアベルらは、大胆なことにその場でボス部屋の扉を開け、住人の顔を拝んできたということだった。その日の夕方に再び、トールバーナの噴水広場で開かれた会議で、青髪の騎士は誇らしげに報告した。
ボスは、身の丈二メートルに達する巨大なコボルド。名前は《イルファング・ザ・コボルドロード》、武器は曲刀カテゴリ。取り巻きに、金属鎧を着込み斧槍をたずさえた《ルインコボルド・センチネル》が三匹──。
そこまでの情報は、ひとまずベータの時とまったく同じだ。俺の記憶が確かなら《センチネル》はボスの四段HPゲージが一本減るたびに再ポップし合計十二匹を倒さねばならないが、それを会議の席上で言う度胸は相変わらずなかった。どうせいきなり本番とはならず、何度か偵察戦を行うはずなのですぐに明らかになる情報なのだ──などと俺は自分に言い訳したが、その葛藤を丸ごと無駄にするモノが、会議のさなかに発見された。
なんと、同じ広場の隅で店を広げていたNPC露天商に、《例のアレ》がいつの間にか委託販売されていたのだ。羊皮紙三枚を綴じた、本というよりパンフレット。アルゴの攻略本・第一層ボス編──である。値段は最初から0コル。
もちろん会議は一時中断され、参加者全員がNPCから攻略本を買って(というか貰って)中身を熟読した。
いつものことながら、見事な情報量だった。判明したばかりのボスの名前から推定HP量、主武装のタルワールの間合いと剣速、ダメージ量、使用ソードスキルまでが三ページにわたってびっちり書き込んである。四ページ目が取り巻きの《センチネル》の解説で、そこにはしっかりと湧きが四回、計十二匹であることも書いてあった。
そして、本を閉じた裏表紙には、これまでの《アルゴの攻略本》には存在しなかった一文が、真っ赤なフォントで並んでいた。曰く──
【情報はSAOベータテスト時のものです。現行版では変更されている可能性があります】
それを見た時、俺は反射的に顔を上げ、広場にアルゴの姿を探した。しかし地味なレザーアーマーを着込んだ《鼠》は、今日は見当たらない。再び顔を下ろし、小声で呟く。
「……攻め込んだな……」
この赤い注意書きの一文は、これまでのアルゴのスタンス──《誰とも知れない元ベータテスターから情報を買っているだけの情報屋》という立ち位置を崩しかねないものだ。これを読んだほぼ全員が、鼠自身が元テスターなのではという疑いを抱きかねない。もちろん何の証拠もないのだが、今後、新規プレイヤーと元テスターの確執がこれまで以上に広がった時、彼女が真っ先に吊るし上げの対象にされる危険性が上昇したのは間違いない。
だが一方で、この攻略本が、面倒かつ危険な偵察戦を省かせてくれるのも確かなことだ。読み終えた四十数人は、どう反応すべきかをリーダーに預けるかのように、昨日と同じく噴水の縁に立った青髪の騎士を見やった。
ディアベルは、尚も数十秒、何かを考えるように顔を伏せていたが、やがてさっと姿勢を正すと張りのある声で叫んだ。
「──みんな、今は、この情報に感謝しよう!」
聴衆がさわさわと揺れる。その発言は、元ベータテスターとの対立ではなく融和を選ぶとも取れるからだ。またキバオウあたりが飛び出して嚙み付くか、と思ったが、人垣の前方に見え隠れする褐色のサボテン頭は今のところ踏みとどまっている。
「出所はともかく、このガイドのお陰で、二、三日はかかるはずだった偵察戦を省略できるんだ。正直、すっげー有り難いってオレは思ってる。だって、いちばん死人が出る可能性があるのが偵察戦だったからさ」
広場のそこかしこで、色とりどりの頭がうんうんと頷く。
「……こいつが正しければ、ボスの数値的なステータスは、そこまでヤバイ感じじゃない。もしSAOが普通のMMOなら、みんなの平均レベルが三……いや五低くても充分倒せたと思う。だから、きっちり戦術を練って、回復薬いっぱい持って挑めば、死人なしで倒すのも不可能じゃない。や、悪い、違うな。絶対に死人ゼロにする。それは、オレが騎士の誇りに賭けて約束する!」
よっ、ナイト様! というような掛け声が飛び、盛大な拍手が続いた。ディアベルがなかなかのリーダーシップの持ち主であることは、ひねくれソロの俺も認めざるを得ない。ギルドは三層まで行かないと作れないが、その暁にはさだめしでかい攻略ギルドを立ち上げることだろう……。
などと感心していた俺は、続いた騎士様の発言に、軽く喉を詰まらせた。
「──それじゃ、早速だけど、これから実際の攻略作戦会議を始めたいと思う! 何はともあれ、レイドの形を作らないと役割分担もできないからね。みんな、まずは仲間や近くにいる人と、パーティーを組んでみてくれ!」
………………なんだと。
小学校の体育の時間を思い出しそうになるそのフレーズに、慌てて脳裏で計算する。SAOではワンパーティー六人、この場にいるのが確か四十四人だから……七パーティー作って二人余り。もっと均衡を目指すなら六人パーティーを四個、五人パーティーを四個がベストか? でもそういうのって、リーダーが指定してくれないとなかなか…………
立ち尽くしたまま巡らせた俺の高速思考は、結局のところ無駄だった。なんと、ディアベルの指示からわずか一分足らずで、七個の六人パーティーがアッサリ完成してしまったのだ。騎士様は最初から六人組だったから解るとして、どう見ても一匹狼くさかったキバオウや、孤高の巨人という感じだったエギルまでが瞬時に五人の仲間を見つけている。これはもしかしたら、「一緒にやろうぜ」と言われなかったのはマジで俺一人────
では、なかった。
周囲を伏し目がちに見回した俺は、少し離れたところにひっそりと立つフーデッドケープのレイピア使いを発見し、すすすとそちらに接近した。
「…………あんたもアブレたのか」
小声で訊くと、フードの奥から烈火の如き視線が放たれ、同時に押し殺した声が答えた。
「…………アブレてないわよ。周りがみんなお仲間同士みたいだったから遠慮しただけ」
それをアブレたってゆうんだよー。
と突っ込むのを賢明にも自重し、俺はせいぜい真顔で頷くと言った。
「なら、俺と組まないか。レイドは八パーティーまでだから、そうしないと入れなくなる」
システム方面から攻めたのはやはり正解だったらしく、レイピア使いは一瞬の逡巡を見せたあと、ふんと鼻を鳴らして言った。
「そっちから申請するなら受けてあげないでもないわ」
ここで「声は俺が掛けたんだから申請はあんたがしろ」などと張り合うようなお子様な真似は先月卒業したので、俺は頷き、視界に表示されている相手のカラー・カーソルに触れるとパーティー参加申請を出した。レイピア使いが素っ気ない仕草でOKを押すと、視界左側に、やや小さい二つ目のHPゲージが出現した。
その下に表示される短いアルファベットの羅列を、俺はじっと見詰めた。
【Asuna】。それが、神速の《リニアー》を操る、不思議なフェンサーの名前だった。
騎士ディアベルの指揮能力は、弁舌だけでなく実務面でもなかなかのものだった。
彼は、出来上がった七つの六人パーティーを検分し、最小限の人数を入れ替えただけでその七つを目的別の部隊へと編成したのだ。重装甲の壁部隊が二つ。高機動高火力の攻撃部隊が三つ。そして、長モノ装備の支援部隊が二つ。
壁隊二つはボスのコボルドロードのタゲを交互に受け持つ。火力隊は二つがボス攻撃専門、一つが取り巻き殲滅優先。支援隊は長柄武器に多く設定されている行動遅延スキルをメインに使い、ボスや取り巻きの攻撃を可能な限り阻害する。
シンプルだが、それゆえに破綻へ至る穴も少ない、いい作戦だと俺も思った。感心していると、騎士様は最後にオミソの二人パーティー(無論、俺とレイピア使いのこと)の前にやってきて、しばし考え込む様子を見せてから、爽やかに言った。
「君たちは、取り巻きコボルドの潰し残しが出ないように、E隊のサポートをお願いしていいかな」
翻訳すると、ボス戦の邪魔にならないように後方で大人しくしてて、ということのような気がしなくもなかった。隣の、《アスナ》という名らしいレイピア使いが非友好的な反応をしかけたのを察した俺は片手で彼女を制し、にこやかに答えた。
「了解。重要な役目だな、任せておいてくれ」
「ああ、頼んだよ」
きらっ、と白い前歯を光らせ、ナイト様は噴水のほうに戻っていった。途端、左耳のすぐ近くで剣吞な響きを帯びた声が生じた。
「……どこが重要な役目よ。ボスに一回も攻撃できないまま終わっちゃうじゃない」
「し、仕方ないだろ、二人しかいないんだから。スイッチでPOTローテするにも時間が全然足りない」
「……スイッチ? ポット……?」
訝しそうな呟きに、改めて思う。このレイピア使いは、本当に何の知識もない完全な初心者としてはじまりの街を出て、たった一人でここまで辿り着いたのだ。恐らくは強化もしていない店売りのレイピア五本と、ソードスキル《リニアー》だけを頼りに──。
「……あとで、全部詳しく説明する。この場で立ち話じゃとても終わらないから」
必要ない、という反応が五割以上の確率で返ってくるだろうと予想したのだが、レイピア使いは数秒間沈黙したあと、ごくごく微細な動きで頷いた。
二回目のボス攻略会議は、AからGまでナンバリングされた各部隊リーダーの短い挨拶と、ボス戦でドロップしたお金やアイテムの分配方針を確認して終了した。斧使いの巨漢エギルは壁役であるB隊のリーダー、元ベータテスターに敵意を燃やすキバオウは攻撃役のE隊リーダーだ。E隊は取り巻きコボルド殲滅役でもあるので、俺とレイピア使いのあぶれ者コンビはキバオウの手伝いということになる。正直あまり近づきたくない相手ではあるが、向こうも俺が元テスターだと知っているわけではない──はずだ。付け加えれば、レイドの中にやはり《鼠》の顔はなかった。無論それを責めるつもりはまったくない。例の《攻略本》で彼女は彼女の任務を十全に果たしている。
ドロップ分配のほうは、コルに関してはレイドを構成する四十四人で自動均等割り、アイテムはゲットした人のものという単純なルールが採択された。近年のMMOでは、ドロップアイテムはそれを欲しい者のあいだでさいころ転がしして取り合うシステムが一般的だが、SAOはそのへんがなぜか前時代的で、アイテムは誰かのストレージにいきなりドロップし、しかもそれを他人が知ることはできない。つまり《ボスの出したアイテムは改めてダイスロール》というルールを設定した場合、実際にアイテムを得た者は自己申告でそれを提出せねばならないわけだ。俺もベータの時に何度か経験があるが、これはなかなか意志力を試される。というか実際、ボス戦のあとに誰も名乗り出ずに(つまり誰かがドロップをネコババしたわけだ)たいへんギスギスした解散になったことも少なくない。
恐らくディアベルは、そんな展開になることを防ぐために《ドロップした人のもの》ルールを採用したのだろう。本当に気のつくナイト様である。
午後五時半、昨日と同じく「頑張ろうぜ!」「オー!」のシメで解散となり、集団は三三五五ばらけて酒場やレストランへと吞み込まれていった。やけに凝った気がする肩をぐりぐり動かしながら、このカタコリは錯覚なのか、それとも現実世界の肉体が実際に緊張しているのかとどうでもいいことを考えていると──。
「…………で、説明って、どこでするの」
……なんだっけ、と一瞬悩んでしまってから、俺は慌ててレイピア使いに向き直った。
「あ、ああ……俺はどこでもいいけど。そのへんの酒場とかにするか?」
「…………嫌。誰かに見られたくない」
その言葉に一瞬ぐさっと来そうになったが、省略されているのは《俺と一緒にいるのを》ではなく《男プレイヤー全般と一緒にいるのを》であろうと勝手に補完することで精神を立て直し、俺はどうにか平静に頷いた。
「なら、どっかのNPCハウスの部屋とか……でも、誰か入ってくるかもしれないしなあ。どっちかの宿屋の個室ならカギかかるけど、それもナシだよな」
「当たり前だわ」
細剣の切っ先にも似たひと言に、今度こそ軽い刺突属性ダメージを受ける。ここが仮想世界であるがゆえにどうにかこうして女性プレイヤーと会話もできているが、一ヶ月前までは妹とのコミュニケーションにすら難儀する対人スキル激低な中学二年生だったのだ。そもそもからして、なんでソロプレイヤー道一直線の俺がこんな状況に陥っているのか。それは、ボス戦だけは集団に入れてもらわねば何の役にも立てないことは解ってはいたが、よくよく考えれば他の七パーティーは全員男だけの集団であって、そっちに入っていればこんな気遣いなどせずに済んだのに……
等といじけた思考を展開していると、レイピア使いがため息混じりに続けた。
「……だいたい、この世界の宿屋の個室なんて、部屋とも呼べないようなのばっかりじゃない。六畳もない一間にベッドとテーブルがあるだけで、それで一晩五十コルも取るなんて。食事とかはどうでもいいけど、睡眠だけは本物なんだから、もう少しいい部屋で寝たいわ」
「え……そ、そう?」
俺は思わず首を傾げた。
「探せばもっといい条件のとこもあるだろ? そりゃ、多少値が張るかもだけど……」
「探すって言っても、この町に宿屋なんて三軒しかないじゃない。どこも部屋は似たようなものだったわ」
その返事を聞き、ようやく得心。
「ああ……なるほど。あんた、【INN】の看板が出てる店しかチェックしてないのか」
「だって……INNって宿屋って意味でしょう」
「そうだけど、この世界の低層フロアじゃ、最安値でとりあえず寝泊まりできる店って意味なんだよ。コルを払って借りられる部屋は、宿屋以外にもけっこうあるんだ」
そう言った途端、レイピア使いの唇がぽかんと丸くなった。
「な…………そ、それを早く言いなさいよ…………」
ようやく反撃の糸口を見つけた気がして、俺はにやりと笑うと、さっそく現在確保している部屋の自慢を開始。
「俺がこの町で借りてるのは、農家の二階で一晩八十コルだけど、二部屋あってミルク飲み放題のおまけつき、ベッドもデカイし眺めもいいし、そのうえ風呂までついて……」
調子に乗ってそこまで口にした、その瞬間だった。
ダンジョンの奥底で見た《リニアー》もかくやという神速で伸びてきたレイピア使いの右手が、俺の灰色コートの襟元を、犯罪防止コード発動寸前の勢いでがっしと摑んだ。次いで、低く掠れた声が、迫力たっぷりに響いた。
「………………なんですって?」