来良学園は、南池袋にある共学の私立高校だ。
敷地面積はそれほど広くないものの、限られた面積を最大限に利用したその造りは、在学生に決して狭さを感じさせる事はない。池袋駅から近いという事もあり、東京近郊の人間にとっては在宅で通える高校として近年人気が高まり始めている。偏差値と共に入学の難度も緩やかに上昇傾向にあり、帝人達は実に良い境目に入学する事ができたと言える。
高い校舎からは周囲の風景が一望できるが、眼前に立ちはだかる60階建てのビルが優越感を与える事を許さない。反対側には雑司が谷霊園が広がっており、都会の中心にありながらどこか寂寞とした雰囲気に包まれている。
入学式はあっけないほど簡単に終わり、帝人と正臣はそれぞれのクラスに別れて簡単なHRを行った。
「竜ヶ峰帝人です。宜しくお願いします」
自己紹介の際に、自分の名前の事で何か言われるのではないかという不安はあったが、名乗った後も特に反応は無い。どうやら同世代の人間というのは、帝人の予想以上に他人の名前に対して無関心だったようだ。
それとは逆に、帝人はできるだけ他人の事を知ろうとしてクラスメイト達の自己紹介に聞きいった。
軽い冗談混じりで自己紹介をする者、名前だけ告げて座る者。早速寝ている者など様々だったが、帝人が特に気になったのは、園原杏里という少女だった。高校生にしては小柄で、眼鏡をかけた色白の美少女だった。しかし、どこか人を寄せ付けない雰囲気があり、それは他人を威圧するというのではなく、自分の方から人との関わりを拒絶するかのような印象を受ける。
「園原杏里です」
消え入りそうな声だったが、透き通るような響きははっきりと帝人の耳に染み込んでいった。彼女が印象に残ったのは、クラスの中で彼女が一番浮世離れをしているように感じたからだ。
他の人間は『如何にも高校生』といった感じの人間であり、特に優等生といった感じの人間も特別不良だといった感じの人間も存在しなかった。
他に気になる事が一つあるとすれば、帝人のクラスに一人欠席者が出たという事ぐらいだ。張間美香という女子生徒だが、風邪か何かだろうと即座に頭の中から消え去ってしまった。
ただ、彼女の欠席が告げられた瞬間、園原杏里が不安そうに空席の方を向いた事だけが気になった。
その後はつつがなくHRを終え、隣のクラスとなった正臣と合流する。
正臣は派手なピアスをつけたままであったが、周囲の人間と比べても特に違和感は感じない。私服が認められている高校である為か、寧ろ帝人の方が周囲から浮いているような印象だ。入学式という事もあって二人とも指定のブレザーを羽織っているものの、傍目から見れば同じ高校の人間とは思えなかった。
「あー、昨日はお前の引越し作業とかネットを繫げるのとかで一日つぶれちまったからなあ。今日はどっか案内するから何か奢れ」
正臣の意見に反対する理由も無く、帝人はそのまま行動を共にする。部活の勧誘などは期間が指定されているようで、今はまだ素直に校門から出る事ができるようだ。
校門を出て、横目にサンシャイン60を見ながら繁華街へと向かう。
帝人にとって、池袋とは不思議な街であった。同じ広さの通りでも、一本道が違うだけで全く違う街であるかのような印象を受ける。道の一本一本が独立した文化を織り成しており、帝人は新しい通りに入る度に違和感を覚えて戸惑うハメになった。
「どっか行きたいとこある?」
「あ、ええと……本屋って何処にある?」
60階通りの入口、ファーストフード店の前でそう尋ねると、正臣は少し考え込んだ。
「あー、本屋だったら、この辺じゃあジュンク堂が一番なんだが……何を買うつもりよ?」
「ええと、とりあえず帰ってから読む漫画でも買おうかと思って……」
それを聞いて、正臣は静かに歩きだした。
「じゃあ、そこの奥にマンガを沢山売ってる店があるからそこに行こう」
正臣はゲームセンターのある十字路まで歩くと、そこを右折したところにある道へ入っていった。60階通りとはまた違った雰囲気に満ちた通りで、帝人はまたも別の街に迷い込んだような錯覚に囚われた。
今の帝人では駅から自分のアパートに帰るのが精一杯であり、少し裏道に入ってしまえばもう二度と自力では出て来れないような錯覚にすら陥った。
「なんか同人誌とかも売ってるみたいだけど」
同人誌。ネットに入り浸っている自分にとっては全くの未知領域ではなかったが、実際に自分で購入した事は無い。中学校の時にクラスの女子が何人かで騒いでいたような記憶があるが、ネットの情報などから、頭の中には既に18禁のイメージが渦巻いている。
「は、入ってもいいの? 怒られない?」
「はぁ?」
正臣が相方の突拍子も無い言葉に戸惑っていると、突然後ろから声がかけられた。
「紀田君じゃん」
「いやいや、久しぶり」
「あー、狩沢さんに遊馬崎さん、どうもです」
そこに立っていたのは、男女の二人組だった。昼間から外に出ているというのに、二人とも身体がヤケに青白く、男の方は目つきの鋭いヒョロっとした男で、背中に重そうなリュックを背負っている。しかし、服装を見る限りではこれからキャンプという雰囲気でもなさそうだ。
そんな事を考えながら帝人が二人の方を見ていると、女の方が紀田に尋ねかけた。
「そっちの子は誰? 友達?」
「あー、こいつは幼馴染で、今日から一緒の高校になったんすよ」
「へえ、今日から高校生になったんだ。おめでとう」
微妙に嚙みあってない会話を聞いていると、正臣が二人の事を紹介し始めた。
「こっちの女の人が狩沢さんで、こっちが遊馬崎さん」
「……あ、え、ええと……竜ヶ峰帝人っていいます」
その名前を聞いて、遊馬崎と呼ばれた男が首を傾げる。まるで人形のような動きで、わざとらしい事この上ない。戸惑う帝人を前に、遊馬崎は何故か狩沢に向かって尋ねかけた。
「ペンネーム?」
「なんで高校生一年生がペンネーム使うのよ。……ああ、ラジオとか雑誌投稿とか?」
「あ、あの、一応、本名です……」
帝人が消え入りそうな声で指摘すると、男女の目が僅かに大きく見開かれた。
「噓ぉ、本名なの!?」
「いや、凄い! カッコいいじゃないすか! いやいやいや、マンガの主人公みたいだ!」
狩沢と遊馬崎の言葉に、
「そんな……照れるじゃないですか」
「紀田君が照れてどうするのよ」
自分の話題にも関わらず会話から置いていかれている帝人は、どうしていいのか解らずにその場に立ち竦む。やがてその状況に気が付いた遊馬崎が、携帯電話の時計に目をやりながら呟いた。
「いやいやいや、ゴメンねぇ、時間とらせちゃって。どっか行く予定だったんでしょ?」
「いえ、そんな急ぎの用事でも無いので……」
突然気を使われた事に動転して、帝人は慌てて首を横に振った。
「いやいや、いいっていいって、悪いね紀田君、時間とらせちゃってさ」
「私達はこれからゲーセン巡りだけど、貴方達は買い物?」
「ええ、ちょっとマンガを買いに」
それを聞いて、遊馬崎は後ろに手を回しながら、己の背にあるリュックをポンポンと叩く。
「いやいや、私達も丁度行って来たところっすよ。ほら、電撃文庫の新刊が出てたから山ほど買ってきたもんで。全部で三十冊ぐらい買ったんですよ」
電撃文庫の名前は聞いた事がある。ライトノベルを中心に発行するレーベルで、時折ハリウッド映画の邦訳本も出版されていたと記憶している。帝人も中学校の時から時々購入した事があったが、それにしても三十冊という量は半端ではない。
「電撃文庫って一ヶ月にそんなに出るんですか?」
それに対して、狩沢がケラケラと笑いながら応える。
「いやーね、違うわよ! 私の分と彼の分を一冊ずつと、あとは今晩使う本を十冊ぐらい見繕ったの!」
「あと、燃える計算問題集『燃え算』とか。いやー、ジュビー島本のサイン入りすよ」
遊馬崎の話す単語の意味がよく解らず、帝人は助けを求めるように正臣を見る。
「……呪文かなんかだと思って聞き流しとけ。自分の知ってる事は他人も知ってて当然って考えるタイプの人だから」
小声で耳打ちする正臣の前で、遊馬崎は尚もマニアックな自慢を続けるが、様子を察した狩沢が肘で相方のリュックを小突く。
「パンピーに何自慢してんのよ。あ、じゃあ私達もそろそろ行くわね。バァイ」
そのまま足早に去っていく二人を見て、帝人は不思議そうに呟いた。
「電撃文庫を……今晩使う……?」
一体何に使うのか疑問だったが、既に去り始めている二人を引き止めるわけにも行かず、正臣と共に本屋へと向かう事にした。
「いやー、凄い品揃えだね! 感動したよ! あのとらのあなって店、マンガだけでもうちの地元の本屋より沢山置いてあった!」
「おー、池袋はアニメイトとかコミックプラザとか、マンガを沢山置いてるとこが多いからな。マンガ以外の本も欲しいんだったら、なんと言ってもジュンク堂よ。九階ぐらいあるビルが全部本屋なんだぞ」
二人は本屋で一通りの買い物を済ませ、60階通りをサンシャインの方角に向かって進む。
「それにしても、紀田君はああいうタイプの人達とも知り合いなんだねえ」
「狩沢さん達の事か? なんだよ。金髪ピアスで脳味噌がシンナーで溶けてそうな奴としか友達がいないとでも思ってたのか? まあ、あの人達も変わった人だけど、仲良くしてさえいりゃ、普通にいい人達だから」
「? そうなんだ」
何か引っかかるものを感じたが、特に突っ込む気も起きなかったので流す事にした。
「まあ、俺は色んな所に首を突っ込んでるからな。ああいう店の場所や安い古着屋情報、果てはクラブとかスナックの案内や路上のアクセサリー屋の値切り方までどんと来いだ」
「なんでもありだね」
「あらゆる話題に通じていれば、大抵の女と話合わせられるから」
「不純だ……」
呆れる帝人の呟きに、正臣は自信に満ちた表情で頷いた。
今日は周囲の景色を見ながら歩こうと思い、できるだけ目線をあげながら移動する事にする。
通りの中で目立つのは、やはりシネマサンシャインに掲げられた大型ヴィジョンと、隣接する壁面に並ぶ映画の看板の数々だった。写真かと思いきや、一枚一枚写真の模写として手書きのイラストが描かれているのが解り、帝人の心はちょっとした驚きに包まれた。
他にはどんな店があるのだろうと周囲を見渡していると、建物よりも目立つ存在が目に入る。
「え?」
それはこの通りで多く見かける黒人の客引きなのだが──異様なのはその姿だった。
身長は2メートルを超えると思われ、まるでプロレスラーのように太い筋肉がついている。更に目を引いたのは、その黒人が板前の様な衣装を着て客引きをしている事だった。
目を丸くしていると、不意に巨漢がこちらを向いて目が合ってしまった。
「オニイサン、ヒサシブリ」
「! ? ! !?」
初対面なのに再開の挨拶を交わされ、帝人はどう反応していいのか解らない。順風満帆だったはずの東京生活に早くもピリオドが打たれてしまうのであろうか。本気でそんな事を考えていると、
「サイモン、久しぶりじゃんよー! 元気にしてた?」
正臣が助け舟を出すように返事をして、相手の注意が完全に帝人から移動した。
「ンー、キダ、寿司喰ウ、イイヨ。ヤスクするヨ。スシはイイヨ?」
「あー、金無いから今日は勘弁。今度高校に入ったからバイトするよ俺。そんでお金入ったら喰うからサービスしてよ」
「オー、ダメ。ソレシタラ、私ロシアの大地の藻屑にキエルよ」
「大地なのに藻屑かよ」
静かに笑いながら会話を続け、正臣が適当なところで切ってその場を後にした。帝人も慌ててその後についていくが、サイモンと呼ばれた巨漢の方を見ると、帝人の方にも手を振っている。どう対応すればいいのか混乱してしまい、謝るように頭をさげてその場を後にした。
「今の人も知り合い?」
「あー、サイモンっつってさ、ロシア系の黒人でロシア人がやってる寿司屋の客引きやってる」
──ロシア系の黒人?
「御免、どこから突っ込むべき?」
「いや、マジだって。本当はサーミャってんだけどよ、みんな英語読みでサイモンって呼んでるんだ。どういう経緯かは知んねえけど、両親がアメリカから亡命したとかなんとか。んで、知り合いのロシア人が寿司屋を始めたからそこで客引きやってるんだと」
噓のような話だったが、正臣の目には一点の曇りも無い。恐らくは全て真実なのだろう。目を丸くしている帝人に対して、正臣は補足のように付け加えた。
「あいつは敵に回しちゃいけないからな。あいつが前にケンカを止めた時よお、おんなじぐらいの体格の奴を片手で一人ずつ持ち上げてたし、噂じゃ電信柱を折った事もあるとか何とか」
その言葉に先刻の戦車の様な体格を思い出し、帝人はブルリと全身を震わせる。
それから少し歩いたところで、帝人がポツリと呟いた。
「凄いね」
「ん、何が?」
「いや、紀田君って、色んな人と話せるんだなあって思って……」
帝人としては素直に賞賛しただけなのだが、正臣は冗談だと受け取ったようだ。ケラケラと笑いながら、まるで他人事のようにあくびを漏らす。
「おだてても何も奢らねえぞ」
「お世辞じゃないよ」
実際、帝人は正臣の事を尊敬していた。恐らく自分一人では何もできないまま、この池袋の街中で干涸びてしまっていた事だろう。この街に住む人が皆正臣のような人間だとは思えない。小学生の頃から正臣には人を惹きつける不思議な魅力があり、どんな場面でも物怖じせずに話すという胆力も持ち併せていた。
この街にやって来てから僅か数日だというのに、自分は街と正臣に何度圧倒された事だろうか。そんな事を考えながら、自分もいずれはそうなりたいという思いに駆られつつあった。
帝人は東京に出てきた大きな目的の一つに、自分の見慣れた世界からの脱却というものがあった。はっきりとそう考えて行動しているわけではないが、彼の心の奥では、常に『新しい自分』を探し続けている。この町の中でならば、テレビや漫画の中にあるような『非日常』が起こるのではないか、そしてそれに自分が巻き込まれるのではないかと。
帝人は、別に自分がヒーローになろうと思っているわけではない。ただ、今までとは違う風を感じたいだけなのだ。帝人自身は気付いていないが、この街に初めて訪れた時に腹の奥底で感じた不安の中では、強い高揚感も同時に湧き起こり、激しくせめぎあっていたのだ。
そして、その高揚を、この街の新しい風を飼いならしている男が目の前にいる。わずか16歳の身でありながら、正臣は確かにこの街の中に溶け込んでいる存在だった。
帝人は目の前の親友に自分の求める全てがあると感じ、それと同時に街に対する不安と高揚も収まりつつある────筈だった。
だがしかし、次の瞬間──それらは全て打ち壊され、新たなる不安と高揚が少年の中に渦巻く事となる。
「やあ」
それは、とても爽やかな声だった。まるで、青空から直接声をかけられたような錯覚を与える、それ程までに透き通り、心地よく澄み渡るような声だった。
それにも関わらず──正臣はその声を聞いた瞬間、まるで背中一面に矢を射かけられたかの如き表情となり、瞬時に脂汗を浮かべながら恐る恐る声のした方角に向き直る。
帝人もつられてそちらの方に目を向けると、そこには実に爽やかな顔をした好青年が立っていた。優男風に見えるがなかなか精悍な顔つきをしており、眉目秀麗という褒め言葉を見事に具現化したような存在だった。その目は全てを受け入れるように優しく、自分以外の全てを蔑むかのように鋭い眼光を放っている。その他の服装等を見渡しても、全体的に個性的であるが突出した特長もなく、つかみ所が無い印象が渦巻いていた。
年齢も見た目だけでは正確にわからず、少なくとも二十歳は越えていると思われるが、それ以上の事は窺い知れない。
「久しぶりだね、紀田正臣君」
フルネームで挨拶をする眼前の男に対し、正臣は帝人に初めて見せる表情となって唾を吞みこんだ。
「あ……ああ……どうも」
完全にぎこちないその言葉に、帝人の心中も一気にかき乱される。
──紀田君がこんな顔するなんて、初めて見たかもしれない……。
正臣の目には怯えと嫌悪が入り混じり、尚且つその感情を無理矢理押さえ込んでいるように顔の筋肉を強張らせていた。
「その制服、来良学園のだねえ。あそこに入れたんだ。今日入学式? おめでとう」
男の祝いの言葉は淡々としていたが、完全な無感情というわけではない。ただ単に。声色には必要最低限の感情の起伏しか表れなかったというだけだ。
「え、ええ。おかげさまで」
「俺は何もしてないよ」
「珍しいっすね、池袋にいるなんて……」
「ああ、ちょっと友達と会う予定があってね。そっちの子は?」
男が帝人の方に目をやり、二人の目線が一瞬だけ交錯した。普段なら目を逸らしてしまうところだが、今の帝人は逆に目を離す事ができなかった。まるで、目を逸らしたらその瞬間に自分の全てが否定されてしまうような気がしたのだ。帝人は何故このような印象を受けたのか解らず、ただ、相手の眼力の異常な鋭さに身動きが取れずにいた。
「あ、こいつはただの友達です」
普通ならば名前も添えて帝人を紹介するはずの正臣が、明らかにそれを避けている。しかし、男はそれを意に介さぬように帝人に向って口を開いた。
「俺は折原臨也。よろしく」
その名前を聞いて、帝人は全て納得がいった。関わってはいけない人間。敵に回してはいけない人間。しかし、眼前の男からはそこまで危険な印象は受け取れなかった。眼光が鋭いという事と色男であるという点を除けば、どこにでもいるごく普通の青年に思える。艶やかな黒髪も、周囲を歩く髪を染めた人々と比べて浮いて見えてしまう。どこかの片田舎で塾の講師をしているインテリ、そんな印象の男だった。
──思ったより普通の人だなあ。
そんな事を思いながら、とりあえず帝人も名乗っておく事にした。
「エアコンみたいな名前だね」
帝人のフルネームを聞いて、臨也は嘲りも驚きも見せず、純粋な感想としてそう言った。
何か会話を続けた方がいいのかと迷っていたが、帝人が口を開く前に臨也が軽く手を挙げた。
「じゃ、そろそろ待ち合わせの時間だから」
それだけ言って、足早に去って行ってしまった。その背中を見送りながら、正臣が背を伸ばしながら肩で大きく呼吸する。
「俺らも行こうぜ、ええと、何処に行くんだっけか」
「今の人が──そんなに怖い人なの?」
「怖いっていうか……いや……俺も中坊の頃は色々やらかしたんだけどよ……あの人と一回関わってさ、怖くなったんだ。なんつーかさ、ヤクザとかとは違って──不安定なんだよ、あの人は。先が読めないってのかな。5秒ごとに信念が変わるっつーか。あの人の怖さは危ないとかそういうんじゃなくてさ……『吐き気がする』って感じなんだよ。じわじわと来る嫌さっていうのかな。とにかく、俺はもう二度とあっち側にはいかねえよ。帝人がガンジャとか吸いたいってんなら俺には頼らん方がいいぞ」
ガンジャ。突然出てきたその単語に、帝人は慌てて首を振る。直接見た事は無いが、ネットなどで得た知識でそれがどういうものかは良く解っているつもりだった。
「冗談だよ。お前はちゃんと二十歳まで酒も煙草もやらないだろうしな。とにかく、あいつと平和島静雄って奴には関わらない方がいい。それだけは覚えとけ」
それ以上は臨也に対して何も語りたくない様子で、無言のままで人の間を歩き続けた。
帝人にとって、こんな正臣を見るのは初めてだった。臨也という人間よりも、寧ろ今の正臣の様子の方が気になった。
──この街には、自分の関われる非日常に限りなんて無いのかもしれない。
飛躍した考えだったが、彼はその思いと共に、この街と今後の生活に対する期待をどんどんと膨らませていった。
町に来てから僅か数日。だが、今や帝人の辞書からは『帰りたい』という文字が完全に消え去っていた。
無機質に見えていた人の群れが、今では街の活気を上げる聖者の行軍のように見える。
──きっと、これから面白い事が起きる。きっと起きる。自分の憧れていた冒険が起こる。テレビドラマや漫画みたいな事が、この街でならきっと起こるに違いない──
歪んだ思いに目を輝かせながら、帝人はこれからの生活に確かに希望を見出していた。