わたし、二番目の彼女でいいから。8
第25話 ヒロインレース ②
俺はみゆきちゃんに近づき、足元に落ちたハンカチを拾おうとする。
その、瞬間だった。
みゆきちゃんが椅子から立ちあがりざまに、俺のくちびるに、自分のくちびるを押しあててくる。
キスだ。
みゆきちゃんはすぐに顔を離した。
その表情は驚いているようにみえた。勢いでやったけど、それをした自分に驚いているといった感じだ。でも、すぐに気をとりなおしていった。
「私の初めてのキス、あげます。本当に好きだって、わかってほしいから」
そして、今度は橘さんに向かっていう。
「私も桐島先生のこと好きだから」
だから――。
「お姉ちゃんには負けないから」
◇
朝起きて、パンとコーヒーの朝食を済ませ、生徒より早く登校する。そして校門の前に立ち、生徒たちにおはようと声をかける。
朝のホームルームでは本職の先生がやっていることを横からみて学ぶ。そのあとは授業があれば授業をやるし、そうじゃないときは空き時間として、誰か他の先生の授業の見学にいったり、学校の庶務のお手伝いをしたり、次の授業の準備をしたりする。
教育実習のルーティンはだいたいそんな感じだ。
そのときも、休み時間に、職員室で、次の授業の準備をしていた。
授業をアドリブでできるほど全てを覚えているわけじゃないから、教科書を読んでいた。
学習範囲が毎年変わるから、受験や実力テストの傾向などと照らして、細かく教科書にチェックを入れる。そのときだった。
「桐島くん」
となりに座る早坂さんがいった。
「消しゴム落としちゃった」
みれば、俺と早坂さんのあいだの床に、消しゴムが落ちている。
「はい、どうぞ」
俺はそれを拾って、早坂さんに手渡した。
「ありがと」
早坂さんはそれを受け取ると、また机に向かって、俺と同じように教科書をチェックしはじめる。しかし――。
「桐島くん、また落としちゃった」
みれば、消しゴムがまた落ちている。
「これで十回目くらいだが……」
俺は消しゴムを拾いながらいう。
「もしかして、怒ってる?」
「え? なんのこと?」
早坂さんはにこにこ笑いながらいう。
「私がなんで怒るの? 私が怒る理由なんてなにもないよね?」
「いや……」
「それとも桐島くん、私を怒らせるようなことした?」
「してないが……」
早坂さんはまちがいなく、橘さんからきいている。俺がみゆきちゃんとキスしたことを。
不意打ちでされただけで、俺は無罪である主張 をしたいが――。
どう話を切りだすか考えていると、職員室の扉が音を立てて開く。
みれば、みゆきちゃんがノートを持って、おずおずとこちらをみていた。
「授業の前に質問したくて……き、桐島先生に……」
早坂さんがみゆきちゃんをみて、さらに俺をみて、また、にっこり笑う。
「いや、なんていうんだろうか」
「だから怒ってないって。私が高校生の小娘と張りあったりするわけないじゃん」
「あ、ああ」
「ちょっと、いってくる」
早坂さんがみゆきちゃんのところにいく。
「質問なら私がきくよ?」
「でも私、桐島先生が――」
「桐島くんちょっと忙しいからさ」
「くん?」
「あ、ここでは先生って呼ばなきゃいけなかったんだ。ごめんごめん、桐島先生とはちょっといろいろある仲だからさ。いろいろ、ね」
天使のような笑顔で微笑む早坂さん。
高校生の小娘にめちゃくちゃマウントとるじゃん。
「じゃあ、向こうの教室いこっか」
結局、早坂さんがみゆきちゃんを連れていった。みゆきちゃんは困った顔をしていた。
早坂さんVSみゆきちゃんが起きるような、そんな嵐の予感がした。
そして、早坂さんだけではない。この学校には、もうひとりいる。
いざ授業にいこうと廊下を歩いているときだ。
向かいから橘さんが歩いてくる。
橘さんは俺をみるなり、足をとめた。そして俺が近づいていくと――。
「足痛めた」
「…………」
「歩けない。音楽室までおんぶして」
「も~!!」
しかし、橘さんは断固動かない構えだ。俺は仕方なく周囲に生徒がいないことを確認して、橘さんを背負って音楽室に向かって歩きだす。
「橘さん、俺の気持ちは全然変わってないから別に――」
「私、司郎くんのことなにも疑ってないよ。妹とキスしてたけどさ」
心なしか後ろから俺の首元にまわされている腕が、ぐいっと締まる。
「司郎くんがそんなのに揺れたりしないって、わかってるし。それに私、妹相手にムキになるようなお子ちゃまなお姉ちゃんじゃないよ」
なんて話をしていると、みゆきちゃんがノートを胸に抱えて、俺たちの前にあらわれる。
どうやら早坂さんを振り切ってきたらしい。そして俺に背負われた姉をみて、むっ、という顔をする。
「お姉ちゃん……」
「みゆき、どうしたの?」
「私は桐島先生に質問が――」
「質問なら家で私がこたえてあげるよ」
「お姉ちゃん、勉強全然できないじゃん」
互いに、むぅぅ~、と睨みあう橘姉妹。
どうすんのこれ、と思っていたところでチャイムが鳴る。
「みゆきちゃんは授業にでなさい」
俺はいう。
「お姉ちゃんを音楽室にほうりこんだら俺もいくから」
「ほうりこむ?」
また首が締まる。
「別にいいけど」
そして、橘さんはみゆきちゃんにしっかりきこえるようにいった。
「こうやってくっついてると、高校生だったときのこと思いだすね。いつも一緒だった」
「おんぶした記憶は全然ないけどな」
「私、今も昔も、司郎くんにさわられるの好きだよ。司郎くんも、私にさわるの好きだったよね?」
橘さんもしっかりみゆきちゃんを煽ったわけだが、みゆきちゃんの煽り耐性はというと――。
ゼロだった。
「桐島先生は! お姉ちゃんより私のほうが好きだと思う!」
みゆきちゃんは泣きそうな顔で姉に向かっていった。
「だって、私とお姉ちゃんは似てるし、だったら若い私のほうが桐島先生も喜ぶと思う!」
「わ、わかっ!」
変な声をだす橘さん。
「それに――」
さらにみゆきちゃんが追い打ちをかける。
「私のほうがお姉ちゃんより胸も大きいもん!」
そうなのだ。
みゆきちゃんはお姉ちゃんとよく似てスレンダーながらも、胸は大きいほうに分類される女の子に育っていたのだ。
俺の背中で、わなわなと震える橘さん。
みゆきちゃんはそんな姉をしり目に、走り去っていった。
「あの、橘さん、みゆきちゃんはその、なんていうんだろ――」
「うん、大丈夫。私は心の広い姉だから」
俺の首にまわされた腕は、万力のように締まりつづけるのだった。
そして、みゆきちゃんの恐れを知らぬ十代の心はまだまだ突っ走る。
◇
ふたたび、球技大会の練習をしているときのことだ。
今度はフィールドプレイヤーとして人数合わせで参加したのだが、相手チームにいたみゆきちゃんが、俺がボールを持つたびにとにかく突っ込んでくる。
そして抱きつくようにしながら、ボールをとろうとするのだ。
「こ、こらっ!」
「私はボールを追いかけてるだけですっ!」
みゆきちゃんは恥ずかしそうにしながらも、それをやめようとしない。俺の肘がみゆきちゃんの胸にあたって、一瞬、気まずくなるが、みゆきちゃんはそれでも突撃してきて、俺たちはもつれあって倒れてしまう。
俺が、みゆきちゃんを押し倒したような体勢。
みゆきちゃんは俺の腕の下で、照れたように顔をそむけた。
「桐島先生……なんだか、本当に胸の奥が痛いんです……なんだか切なくなるような痛さです……今も……」
なんていう。
白い頬に、髪が汗で張りついている。みゆきちゃんにはたしかに十代特有の、鮮烈さと、まばゆいばかりの輝きと、脆さのようなものがあった。
そしてそんな彼女の感情は、高校時代の橘さんや早坂さんを思いださせる。
あのときの、彼女たちときっと同じだ。
どうやって、そんな彼女に、今の俺の事情をわかってもらえばいいだろうか。
そんなことを考えようとしたときだった。
「はい、そこまで~」
早坂さんが俺とみゆきちゃんを立たせ、離れるよううながしてくる。早坂さんも審判として練習に参加していたのだ。
「も~桐島くん、しっかりしてよ」
早坂さんは俺のジャージについたグラウンドの土を払いつつ、しっかり俺とみゆきちゃんのあいだに割って入る。
「橘さんも大丈夫? あんまり桐島先生を困らせちゃダメだよ」
「早坂先生、なんか、実習はじまったときから桐島先生と仲いい空気だしてますよね」
「ん?」
「でもぉ!」
みゆきちゃんは、えいやっ、とでもいような、投げつけるようなテンションでいう。
「早坂先生はたしかにかわいいし、体もすごく……え……ど……えっちな感じですけどぉ!」
「ど、どえぇっ!?」
「それでもぉ、桐島先生はぁ、私のほうが好きだと思います! だって、早坂先生はもう二十歳だけど、私は十代、女子高生なので!」
それだけいうと、みゆきちゃんはまた走り去っていった。
早坂さんの血管がピキッと音を立てたのがきこえた。
みゆきちゃんによる女子高生マウント。
こうなると元祖煽り耐性ゼロのふたりがヤバい。
「あ~あ、私ってなんの価値もない女の子なんだろうな~」
掃除の時間に生徒と一緒に渡り廊下を掃除していると、早坂さんがやってきていう。
「やっぱり桐島くんも女子高生がいいんだろうな~私なんていらないんだろうな~」
「とんだ濡れ衣だ」
俺はいかに自分がとても責任感にあふれた教師であり、みゆきちゃんに対してそういう感情を持っていないかを強く主張する。
「それに、早坂さんにかなう女の子は、そうそういないと思うよ」
「だったらそれ証明してよ」
早坂さんはにっこり笑いながら、少し離れたところにある用具室を指さす。
「桐島くんが女子高生になんか興味なくて、私のこと魅力的だって思ってるってこと、ちゃんとわからせてよ」
笑顔だけど圧がすごい。みゆきちゃんのテレフォンパンチはしっかり当たったみたいだ。
こういうのを放置しておくと、あとあと大変なことになることを俺は知っている。
だから用具室にゆき、薄暗いそのなかで、早坂さんを抱きしめた。
「えへへ」
「こういうの、ホントよくないんだからな」
「桐島くんがわるいんだよ。隙だらけなんだから」
高校の頃に戻ったみたいだね、といって甘えてくる早坂さん。
俺は彼女のスーツ越しに、その体を感じる。とても心地いい。男子生徒たちが大騒ぎするのも無理はない。
「桐島くんが女子高生相手に不祥事起こさないように、私がなにかしてしてあげたほうがいいのかな?」
「いや、大丈夫だって」
俺は教育実習に集中してる。だから戻ろう、と早坂さんにいった。
「まあ、よしとするか」
早坂さんはうなずいて用具室からでていく。