国道254号線(川越街道)
──まったく嫌になる。
深夜の国道でバイクを走らせながら、黒バイクの主──首無しライダーは苛立っていた。
──今回のは簡単な仕事だった筈だ。それなのに、ちょっと情けをかけてやったら途端に車で跳ね飛ばされた。やっぱり最初から黙らせておけば良かったんだ。
自分の『仕事』を振り返りながら、首無しライダーはバイクの速度を緩めていった。
左折ランプの代わりに手信号を出しながら、細い横道にバイクを入れる。そのまま街道沿いにあるマンションの車庫の前に停車したかと思うと、地面に降り立ちながらバイクのハンドル部分を軽く撫でる。
すると、エンジンが僅かに震えた後に、バイクはひとりでに車庫の中へと入っていった。
その姿を見送ると、首無しライダーはその足をマンションの入口へと向けた。
「よッ、お疲れさん」
マンションの最上階にある部屋に入ると、白衣を着た若い男が出迎えた。年は二十代半ばだろうか、ピッチリとした白衣に見合った好青年だが、室内には別段医療機器が揃っている様子は無い。高級な家具や電化製品が揃った部屋の中で、その青年の姿は非常に浮いている。
同じぐらい浮いているライダースーツの『影』は、苛立たしげに奥の部屋へと入っていった。
「おやおや、何か苛ついているようだね。これはいけない、カルシウムの摂取が必要かな」
そういいながら、白衣の男は部屋の隅にあるパソコンデスクの椅子を引き出した。それに腰を掛けながらパソコンの画面に向かうと、奥の部屋からキーボードを打つ音がカタカタと響いてくる。
それと同時に、白衣の男の前のパソコン画面に文字列が現れた。どうやらパソコン同士がLANか何かで接続されているようで、別途のパソコン同士で会話ができるようなシステムを導入しているようだ。
『卵の殻でも食えというのか』
「あー、いいんじゃないかな? もっとも僕はあれだ、栄養学には疎いから卵の殻に如何程のカルシウムが含まれているのか、あるいはどれだけ吸収効率がいいのかといった類の事は解らないけどね。そもそも君の脳味噌が何処にあるかも解らないのに、カルシウムがどれだけ有用かって事もあるけどさ。というか、何処から食べるの?」
白衣の男はキーボードを叩く事をせず、奥の部屋にいる首無しライダーに向かって直接声をかける。首無しライダーもそれに何の疑問も抱かず、再びカタカタという音を打ち鳴らした。
『黙れ』
どうやらこれが白衣の男と首無しライダーのコミュニケーションのようで、互いに何の支障も無く『会話』を繰り広げている。
「わかった、黙るよ。ところで話は変わるけど、ずっとパソコンの画面を見てると人間は目がショボショボしてくるもんなんだけど、君の場合はどうなの?」
『知るか』
「なあセルティ。眼球の存在しない君には、一体この世界がどんな風に見えているのかな。何度も聞いたけど教えてくれない」
『自分で理解できないものを他人に教える事はできない』
影──『セルティ』と呼ばれたその存在には、頭部が無い。それは即ち、視覚や聴覚を感受する器官が存在しないという事だ。
しかし、確かにセルティの世界には視界も音も、果ては匂いさえも存在する。パソコンのモニター上の文字もはっきりと読めるし、微妙な色遣いも全てはっきりと確認できる。ただ、一度にハッキリと確認できる視界は、人間よりも少し広い程度らしい。全方向を同時に確認する事ができるのならば、今日、わざわざチンピラの車に撥ねられる事にはならなかった筈だ。
目線は基本的に首の辺りからだが、任意で体のどの部分からの視界を得る事もできる。流石に自分で自分の身体を空から見るような真似はできないが。
一体自分の体がどのような仕組になっているのか、これはセルティ自身にも解らない事だ。そもそもセルティは人間の目から見える世界を知らない為、違いを伝えようにもどう伝えればよいのか見当もつかない。
モニター上でも沈黙するセルティに対し、助け舟を出すかの様に新羅が声をかけた。
「これは俺の推論に過ぎないけど──君の体から絶えず染み出しているその『影』のような不思議SFトンデモ物質。観測した事が無いから良くは解らないが──その粒子が光の代わりに周囲に放たれ、跳ね返ってきたところを吸収し、周囲の情報を得ているというのはどうかな。音や匂いも含めて、影が情報を君に運ぶんだ。レーダーのようにね。当然、遠くのものに対しては情報が不鮮明になる。もしくは、君の纏う影が感覚器の代わりを果たして、周囲の光や振動、匂いの分子を取得するんだ」
『小難しい事を言われても困るし、興味も無い。見えて聞こえればそれでいい』
淡々と打ち返される言葉の羅列に、白衣の男は仰々しく肩を竦めてみせた。
「セルティ。君はいつだってそうだ。君の感じる世界は、果たして僕が感じている世界とどれだけの差異があるのか……僕はただそれが気になるだけなんだよ。これは何も視界だけの話じゃない。価値観の問題でもある。人間としての価値観ではなく────」
そこで一旦息を止めて、白衣の男は意地悪そうに言葉を吐いた。
「この街に具現化したただ一人の妖精、デュラハンとして見た世界の価値って奴をさ」
セルティ・ストゥルルソンは人間ではない。
俗に『デュラハン(ドュラハンとも)』と呼ばれる妖精の一種であり、死期の近い者にその訪れを告げに回る存在だ。
切り落とした己の首を脇に抱え、俗にコシュタ・バワーと呼ばれる首無し馬に牽かれた二輪の馬車に乗り、死期が迫る者の家へと訪れる。うっかり戸口を開けようものならば、タライに満たされた血液を浴びせかけられる──そんな不吉の使者の代表として、バンシーと共に欧州の神話の中で語り継がれて来た。
本来ならば日本では語り継がれる事の無い存在だったが、ファンタジー小説やTVゲームの影響でその知名度は飛躍的に上昇した。不吉の使者であるデュラハンは様々なゲームの悪役として描かれ、恐ろしい死霊の騎士として若い世代──特にゲームや冒険小説を好む層の中に浸透していった。
しかし、そんな事は特に関係も無く──セルティは伝承の伝わるアイルランドから日本にやって来た存在だ。
自分がどのようにして生まれたのか、どうしてタライの血を被せるのか、どうして人間に死期を伝えるのか──今のセルティにとって、それは全く思い出せぬ事であった。そして──それを取り戻す為に、わざわざこの遠く離れた島国までやって来たのだ。
今から20年程前──セルティが山中で目を覚ますと、自分の中から様々な記憶が欠落している事に気が付いた。
それは自分の行動の理由であったり、ある程度より遡った過去の記憶であったりと様々だったが──確実に記憶しているのは、自分がデュラハンであるという事とセルティ・ストゥルルソンという名前、そして己の能力の使い方のみだった。傍らで自分にすり寄ってくる首無し馬の背を撫で──セルティは、そこで初めて自分の頭部が消えている事に気が付いた。
まず驚いた事は、『私は頭で物を考えていたわけじゃなかったんだ!?』という事であったのだが、それに続いて、セルティは自分の『首』と思しき気配を感じとる事ができる事に気が付いた。
状況を考え、セルティは一つの推理をする。自分の意思は元々『身体』と『頭』で共有していたものであり、欠落している記憶は『頭』の中に含まれているのではないかと。
そしてセルティは即座に決意する。己の存在意義を知る首を取り戻す事。それが今の自分に与えられた存在意義だと。もしかしたら──『頭』が自らの意思で身体の元を離れたのかもしれないが、そうだとしても結局は首を手にせねばわからぬ事だ。
周囲に残る僅かな『気配』を辿り、自分の首を追い求めたのだが──どうやら船に乗って海外に渡ってしまったようだ。セルティはすぐさま船の行き先を調べ、同じ目的地──日本に向かう船に密航したのだが────問題は馬と二輪の馬車であった。
この二つは馬の屍骸と馬車に憑依させたデュラハンの使い魔のような存在であり、いざとなれば消し去ってしまう事もできたのだが──果たして消し去った後に何処に行ってしまうのか? その記憶は恐らく『頭』の中にあるのであろう。そう考えると、消し方を知っていてもなかなかその行為に踏み切る事ができない。セルティは少し考え、港の近くにあったスクラップ置場へと足を運ぶ。
そして──そこでセルティはピッタリな物を見つけた。二輪の馬車と馬が融合したような姿をした、ヘッドライトを失った漆黒の二輪車を。
それから日本に渡ってはや20年。手がかりは無し。
気配を感じると言ってもそれは薄い匂いのようなもので、大雑把な方向では辿れるが、正確な位置となるとまるでピンとこなくなる。
──この東京の何処かにあるというのは解るのだが────
セルティは気持ちの中でだけ歯嚙みをしながら、己の首を探索し続けている。
例えそれが何年、何十年掛かろうとも、セルティに迷いは無い。自分に残る古い記憶は数百年前のものにまで遡る。『頭』の持っている記憶は更に古いはずだという確信もある。
それらを考慮すれば、自分に時間は半永久的にあるとも考えられた。ただ──己の首が一体どのような目に遭っているのかを考えると、ノンビリ探すというわけにもいかなかった。
そして今日もセルティは東京の闇にバイクを走らせる。
副業として、運び屋などを営みながら──
「で、今日の仕事も精励恪勤とこなして来たかな?」
耳慣れない四字熟語を使いながら、白衣の男──岸谷新羅が飄々と告げる。
彼はセルティの正体を知る数少ない人間の一人であり、宿の無いセルティに対して様々な『仕事』を用意し、その代償として部屋を貸している。
彼はセルティが密航している船に乗っていた医者の息子であり、父親との航海中にセルティを発見する。そして──彼の父親が筆談でこう提案した。
「一度だけでいい。解剖させてくれれば、君に居場所を提供しよう」
新羅の父親は少し異常な人間で、接触した未知の生物に恐れを成すどころか、逆に取引を持ちかけたのだ。さらに、その結果を学会に発表する事も無く──ただひたすら、自己満足の為に『新種』の生物を解剖した事になる。後に聞いた話では、セルティの自己治癒力は凄まじかったらしく、解剖中に切開した傷が直り始めるほどだったという。
セルティ自身は、その事はあまり記憶に残っていない。
恐らくは解剖のショックが強かったのだろう。一応麻酔をかけられたが、人間の麻酔は効かなかったようだ。身体を切り開かれる痛みがハッキリと伝わって来たが、暴れようにも手足は頑丈な鎖で縛りつけられていた。途中で気絶してしまっていたようで、前後の事も殆ど思い出せない。
『痛覚はあるようだが、人間よりはかなり鈍いようだな。普通なら発狂してもおかしくない』
新羅の父が手術後にそう告げる。記憶を失っていたせいか、その時のセルティには怒る気力が湧いて来なかった。
今日も車に撥ねられたのにすぐに動けたところを見ると、やはり自分の身体は頑丈にできているらしい。そんな事を思いながら、彼女は新羅の顔に目をやった。
新羅の父親は、新羅自身にもセルティの解剖に立ち合わせたそうだ。まだ5歳に満たぬ子供に鋭いメスを持たせ──人間に近い肉体を切開させたのだ。
それを聞いた時から、セルティはこの親の元では新羅がろくな大人にならないであろうと予見していたが──実際、ろくな大人にはならなかった。
24歳になった新羅は自称『出張闇医者』であり、普通の医者では不都合な患者──例えば銃創の手当てや公にできない整形手術などが主な仕事である。若さには見合わない(というよりも普通は執刀できない)腕と信頼があるそうだが、あくまで自称なので、セルティにはどこまでが本当なのか見当もつかなかった。通常ならば、医師免許を持つ者でも執刀医になる為には助手として数百回の手術に立ち合わなければならないのだが──セルティの知る限りでは、新羅は父親の非合法な助手として、その程度の数は軽くこなしていたように思える。親も親なら子も子であり、高校を卒業する頃には、新羅は自分の境遇になんの疑問も抱いていなかった。
そんな男が、今日も真面目に仕事をして来たかと自分に問いかけてくる。
『腹立たしい事この上無しだ』
新羅に対する皮肉の混じったコメントを打ち込むと、セルティは今夜行った『仕事』について語るため、パソコンのモニター上に文字を躍らせ始めた。
そもそも今日の仕事は特殊であり、新羅が夜になってから急に持ち込んできた仕事だ。
池袋である種のグループを組んでいる若者達がいて、その仲間が攫われたという話だった。警察に任せるべき仕事だが、事は一刻を争うらしく、携帯のメールに直接連絡が来た。
どこぞの悪徳企業の下っ端の下っ端の下っ端にあたる人攫い。不法入国者や家出してきた若者を攫っては一つ上の集団に引き渡すらしい。一体何を目的としているのかは不明であるが、恐らくは様々な事に『ニンゲン』という物資が使われるのだろう。上の上の上の組織が人体実験にでも使うのかもしれないし、上の上あたりが何か如何わしい商売に利用するのかもしれない。あるいはすぐ上あたりの人間が単純に金目当てでどこかに売り飛ばしたり安い賃金でこき使うのかもしれない。
どんな目的だったのかは知らないが、友人の不法滞在者が攫われてしまったらしい。不法滞在者の友人というのもどうかとは思ったが、顔も戸籍も無いセルティにとっては、こういった仕事でもなければ働き口が無いというのも事実だった。
結果としてその人攫いをボコボコにしてからワゴン車を確認。被害者の無事を確認してから新羅にメールを入れて終わりだった。その後は新羅からそのグループへ直接連絡を入れる手はずとなっていた筈だ。気絶したままの人攫い連中がその後どうなるかはわからない。
最初からそのグループに場所を教えておけば、あとはそいつらが勝手に仲間を取り返せば良いのではないか。セルティはそう思ったが────新羅の『穏便に』という方針から、結局は自分が仕事に当たる事となった。集団同士の大喧嘩になるよりは、腕のたつ仕事人が静かに全滅させた方が良いという考えだろう。
その結果として、自分は車に撥ねられて痛い目を見る事となった。殺してはいないものの、『影』を利用した大鎌で大分痛めつけた。
セルティは常に影を纏う。その影は時には鎧の姿を形どり、自らの意思によって現在羽織っているようなライダースーツや──あるいは単純な形の得物へと変化させる事ができる。
質量のある影というのもおかしな話ではあるが、基本的にセルティの纏う『影』は軽く、それゆえにアクション映画に見られるような異常な動きを見せる事ができる。その代わりに質量が殆ど上乗せされないので、セルティの力が直接武器の威力に反映する事になる。ただし刃の切れ味はそのままであり、硬度は──正確に測定した事はないが、今まで『影』が刃こぼれしたという記憶は無い。いうなれば、絶対に刃こぼれしないカッターナイフが、重さはそのままで大きさが日本刀の様になったという雰囲気だ。
鈍器としては使えないが、刃の形をとらせれば凄まじいまでの威力を発揮する事ができる。
しかしセルティはあえてチンピラ達を斬らず、鎌の柄を喉に叩きつけて気絶させてきた。数百年前には自分を化物と恐れる人々と斬り結んだような記憶もあるが、今の日本でそんなマネをすればどんな事になるのかぐらいは理解している。
セルティはこの20年間、日本語を学ぶと共に、自己流で相手を殺さないように倒す訓練を積んできた。合気道や護身術、あるいは空手の道場に通えれば一番良かったのだろうが、ヘルメットを被ったままで入門できる道場が近くになかったので諦める事にした。
そもそも鎌という形状自体が使いにくいのだ。死神などのイメージから大鎌はとてつもなく強い凶器の様に錯覚しがちだが、実際は刀や槍の方が遙かに扱いやすい。それでも大鎌という形状を良く使うのは、新羅が『そういう奴の方が名前が売れやすいよ』と言ったのが原因だ。
更に困った事に──徐々にではあるが、最近では自分でもその形状を気に入り始めていた。
しかし、いくら武器が凄くとも車に撥ねられたのでは意味が無い。痛みは既に消えているが、自分の不覚に対する苛立たしさだけがグツグツと煮えたぎっていた。
一体自分がどこまでダメージを食らえば死ぬのか、当然ながら確かめた事は無いし、確かめるつもりも毛頭無い。セルティはそんな考えを含めて、新羅に包み隠さず業務報告を行った。
車に撥ねられたという報告を聞きながらも、新羅はニコニコと笑いながら言葉を返す。
「それはお疲れさんだったね。ところで、お疲れついでにもう一つ」
『何だ』
「今回の件、すぐに相手の居場所が解ったのはさ、折原君に頼んじゃったからなんだよね」
折原臨也。彼は新宿を根城にする情報屋であり、大量の金額と引き換えに様々な情報を提供する人間だ。もっともそれは本職ではないらしく、裏で何をやっているかは誰も解らない。
何度か仕事を請けた事もあるが、彼に関わる仕事は後味が悪いものが多かった。正直言って、軽々しく関わりあいになるのは気が進まない。
『なんであいつが』
「いや、丁度仕事の依頼を受けてさ、じゃあギャラと引き換えに何か知らないかって事になって、車のナンバーを言ったら即座にあの駐車場の事を教えてくれたってわけ」
それを聞いて、セルティは心中で歯を軋ませる。不思議なもので、頭を失った今でも何故か歯軋りという感覚は容易に思い出す事ができた。
そんな事を身体の何処かの部分で考えていると、突然新羅が両肩に手を置いて来た。考え事をしている間に、こちらの部屋の中に入ってきていたようだ。
「ねえ、そろそろ決心はついたかな?」
『なんの?』
こちらのパソコンに映る文字を直接確認しながら、新羅は困ったように笑って見せる。
「解ってるくせに」
次の文字が画面上に打ち出される前に、新羅は言葉の続きを紡ぎだす。
「君はまさしく神出鬼没で斬新奇抜な存在だよ。だからと言って今のままでは君の望みの達成は前途遼遠と言えよう」
『何が言いたい』
「単純明快に言おう。諦めなよ」
キーボードを叩く音がピタリと止まり、奇妙な沈黙が部屋の中を支配する。
「自分の首を捜すのはもう止めてさ、二人で何処かに行こうよ。何処でもいい。君が望むなら、僕はどんな手を使ってでも君を故郷に帰してみせる。僕もそこに行くよ、それで、そこでずっと一緒に──」
新羅の言葉から四字熟語や格言の類が無くなるのは、それだけ今の会話が真剣であるという証拠だった。
『何度も言っているだろう、私は諦めるつもりは毛頭無い』
「古今東西、首の無い奴が自分の首を捜し求める神話や民話はどこにでもあるけど、きっと君みたいな奴が過去に何人もいたんだろうね。最近じゃ映画にもなったスリーピーホロウの伝説が有名だけど、きっと1800年代に君と似たような奴がいたんだよ。もしかして忘れてるだけで、それも君だったりして」
ペラペラと喋る新羅に対し、セルティは律儀に返事を打ち込む。
『なんで私が冴えない教師を攫う必要がある』
「原作の方できたか……」
セルティは苛立たしげにブラインドタッチを続け、肩に乗せられた手を振り払う。
『お前の事は嫌いじゃないが、今、こうして一緒に暮らしてるだけで充分だ』
つれない文字列が画面上に浮かぶのを見て、新羅は溜息混じりに呟いた。
「だったらさ、せめてもうちょっと女の子らしくしようよ」
一瞬の間。その僅かな間に、空気の割れるような温度差が二人の間に漂った。
『もういい。シャワー浴びてくる』
煙の立ち込める浴室の中で、セルティは一人シャワーを浴びる。形の良い胸に引き締まった腹筋。まるでモデルのように完成された体型だが、それが逆に、首が無い事の不気味さを際立たせている。
絹のような肌にボディソープを塗した指を這わせながら、セルティは鏡の方に意識を向けた。
首の無い女が身体を泡だらけにしているというのは実にシュールな光景だが、自分ではもはや気にならない。
そもそもアイルランドに居た頃はシャワーを浴びるような事は無かったのだが、日本に来てからは徐々にその習慣が身につくようになっていった。実際身体がどうこうなったという事もなく、垢や汗が出るような事も無かったのだが──身体に降りかかった埃等を払うと考えれば、今ではシャワーの無い生活が考えられないようになってしまっていた。
──これは、私が人間と同じ価値観を持っている証拠なのだろうか。
正直な話、デュラハンであるセルティにとっての価値観がどれだけ人間のそれと近いのか──それは常に疑問として彼女の中にあった。日本に来たばかりの頃は戸惑う事が多かったものの、今ではだいぶ日本人の影響を受けていると思う。
最近では、新羅の事を一人の異性として見る事も多くなっていった。それがどういう事なのか、最初は良く解らなかったが──次第に、『ああ、これが恋慕という感覚か』という事はなんとなく解っていた。だからと言って思春期の少女でもないセルティにとっては、特にこれといった生活の変化は訪れなかった。
ただ──TVなどを見ていて、新羅が自分と同じ場面で笑うと、何故だか少し嬉しかった。
──自分は、人間と同じ価値観を持っている。人間と同じ心を持っている。そして、人間と心は通じ合える。その筈だ。
少なくとも今は、そう信じていたかった。