わたし、二番目の彼女でいいから。8

第29話 ハーモニー ②

 ◇


 高速道路をおりて、しばらく田舎道を走ると林のなかに教会がみえてきた。

 大学合唱サークルのOBの人たちは年に一度みんなで集まって活動していて、今年はこの教会で地元の人たち向けに聖歌隊をやることに決めたらしい。

 みゆきちゃんと一緒に教会に入り、地元の人たちに混じって椅子に腰かけていると、聖歌隊の人たちが入ってきた。

 元部長という壮年の男の人が挨拶をする。

 自己紹介によると、彼は普段、市役所の会計課で働いているらしかった。

 合唱をするメンバーたちの経歴も様々だった。銀行で働いている人、独立して引越業者をしている人、主婦、これなかった人のなかには海外で駐在員をしている人もいるという。

 大学のときに一緒に歌っていたときから、彼らは長い時を経ていた。だから、均質性というものはなく、職業だけでなく、住んでいる場所もみんなあちこちに散っているという。

 でも、こうして時折、一緒に集まって歌っているのだそうだ。

 そんなメンバー紹介が終わると、彼らはピアノを伴奏に、歌いはじめた。

 それはちょっとしたライブだった。

 何曲か聖歌隊らしい曲を歌ったあとは、流行のノリのいい曲も歌ってくれる。

 歌っている人たちはみんな楽しそうだった。

 でも、彼らだってそれなりの苦労をしてきたはずだ。大学を卒業し、働いて、別々の道を歩いてきた。その期間のなかでは、仲が悪い瞬間も、自分の人生がつらい期間もあっただろう。

 それでも今、楽しそうに歌っている。

 青春時代に、そうしていたように。

 彼らから感じた教訓めいたことを言葉にして、となりに座るみゆきちゃんに伝えることも考えた。でも、そうしなかった。言葉にすることが無粋に思えたからだ。

 きっと、それがハーモニーなのだ。

 教会での合唱のイベントは一時間ちょっとで終わった。


「桐島さんのことだから合唱部にからめてくると思っていました」


 みゆきちゃんがいう。

 教会をでたあと、木漏れ日の遊歩道を歩いているときのことだ。


「でも、これは予想外でした」

「俺が、どんなことをすると思ってたんだ?」

「てっきり、河川敷に連れていかれるのだと」

「なんだ、知っていたのか」

「姉に、アイスを買ってあげるから一緒にコンビニにいこうと誘われたんです」


 数日前の放課後のことらしい。

 家で勉強をしていたみゆきちゃんは、アイスにつられてほいほいと橘さんについていった。

 そしてコンビニでソフトクリームを買ってもらい、ふたりでぺろぺろ舐めながら歩いていた。

 みゆきちゃんは、橘さんにそれとなく河川敷に誘導された。

 そこでみたのは、部長である門脇くんの指揮のもと、一生懸命、パート練習をしている男子部員たちの姿だった。


『やれることをやるよ』


 門脇くんはそういっていた。

 彼がやれること。それはつまり――。


「門脇くんはね、部活の時間が終わったあとも、ああやって男子部員たちを引き連れて、練習をつづけているんだ。女子部員たちが許してくれたとき、すぐに合同練習にとりかかれるようにってね。それが今やれることだから、といっていた」

「そうですか」

「彼らの歌声はどうだった?」

「まだまだ荒削りでした。でも――」


 みゆきちゃんはいう。


「きけるくらいには、仕上がっていました」


 木漏れ日が、みゆきちゃんの冷静な横顔を照らす。


「荒削りだとダメかい?」

「いえ。女子たちも、洗練された歌声、という領域にたどり着くことはないと思います。それはきっと、大人のすることです」


 今日、教会できいた合唱は、穏やかで調和のとれたものだった。

 しかし、みゆきちゃんたちの合唱はちがうのだ。


「私たちの合唱は、完全に調和することはない気はしています。声と声が仲良くする瞬間はあっても、ときにぶつかってしまう」


 ただ、そのぶん――。


「私たちの合唱には、熱さがあります」


 そのとおりだろう。

 彼らの合唱には力強さと、揺れ動く感性と、自我の痛みがある。

 それはかつて、俺や早坂さん、橘さんにもあった、激情や衝動。

 みゆきちゃんの眼差しは、それらを思いださせる。


「合唱コンクールの全国大会、あの映像の最後はみましたか?」

「ああ、みたよ」


 全国大会のクライマックスは、優勝校の合唱でも、結果発表の場面でもなかった。

 会場にいる全員で、課題曲を合唱するところだ。

 そこが、本当に最後の合唱なのだ。泣いている生徒たちもたくさんいて、映像でみていた俺も、もらい泣きしてしまった。


「胸を締めつけられるような、素晴らしい瞬間だった」

「映像ではなく、会場できくともっとすごいですよ」


 みゆきちゃんは視線をそらしながらいう。


「今年は会場に足を運んでください。私たちの歌をきくために」


 ◇


 教会で合唱をきいたあと、俺たちはデートをした。

 今日の本来の目的はそれだからだ。

 近くに牧場があるというので、いってみた。

 とても広い牧場で、牛や羊、アルパカなんかもいた。牧場としてだけではなく、動物とふれあうことのできるレジャーランドでもあったのだ。

 俺たちはしぼりたての牛乳からつくられたソフトクリームを舐めながら、牧場内をまわって、動物たちとたわむれた。

 みゆきちゃんは楽しそうだった。

 アルパカと一緒に写真を撮ろうとして頭をつつかれ、「も~!」と怒ったり、乗馬体験で馬に乗って、「きゃ~!」とはしゃいだりする。

 ころころと表情の変わる快活な女の子、という感じだった。

 高校生の、等身大の女の子がそこにはいた。

 喜ぶみゆきちゃんの顔を、ずっとみていたいと思った。

 でもこれは最後のデートで、どこかで区切りをつけなければならない。

 だから日が傾いてきたところで、俺はいった。


「みゆきちゃん、そろそろ帰ろう」

「帰らなくちゃ、ダメですか……」


 みゆきちゃんは顔を伏せ、寂しそうな顔になった。


「ああ」


 俺は、みゆきちゃんの家に門限があることも知っている。

 駐車場までの道のり、みゆきちゃんは俺の後ろを歩きながら、ずっと黙っていた。

 帰りの車のなかでも、あまりしゃべらなかった。

 夕焼に染まる風景を、名残惜しそうにずっと眺めていた。

 途中、お腹が減ったというので、ドライブインに入って簡単な食事をした。俺はかつ丼で、みゆきちゃんはカレーだった。


「デートなのに、なんか、ごめん」


 俺が謝ると、みゆきちゃんは首を横にふった。


「桐島さんはわかってないですね。私はデートするの、初めてなんですよ。なにをしても、全てが鮮やかにみえます。胸が痛くなるくらい」


 俺はなにもいえなかった。

 ドライブインで軽食をとったあと、外にでてみれば辺りは真っ暗になっていた。少し夜景を眺めたあと、俺たちは車に乗り込んだ。

 しばらく走らせて、高速道路をおり、橘さん一家の住む街の近くまでやってくる。

 でも――。


「もう少し……このままがいいです……」


 みゆきちゃんがそういうので、俺はあてもなく車を走らせた。

 夜のバイパス、国道――。

 特に意味もなくカフェに入って、生クリームの入った甘そうなコーヒーを一緒に注文した。

 そのときは、みゆきちゃんも少し明るい顔になった。

 でも、車に乗って、両手でカップを持っているみゆきちゃんの横顔は、また寂しそうだった。

 きっと、俺はみゆきちゃんの気持ちに区切りをつけるような、なにかしらのことをしなければいけないのだ。でも、俺はなにをすればいいのかわからなかった。

 恋の終わらせかたがわからないまま、車を走らせつづける。

 どこにも向かわない、どこにもたどりつかない。

 物悲しいような時間がつづく。

 そのうちに、レンタカーを返す時間がきてしまう。


「みゆきちゃん、そろそろ――」

「……ですね」


 橘家のマンションの前に車を停める。


「今日は……ありがとうございました。いい思い出になりました」


 わがままいって、迷惑かけちゃいましたね。

 ごめんなさい。

 みゆきちゃんはそんなことをいって、助手席からでていく。その表情は、なんともいえないものだった。笑っているような、泣きそうであるような、迷っているような――。

 俺も車をおりて歩道に立ち、マンションのエントランスに向かうみゆきちゃんを見送る。


「それでは、さようなら。おやすみなさい」


 みゆきちゃんはそういって、歩きだす。

 後ろ髪をひかれるような雰囲気だった。それはきっと、お互いに。

 俺たちにはなにかが必要だった。それは区切りのようなもの。楔のようなもの。

 だから、俺はいった。


「付き合えない理由は、先生と生徒だからとか、そんなものじゃないよ」


 みゆきちゃんが俺から少し離れたところで足をとめ、振り返る。


「そうなんですか?」

「ああ」


 ちゃんというべきだと思った。

 みゆきちゃんは、あのときの早坂さんや、橘さんと同じだ。自分の感性と衝動にふりまわされながらも、それを強く信じている。

 だから、その気持ちを、先生と生徒とか、常識みたいなパターンで否定するわけにはいかなかった。

 それは過去の早坂さん、橘さん、そして俺自身を否定しないためにも。


「俺は世間のいうことや、あるかどうかもわからない普通を大事にして、そこに自分や誰かをはめて、感情や行動を否定したりしない」


 俺はみゆきちゃんの感情を尊いと思う。

 世間で安く使われている、どこかにアピールするような『尊い』ではない。

 もっと静かに、深いところから、とても個人的に、尊いことであると思うのだ。


「じゃあ……私の気持ちにこたえられない理由は……」

「俺もみゆきちゃんと同じ気持ちを持っているんだ。そしてそれを向ける相手は……もう何年も前から決まっているんだ」


 みゆきちゃんは顔をそむける。

 口元が震えている。


「お姉ちゃんと……早坂先生、ですよね……」

「ああ」


 俺は、みゆきちゃんのことを何度もかわいいと思った。その感情を美しいとも思った。

 でもそれは、いつも、あの頃の早坂さんと橘さんを思い起こさせた。ま るで鏡のように。

 俺はそのことをみゆきちゃんに伝えた。

 ストレートに伝えなければいけなかったのだ。

 みゆきちゃんが自分自身の気持ちに決着をつけられるように。


「だから、みゆきちゃんとは付き合えないんだよ」


 俺がいったあと、みゆきちゃんはしばらく黙りこんでいた。

 そして、そっぽを向きながらいった。


「じゃあ、最後にひとつきかせてください」

「なんだい?」

「私が桐島さんのこと好きになっちゃったの、迷惑でしたか? イヤでしたか?」


 俺は少し考えてから、こたえる。


「正直いって、嬉しかったよ」


 俗物のように思われてしまうから普段はいわないけれど、といって、俺はその感情を素直に口にする。


「かわいい女子高生に好かれるのって、男にとってちょっとした誇りだ。こんなに喜ばしいことはない」

「――ホントですよ」


 みゆきちゃんはすねたようにいう。


「こんなこと、なかなか起きませんよ」

「そのとおりだ」

「もったいないことをしましたね」


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