わたし、二番目の彼女でいいから。8
第24話 ちょっぴり大人 ④
華奢な体を抱きしめているだけで、胸の奥が切なくなる。そして、高校のとき、橘さんと抱きあったときのことを思いだし、今もまた、そういうことがしたいと思う。
そういうことを考えるのは低俗なのかもしれない。
恋というのはそういうのを排除して、きれいなものにするべきなのかもしれない。
でも、そういう衝動が根源的に必要なように思えた。
もっともらしい理由や、理屈、ストーリーなんかよりも。
そして早坂さんと橘さんは俺にとってのそれをまちがいなく持っていた。
俺たちは互いにそれを確認しあって体を離した。
「だったら、やっぱりちゃんとしなきゃいけないね」
早坂さんがいって、橘さんがうなずく。
「うん。司郎くんと早坂さんの教育実習が終わったら、つづき、しよう」
それから俺たちは駅にむかって歩きだした。
そのときにはもう、静かな夜の公園の雰囲気を振り切り、飲み会帰りの顔になっていた。ずっとナイーブなままでは、日常生活を送れない。
「も~最初から実習終わったら、っていってたのにさ。橘さん、きちゃうんだもん」
「早坂さんが、司郎くんと実習一緒になったって連絡してくるからでしょ」
ふたりはまたわちゃわちゃとはじめる。
「実習中は生徒優先だからね」
「うん。休戦」
こうして休戦協定は結ばれた。
「学校での主役は高校生、それは私もわかってる」
「そうだよ。私たちは大人しくサポートしなきゃいけないんだよ。黒子なんだから」
「わかった」
そこで、早坂さんが、「あ」と声をあげる。
「そういえばさ、桐島くんにクッキーつくってきた女子生徒がいるんだよ」
「え?」
「桐島くん、なんか鼻の下伸ばしてた」
「おい」
俺は断じて鼻の下を伸ばしてなんかいない。
でも早坂さんは、そういえば、と話をつづける。
「桐島くん、なんか、別のかわいい生徒にも声かけてた。放課後、呼びだしてた」
それをきいて、橘さんが、ジトッとした目で俺をみる。
「司郎くん……私たちより女子高生のほうがいいんだ……十代のほうが好きなんだ……」
「ほら、こういうことになる」
俺はいう。
「呼びだしたのは合唱部の副部長だから。門脇くんに頼まれたやつ」
明日の放課後、俺は合唱部の副部長の女の子と話し合いをすることになっていた。なんとか説得して、部に戻ってきてもらうためだ。それができれば、部員の男子と女子の仲を修復し、コンクールに出場できるかもしれない。
「教師としての真面目な仕事だから」
でも、ふたりは俺の話なんてきかず、俺が女子高生に夢中になっているといって、ぷんすかと怒りだす。
「メガネ割る?」
「司郎くん、もうメガネかけてないよ」
「コンタクトなんて色気づいてるよね。やっぱり女子高生がいるから……」
「明日、校舎裏に呼びだそう。それとも屋上がいいかな?」
盛りあがる早坂さんと橘さん。
遊んでるだけとはわかりつつも、俺は少し真剣なトーンでいう。
「俺、女子高生に夢中になったりしないよ」
もちろん、人並みに目を惹かれるところはある。でも――。
「早坂さんと橘さんほどの魅力を感じたりはしないんだ」
前を歩いていたふたりが足をとめる。そして照れたように自分のつま先をみて、そして、いった。
「えへへ、ありがと」
恥ずかしそうに笑う早坂さん。
「うん……ホントはわかってる」
乙女のように前髪をさわる橘さん。
「私たち、待ってるからね」
早坂さんがいう。
「ちゃんと教育実習終わらせて、まっすぐ私たちのところにきてね」
「ああ。もちろんだ」
そして、あのとき、投げだしてしまったことのつづきをする。
俺はついさっき確認したのだ。
早坂さんにふれ、橘さんにふれ、彼女たちによって俺の心が震わされることを。
普段はふざけて、互いにださないようにしている。それが誰かや、なにか、そして自分自身を傷つけてしまったこともあるから。
でもまちがいなく、俺たちのなかには胸の奥が痛くなるような、青く幼い衝動があった。
恋とか愛というものだ。
俺はもう、この感情から逃げたりしない。ゆれたりしない。
ただ、早坂さんのいうように、この感情と向きあうのは教育実習が終わってからだ。この感情は、なにかと並行して向きあうには、少し重すぎる。
だからまずは生徒優先。
彼らだって、俺たちが抱えていたような、十代の鋭い感情や事情をたくさん抱えている。
俺はそれに真剣に向きあいたかった。
早坂さんと橘さんは冗談で、俺が女子高生に夢中になっているといった。でも、それは本当にあり得ないことだった。
俺は教育者として目覚めつつある。
熱血教師、桐島。
そんな気持ちだから、女子高生とそういったこんがらがった状況になることはない。
早坂さんも橘さんも、もっと安心していい。
もちろん、ふたりは本心ではしっかりわかっているだろうけど。
俺は教育実習を完璧にやりとげる。そしてふたりのところにまっすぐいく。
そんな決意とともに迎えた翌日のことだ。
放課後、俺は音楽室で女子生徒とふたりきりになっていた。
合唱部の副部長だ。
「部に戻る気はないのか?」
俺はきく。
「ないですね」
女の子は体温の低そうな声でいった。その視線は、窓の外に向けられている。グラウンドで、早坂さんが生徒たちと一緒にサッカーをしていた。
「元気になったんですね、早坂先生」
「え?」
「午前中の授業、にこにこしてたけど、なんとなくしんどそうだったから」
「ちょっと体調がわるかったんだろう。最近、寒暖差が激しいから。早坂先生は真面目な先生だから、昨日飲みすぎて二日酔いだとかそういうことはないと思うぞ。絶対に」
それより、と俺は話をつづける。
「どうしてもダメなんだ? 部長の門脇くんはひどく落ち込んでいた」
合唱部はコンクールを目指してがんばっていた。
でも、ちょっとしたことで男子と女子のあいだに亀裂が入り、部が分裂してしまった。
俺はこの短い教育実習のあいだに、なんとか合唱部のみんなを助けたいと思っている。部長の門脇くんと、この副部長の女の子が仲直りすれば、また部がまとまる可能性があり、そして、ふたりとも俺が教育実習をしているクラスの生徒だった。
「もう一度、考えなおしてくれないか」
俺は責任感の強い教師として、説得をこころみる。
でも――。
「そんなにコンクールに出場したいなら、男子だけ で出場すればいいじゃないですか。男声合唱。珍しいから、案外、そっちのほうがいいところまでいくかもしれませんよ」
副部長はかたくなで、まったく説得できる気がしない。
でも、仕方がないとも思う。こういうことって、いくら先生が、将来の思い出になるぞとかそれらしいことをいったところで、本人の納得がないとまったく響かないのだ。
つまり、彼女自身がもう一度、合唱部のみんなでコンクールに出たいと心の底から思わなければいけない。だから、俺は素直にきいた。
「どうしたら、合唱部へ戻りたいと思えるだろうか」
「そうですね……」
副部長は少し考える素振りをしてからいう。
「戻らないこともないです」
「本当か?」
「ただし、条件があります」
その条件はなにかときくと、副部長は俺の顔みて、いった。
「桐島先生が私と付き合ってくれたら、合唱部に戻ります」
女の子は冗談ではないようで、真剣な目をしていた。
肩のあたりで切りそろえられた髪、凛とした瞳、白い肌と、繊細そうな輪郭。
眼差しからは、十代特有の熱と鋭さを感じる。
彼女は本気だ。
教育実習にきたときから、彼女がクラスにいることに気づいていた。そして、彼女が俺に向けている気持ちも。でも――。
「それは無理だよ」
俺はそういったあとで、その合唱部副部長の名を呼んだ。
「橘みゆきちゃん」
そう。
橘みゆき。
あの、橘さんの妹だ。