夜半過ぎの池袋。歓楽街から僅かに外れた路上で、一台のバンが停車している。後部の窓は全てミラーガラスになっており、外からでは中に人がいるのかどうかも解らない。
そんな突発的に生じたミステリーゾーンで、何かを殴るような音と、若い男の憐れな悲鳴が響き渡った。
「知らないって言ってるじゃないっすかぁー。ちょッ……いい加減にしてくださいよ!」
顔を膨らしたチンピラが、使い慣れない敬語で苦情を漏らす。
彼は24時間程前にセルティを車で撥ねたチンピラであり、その後鎌の柄でしこたま殴られた男でもある。気が付けば自分は見知らぬバンの後ろ側に転がされていた。両手足を縛り上げられており、身動きが殆どできない状態だった。後部には座席が存在せずに、灰色の絨毯の床が広がっている。自分の目の前には男が一人いて、目が覚めた瞬間からこちらに向かって一つの質問を続けている。
「だからよ、お前らの上にいるのはだーれーだーっつってるわけよ」
三秒黙っていると殴られる。知らぬと答えても殴られる。
暫く間を置いて、また同じ事の繰り返し。そんな事がもう三時間も続いていた。
チンピラは殴られながらも、自分がおかれている事態を冷静に分析する。
──目の前にいるのが何者なのかは解らないが、とりあえずあの『影』はいないようだ。そもそも、あの『影』とこいつらに何か関係があるのかどうかという事さえも解らない。
車の中にいるのは眼前の大柄な男と、運転席でガムを嚙んでいる帽子の男ぐらいだ。車の中には中ぐらいの音量でクラシックのBGMが流れており、少々の喚き声ならば外から怪しまれる事は無いだろう。
──もしもあの『影』がいたらやばかった。パニックに陥って全部話してしまっていたかもしれない。だが、目の前にいるのは人間だ。少なくとも昨日のような化物ではないのだ。寧ろ目の前にいるこんな奴らより、『上』に始末される事の方が何倍も恐ろしい。警察に捕まらなかったのはラッキーだった。こいつらが何者かは知らないが、少なくとも自分の雇い主さえ話さなければOKだ。なあに、このパンチにさえ耐え続ければ、こいつらも俺が何も知らないと判断してくれるだろう。まさかこいつらもここで俺を殺すなんて無茶はしねえだろうし──
チンピラがそんな事を考えていると、眼前の男が溜息をつきながら言った。
「いいから吐けよ、あのな、あんたらと同じで、俺達にも俺達の『上』がいるんだよ。どんなんかは言わなくても解るだろ? その人達が気にしてるんだよ。お前らのやってる仕事が、俺らの『上』の人達になんの連絡もねえってよ」
──やはりこいつのバックには暴力団か何かがいるようだ。畜生、最近仕事をやった場所は、一応このシマの組連中と話がついてるんじゃなかったのかよ!?
「だがよ、この状況で名前ださねえって事は、ヤクザじゃないよな。それだったら、あんたはとっととケツモチのヤクザに連絡とって、あとは示談──俺らとは別の次元の話し合いで終わる。そうしないって事は、あんたらのバックはそういう類じゃないって事か?」
男はチンピラの顎を持ち上げながら、悪戯をした子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。眼前のチンピラに、ケツモチと呼ばれる暴力団等の後ろ盾があるならば、勝手に処分してしまうわけにもいかない。だが、その名前を出さないという事は、責任を取らされるのを恐れているのか──あるいはバックにいるのが暴力団や外資系マフィアの類ではないという事になる。
「あのよ、俺は親切で言ってやってるんだぞ? お前さ、悪いこと言わねえから今の内に──」
そこまで言ったところで、バンの横の扉が勢い良く開かれた。
「いやいやいや、今日は熱いっすねぇ」
「おーまーたせーっと! どう? 嶋田さん、そいつ吐いた?」
何の断りも無く、後部スペースに一組の男女が入り込んで来た。女の方はブランド物のファッションに身を包んでおり、男の方もかなり良いナリをしているが、なぜか背中にリュックを背負っている。
その二人の姿を確認すると、嶋田と呼ばれた男は悲しそうに溜息をついた。
「タイムオーバーだ。残念賞。こいつが可哀想だけどよ、後は遊馬崎達に任せるわ」
最後にチンピラの方を哀れみの籠もった目で見ながら、嶋田はバンから降りていった。
後に残った男女は嶋田を見送った後に扉を閉め、楽しそうにチンピラの方を向き直った。
「あーあー、貴方もバカな事したもんねえ。よりによってカズターノ君を攫うなんてさ」
女の方が首を振りながらチンピラの肩を叩く。
──カズターノ? 誰だ? どっかで聞いた事が──
少し考えて、チンピラは思い出した。確か昨日攫った不法入国者のオッサンだ。
──そうか、こいつらはあいつの仲間──って、ちょっと待て、どうみてもこいつら日本人じゃねえか。なんで? どういう繫がりだ? 茶飲み友達ってわけじゃねえだろう?
混乱しているチンピラの前で、目つきの鋭い男がリュックを下ろしてチャックを開く。
「いやいやいや、まだ吐いてないって事で──すんませんね。ちょっと拷問しやすよっと」
そう言いながら、男は数冊の文庫本を取り出した。
「いやいや、電撃11周年記念。君に電撃。ってことで、まあ、一冊選んで下さいよ。その本の内容にちなんだ拷問しますんで。いつもならスパロボアニメから選ばせるんだけどさ、今日は電撃文庫を沢山買ってきたから、ハハハ」
「へ?」
相手の意図というよりも単語の意味が解らず、思わずマヌケな声を上げてしまう。
目の前に並べられているのは、様々なイラストに彩られた小説の数々だった。もっともチンピラは漫画以外の本を一切読まないため、これらの本も漫画なのだろうと勘違いしていたが。
──なんだそりゃ? 拷問? 笑わせるなよ。本を選べってなんだよそれ、バカにしてんのか? くそ、遠足のバスの罰ゲームじゃねえんだぞ!
「いやいやいや、選ばないとコロします」
男の目はニコニコと笑っているが、その目に噓は見られない。それを裏付けるかのように、彼の手には何時の間にか銀色の金槌が握られていたからだ。
それに気付いたチンピラは、とりあえず被害の少なそうな本を選ぼうと必死になる。
──畜生! なんだって俺がこんな目に! ガっさんとかはどうなっちまったんだよ! くそ、とにかく選ばねえと……とりあえずこの『撲殺天使ドクロちゃん』とかいうのはやめとこう、表紙にゃ女の絵が描いてあるが、題名からして何をされるか丸解りだしな。……この『ダブルブリッド』……V? ……ってのはどうだ? いやまて、絵でこの子供の頭に包帯が巻かれてるじゃねえか。やっぱり撲殺されるのか!? くそ、どれが一番マシなんだよ………
「私のおすすめはその『いぬかみっ!』ってやつね!」
女の方がそう叫ぶと、男の方もそれに同意した。
「あー、いいすね、だいじゃえん? しゅくち?」
「しゅくちは昼間の方がいいよ。あー、やっぱドクロちゃんもいいかな?」
「いやいやいや、エスカリボルグの準備が面倒で……」
──??? なんだ? どっかのチーム名か!?
チンピラには二人が何を言っているのか解らない。さっきからブツブツと、眼前の男女の前では謎の単語が飛び交っている。話についていけないのは彼だけではなく、殺し屋のように鋭い目つきをした運転席の男も、うんざりとした表情でガムを嚙み続けていたのだが──
「おい、遊馬崎も狩沢もよぉ。俺は学がねえから本なんざ読まねえ。だからよ、お前らの言ってる事はさっぱりわからねえが、一個言っとくぞ」
不意に何かを思い出したように、それまで黙っていた運転席の男が声を上げた。
「お前らの自己満足は別にいいけどよ、こないだみたいに車ん中でガソリン使うなよ」
「えー、渡草さんのケチー」
それを聞いて、男はシブシブと何冊かの本をチンピラの前から片付けた。
──ガソ……ッ!?
自分の想像が甘かったという事を思い知らされながら、チンピラはいよいよ決断ができなくなっていた。目の前に残った本の内で、一体どれが一番自分の被害が少ない拷問がくるのかが全く解らない。考えてみれば、本の内容がどうであろうとも目の前の奴らは何かのこじつけをするに違いない。
「ひ……ひとつ聞いていいですか」
「んー? なあに? どんな拷問か教えてってのは無しね。ネタバレは厳禁厳禁」
「も……もしここにシンデレラの絵本があったとして、俺がそれを選んだらどんな事をする?」
その問いを聞くと、男は暫く考えた後に、ポンと手を打ってこう答えた。
「まあ、ガラスの靴に合うようになるまで足をヤスリで削るって事で」
──ほらみろ。どれ選んだって同じなんだ畜生め!
チンピラは半ばヤケになって、目を瞑って本を一冊摑みとった。英語のタイトルの横に、日本語のサブタイトルが書かれている繊細なイラストの本だった。
「はい、決定ーッ!」
「いやいやいや、勇気あるなあ、それを選ぶなんてッ!」
そこから先は、二人の男女は異常に手際の良い様を見せた。女がハンドバッグから手鏡を取り出して男に渡す。すると男は即座に手鏡を金槌で叩き割り、粉々になった鏡の破片を何枚か掌に取った。
「いやいやいや、何枚入れれば俺達に見えないモノが見えちゃうかなっと。大実験開始」
一方、女は縛られているチンピラの頭を手で押さえ、左目の瞼を無理矢理大きく開かせる。
その時点で、チンピラは自分がこれから何をされるのか簡単に予測がついた。
「ちょッ! ま、待て! 洒落に、洒落にならねえだろオイ! 待て! までぇぇッ!」
「良い子はマネするなよー、っていうか、しないよねえ、普通はこんな事」
だんだん真剣な表情になる遊馬崎に、軽い調子で狩沢が受け答える。
「漫画に影響されて殺人しちゃいましたって奴?」
「いやいやいや、チンピラさんにさー、誤解が無いように言っとくけど、漫画や小説は何も悪く無いよー。漫画や小説は黙して語らず、罪はいつでも沈黙する者に。縛られ地蔵って奴?」
二人が微妙な会話を続ける間にも、チンピラは一人で止めてくれと泣きながら喚いている。男はその叫び声を無視しながら、鏡のガラス片をゆっくりと、しかし躊躇無くチンピラの眼球に近づけていく。
「漫画も小説も映画もゲームも親も学校もほっとんど関係無い。強いて言えば、俺達が狂ってるだけ。漫画も小説も無かったら時代劇ネタでやるし、それも無かったら多分夏目漱石の本とか、文部省推薦のもんでやっちゃうよー。そしたらどうするのかねえ、政治家の皆さんはっと」
「やめろぉぉおぁおぁぁあっぁあああッ!」
「そもそも、漫画の影響受けてやりましたとか抜かす奴は、最初からマニアじゃないよね」
あと僅かで眼球にガラス片の鋭角が染み込もうというところで、チンピラにとっての救いの神が現れた。
「おい、止めとけ」
突然バンのリアパネルが開いたかと思うと、野太い男の声が車内に飛び込んできた。
「ドタチン!」
「か、門田さん」
男女がそれぞれ目を見開いて姿勢を正す。どうやら二人にとって格上の人間が現れたようだ。門田と呼ばれたその男は、チンピラをジロリと睨みつけ、続いて男女の方に目をやった。
「拷問になってねえだろ。それと、本を血で汚すな馬鹿野郎」
「す、すんません」
それだけ言うと、門田は片手でチンピラの襟首を摑み上げた。チンピラは全くリズムの整っていない呼吸を繰り返し、目と鼻と口から涙と鼻水と涎の入り混じった液体を流している。何とか落ち着きを取り戻し始めたチンピラに対し、門田は一言だけこう言った。
「お前の仲間なあ、ゲロったぞ」
「あぅ……え……ぇあ!?」
最初は何を言っているのか解らなかったが、その意味を理解してチンピラの表情が目まぐるしく変わる。
──裏切った!? 誰が!? ガっさんが、いやまさか、じゃあ誰が、畜生、どうなってる、俺達はもう御終いじゃねえか! どうなってんだ!
「まだ半分ぐらいしかゲロってねえが、時間をかけりゃなんとかなるだろ。っつーわけで、お前はもう用無しなんだ」
用無し、つまり開放されるという事だろうか。それならば好都合だ。どうせ会社の連中に始末される運命ならば、このままどこかに逃げてしまった方がいいというものだ。混乱の只中にあるチンピラに希望が生まれかけるが、門田の言葉があっさりとそれを覆す。
「だからまあ、あれだ。安心して死ね」
その瞬間、チンピラの中で全てが決壊した。
「待ってくれ! い、いや、待って下さいぃ! 話すッ……話しますからッ! 何でも話しますアイツラが喋ってない事も全部話しますからお願いですお願いです殺さないで下さいぃ!」
「なるほど、つまりあんたらはそんなナリでもサラリーマンなわけだ。一応」
チンピラの話によると、彼らを雇っているのは小さな派遣会社であり、そこからの依頼で様様な仕事をこなす便利屋的な仕事を行っているそうだ。だが、正確に言えばそれすらも表向きの話であり、更に裏を探ればその派遣会社は裏ではただ一社との専属契約なのだそうだ。
そして、その企業は──池袋の近くに本社と研究棟を持つ、最近落ち目の製薬会社だった。
チンピラの話を聞いて、門田は楽しそうに笑う。
「落ち目の企業が、人攫いをして人体実験かぁ? 何処の国の話だよオイ」
口ではそう言ったものの、頭の中ではチンピラの供述を疑ってはいなかった。この期に及んで噓をつくとも思えないし、矢霧製薬については妙な噂を多く聞いているからだ。
チンピラを適当な場所で開放しろと言うと、そのまま門田は車から離れようとする。
その背中に、チンピラが弱々しい声で問いかけた。
「あぁ……あんたら、あんたら何なんだよ……一体よぉ……」
門田は足を止めて、振り返りもせずに答えた。
「……『ダラーズ』、つって解るか?」
門田が完全に車から離れたところで、同じく車外にいた嶋田が声をかけてきた。
「あの、門田さん。他の奴が吐いたって……噓でしょう」
「ばれたか」
嶋田は門田に呆れたような顔を向けると、やがて諦めたように微笑んだ。
「まあ、あのまま遊馬崎とかに任せるのも嫌だったんでな。俺も好きなんだよ、電撃文庫。だからああいう真似されると胸が痛むんだ」
「……はぁ。それにしても──初めてですよね、『ダラーズ』になってからこういう事をやったのって。まあ、俺らがカズターノの為に勝手にやってるだけなんすけど、そもそもダラーズがなけりゃカズターノとも知り合わなかったわけだし……」
門田も嶋田も、遊馬崎や狩沢などと同じ徒党を組んでいた集団だった。
最初は只の仲がいい集団だったが、自分の下に何故か遊馬崎達のような危うい連中が集まってくる。自分の何処に原因があるのか解らないが、集まってしまったからには、彼らが暴走をしないように管理しなければ──。そんな思いだったはずが、結局ずるずると就職先もみつけてやれないまま、門田以外の全員がフリーターという状態だ。
裏の人間に個人的な知り合いはいるものの、どこの組織のケツモチも無かった為に、大して暴れる事もしなかったのだが──ある日、集団のリーダーである門田の下に誘いが来た。内容は単純で、『ダラーズ』に加わらないかというものだった。
何の束縛もルールも無く、ただ『ダラーズ』と名乗るだけで良い──そんな奇妙な誘いだった。互いに得は殆ど無い話だったが、それまで池袋各地で噂になっていた『ダラーズ』の名を語れる事は魅力的だった。門田本人はそれほど興味も無かったのだが、周りの勢いに押されて、結局その誘いを受ける事にした。
──この押しの弱さが原因なのかもなあ。くそ、平和島静雄ですら普通に働いてるってのに。
最初は自分のメールアドレスを知る者の悪戯ではないかと思ったが──試しに承諾したところ、翌日には自分のハンドルネームが『ダラーズ』のサイト上の隅に表示されていた。
「今回の件に関して『ダラーズ』のボスは何て言ってるんです?」
「知らん」
「へ?」
「それが──困った事にな、俺もこの組織のリーダーを見た事がねえんだよ。それぞれの小組織で縦社会が出来上がってるってのに、一番上だけが見あたらねえんだ」
この奇妙な組織体系を作ったのが一体だれなのか、それが門田には気になって仕方が無かった。名前も顔も知らない奴の下につくのは気に食わないが、上がいない以上『誰かの下についた』という感覚は無い。
こんなものを作ろうとする奴がいるとすれば──
折原臨也
かつては池袋に住んでいて、何度も顔を合わせた事がある。人の事をドタチン等と呼ぶ無礼な男で、おかげで今では狩沢にまでそう呼ばれている。
思わず彼の名前が思い浮かんだが、わざわざ現時点で存在しない『上』を想像する事はマイナスにしかならぬと気付き、門田はそれ以上は何も考えない事にした。
結局この街で強いのはヤクザやマフィア、そして警察であり──ダラーズといえども、結局はその下に収まるしかないのだから。
どれだけ粋がったところで、自分達の数も力も最終的には意味が無く、結局は移り行く街の中の幻に過ぎないのだと。
だからこそ、幻が確かに存在したという『証』が欲しかった。
しかし、門田は知っていた。
それが『ダラーズ』なのかどうかは、結局幻が消えた後でなければ解らないという事を──