わたし、二番目の彼女でいいから。9
エピローグ
営業車を走らせて事務所に戻り、午前中にまとめてきた商談の内容を忘れないうちに契約書を作ってしまおうと、デスクに向かって、キーボードを叩く。
古くて狭い、小さなビルの一室。
クーラーがいまいち効いておらず、桐島司郎は白いシャツの袖をまくる。
そうやって暑さと戦いながら仕事をしていると、うちわを手に持った上司が近づいてくる。
「桐島、俺がやっとくから、今日は帰っていいぞ」
「え? いいんですか?」
「もうすぐ二人目生まれるんだろ。たまには早く帰って、サービスしといたほうがいい」
でないと、と上司はいう。
「俺みたいに、一生、しりに敷かれることになる」
「なるほど」
ありがとうございます、といって、桐島は帰り支度をする。
「あかねちゃんによろしくな」
そんな上司の言葉を背に受け、事務所からでて、営業車ではなく、そのとなりにある自転車にまたがる。
海沿いの道を、ペダルをこいで走っていく。
青い海が、夏の日差しに照らされて、きらきらと輝いている。
しばらくすると、生垣のある民家がみえてきて、桐島は自転車を停める。玄関に入らず庭にまわれば、縁側にお腹を大きくしたあかねが座っている。あかねの姓が早坂から桐島に変わって、もう十年が経とうとしている。
「今日は早いんだね」
あかねがいって、「帰って家の手伝いをやれ、っていわれたんだ」と桐島はこたえる。
「保育園のお迎えは俺がいくよ」
「そっか」
じゃあ、とあかねはいう。
「掃除と洗濯ものの取り込みも、やってもらおうかな。私はそのあいだごろごろしてるから」
「わかった」
「えへへ」
あかねは少し笑ったあとで、いう。
「でもその前に、一緒に歩こっか」
そういうので、桐島はあかねの手を引いて、海辺へと向かった。
あかねと一緒に、砂浜を歩く。あかねはこうやって歩くのが好きだった。
「大丈夫?」
桐島はあかねを気づかっていう。
「平気だよ。お医者さんからも、多少は動いたほうがいいっていわれてるから」
潮風に吹かれながら少し歩き、家へと帰る。
桐島は掃除機をかけ、洗濯物を取り込む。あかねは椅子に腰かけながら、そんな桐島の様子を、ほほ笑みながらみている。
ひととおり家事が終わったところで、桐島はいう。
「じゃあ、お迎えにいってくるよ」
「ありがとね」
あかねが両手を広げる。桐島はあかねに近づいてゆき、抱きあう。あかねが頬にキスをしてくれる。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
桐島は息子を迎えにいくために、靴を履いて家をでる。
ふと、空をみあげる。
まだ青い。
そして、ふいにあの人のことを思いだす。
遠いこの空の下に、あの人もいるのだ。
誰よりも美しく、やさしい人。
最近、日々の忙しさに追われ、思いだすことも少なくなってきた。あと数カ月もすれば娘も生まれ、さらに目の前のことに追われることになるだろう。
けれど、思いだすたびに、桐島は想う。
どうか、あの人が幸せでありますように。
まっさらな気持ちで、あの人のことを、想う。
◇
大学四年生の橘ひかりが、コートのポケットに手を入れ、芸大の構内を歩いている。
季節は巡り、また、冬がきていた。
白い息と、冷静な横顔。
年が明ければそのうち春がきて、桜が咲き、大学を卒業することになる。すでに音楽の仕事をそれなりに受けているから、卒業してなにかが大きく変わるわけではない。ただ、使える時間が増えるから、お母さんがやってるライブバーで演奏してみるのもいいかな、なんて思ったりもする。
ひかりがそんなことを考えていると、声をかけられる。
「橘先輩! このあと、一緒にお茶でもどうですか! 駅前に、ちょっと面白い店がオープンしたんです」
大学一年生の、男の子だった。
「お願いします!」
ひかりはポケットに手を突っこんだまま、歩きつづける。
秋くらいから、ずっと声をかけてくるけれど、返事をしたことはない。まだ十代で、子犬のような印象もある。
映画のチケットがあるんです。
舞台を観にいきませんか。
俺、今度ステージで歌うんです。
そういって、なにかとひかりを誘ってくる。
学友からにきいたところによると、彼は入学してすぐ、ひかりに一目惚れしたらしい。学友は、いきなり高いところ狙って野心家だね、と笑っていた。
「お茶だけ、お茶だけでいいんで!」
男の子は、無視して歩くひかりのうしろを、それこそ犬のようについてくる。
ずっと、こんな調子なのに、男の子はがんばって話しかけるのをやめない。
「俺、橘先輩のこと考えるだけで、なんだか胸が痛くて、夜も眠れなくなるんです。せめて、お茶だけでも!」
男の子がすがるようにいう。
ひかりは、軽く息をついて、足をとめる。
男の子が自分に対して抱いている感情のことは知っている。けれど、その感情にこたえるためには、こちらも、同じくらいの感情を持たなければ、それはうまくいかないのだ。
ひかりは自分のなかに、今、その感情がないことをよくわかっていた。
ただ、ひたむきな男の子の瞳をみて、思う。
きっと、この男の子は、かつて自分が持っていたあの感情を、私に対して抱いている。
自分がまた、ああいう気持ちになることがあるのか、それはわからない。
でも、ここまでいうなら――。
「お茶くらいならいいよ」
『わたし、二番目の彼女でいいから。』了



