わたし、二番目の彼女でいいから。9

第37話 もう、知っているから ②

 けれど、橘さんと早坂さんが、ふたりで遊びにいったり、会って話をするようなことは、もう二度と訪れない。

 俺たちが三人で会うことも、もうない。

 

 ◇

 

 冬の到来を告げる、あの、よく冷えこんだ朝に、橘さんと早坂さんはいった。

 どちらと一緒になるか、俺が選ぶように。

 そして、ふたりにとっての理想の恋人との過ごしかたをしたあとで、俺が大学を卒業するときにその選択をすることなどが決められた。

 三人の共同生活の終わりだった。

 俺たちはマンションの部屋を引き払う準備をはじめる。

 掃除をして、それぞれの持ち物を、それぞれが本来住む部屋に、宅急便で送る。

 部屋の引き渡しの日、きれいになにもなくなった部屋は、三人で過ごす時間がこれからの人生のなかでもう二度と訪れないことを語っていた。

 部屋の鍵を返したあと、俺はマンションの前で、橘さんと早坂さんが会話しているのを、少し離れた場所できいた。

 

「お別れだね」

 

 橘さんがいって、早坂さんがこたえる。

 

「だね」

 

 ふたりは横ならびに立っていた。橘さんはコートのポケットに手を入れて空を眺め、早坂さんは道路を走る車に目をやっていた。

 

「元気でね」

「橘さんもね」

 

 そんなシンプルな別れの挨拶には、これまでにない真実味があった。

 それは俺たちが前に進むということであると同時に、多くのいとおしいもの、大事にしたかったものに、別れを告げることでもあった。

 だから、ある種の寂しさのようなものが、とても静かに、やさしく、目にみえない空気のように、ずっと在りつづけていた。

 

 ◇

 

 冬の林のなかにある古い家で、橘さんと暮らす。

 橘さんは大学の授業は自主休講にしたらしく、演奏の仕事もこの一カ月のあいだにはひとつも入れなかった。

 橘さんが望んだことはあきらかだった。

 ふたりきりの世界で、静かに愛しあうこと。

 とても、穏やかに。

 冷えこんだ朝に、布団のなかで抱きあっているのはとても気持ちよかった。

 たいてい、そういうとき、俺たちは服を着ていなかった。互いの体温を感じながら、じゃれあうように抱きあって、満足するまで、ずっと布団のなかにいた。橘さんの白くなめらかな肌をさわるのが好きだった。

 橘さんは手をつないでお散歩をするのも好きだった。

 知らない小道をみつけては、入っていく。

 落ち葉を踏み、猫をみつけて追いかけたりする。

 そして時折、振り返って、笑顔をみせてくれる。

 俺はその笑顔を毎回、美しいと思う。

 会話は少なかった。

 きっと、必要なかったからだ。

 手をつないだり、肩にもたれたり、肌を重ねるだけで十分だった。

 縁側にふたりならんで、なんともなしに風景を眺めつづけるだけの時間があった。橘さんが、激しく求めてくる夜もあった。

 そんな、ある日のことだ。

 朝、寝起きのためのコーヒーを淹れていると、後ろから橘さんが抱きついてきた。

 いつものことで、俺はそのまま二つのマグカップにコーヒーを注いでから、振り返って橘さんを抱きしめ、キスをした。けれど、いつもとちがって、橘さんは俺から離れなかった。黙ったまま、俺の胸に、頭をあずけてくる。

 しばらく、俺は橘さんを抱きしめつづけた。

 橘さんはやがて、窓の外をみていった。

 

「雪、ふってほしいな」

 

 もうすぐ、クリスマスだった。

 それは、この、ふたりぼっちの世界の終わりが近いことでもあった。

 俺は願った。

 橘さんのために、特別な瞬間が訪れますように。

 そして、その願いが届いたのか――。

 二十四日の朝、俺は窓の外をみて、まだ布団のなかにいる橘さんにいった。

 

「ふったよ」

 

 夜から、ずっとふっていたのだろう。

 

「雪、積もってる」

 

 白い雪がちらちら舞うなか、俺たちはお散歩に繰りだした。

 一面、真っ白な景色だった。

 橘さんの足取りは、どこか楽しそうだった。雪の絨毯のうえを長靴で歩く。振り返って自分の足跡をみて、満足そうな顔をしていた。

 朝のお散歩が終わったあとは、いったん家に戻って、縁側から雪景色を眺めながら、朝昼兼用の食事をとった。

 そして昼過ぎ――。

 朝とちがって、手袋やニット帽、長いマフラーで完全防寒スタイルになった橘さんがいった。

 

「雪だるまつくろう」

 

 それで、あの公園へいった。

 雪を丸めて、転がして、雪だるまをつくる。

 

「大きいのがいい」

 

 橘さんがそういうので、とても大きな雪玉をつくった。もうひとつ、それより少し小さめの雪玉をつくってのせて、二段にする。手ごろな枝を拾ってきて手をつくり、石を埋めて、目をつくる。

 

「いいね」

 

 完成したあと、橘さんはスマホで何度も撮影していた。

 そこからも、たくさん雪遊びをした。一緒に雪に倒れこんだり、雪玉を投げあったり。

 橘さんは雪が似合う女の子だった。

 ニット帽も、長いマフラーも、全てが似合っていて、美しかった。

 でも――。

 

「橘さん、そろそろ帰ろう」

 

 俺はいった。

 雪だるまをつくるのに時間がかかり、遊びすぎたせいで、日が暮れそうな時間になっていた。

 雪も強くなっていた。

 なにより――。

 

「これ以上は、体が冷えてしまうよ」

 

 橘さんの白い頬が、寒さで赤くなっている。

 

「さあ」

 

 俺は手をさしだす。

 橘さんは黙り、しばらく、ふたりでつくった雪だるまを眺めた。そのあとで、雪だるまに背を向け、俺の手をとった。

 橘さんは、なにもいわなかった。

 ふたりで、手をつないで歩く。

 遊んでいるうちに雪はさらにつもり、歩きにくくなっていた。

 そんな帰り道、ふと、橘さんが足をとめた。

 

「司郎くん、あれ」

 

 橘さんの視線の先をみれば、木立のむこうに、雪化粧した尖塔がみえた。

 教会だ。

 

「いってみよう」

 

 橘さんが道をそれて、そっちに歩きだす。俺もつづいた。

 扉が開いていて、なかに入ることができた。けれど、人気はなく、長いあいだ使われていないようで、埃の匂いがした。本物の教会というよりは、リゾート地の式場として建てられ、それが打ち捨てられたものであるようだった。

 橘さんは服についた雪を払うと、長椅子が左右にならぶ中央の道を歩いてゆき、色褪せた祭壇の前に立った。

 ステンドグラスから、光が降り注いでいる。

 橘さんが言葉を発する必要はなかった。

 わかるからだ。

 俺は橘さんのそばに歩みよると、彼女の前に立ち、キスをした。

 その夜、俺たちはとても深く交わった。

 橘さんは強く俺を抱きしめ、ただ静かに、その美しい体を震わせた。

 翌朝、俺たちは例のごとく、布団のなかで互いの肌の感触と温もりをたしかめあいながら目を覚ました。

 窓の外に目をやれば、昨夜からの雪がまだ降りつづいていた。

 

「今日は外にでられそうにないね」

 

 橘さんは嬉しそうだった。

 

「布団からもでられないから、そうだな、司郎くん、本を読んでよ」

 

 俺は枕元にある本のなかから、楽しい内容の本を選び、声にだして読んだ。

 登場人物のセリフにあわせて声を変えてみたり、面白おかしい口調で読んだりして、橘さんが笑う。橘さんは少女のようで、俺は本を読みきかせる。そのうち、橘さんがほっぺにキスをしたり、ちょっかいをかけてきて読めなくなり、俺たちは布団のなかで抱きあった。

 

「お腹へった」

 

 服を着て、一緒に台所へいく。同じ屋根の下にいるけれど、橘さんは俺から離れない。

 

「カップ麺で済まそう」

 

 橘さんは後ろから俺に抱きつきながらいった。

 

「食べたら、また布団に戻ろうよ。寒いし」

 

 一日中、そうやって、抱きあって過ごした。

 雪に閉ざされて、どこにもいけなくて、本当に世界でふたりだけみたいだった。

 あてもなく漂流する宇宙船で生活しているようでもあった。

 

「このまま雪が降りつづけたらさ、私たちずっとここにいるしかないよね」

 

 橘さんは俺の腕のなかでいった。でも、その翌日には気温があがって雪が溶けだし、さらにその次の日には完全になくなってしまった。

 

「ずっと、積もっていたらよかったのに」

 

 橘さんは縁側に立ち、外の景色を眺めながらいった。

 賢い人によれば、時間というものは、本当は流れていないという考えかたがあるらしい。

 けれど、俺たちの感じるところでは、まちがいなく時間は過去から未来へと流れていた。

 時は進む。

 雪は溶ける。

 季節は移りかわっていく。

 俺たちは、もう、いかなければならなかった。

 最後の日は、焚火をすることにした。倉庫にしまっていた乾いた枯れ枝をだしてきて、薪と一緒に、庭に積んでいく。着火剤と一緒に火をつければ、やがて、ぱちぱちと音を立てて燃えあがった。

 なにか焼いて食べたら楽しそうということで事前に枯れ枝を集めておいたのだけど、そういうことはしなかった。

 

「暖まるだけでいい」

 

 橘さんがそういって、俺もそういう気分だった。

 縁側にならんで、焚火を眺めつづける。

 部屋のなかは綺麗に片付けられ、帰り支度は済んでいた。橘さんと俺の一カ月はもう終わっていて、橘さんの横顔からは、名残り惜しさがみてとれる。

 ふいに、橘さんが振り向いて、俺をみていう。

 

「司郎くんを足止めしようかな」

 

 そういって、手元からとりだしたのは――。

 まさかの、恋愛ノートだった。

 

「相変わらず、すごいとこで、すごいものだしてくるな」

 

 高校のOBが作成した、恋の奥義書。

 

『人を好きになるって、どんな感じ?』

 

 十七歳の橘さんは、そんなことをいいながら、この恋愛ノートに書かれていることを、俺といろいろ試そうとしてきて、実際に、俺たちはさまざまなことを一緒にやった。

 

「これを使えば、きっと、司郎くんはもう少し私と一緒にいてくれる」

 

 いつも、そうだった。

 俺が断っても、ここで橘さんが寂しい顔をして、そうなると俺はほうっておけなくて、一緒に遊びはじめる。それが俺たちだった。

 でも――。

 

「やっぱり、やめとく」

 

 橘さんは、静かに縁側から立ちあがり、焚火のほうへと歩いていく。

 そして、そっと、焚火の縁にノートを置いた。

 橘さんがずっと持ちつづけていたノート。

 ノートの縁が黒くなり、炎が燃え移って、ゆっくりと焼けていく。

 

「きっと、このノートは必要ない」

 

 なぜなら。

 恋というものがなにか。

 愛というものがなにか。

 

「私はもう、知っているから」


刊行シリーズ

わたし、二番目の彼女でいいから。9の書影
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