池袋と新宿の間。目白の歓楽街から離れたとある場所に、その研究施設はひっそりと建てられていた。駅から離れているとはいえ、この東京の中にありながら、かなりの広さの土地面積を誇るその敷地に、フェンスと木々に囲まれた三階建ての研究所。
関東でも有数の製薬会社である矢霧製薬の新薬研究施設だ。しかし、関東有数だったのはかつての話で、現在は昔程の隆盛もなく、業績も右肩下がりの傾向が続いていた。
株価も下がりはじめたところで、アメリカの企業が吸収合併を申し入れて来た。『ネブラ』という100年以上の歴史を持つ複合企業であり、運輸業から出版、バイオテクノロジー等様様な分野に手を伸ばしている大手企業だ。磐石の業績の影では政治家との癒着など様々な噂も流れているが、その全てを合法的な力で抑えつけている。
吸収という形ではあっても、先方が提示している条件を吞めば大幅なリストラ等も無いという話なのだが──一部──特に社長を含む矢霧一族の面々が難色を示していた。
その中でも特に強く反対していたのは──若くして第六開発研究部、通称第六研の主任の地位につく、矢霧波江という女性だった。年は25歳であり、現在の社長の姪にあたる。
彼女自身の能力も類い稀なものであり、スピード出世は決して一族の威光が全てというわけではなかった。しかし、彼女の現在の地位には一族である事も大きく関わっている。地位ではなく、問題なのはその部署だ。
そして、その部署で扱っているものこそが──『ネブラ』が吸収を申し入れて来た最大の原因なのではないかと、一族内でまことしやかに囁かれ続けている。
第六研で扱っているものは、正確には薬ではない。表向きは臨床試験に向けた免疫系統の新薬開発という事になっていたが──そこに存在するものは、本来この世にあってはならないものだった。
20年前──伯父が海外で手に入れた、人間の首を模した剝製────それは生きているかの様に美しく、まるで眠っているかのようだった。美しい少女といった感じのそれは、悪趣味なものではあったが不思議と残酷さは感じられず、まるで首だけで一つの生き物であるかの様な印象を周囲に与えていた。
当時5歳だった波江は知らなかったのだが、それは外国から密輸した物らしく、確かに正規の方法では税関で止められていた事は間違いないだろう。
伯父が何に魅入られてその首を手に入れたのかは知らないが、それは矢霧家の家宝の様に扱われ、伯父は暇があれば書斎に籠もってそれを眺め、時には話しかける事すらあった。
従兄弟を訪ねてしょっちゅう泊まりに来ていた波江は、そんな伯父を不気味に思ったりもしたが──それも長い年月の中で次第に馴れていった。
ただ一つ、波江に不満があったとすれば、彼女の弟の矢霧誠二が、伯父以上にその『首』に惹き付けられてしまったという事だ。
最初に誠二が首を見たのは10歳の時。伯父の目を盗んで、波江がこっそりと弟に見せたのだ。その事を、彼女は今でも強く後悔している。
それから、徐々に誠二の様子がおかしくなっていった。
やけに伯父の家に行きたがるようになり、伯父の目を盗んでは『首』を見つめていた。
誠二の首に対する情熱は年を追うごとに強くなり、3年前──波江が伯父の経営する製薬会社に自力で入社した時、弟がこんな事を言い出した。
「姉さん。僕、好きな子がいるんだ」
弟が好きだと言ったその娘には、名前も──首から下の身体も存在しなかった。
その時に波江の中に浮かんだ感情は、弟の異常な性癖を哀れむ憐憫の情ではなく──紛れも無い、赤黒く錆び付いた嫉妬の炎だった。
波江の両親は、本来矢霧製薬の跡を継ぐべき存在だったのだが──波江に弟ができた頃、取引で重大なミスを犯し、すっかり会社の要職から締め出されてしまったらしい。それをきっかけとして夫婦仲がうまくいかなくなったようで、次第に娘と息子に対する愛情が薄れていった。
寧ろ、伯父の方が彼女達に対して積極的に接触を持っていた。自分達が伯父の家に行く事についても、両親は何も言わなかった。伯父を信用しているというわけではなく、純粋に興味が無いような感触だった。
だが──伯父もまた、自分達の事を『一族の駒』として接し、教育しようとしている節があった。そこに部下に対するのと同じ愛情はあっても、家族に対する愛は存在しなかった。
やがて彼女は、自分と同じ境遇である弟に、家族の繫がりを強く求める様になり始めた。それは次第に姉としての家族愛を通り越し、次第に一方的で歪んだ愛情へと変化を遂げていった。
だからこそ──彼女は自分の弟が『首』を愛する事が気にいらなかった。自分のかける愛情に応えない弟が愛したのは、絶対に愛が返って来る事の無い、ただの『首』だったからだ。
首に対して嫉妬するという自分にも異常を感じながら、波江は伯父の目を盗み、首を始末する事にした。
だが、ガラスケースに入ったその首を捨てようとして取り出した時──初めてその指で触れた時に、彼女は気が付いてしまった。
その肌の柔らかさは決して剝製などではなく、人の肌のぬくもりさえ持っていたという事に。
つまり、その首が今もなお生きているという事に────
それから更に年月は流れ──彼女は伯父を説得し、その首を会社の研究所で研究する事になった。伯父に詳しい話を聞いたところ──この首の正体はデュラハンという妖精なのだという。
──全く馬鹿げた話だ。羽の生えた人型の蟲ではなく、生首が妖精とはどういう了見だろう。しかし、どんな形であれ、重要なのは今ここに通常の生と死を超越した存在があるという事だ。これを逃す手は無い。
そう考えた波江は、生ける生首に対して様々な実験を行ってきた。半分は弟の件に対する嫉妬も混じっていたのだろう。何の遠慮も無く『実験対象』として扱い続けて来た。研究所の中にある限り、部外者である誠二も近づく事はできないであろうと考えていたのだが──
一つ目の問題として、研究を始めた頃から、『ネブラ』からの接触が始まった。完全に限定されたメンバーによる研究作業であるにも関わらず、相手の出してくる条件──この研究室の研究内容を含む全権限の譲渡──などから考えても、明らかにこの首の事を知っている様子であった。
裏切り者がいる可能性に、波江が他者に対して疑心暗鬼になっていた頃──二つ目の事件は起こった。他人を信用しなかった為に、常に自宅に持ち歩いていたカードキーを、何者かによって盗まれてしまったのだ。
その晩の内に事件は起こった。研究所に何者かが進入、三人の警備員をスタンロッドで昏倒させ、研究室から『首』だけを持ち去っていったのだ。
何という失態か、これで全てが御終いになるのか──波江がそう思いかけた時、彼女は一つだけ心当たりがある事に気が付いた。首の存在を知り、尚且つそれを欲し、カードキーを盗む事ができる人間────
だが、彼女がそれに気付くのとほぼ同時刻に、犯人の住むマンションから電話があった。
「姉さん、人を殺しちゃったかもしれないんだ。どうしよう」
入学式の前日、弟からそんな連絡があった。弟に付きまとっていた女が部屋に進入し、『首』を見られた為に壁にその娘の頭を叩きつけたらしい。
波江の中に起こった感情は、弟が他人を殺してしまったかもしれないという恐怖でも、弟が首を盗んだ事に対する怒りでも無く────果てしない喜びだった。
どんな形であれ、弟の誠二が自分の事を頼ってくれる。自分の事を必要としてくれる。それが何よりも喜ばしい瞬間である事に気付き────彼女は決意する。
どんな手を使ってでも、弟だけは自分の手で守ると────
♂♀
【セットンさんはダラーズって知ってます?】
[はい、名前だけは。っていうか、この話、前も甘楽さんがしませんでしたっけ?]
【あ、そうですね。失念してました、すみません】
[いえいえ]
【今日、友達からも噂を聞いたんですけど、やっぱり凄いみたいですねえ】
[うーん。実際に見た事は無いですけど、本当にあるんですかね]
【ネット上の虚構だっていうんですか?】
[いや、解りませんけど。第一、本当にあるチームでも、普通に生きてればまず会う事は無いでしょうし]
【そうですよねえ……】
[あんまそういうのに近づかない方がいいですよね]
────甘楽さんが入室されました────
《どもー! 甘楽でっす!》
【こんばんわー】
[ばんわー]
《何ですか何ですか、ダラーズの話ですか》
《本当にいるんですって、だって専門のホームページとかもあるんですよー!》
《見るにはIDとパスワードが必要なんですけど》
【へえ】
[まあ、別に見ませんから大丈夫ですけど]
【……甘楽さんは本当になんでも知ってるんですね】
《それだけが取り得ですからw》