わたし、二番目の彼女でいいから。8

第24話 ちょっぴり大人 ③


 仕事帰りに職場の同僚と飲みにいく。それって、なんかすごい大人って感じがする。ネクタイをゆるめてビールを飲みながら、職場のグチをいったりするのだ。

 でも――。


「橘さんのせいで私まで怒られちゃったでしょ!」


 早坂さんがまず、わ~、という。


「早坂さんがいいかえさなきゃよかったじゃん!」


 橘さんも、ぎゃ~、とかえす。

 三人で居酒屋にきていた。俺と早坂さんはスーツだし、橘さんも白いブラウスに黒のロングスカートと、いかにもピアノの講師といった格好で、外面はまさに仕事帰りだ。

 でも仕事帰りの大人というテンションではなく、早坂さんは早坂さんのままで、橘さんも橘さんのままだった。


「ちょっと、桐島くんからもなにかいってよ!」

「司郎くん、私はわるくないよね!?」


 なぜこうなったのか。

 昼休み、ふたりが俺のことを彼氏といったあとのことだ。

 大騒ぎになるかというところで、橘さんはいった。


「冗談だから」


 早坂さんも、同じようにいった。


「も~、みんな本気にしないでよ。面白いと思って、のっかっただけ」


 もちろん、それで済むはずはなく、俺たちは学年主任の先生にこってり絞られた。


「多感な年代の生徒たちに変な刺激を与えないように!」


 まったくそのとおりだった。

 そしてそのあと午後の授業をして、放課後、一緒にご飯でも食べようということになり、居酒屋に入ったのだった。

 居酒屋のテーブルは四人掛けだったのだが、店に入ってすぐ、ふたりはしっかり別れて座り、いった。


「司郎くんは私のとなりだよね」

「桐島くん、どっち座るの?」

「そうくると思ったよ」


 俺は橘さんの首根っこをつかんで猫のように持ちあげ、早坂さんの横に座らせた。そして俺はふたりの対面に座った。

 そんな感じで仕事終わりの飲み会がはじまったわけだけど、ふたりはさっそく、わぁきゃぁとバトルをはじめたのだ。


「なんで彼氏いるとかいきなりいうの~?」

「男子生徒が騒ぐから」

「だとしても桐島くんだっていう必要はないでしょ」

「そこは勢い余って」


 なんてやっていると、店員さんが注文をききにきて、早坂さんが、「とりあえず生ビール三つお願いします」という。


「飲んでないのにこのテンション……」


 いざビールが運ばれてくると、ふたりはごくごくと飲んだ。


「ぷは~っ!」

「ぷは~っ!」


 ジョッキが空いて、おかわりを頼む。しっかり目が座っている。


「ひかりちゃん、なんで講師に応募したのりょ~!」

「あかねちゃんとしろうくん、ふたりでしぇんしぇいごっこはずりゅい」

「ごっこじゃないりょ~!」

「酔うの早くない!?」


 ふたりはすごいペースでお酒を飲んでいく。


「私は大人だからいっぱい飲めるもんね~」

「あかねちゃん顔赤いよ。私? ラクショー」


 競いあうように飲むふたり。もちろん俺はとめようとしたが、ふたりが俺のいうことをきくはずもなかった。そんな感じで、飲みながらふたりの会話はつづく。


「ていうかひかりちゃん、なんで車に乗ってるの~!?」

「私も免許をとりました」


 両手でピースサインする橘さん。


「私の車はスポーツカー。あかねちゃんの車より速い」


 橘さんは自分の車のかっこよさをアピールする。でも――。


「ひかりちゃんの車より私のスバルのほうが絶対速いよ~!」


 早坂さんがぷんすかしながら抗議の声をあげる。本来なら、いくらサイズがコンパクトであるとはいえ、橘さんのマツダのスポーツカーが、早坂さんのスバルの軽に負けるなんてありえない。でも、早坂さんがそう主張したくなる気持ちもわかる。なぜなら――。


「ひかりちゃんの車、絶対ポンコツだもん!」


 そうなのだ。

 シンプルに橘さんのスポーツカーはオンボロ中古車だった。ぱっとみは颯爽とした雰囲気だが、よくみればボディのあちこちがへこんでいるし、エンジン音もちょっと怪しい。


「私はお金をいっぱい稼いでいる」


 橘さんはいう。


「でもお母さんに最初は中古車にしなさいっていわれた」

「ひかりちゃんのお母さんは正しい!」


 それで橘さんはあのマツダのスポーツカーを買ったらしい。最初は運転がうまくなったらピカピカの新車に乗り換えようと思っていたらしいが、最近ではあの車に愛着が湧いてきたという。


「私のマツダのほうがあかねちゃんのスバルより絶対速い」

「そんなことないもん~!!」


 二人は酔っぱらいながら手をつかみあい、車の代理戦争をはじめる。

 ちなみに車は高校の駐車場に置きっぱなしにしてある。お酒を飲むから置いてきたのだ。


「スバル!」

「マツダ!」


 飲み会は終始そんな調子だった。車だけでなく、どっちのほうが先生っぽいかとか、生徒に人気あるかとかでも、ふたりはポップコーンを投げあうような戦いを繰りひろげた。


「私は車から降りるだけでみんなが歓声をあげていた。スポーツカーから颯爽とおりてくるゲージュツ的な美人先生」

「私のほうがすごかったよ。ひかりちゃんはいなかったから知らないと思うけど、とにかくひかりちゃんのときよりすごかった。うん、みんなすごかった」

「あかねちゃんの人気は男子生徒のオカズ人気だよ。オカズにされてるんだよ」

「お、おかっ! も~オコッタ!」


 ふたりともぐでんぐでんになったところで店をでた。

 駅までの道の途中に公園があったので、俺はふたりをベンチに座らせ、コンビニで水を買ってきて飲ませた。

 しばらくすると、だんだん酔いがさめてきて、すっかり落ち着いた雰囲気になった。

 夜の公園、街灯の光に照らされた早坂さんの横顔には、どこか寂しげなニュアンスが含まれていた。


「油断すると、こういう感じになっちゃうね」

「うん」


 うなずく橘さんも、どこか遠い目をしている。

 それはきっと、俺たち三人の抱えている問題によるものだ。

 この冬、俺は北海道でひとつの決断をした。


『別れよう』


 遠野の故郷、雪の降る町で俺はそれを遠野に伝えた。

 とても重たい言葉だった。軽々しくいえるものではなく、そしてそれを口にだしてしまえば、その前後で決定的になにかが変わってしまうことは明らかだった。

 そして俺は、その言葉を偏見にも似た強い決意をもっていったのだ。

 遠野は人の気持ちを考えられる子だ。

 だから俺の考えていることもよくわかっていた。その言葉を口にする意味も。

 遠野は泣いた。

 最初は我慢しようとしていたが、頬を伝う涙はとまらず、やがて声をあげて、子供のように泣きだした。

 家まで送ろうと俺は遠野の手をとろうとした。

 遠野は俺の手を振り払った。

 彼女は傷ついていた。遠野は俺との楽しい日常を大切にしていて、明るい未来を想像していた。そして俺も遠野と一緒になれば温かい未来が待っていることはわかっていた。

 それでも俺は遠野を拒絶した。

 そして遠野はひどく傷ついたのだ。

 雪の降る丘から、遠野は泣きながら歩いて家に帰った。俺はその後ろをただついていくしかできなかった。

 遠野が実家に着いたとき、戸惑う両親を前に、俺はただ頭を下げた。そして俺はバス に乗って離れた街へと向かった。もう、遠野の温かい場所に俺はいてはいけなかったのだ。

 宿でひと晩を明かし、空港へいって俺はひとり帰った。

 それから数日間、俺はひどい気持ちで、ヤマメ荘の部屋にいた。年末年始の休みで、住人たちが全然おらず、誰とも顔をあわせないのが救いだった。

 しばらくしたあと、俺は海辺の街にいって、北海道でした決断を早坂さんに伝えた。

早坂さんはそれをきいて、ひとことだけいった。


「バカ」


 泣いているような、笑っているかのような表情だった。

 東京にいた橘さんには、電話で伝えた。

 橘さんはまず、こういった。


「ごめん」


 そして、早坂さんよりもストレートに自分の気持ちを表現した。


「私はそれを望んでいたのに、それでもひどいことをしてしまったと感じる」


 俺の決断は、人を傷つけた。傷つくべきじゃなかった人だ。

 傷つけたのはまちがいなく俺だ。

 でも、その責任を早坂さんも橘さんも感じていた。

 俺の決断は遠野と別れ、早坂さんと橘さん、まだ思い出のなかにいるふたりとあのときのつづきをやって、残してきた宿題に決着をつけることだった。

 でも、俺も、早坂さんも橘さんも、すぐにそれをすることができなかった。

 俺が遠野を傷つけたことで、ふたりもまた傷ついたのだ。

早坂さんと橘さんは、本来的にとてもやさしい女の子なのだ。

 高校のときのあの想いに、恋に決着をつけたい。でも、そのために誰かが傷ついたことを無視して、高校のときの気持ちに戻ることなんてできない。

 ふたりはとても自覚的だった。

 そうして後ろ髪をひかれているうちに、冬が過ぎ去り、春がきた。

 もちろん、いつまでもこの状態でいるわけにはいかない。

 もう、決断はくだされたのだ。

 それで、早坂さんがメッセージを送ってきた。


「教育実習が終わったら、つづき、やろっか」


 俺はその言葉を橘さんに伝えた。

 五月に俺と早坂さんの教育実習がある。それが終わったら、あのときうまくやれなかったことを、ちゃんとやろう、と。

 橘さんは、わかった、と返信してきた。

 そして俺と早坂さんは偶然、同じ高校で教育実習をはじめ、そこに橘さんも講師としてやってきた。

 居酒屋でわちゃわちゃと陽気なテンションになることもあれば、今みたいに、夜の公園でふと深海にいるような気持ちになることもある。世の中の、多くの人がそうであるように。

 でも、俺たちはもう気持ちに区切りをつけるべきだった。

 だから、早坂さんが公園のベンチから立ちあがっていう。


「ちょっとだけ、たしかめてみよっか」

「なにを?」

「まだ、私たちのなかに、ちゃんと残ってるかどうか」


 そういって、両手を広げる。

 なにをしたいかは、わかった。

 だから俺は早坂さんを抱きしめた。


「どう?」


 橘さんが横からきいて、早坂さんはうなずいた。


「うん。やっぱり……変わってない。他の男の人とこういうこと、したいって思わない。でも桐島くんなら、落ち着くし、安心する。桐島くんは?」

「俺も、高校のときと同じ気持ちを感じてる」


 早坂さんの体を抱きしめて、その体温を感じるだけで、この女の子がひどく愛おしいという気持ちになる。

 もちろん、もっと言葉を尽くして、この気持ちをエモだとか、そういう飾り立てた表現をして気持ちを演出することはできる。

 でも、恋というのはきっと、本当はこのくらいシンプルなものなのかもしれない。

 抱きあって、ただ愛おしいと思えるかどうか。

 次に、俺は橘さんと抱きあった。


「どう?」


 今度は早坂さんがきいて、橘さんがうなずく。


「うん。私も同じ。だって、初恋だから……司郎くんは?」

「俺もやっぱり同じだ。橘さんは初恋の女の子だよ」



刊行シリーズ

わたし、二番目の彼女でいいから。8の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。7の書影
わたし、二番目の彼女でいいから。6の書影
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わたし、二番目の彼女でいいから。の書影