わたし、二番目の彼女でいいから。9

第37話 もう、知っているから ①

 車を、運転していた。

 助手席に座っているのは、橘さんだ。

 静かに車窓からみえる白樺の木々を眺めている。

 俺は車を走らせ、細い山道を進んでいく。車はファミリーカーで、普段、橘さんのお母さんが使っているものだ。それを橘さんが借りてきて、俺が運転している。

 後ろには、一カ月の生活に必要なものが積まれている。

 橘さんが窓をのぞきながらいう。

 

「雪、ふるかな」

「どうだろう」

 

 やがて、開けた場所にでて、古い日本家屋がみえてくる。いわゆる古民家だ。庭先に車をとめ、外にでれば、冬の山の空気だった。

 玄関の鍵を開けて、荷物を運びこむ。

 畳の部屋に障子、欄間、台所には年季の入った給湯機。

 部屋のすみには、古びたアップライトピアノが置かれている。

 橘さんの、祖母の家だった。

 もう住んでいる人はおらず、時折、橘さんのお母さんがやってきて、手入れをしているらしい。この場所が、俺とまったく縁がないかといわれたら、そうではない。

 俺と橘さんの出会いは、小学生だった。夏休み、俺が法事で親戚の家に滞在していたときに、その近所の公園で幼い橘さんと出会った。その公園は、この日本家屋の近くにある。

 そう、あのとき、橘さんもまたこの祖母の家に遊びにきていたのだ。

 ここは、俺と橘さんのはじまりの場所だった。

 

 ◇

 

 司郎くんが。

 桐島くんが。

 どっちと一緒になるか選んでよ。

 ふたりがそういって、俺が、相手を選ぶことになった。

 最後に選ぶのは、俺が大学を卒業するときということになった。

 俺が決断するための時間をつくるという他に、その日までに、やりたいことがあると、ふたりはいった。

 彼女たちが思い描く、愛する人との理想の生活。

 それを、やっておきたいというのだ。

 それで、十二月を橘さんと過ごし、年が明けた一月を早坂さんと過ごすことになった。

 三人じゃなくて、ふたりきり。これは別に、ふたりが交互に俺と一緒に生活をして、選ばれるためにアピールするといった趣旨ではない。

 本当に、ふたりが俺としたいと思っていたことを実現するための期間。

 なぜなら――。

 橘さんと早坂さんは、いった。

 

 これが、一緒に過ごす最後の時間かもしれないから。

 

 ◇

 

 橘さんが選んだのは、古い日本家屋でふたり静かに暮らすことだった。

 初日は掃除をした。

 掃除機をかけ、布団を干し、食器を洗って、家具に積もった埃を払う。

 

「なつかしい」

 

 橘さんがアップライトピアノの鍵盤をさわる。

 

「おばあちゃんに、猫ふんじゃったを弾いて、って何度も頼んだ。おばあちゃんは、何度も弾いてくれた」

「橘さん……」

 

 俺はいう。

 

「たしかにここの給湯機は古くて、なかなかお湯がでなくて、洗い物をすると手が冷たくなる。でも、橘さんはジャンケンで負けたから、食器洗いをしなければいけない」

「おばあちゃん……」

 

 すっとぼけた顔で鍵盤をさわりつづける橘さん。

 俺はお茶が飲みたかったので、台所に立って、急須と湯飲みを洗う。

 すると、橘さんが後ろから近づいてきて、静かに俺を抱きしめた。

 

「好きだよ、司郎くん」

 

 それからも、絶妙に手を抜く橘さんと一緒に、家の中を掃除した。俺は掃除をしながら、おばあちゃんの家に遊びにきていた、小学生の橘さんを想像した。

 ワンピースに赤い靴の橘さん。

 お母さんに手を引かれて家に入ってくる。

 おばあちゃんに甘やかされる。

 退屈すれば、縁側で足をぶらぶらさせる。

 畳の上に転がってマンガも読む。

 どの橘さんも、かわいらしく思えた。

 今の橘さんにも、そのかわいらしい少女の面影は色濃く残っている。

 そして、大人になっているから、美しくもあった。

 ふとした横顔や仕草がどれも絵になって、ついつい見惚れてしまう。

 掃除が終わったときには日が暮れていた。ふたりともつかれていて、持ってきていたレトルトカレーで簡単な食事をして、お風呂を沸かして入った。

 眠るときは畳に、昼に干したばかりの布団を敷いた。ふたつ敷いたわけだけど、布団に入って早々に、橘さんがこっちの布団に入ってきた。それで、抱きあって眠った。古い家だから隙間風が冷たかったけど、ふたりで抱きあっていれば、寒くはなかった。

 翌日は、車を走らせて、周辺を散策した。

 山を降りてすぐのところに、大型のスーパーがあったので、そこで食料の買い出しをした。

 橘さんは料理をするつもりらしく、スマホでレシピをみながら、カートに野菜や肉、調味料なんかを入れていった。

 

「いきなり揚げ物にチャレンジするのはいかがなものだろうか」

「私は難易度が高いほうが燃えるタイプだから」

 

 昼食に、ふたりで野菜の素揚げをつくった。

 油がはねて、俺はたくさんのダメージを負った。橘さんは俺の背中に隠れていた。

 食後は、周辺を歩いてみた。

 白樺の林のなかに図書館があり、俺たちは本を借りることにした。

 橘さんの白い指先が書架の本にかかるのをみて、高校の記憶がフラッシュバックする。

 あのころ、俺たちは小さな部室で、ただ静かに本を読んでいた。

 なにげない表情の下で、互いを意識しながら。

 放課後、突然、雨が降ってきた。あの日、橘さんはカバンに折りたたみ傘が入っていたのに、傘を持っていないといって、俺の傘に入って一緒に帰った。俺は橘さんが濡れないように傘を傾けて、自分の肩を濡らした。

 緊張しながら、腕がふれるかふれないか、そんな距離で歩いた。

 十七歳のときの、鮮やかな記憶。

 俺がその空気を感じていると、橘さんは本を片手にいった。

 

「どうしたの?」

「なんでもないよ」

 

 図書館をでたあと、車を走らせているとテニスコートをみつけた。この辺りは別荘地でもあるようで、そういう人たちが体を動かすのだ。

 せっかくだからと、俺たちもコートを予約した。

 次の日から、テニスコートで遊ぶようになった。どちらも経験者じゃないから、ネットを挟んで、ワンバウンドのラリーが何回続くかという遊びをした。

 いたずら好きな橘さんが、時折、ネット前に落とすボールを打つものだから、そのたびに俺は前に走り、家に帰るころには汗だくだった。

 シャワーを浴びてすっきりしたところで、ふたりで体を押しあってストレッチをした。

 穏やかな昼さがりといった空気で、俺たちはそのまま抱きあってお昼寝をした。

 特段やらなければならないことはなく、静かで穏やかな日々を過ごすことになった。

 起きれば本を読み、夕方になれば一緒に料理をし、夜になればまた抱きあって眠る。

 お散歩しているとき、となりを歩く橘さんをみて、俺は気づく。

 

「靴ひも、ほどけてるよ」

 

 俺はしゃがんで、橘さんのかわいらしいスニーカーの靴ひもを結んであげる。結び終わったあと、橘さんは照れたような顔をしている。

 そんな、ふとした瞬間がどれも印象的に、積み重なっていく。

 車で街へでることもある。

 

「たまには下界へ降りよう」

 

 尊大な橘さんがいって、都市部へいく。

 橘さんが華麗なるドライビングテクニックを披露して山道をくだり、国道を走って、コーヒーショップへと車を滑りこませていく。店に入った橘さんは冬季限定のタンブラーの前でどれを買うかじっくりと思案する。どうやら、これが目的だったようだ。

 

「司郎くんもいる?」

「たしかに、持っていたら便利かも」

 

 橘さんは少しためらうような素振りをみせたあとで、意を決したように色ちがいのタンブラーをレジへと持っていった。

 車で足を伸ばして、吊り橋や、滝をみにいくこともあった。

 けれど、そういうのはちょっとした味つけのようなもので、ほとんどは、古民家と、その周辺だけで過ごした。

 

「焚火をして、焼き芋ができるかもしれない」

 

 橘さんがいって、家のまわりに落ちている枯れ枝を集め、倉庫に保存しておく。

 

「みて、司郎くん」

 

 橘さんが家のなかで、古いアルバムをみつける。

 

「お母さんの若いころ」

 

 そこには、橘さんのお母さん、玲さんが学生だったころの写真まで収められていて、橘さんが小さい頃の写真もあるんだけど、若い玲さんの写真をみて、あれこれいって、盛りあがる。

 なにげない日々が、なにげなく過ぎていく。

 そしてそんなある朝、ふたりでお散歩をしていたときのことだ。

 俺たちは示しあわせたわけでもなく、あの公園へと足を向けた。

 きっと、そこへいくためのなにかが満ちたのだろう。

 いってみれば、それはよくある、少し広めの田舎の公園だった。林が切りひらかれ、滑り台やブランコなんかの遊具が置かれ、砂場があり、東屋の下にベンチが置かれている。

 木漏れ日が、ふりそそいでいた。

 小学生のころ、俺は親戚の家に滞在していたとき、退屈を感じて、なにか遊べる場所はないかと思って、ここにやってきた。そして、同じく、おばあちゃんの家に遊びにきていた橘さんと出会った。

 橘さんはそのころから、美しかった。

 黒い髪と、物静かな表情。

 俺は生まれて初めて、女の子にドキドキして、子供のまっすぐさで、好意を隠さなかった。

 幼かったその女の子は、そんな俺の好意を受け入れてくれていて、そのときの感情を、高校生になっても持ちつづけてくれていた。

 そして、今も。

 

「あらためてみると、普通の公園だね」

 

 橘さんはそういうと、ブランコのほうへ歩いていって、腰かけた。俺も、同じようにとなりのブランコに座る。

 

「でも、ずっと、きたかった」

 

 橘さんはガラス玉のような瞳で遠くをみながらいう。

 

「私には、とても特別な場所だから」

 

 橘さんの横顔が、小さかったころの橘さんと重なった。

 あのときも、橘さんは無表情だった。

 でも、心のなかでは、万華鏡のように、様々な感情が織りなされていたのだ。

 

「懐かしいね」

 

 橘さんはいう。

 

「全部を覚えているわけじゃないけど、いくつかはっきり覚えてることもあるよ」

 

 橘さんはそれについてはいわず、砂場にいって、山をつくりはじめて、俺はそれを手伝った。

 あのころのように。

 最後、両側から穴を掘って、トンネルをつくったところで砂山が完成する。

 完成したあと、橘さんは、その砂山を崩したりはしなかった。

 ブランコに乗ったり、滑り台から降りてみたりして遊んだあと、公園から立ち去るときも、しばらく、名残惜しそうに砂山をみつめていた。

 帰り道、橘さんは俺の手をとても強く握った。

 俺たちが過ごす日々のなかには、悲しいものはひとつもなかった。

 けれど、いつもどこかに、寂しさのようなものがつきまとっていた。

 それはおそらく、あらゆることが、終わりに近づいているからで、そして、もう終わってしまったものもある。

 例えば、橘さんと早坂さんの関係性だ。

 偶然、街ですれちがうことくらいはあるかもしれない。


刊行シリーズ

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