わたし、二番目の彼女でいいから。2

第8話 左手の行方①

 秋晴れの土曜日、午後のことだ。

 人通りの多いメインストリートを、四人で歩いている。

 柳先輩の左右には、橘さんと早坂さんがいる。まさに両手に花だ。

 俺はそんな三人を、少し後ろからみている。

 橘さんはネイビーのパーカーにキャップをかぶって、すごくラフな格好だ。スポーティで少年みたいだけど、わかりやすい美人で足も長いから、モデルの女の人がオフの日に地味な格好で街を歩いているようにもみえる。

 一方、早坂さんはふわっとしたベージュのセーターにチェックのスカート、肩からかけたカバンも小さくて、いかにもかわいらしい女の子という格好だ。つまりはガーリーな雰囲気なんだけど、表情や仕草はどこか脆くて壊れやすそうで、妙に色っぽい。

 夏からずっとそんな感じで、そのどことなく危うい空気が人を惹きつけるのか、すれちがう男たちは必ずといっていいほど早坂さんをみる。ニットのセーターがボディラインを強調しているというのもあるだろうし、早坂さんがかすかに漂わせる不健全な空気が、そういった欲望をあの体にぶつけたいと思わせるのかもしれない。


「それでね、どうしても、つづきが読みたかったの」


 そんな早坂さんはさっきからずっと、明るい表情で、柳先輩に話しかけている。


「だから自転車で本屋さんに走っていって、全巻買っちゃったんだ」

「あのマンガ、面白いよな。俺も持ってるよ」

「え、先輩も?」


 同じマンガを好きと知り、早坂さんはわかりやすくはしゃぐ。


「私ね、先が気になるから、ひと晩で読んじゃったんだ」

「ひと晩はすごいな」

「でも、ダメだよね……テスト期間中だったもん……」


 早坂さんが反省するようにうなだれるから、柳先輩がすかさずフォローする。


「とはいっても、良い点とったんだろ?」

「良い点かどうかはわからないけど、いちおう全教科、平均点以上だったよ

「早坂ちゃんは頭がいいんだな」

「そ、そんなことないよ。ふ、普通だよ」


 柳先輩に褒められ、早坂さんは照れたように顔をそむける。頰が赤い。


「私、普段から予備校通ってるし……」

「勉強って大事だよな。マンガも面白いけど、それで成績落とすのはちがうよな」


 そこで先輩は「しまった」とでもいうように頭をかく。そしておそるおそる、反対側にいる橘さんを横目でみる。

 なにを隠そう、橘さんはテスト準備期間中にマンガを読みふけり、赤点をとりまくった。

 ミス研が活動していれば、部室で一緒に勉強することもある。しかしテスト準備期間でミス研が休みになると、俺の目がないことをいいことに、橘さんは思う存分、勉強をサボりまくったのだった。ちゃっかりしている。


「いや、まあ、勉強なんてできなくてもいいんだけどさ!」


 先輩はわざとらしいくらい大きな声でいう。


「勉強だけがすべてじゃないし!」


 早坂さんとの会話をつづけているようにみえるけど、意識は完全に橘さんだ。


「テストで点とれなくても、それはそれでいいと思う!」


 先輩は橘さんのことが本気で好きだ。だから機嫌を損ねたくない。

 当の橘さんはしれっとした顔のままだ。多分、まったく気にしてない。そういうタイプの女の子なのだ。音楽や美術が得意で、他の教科には最初から興味がなくて、成績が落ちたとかそういう自覚すらもってない。

 このあいだも、ミス研の部室で堂々と赤点のテスト用紙をならべながらいっていた。


『勉強してたらさ、いつのまにか教科書がマンガになってたんだ。これってすごいミステリーじゃない?』


 全然ミステリーじゃない。

 そして橘さんがテスト期間中に読みふけっていたマンガは、今、話題にあがっているマンガだったりする。でも橘さんは、早坂さんと柳先輩の会話に入ろうとしない。

 俺たち四人の関係は複雑だ。

 俺と早坂さんは付き合っている。でも、その〝好き〟は互いに二番目の好きだ。

 早坂さんが一番好きなのは柳先輩で、俺が一番好きなのは橘さんだ。でも柳先輩と橘さんは家が決めた婚約者同士だったりする。


「昨日、代表の試合あったけど先輩も観た?」


 早坂さんが新たな話題をふる。サッカーのことだから先輩の得意分野だ。


「もちろん観たよ。面白かったよな」


 先輩と早坂さんはとても親しい雰囲気で会話をしている。すごくいい感じだ。でも先輩はある程度話したところで、橘さんに話をふる。


「ひかりちゃんは?」

「え?」

「昨日のサッカーの試合、観た?」

「寝てたから……」


 橘さん、相変わらずマイペースだ。でも先輩はなんとか話をつづけようとする。


「サッカー、あまり興味ない?」

「そういうわけじゃないけど」

「観たらけっこう面白いよ。今度一緒にスタジアムにいかないか?」


 先輩は早坂さんにとても優しく接する。でも、はたからみても、先輩が一番好きなのは婚約者の橘さんであることがはっきりとわかる。

 こうなると早坂さんは弱い。

 先輩のとなりから自然と後ろにさがり、俺のとなりにおさまってしまう。でも──。


「私、がんばるからね」


 前の二人にきこえないよう、小さな声で早坂さんはいう。


「絶対、先輩を振り向かせてみせるから」

「えらく前向きだな」

「だって、今日はまだ始まったばかりだもん。映画まで、まだ時間あるし」


 三日前、柳先輩にみんなで映画にいこうと誘われた。

 夏の合宿以来、俺たちはこうして四人で遊ぶことがたまにある。柳先輩にとっても、誰かと一緒にいたほうが橘さんに話しかけやすいのかもしれない。

 映画にいくことが決まったとき、早坂さんはいった。


『先輩が私のこと好きになってくれたら、橘さんとの婚約もなくなるでしょ? 桐島くんのために、がんばりたいんだ』


 でも──。


「あんまり無理するなよ」

「大丈夫だよ、もう気持ちの整理はついてるから」


 早坂さんはいう。


「私が一番好きなのは柳先輩って、ちゃんとわかってるから」

「ならいいんだけどさ」


 一番好きなのは柳先輩。その言葉に、かすかに胸が痛む。

 でもそれは最初からわかってたことだし、俺だって一番好きな女の子は橘さんで、橘さんのなかの一番になりたくて、それなのに早坂さんの一番にもなりたいなんて思ったとしたら、それはホントにろくでもない考えだ。

 だからこの胸の痛みはすぐに消えてなくなるべきだ。

 そう、自分にいいきかせる。


「えへへ」


 早坂さんが俺の顔をみながら嬉しそうに笑う。


「今、嫉妬してくれたよね」

「まあな」

「私、桐島くんのその表情みるの、すごく好きなんだ」

「早坂さんも屈折してるんだよなあ」

「安心して。私、ちゃんと桐島くんのこと好きだから」

「二番目に」

「そう、二番目に」


 そこで早坂さんは前の二人がみていないのをいいことに、俺の手を握ってくる。そして手を握った瞬間にスイッチが入ったみたいで、すぐに体をぴったりとくっつけてくる。ニットで浮き立った胸元が腕に押しあてられ、あたたかい吐息も感じる。

 早坂さんは、どこか不健全さを含んだ好きという感情を、全身で表現してくる。もしそれに、すれちがう男たちの視線に含まれていたような欲情でこたえたら、すごいことになりそうだな、と思う。そして、そうしてみたい衝動に駆られる。

 しかし、俺たちはあわてて体を離した。急に橘さんが振り返ったのだ。


「部長、どうかした?」


 怪訝な顔で、首をかしげる橘さん。


「どうもしてない」

「……そう。それならいいけど」


 橘さんはまた柳先輩との会話に戻っていく。


「早坂さん、自制したほうがいいぞ」

「う、うん。ごめん、なんか流されちゃって……」


 流されるような状況はどこにもなかったろと思うが、それはいわないことにする。


「ねえ桐島くん」


 早坂さんがまた小声で呼びかけてくる。


「私たちさ、夏の合宿で橘さんの前でキスしたよね」

「したな」

「あれ、なかったことになってるのかな?」

「少なくとも俺と橘さんであの話題にふれたことはないけど」

「私も普通に橘さんと仲良くしてて、一緒に服買いにいったりしてるんだ」

「ほのぼのしてていいな」

「でも、私と桐島くんがまだそういうことしてるって思われてるかもしれないよね。練習彼氏って言い訳しちゃったし」

「いいよ。なにをいったところで橘さんには先輩がいる」


 早坂さんと話しながらゆっくり歩いているうちに、橘さんと柳先輩はどんどん先に進んでいく。先輩の努力の甲斐あって、会話も成立しているみたいで、とても親しげな雰囲気だ。


「橘さんと柳先輩、ふたりは美男美女で、誰がみてもお似合いなんだよ」

「ふうん、そっかそっか」


 となりを歩く早坂さんは俺の顔をみあげながらいう。


「じゃあ、桐島くんと橘さんが両想いっていうのは私の勘ちがいなんだね」

「え?」


 俺は思わずきき返してしまう。

 しかし、早坂さんは「ううん」と首を横にふった。

 そして、どこか虚ろなようにもみえる目をしていう。


「がんばって先輩口説かないとなあ。じゃないと私、なんの価値もないもんなあ──」



 先輩がつれてきてくれたのは、最近できたばかりの映画館だった。大きな商業ビルで、他の階にはゲームセンターやレストラン街がある。


「上映まで時間あるから、コーヒーでも飲もうか」


 先輩がそういうので、カフェに入って談笑することになった。

 四角のテーブル、二対二で向かい合って座る。俺のとなりは早坂さんで、先輩のとなりは橘さんだ。席に着くとき、橘さんがとても自然に先輩のとなりに腰かけたものだから、先輩は少し嬉しそうだった。

 コーヒーを飲みながら会話をする。話を切り出すのが下手な早坂さんはずっと聞き役だ。

 このままだと、いつもと変わらない。

 だから俺はテーブルの下でスマホを操作して早坂さんにメッセージを送る。


『好意の返報性』


 それを確認した早坂さんは、テーブルの下で指を動かし、わかったというように、俺の太ももにマルを描いた。指の動きが、少し色っぽい。

 早坂さんは先輩を振り向かせたい。そして俺たちは無策で今日をむかえたわけじゃない。

 映画館にいくことが決まった日、誰もいない教室で俺たちは打ち合わせをした。


「心理学に『好意の返報性』というものがある」

「でた。桐島くんっぽいやつ」

「ミス研のノートに書いてあっただけだって」


 かつてミス研に在籍した卒業生が残した、通称『恋愛ノート』。

 IQ180あったと噂されるその卒業生は、在学時、恋愛ミステリーを書こうとしたところ、欲望が明後日の方向に暴走して、恋の奥義書を完成させた。それが恋愛ノートだ。

 耳元ミステリーのような謎のゲームが収録されていたり、女の子と仲良くなるための心理学に基づいた方法などが記載されていたりする。

 好意の返報性もそんな心理学的アプローチのなかの一つだ。


「人は誰かから好意を向けられると、同じように好意を返したくなる心理的傾向がある」

「つまり?」

「人は自分を好いてくれる人を好きになる」


 誰しもが経験あるはずだ。

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