わたし、二番目の彼女でいいから。6
第9話 平気だよ①
東山三十六峰も紅く色づきはじめた京都、金木犀の香りただよう小道をゆっくりと歩いていた。
下駄の音が澄みわたった秋の空に響く。
「調子はどうだい?」
福田くんがいって、俺は「とてもいい感じだ」とこたえる。
「動物園巡りも楽しかった」
俺と福田くんは男子比率がとても高く、ユニークな学生の多い大学に通っている。ユニークな学生が多いというのはつまり、俺が着流しに高下駄という格好で大学構内を歩いても、誰もそれを珍しいと思わない雰囲気ということだ。そして俺たちはそんな大学に通う学生たちがすし詰めにされた貧乏アパート、ヤマメ荘に下宿している。
先週、そのアパートの三回生の住人に、研究の手伝いをしてほしいと頼まれた。だから俺は彼と一緒に各地の動物園におもむき、猿やゴリラの観察をした。群れのなかのボスの行動とか、各個体の役割を記録したのだ。
「動物園を渡り歩きながら、いろいろな話をきいた。名古屋の動物園にいるゴリラはイケメンだとか、動物園のゴリラは近親になりすぎて交配が難しくなってきているとか。とても面白かったよ」
俺と福田くんがそんな話をしているのを、遠野がにこにこしながらきいている。
三人で駅に向かって歩いていた。
遠野も福田くんもやわらかい雰囲気だから、彼らと一緒にいるとなんだかほっこりする。
そして俺はいつものごとく着流しだが、ふたりはお出かけ用のオシャレな服装をしていた。
「動物園、私もいきたかったです」
遠野がいう。
「ついていってもよかったんじゃない?」
福田くんがいう。
「猿の観察は、人手が多いほどいいという話だし」
「そう思って、遠野も誘ったんだが」
俺はいう。
「でも、研究の手伝いだときくと、『難しそうなことはお任せします!』といって逃げてしまったんだ」
「はて? なんのことですか?」
遠野は相変わらずにこにこしながらいう。
「ふさふさの毛玉ちゃんたちはさぞかわいかったことでしょう」
どうやら都合のわるいことはきこえないらしい。
猿の観察はとても簡単だった。どの猿がどの猿にエサを分け与えてるとか、毛づくろいをしている回数を数えて記録する作業がほとんどだった。
遠野のほうが集中力もあるから絶対できたと思う。でも、たしかに彼女の場合、猿のかわいさにはしゃいでしまって、いっぱい見落としてしまった可能性はある。
「桐島くんはエーリッヒ的活動をがんばっている」
「そのとおり。他人の喜びを己の喜びとする。その大切さを俺も少しずつわかりはじめている」
ドイツの哲学者、かのエーリッヒ・フロムは『愛するということ』という著書のなかで、愛の本質について語った。
自分はこれだけ魅力的です、価値があるんです、だから愛してください。そのような態度は愛ではないとエーリッヒは断じた。それは物を売る行為に他ならない。
そして愛は与えることであると主張した。
この与えるというのは、見返りを求めて与えるのではない。あなたが困っているところを助けたので私を好きになってください、というのは愛ではない。もちろん、与えることが美徳だからとか義務感やかっこつけから与えるのも愛ではない。
与えることで他者が喜んでくれる。それ自体に喜びを感じる。
それが愛なのだと。
エーリッヒの主張する愛の本質は、愛されるという受動的なことではなく、愛するという能動的なことだった。
そして愛するというのは運命的な相手に対して思わずそうしてしまうというようなものではなく、日々の不断の努力によって手に入れるものであるとエーリッヒは著書のなかで語っていた。
「桐島くんはエーリッヒが好きだね」
「エーリッヒの考え方のいいところは」
俺はいう。
「己の努力で全ての人を愛することができ、誰しもが真実の愛にたどりつけるとしているところだ」
エーリッヒのいっていることはきっと正しいのだろう。
俺は与える人になろうと活動するうちに、誰かが喜んでいる顔をみるだけで、それだけで自分も幸せを感じるようになってきていた。
だからカレー作りにとりつかれたヤマメ荘の住人が珍しいスパイスを求めているときけば、西は嵯峨嵐山から東は山科まで探しまわって渡し、京都の街並みをだらだら撮影するだけの動画で金儲けをしたいという、これもまたヤマメ荘の住人がいれば、カメラ片手に一緒に洛中を歩きまわった。
「私は好きです」
遠野がいう。
「桐島チューリップ」
「エーリッヒな」
「しおりちゃんは小難しくてめんどくさいっていいますけど」
宮前は俺が理屈っぽい話をすると、「せからしか~」とほっぺをつねってくる。
遠野も流している感じで、ふたりきりのときにそういう話をすると、「そうですね~」といいながら猫のようにじゃれついてきて、俺が話し終わったあとで、「なにか話してました?」と、とぼけた顔でいう。
俺の話を真面目にきいてくれるのは福田くんだけだ。
「そういえば大学祭の実行委員が、人が足りないっていってたけど──」
「ああ。もちろん、手をあげた」
俺たちの大学では十一月に大学祭がおこなわれる。高校でいうところの文化祭だ。ただ、大学祭になるとかなり規模が大きい。人気のある漫才師や、バンドがくる大学も多い。
毎年、俺たちの大学では、実行委員主催で本学の生徒がパフォーマンスをするステージが最終日にある。今年は和太鼓なのだが、なかなか人が集まらず、実行委員が困っていたのだ。
「胡弓の演奏でリズム感はよくなってきているし、和太鼓もできると思う」
「忙しくなるね。遠野さんとの時間はいいの?」
福田くんがそういうと、「いいんです」と遠野がこたえる。
「たしかに会える時間が減るのは寂しいですけど私も部活がありますし」
それに、と遠野はつづける。
「私は誰かのためにがんばる桐島さんが好きなんです。だから全然平気なんです」
そういって、いつもの流れで俺と手をつなごうとして、福田くんの前であることに気づいて、顔を真っ赤にしながら急いで手をひっ込める。
「遠慮せずつないでよ」
福田くんはやさしく微笑みながらいう。
「遠野さんと桐島くんが仲良くしているのをみると僕も嬉しいんだ。心があったかくなる。そういう意味では、僕のなかにもエーリッヒ的な部分があるのかもしれない」
俺たちは落ち葉が舞い落ちるような、ゆっくりとしたスピードで歩いた。通りにあるお弁当屋さんの新メニューにはしゃいだり、陶器店の軒先にならんだお皿の柄をみてみたり。
やがて駅についた。
出口のところで、なんともなしに立つ。天気がよくて、駅前はのんびりした空気だった。
「桐島さん」
遠野が小声でいう。
「がんばりましょうね」
俺は、「ああ」とうなずく。
しばらくしたところで、秋っぽい色合いの、やわらかそうな服に身を包んだ女の子が駅の出口からでてくる。
京都という場所に彼女がいる光景はなんだか不思議な感じがした。とても馴染んでいるようにもみえるし、現実から少し浮いているようにもみえる。落ち着いた雰囲気のこの場所に、彼女は少しかわいらしすぎるのかもしれない。
でも、それらは俺の感じかたの問題で、彼女はたしかにいるのだ。
「久しぶりだね」
その女の子は俺たち三人に向かって手をあげる。
どこか困ったような笑顔。海辺で出会ったときとかわらない空気。
早坂さんだ。
福田くんは手をあげる早坂さんをみて、照れたように頰を赤らめながら、同じように手をあげ返した。福田くんは早坂さんにとてもきれいな気持ちで恋をしている。
俺は今日、そのアシストをする。
そういうことに、なっている。
◇
遠野は社会性の高いタイプの女の子だ。俺にくっつくのが好きだが、人前でいちゃいちゃするようなことはしない。甘えてくるときもふたりで部屋にいるときがほとんどだ。でも、今日はちがった。
まずは四人でお昼を食べようということになり、お店に向かって歩いているときのことだ。
「い、いきますよ」
遠野が、「えい!」と俺の腕に組みついてくる。
「桐島さんといると毎日幸せです!」
「ベイビー、俺もだよ。なにがあっても守るからな」
俺はそんなことをいいながら、遠野の頭をなでる。
ちらりと後ろをみれば、福田くんが、これ大丈夫なのかなあ、という感じでちょっと苦笑いしている。そのとなりを歩く早坂さんは、にこやかな顔をしているが、その感情はいまひとつつかめない。ほほえましくみているようでもあるし、作り笑いのようにもみえる。
遠野が緊張しながら早坂さんのリアクションを待つ。
「うん」
早坂さんは天使のような笑顔でいう。
「私も彼氏欲しくなってきた」
よしっ、と遠野が小さくガッツポーズする。なにをやっているのかという感じだが、これは福田くんの恋をアシストするための作戦だった。
夏、海辺の街で俺たちは早坂さんと出会った。そのとき、遠野は早坂さんと連絡先を交換した。そしてやりとりを重ねるうちに、早坂さんが京都に遊びにくることになった。
日取りが決まったところで、俺たちはヤマメ荘に住む院生、大道寺さんの部屋に集まって会議を開いた。そこには宮前もいた。
議題は当然、どうやって福田くんの恋をアシストするかだ。
一計を案じたのは、日々、宇宙の研究に余念のない大道寺さんだった。
『となりの芝生イチャイチャ宇宙作戦だ』
大道寺さんは、遊びにいくのは福田くんに加えて、俺と遠野だけでいいといった。
『当日、桐島と遠野は、早坂さんの前でイチャイチャしろ。幸せをみせつけるんだ。そうするとどうなるか? 人は誰しも、となりの芝生が青くみえる宇宙に生きている。つまり、早坂さんは彼氏持ちがうらやましくなる。私も彼氏が欲しい。そのとき、となりにいるのが心やさしい福田という寸法だ』
それが大道寺さんの策だった。
『完璧な作戦ですね……』
遠野はそれをきいて重々しくうなずいた。
『天才としか思えんばい……』
宮前は感嘆した。
『やっぱり学問を究めようという人はちがう……』
福田くんはより一層、尊敬の念を深めた。
『いや、厳しいんじゃないかなあ』
俺の意見は無視された。
こうして当日を迎え、早坂さんと合流し、となりの芝生作戦が決行されているのだった。
「人前でこういうことをするのは恥ずかしいですが……うまくいってますね!」
遠野が俺の腕を抱きながらいう。
「そうか?」
「この調子でいきましょう!」
「いけるのかな~」
早坂さんは天使の笑顔を浮かべながら、「私も彼氏欲しくなってきた」といった。あのリアクションは、明らかに俺たちにあわせてくれたものだ。
実際そのとおりで、お昼を食べる予定の中華料理店に入る直前、小声で早坂さんが話しかけてきた。
「私、遠野さんたちのノリ好きだよ」
「もしかしてバレてる?」
「そりゃそうだよ。私だって、もうそういうことわかるもん。福田くんの気持ちとか」