わたし、二番目の彼女でいいから。8
第29話 ハーモニー ①
教育実習最終日のホームルーム、俺が教室に入っていくと、生徒たちに拍手で迎えられた。
学級委員長が花束を持っていて、黒板には大きな字で、『桐島先生、ありがとう!!』と書かれている。
さらに、花束を受けとったあと、生徒たちが口々に声をかけてくれた。
「授業、わかりやすかった!」
「話も面白かったよ!」
「先生になったら絶対この学校に戻ってきてね!」
早坂さんと一緒に下駄箱からでたあと、校舎の窓から手を振る生徒たちをみて、俺は誰にもわからないように少しだけ泣いた。
「みんないい子たちだったね」
早坂さんも目じりに指をあてていた。
橘さんは講師として雇われているので、期間満了まで、まだ学校にいるみたいだった。
いずれにせよ、俺たちの教育実習は吹き抜ける一陣の風のように、あっという間に、とても爽やかに終わった。
そして教育実習が終わったことで、つづけられなくなってしまうこともある。
最後の実習を終えた、翌日のことだ。
朝早く、俺は目を覚ました。
天井をみながら思う。
教育実習が終わったからには、このウィークリーマンションの部屋ともお別れだ。
俺はベッドから起きあがる。そして――。
宮前はまだ、幸せそうな顔で寝ていた。俺とおそろいのパジャマを着て、同じくおそろいの枕を抱きしめ、「きりしま……」と、涎を垂らしながら寝言をいっている。
俺は宮前から、この日常を、この部屋を奪い去らなければいけない。
「ごめんな……」
そんな言葉が口をついてでる。
俺は宮前を起こさないように身支度を整えて家をでる。
教育実習は終わったけれど、俺はなにひとつ解決できないでいた。
遠野のこと、宮前のこと、その他のこともだ。でも、まったく光明がないわけじゃない。
早坂さんのいってくれた言葉。
京都の俺も真実だということ。
でもまずは、教育実習でやり残した最後の宿題をしなければいけない。
俺は目の前にあるできることを、ひとつひとつやっていくしかないのだ。
宮前を寝かしたままマンションをでた俺は、その足で、レンタカーショップに向かった。なにを隠そう、俺も運転免許を取っていたのだ。
免許証をみせて、フォルクスワーゲンを借りる。
朝の空気とエンジン音。よく晴れた日の朝、ワーゲンを走らせるということ。
アクセルを踏み、ハンドルを切って待ち合わせの駅へと向かう。駅のロータリーには、もう俺を待っている子がいた。清楚な白のワンピースを着た少女。
みゆきちゃんだ。
俺は今日、みゆきちゃんとドライブデートをする。
◇
なぜこういうことになったかというと、全ては恋愛ゲームをしていたあのときにさかのぼる。
宮前が入ってきたあと、それはもう大変だった。
まず、目隠しを外したみゆきちゃんが我に返り、顔を真っ赤にした。
「ち、ちがうんです……こ、これは……」
そういって、はだけた胸元を手で隠し、スカートの裾を引っ張って、恥ずかしそうに身をよじった。
「でも……」
みゆきちゃんは恥じらいながらも、いった。
「先生……やっぱり私に対して、ちゃんとそういう気持ちになるんじゃないですか……」
「いや、ちがうんだ。これはすべて横浜高等女学校の不逞教師の人格が――」
「これは……もう……するしかありません」
「する?」
「デートです! デートして、私の気持ちとちゃんと向きあってください!」
「ちょっと桐島、この子なにいってんの!?」
声をあげたのは宮前だった。
「ていうか誰!?」
「あなたこそ誰ですか!」
みゆきちゃんと宮前は初対面なのだった。
「うちは桐島と一緒に暮らしてるの!」
「冗談よしてください。桐島先生はひとり暮らしです」
「そんなわけないでしょ! そこらじゅうに私とのおそろいグッズが――」
部屋のみえるところにそれらがなくて、宮前がうろたえはじめる。
「え? え? まさか、桐島、私がいないうちに捨て、捨て――す、ふぇ、ふぇ――」
宮前が不安そうな顔をして、また今にも泣きだしそうになるから、俺は急いでクローゼットをあける。おそろいグッズがきちんとあるのをみて、宮前は、よかった~、と胸をなでおろす。
そして、すぐ、みゆきちゃんに向かって強気になる。
「ほら! おそろいパジャマ! 枕! おはし~!!」
「なんなんですか~! この女は~! 桐島先生はお姉ちゃんか早坂先生だったんじゃないんですか!?」
「お姉ちゃん!?」
宮前がみゆきちゃんをまじまじとみる。
「この小娘、まさか橘さんの妹!?」
「小娘じゃありません! そして、桐島先生は私のことが好きなんです、ジャマしないでください!」
「ほぁ~!?」
「本当です。桐島先生は少女である私を籠絡し、汚して、自分色に染めあげることが大好きなんですから!」
とても語弊のあるいいかただった。
「桐島、どういうこと!? 生徒に手をだして。私は桐島が本気にみえたから、だから身を引かなきゃいけないって思ったんだよ!?」
「桐島先生、どういうことですか! お姉ちゃん以外になんか他にもいるじゃないですか!」
ふたりがだした結論はある種とてもシンプルだった。
それなら――。
だったら――。
「うちとの関係は継続ばい!」
「絶対デートしてもらいます!」
ということがあり――。
俺は朝早く起きてレンタカーを借り、みゆきちゃんとドライブデートをしようとしているのだった。
みゆきちゃんと宮前が出会ってしまったことにより、事態はさらなる泥沼になったかのようにみえる。でも、そんなことはなかった。
今日のみゆきちゃんはとても落ち着いていた。
清楚な白いワンピースに、夏っぽいサンダル。助手席に座りながら、窓の外の景色をフラットな表情で眺めている。
シックなときの橘さんと雰囲気が似ていた。
やはり、ふたりは姉妹なのだ。
そして橘さんがいつもそうしていたように、みゆきちゃんも俺の心を見透かしていう。
「先生、結局、私のこと本気にはしてくれないんですね」
みゆきちゃんはやはり窓の外を遠い目で眺めながらいう。
「これ、最初で最後のデートってことですよね」
俺はうなずく。
まったく、そのとおりだったからだ。
◇
俺の運転するワーゲンは街を抜け、高速道路にのる。景色は前から後ろへといとも簡単に流れていく。まるで過去、現在、未来へと止まることなく流れていく時間のように。
「初恋だったんですよ」
みゆきちゃんはいう。
「中学のときに、お姉ちゃんが連れてきたかっこいいお兄さん」
その声色は少しかなしそうではあるけれど、どこか吹っ切れたようでもある。
「まさかこんなにもあっけなく終わっちゃうなんて。相手にその気がないと、なにをしても本当にダメなんですね。私は先生のことを考えて、毎晩、胸を痛めていたのに。ひどい話です」
でも、とみゆきちゃんはつづける。
「別にいいんです。年上のお兄さんに恋をして、最後にデートしてもらって、その思い出を胸にしまって終わらせる。しばらくひきずって、夜ベッドのなかでいろいろ考えちゃったりするでしょうけど、私はそれでいいと思いました」
だから――。
「今日はちょっと背伸びして、大人っぽい顔で先生のとなりにいようと思ってました。エモい感じの雰囲気で、ちょっとセンチメンタルな感じで。それで、先生のほっぺにキスをして、笑って『さよなら』っていって、それで家に帰って少し泣く。そんな奇麗な思い出にしようと思っていました。先生もそうやって私が区切りをつけられるようにデートに付き合ってくれたんですよね」
なのに、なのに――。
みゆきちゃんの声が大きくなっていき、そして――。
「なのに、なんでこんなに雰囲気がないんですか~!!」
みゆきちゃんがぷんぷんしながらいう。
「静かに」
俺は前の車との車間距離をしっかり目で測りながらいう。
「運転に集中させてくれ」
「も~!!」
「みゆきちゃん、ナビは大丈夫? 高速おりれないと俺、パニックなっちゃうから」
「この車線で大丈夫です!」
そう、俺はペーパードライバーだから大人っぽく余裕な運転なんてできないのだった。今日の趣旨を考えれば、片手でハンドルを切りながら、みゆきちゃんと話でもしたいところだが、俺のドライビングテクニックでは無理だ。
「お姉ちゃんのほうが運転うまいってなっちゃいますよ」
「いや、あっちはドリフトできるから」
俺は制限速度をしっかり守って左車線、安全運転だ。
「まあ、いいです」
みゆきちゃんはまた窓の外に視線をやっていう。
「これはこれで桐島さんとの距離が近くなったように感じるので」
みゆきちゃんはそこで先生呼びをやめたのだった。
しばらく高速道路を走りつづけた。
途中、ドライブインがあったのでそこに入ることにした。
「アイスクリーム、一緒に食べましょうよ」
そういうので、俺たちはアイスクリームを買って、ふたりベンチにならんで腰かけた。
みゆきちゃんは俺と肩があたる距離になるよう、座りなおした。
「これは……デートなので……」
頬を紅く染めながら肩と肩をくっつけてくる様子は、いじらしくてかわいかった。
俺がそんなみゆきちゃんの顔をみていると、みゆきちゃんは恥ずかしそうに顔をそむけた。
「そろそろ、私をどこに連れていってくれるのか、教えてくれてもいいんじゃないですか」
「ああ、そうだな」
俺はどこにいくか、まだいっていなかったのだ。
そして、ある地方の教会の名前を告げた。
「なんで教会なんですか?」
「俺の通っている大学のOBの人たちが聖歌隊をやるらしいんだ。合唱サークルだった人たちだ」
「…………こんなときまで、私の部活のこと考えてるんですね」
「教師だからな」
「教育実習生ですけどね」
みゆきちゃんは少し不満そうだ。でも――。
「高校生の合唱コンクールの全国大会の映像をみたんだ」
俺はいう。
「テレビでやりますからね」
「かっこよかったよ。みんな、背筋を伸ばして、立っていた」
「体を鍛えるんです。いい声をだすために……姿勢もよくして……」
合唱部は基礎トレをけっこうやるらしい。文化系の部活というよりは、どちらかというと体育会系に近いという。
「表情豊かに口を大きくあけるというのも、やったことのない人間からしたら、少し気恥しいかもしれない。でも、みんな堂々と歌っていた。あの姿に、胸をうたれたよ」
そして――。
「男の子の声というのは、あんなにも低いものなんだな。もう大人だ。女の子のきれいな声と混じりあって、本当にきれいだった。正直、合唱というのを真剣にきくまでは、女の子のきれいな声だけでもいいんじゃないかと思っていた。でも、全然質のちがう声が混じりあっているのも、とても美しい。奏でる、っていうのはこういうことかもしれない。そう、思ったんだ」
「混声合唱」
みゆきちゃんはいった。
「混声合唱というんです。私も……混声のほうが好きです」