わたし、二番目の彼女でいいから。2

第9話 門限破り③


「司郎くんの手、思ったより大きいね」

「橘さんの手はみためどおり繊細だな」

「ピアノやってるから、けっこう力あるよ」


 橘さんが力をこめる。指をしめつけられて、橘さんの骨の感触が伝わってくる。少し痛くて気持ちいい。そんな感じ。

 橘さんには門限があるからとりあえず電車に乗った。

 座れなくて、扉の前にならんで立っている。つないだ手はそのままだ。


『今、決めてよ』


 橘さんは何度もきいたりしない。でも、その答えを待っている。駅のホームにいたときも、伏せられた長いまつげが物憂げで、彼女がそのことを気にしていることが伝わってきた。

 俺は橘さんをみつめる。

 もしここで断ったり曖昧なままにしたら、今度こそ橘さんは他人になって、俺のそばから離れていってしまう。そんな気がした。


「司郎くん、どうかした?」

「いや、なんでもない」


 俺は先輩を裏切れないし、橘さんの家のためにも婚約が解消になるようなことはしたくない。

 それでも恋人になりたいなら、隠れて付き合うしかない。

 そんなこと、できるだろうか?

 早坂さんは、俺たちがそうしていると知ったとき、どんな顔をするだろうか?

 じゃあ、やっぱり橘さんとのことは全部なかったことにするのか?

 でも、俺はもうこの一番の女の子が静かに泣くところを二度とみたくない。

 考えているうちに、電車に次々と人が乗ってくる。

 いくつかの駅に停まったあとは、身動きがとれないほどの満員電車になっていた。


「どこかの線が止まってるみたいだな」

「私、司郎くん以外の男の人にさわられたら吐いちゃうんだけど」


 橘さんがそういうので、開閉しないほうの扉の前に立ってもらい、俺は橘さんが人に押しつぶされないよう壁になった。


「これ、あれだね。前にやった壁ドンみたい」

「そうだな」


 橘さんの整った顔が近い。いい香りもする。今日の橘さん、香水もつけている。

 俺はぎりぎりで橘さんにくっついてしまわないよう、踏ん張って立つ。でも──。


「司郎くん、こういうときは潰れちゃったほうが楽だよ」

「でも、なんていうか、橘さん華奢だし」

「私、ガラスじゃないよ」


 この状況に甘えた。俺が潰れてしまったほうが車両のなかにスペースができるから、他の乗客のためにもいい。でもそんなのは正しさを盾にした言い訳で、結局のところ、俺はただ橘さんにふれたいだけだ。


「私もさ」


橘さんがぽつりという。


「けっこうつらいんだよ」

「……だよな」

「うん」


 顔や口にでないだけ、と橘さんはいう。


「早坂さんと本当の友だちになりたかったな、って思う」

「なれるよ」

「瞬くんのこと好きになれたらよかったのに、って思う」

「先輩はいい人だ」

「司郎くんのこと好きにならなかったらよかった、って思う」

「……」

「でも現実の私は司郎くんのことが大好きで、だから瞬くんの気持ちにはこたえられなくて、早坂さんとも本当の友だちにはなれない」


 ──もう、その気持ちに知らないふりすることはできない。

 橘さんはそういって、俺の胸に頭をあずけてくる。

 俺は今、橘さんのこの細い髪にふれることができる。小さなひたいにふれることができる。頰にふれることができる。多分、それよりももっと先のことだって、この女の子に──。

 そのとき突然、電車がゆれる。

 後ろから圧力がかかって、橘さんを強く押しつけてしまう。俺の膝が、橘さんの足と足のあいだに入ってしまい、気まずい体勢になる。


「なんか、ごめん」

「謝らなくてもいいよ」


 私は司郎くんのこと好きだから、と橘さんはいう。


「司郎くんは私になにしてもいいし」


 でも橘さんは自分の太もものあいだに入った俺の足をみて、少し頰を赤くする。橘さんは大人っぽい雰囲気だけど、そういう方面についてはすごくキッズだ。


「顔、赤いぞ」


俺はいう。

 図星だったようで、橘さんはムッとした顔をする。


「ちょっと暑いだけ」


 そういってすぐにいつもの平静な顔をつくり、内ももで俺の足をはさんでくる。橘さんの足はほっそりしてるけど、やっぱり太ももはやわらかくて、俺は変な気持ちになりそうになる。

 だから、意識をそらすように、俺は車両のなかをみまわしていう。


「これ、俺たち降りられるのかな。マジで人いっぱいだ」

「……私はこのまま終点までいっていいけど」

「門限あるんだろ」

「私、もう十六だし、門限破ってお母さんに怒られるくらい、あってもいいよ」


 それに、と橘さんはいう。


「門限どおりに帰ったら、そのあと私がなにするか知ってる?」

「あんまりききたくない雰囲気だな」

「お母さんと一緒に出かけて、瞬くんと、そのご両親と一緒に食事する」


 降りる駅まで、あと六駅ほど。

 橘さんをいかせたくない。その気持ちを認めるのは簡単だ。でも、そうすることが正しいかといわれたら、多分そうじゃない。


『今、決めて』


 その言葉がよみがえる。

 俺たちがやろうとしていることはわるいことだ。早坂さんと柳先輩をだまして、現状を維持しながら、橘さんと恋人になろうとしている。許されることじゃない。

 でもすぐに気づく。これ、言い訳を探しているだけだ。

 世間的に許されることじゃないから、橘さんとは付き合わない?

 他に方法がないから、橘さんと付き合う?

 どちらを選ぶにしても、仕方がなかったってことにしようとしている。自分の決定を、自分以外のなにかにゆだねようとしている。そうじゃないだろ、と思う。

 俺は橘さんをみつめる。


「司郎くん?」


 ガラス玉のような瞳がみつめてくる。

 そうだ、橘さんはいつも言い訳しない。俺のことを責めることもない。

 なのに、俺はいつも橘さんが好いてくれることをいいことに、全部橘さんのせいにして、ずっと自分に都合のいいこの状況を楽しんできた。

 映画館でも、橘さんが手を握ってきたから仕方がないという顔をしていた。だから早坂さんを裏切ったわけじゃない、そんな言い訳を自分にしていた。

 でも橘さんの手を握り返したのは俺だ。

 俺の本心は簡単だ。橘さんが好きで、今も橘さんに先輩のところにいってほしくない。でも先輩も裏切りたくないし、早坂さんも傷つけたくない。

 今までなら、そのろくでもない本心を曖昧なままにしていれば、橘さんがそれとなくくみとって俺の都合のいいように動いてくれていた。橘さんに甘えていた。

 でも、橘さんにばかりそういうことをさせるべきじゃない。

 彼女は人知れず傷ついていたのだ。だから──俺は、俺の責任で選択するべきだ。

 俺は己の悪徳を自覚しながら、この不道徳な恋の片棒をかつぐべきだ。

 そう考えると、頭のなかのネジがとんだ。

 わかった、やってやる。自分でつくりだした、幻影じみた世間の道徳など知るか。

 そう思うとなんていうんだろう、アホになった。


「司郎くん!?」


 橘さんが驚いた声をだす。俺が突然、橘さんをさらに強く押しつけたからだ。

 勢いそのままに彼女の頭に顔をつける。さらさらの髪だ。


「いい香りがする」

「…………なんか恥ずかしいんだけど」


 橘さんの頰が赤い。そう、こういう初々しいところがみたかった。

 守りに弱く、攻め込まれたときにめちゃくちゃチョロくなるところが好きだ。ポーカーフェイスの崩れたところが好きだ。余裕ぶっても、中身はまだまだキッズなところが好きだ。

 橘さんはもうわるくならなくていい。俺がそうなるから──。全部、俺のせいだ。


「香水どこにつけた?」

「首すじ」


 俺は俺の意志で、俺の責任で、誰のせいにもせず、断固たる決意をもって不道徳な恋をする。

 橘さんの長い髪をかきあげる。白くて細い首すじに、躊躇なく顔を押しあてる。


「あ……」


 橘さんの吐息が漏れる。彼女の体が震えたのがわかった。


「司郎くん、もう駅つくよ……」


 電車がだんだんと減速していく。ここで降りないと橘さんは門限に間に合わない。先輩との食事にいけなくなる。

 俺は橘さんを押さえつけたまま動かない。やがて電車は停まり、扉が開く。でも、そのままでいる。橘さんは抵抗しない。


「司郎くん……そういうことで、いいんだよね」

「──ああ」


 数十秒の停車時間。

 俺たちは静止した世界のなか、互いの息づかいを感じる。

 やがて扉は閉まり、列車は動きだした。



 規則的な音を立てて、列車は進んでいく。

 橘さんは俺の上着のなかに腕を入れ、背中に手をまわしてきた。

 周囲からはわかりづらいように、抱きついている。

 いつも恋愛ノートのゲームを言い訳にしてきたことを考えると、これが初めて真正面からする、ふたりのスキンシップかもしれない。


「俺、ろくでもない男だよな」

「そう?」

「橘さん、なにされてもいいっていっただろ。だからさっき、思ったことそのまました。橘さん、困ってるのわかってたけど」

「意地悪だね」


 でもよかったよ、と橘さんはいう。


「司郎くんのそういうの、ぶつけられたいって思ってたんだ」

「いいのか?」

「その感情で砕け散りたい」


 俺は満員電車のどさくさにまぎれて、橘さんに覆いかぶさる。彼氏がいる、婚約者がいる、倫理観や社会正義、そういうので抑え込んでいた好きという本物の感情をこめて、力いっぱい抱きしめる。

 橘さんの腰が弓なりに反った。


「司郎くんっ……」

「ごめん、苦しい?」

「ううん」


 橘さんはいう。


「気持ちよすぎて……しにそう……」


 俺もバカだが、橘さんもバカになる。

 結局、俺たちは乗客が少なくなっても抱き合ったまま、終点までいってしまった。

 おそろしく田舎の駅で、折り返し運転の列車の発車は一時間後だった。真っ暗なホームで、スズムシが鳴いている。周囲に民家もない。でも恋に浮かれた俺たちにはなんの問題もない。

 人気のないホームの端にいって、橘さんの薄い口びるを割って、舌を入れる。

 橘さんはもうできあがっていて、脱力して、なすがままだ。

 俺が一方的に蹂躙する。橘さんは喘ぐように口を開けている。彼女の舌の感触をたしかめるように舐める。歯の裏も。夏とは逆だ。橘さんはキスしながら、全身を押しつけてくる。


「やっと司郎くんからキスしてくれた」


 橘さんは恍惚としている。


「こうやって強引にされるの、すごくいい。もっとしてよ」


 橘さんの望むとおりに、俺はまた思うままにキスをする。

 こんなきれいな女の子と、一番好きな女の子と、望まれてこういうことをするのは、ごく控えめに表現して最高だった。

 橘さんの華奢な体を思い切り抱きしめる。橘さんはまた腰から弓なりにしなり、喜びに震える。俺はそれが嬉しくて、また強く抱きしめる。橘さんはまた震えて、小さく痙攣する。

 俺たちはどんどん昇っていく。口を離せば糸を引く。またキスをする。


「司郎くん……息継ぎ……させて」


 橘さんが息も絶え絶えになっていう。俺も苦しくなって一度息を吸う。

 酸欠になりそうだ。でもすぐに──。


「もう一回してよ、もっと……もっと……」

「もちろん」


 何度目かわからないもう一回のキスを始める。唾液が口の端から垂れる。わざとらしく音を立てて、いっそうそれが俺たちを興奮させる。橘さんが腰を押しあててくる。

 唾液を交換する、何度も何度も、繰り返して──そのときだった。

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