時間は、僅かに遡る。
帝人と杏里が喫茶店に入った頃──街の中に、一つの『駒』が動き始めた。
矢霧製薬・研究施設
第六開発研究部の会議室の中で、鈍い打撃音が響き渡った。
「逃げたって……どういう事なの?」
矢霧波江が叩き付けた拳の横で、倒れたコップがテーブルにコーヒーの洪水を引き起こす。淹れたてのコーヒーの熱が波江の手に襲いかかるが、彼女は表情一つ変えず、怒りと焦りで静かにその拳を震わせている。
「あれが警察にでも見つかったら、全て終わりなのよ!?」
彼女はその目を怒りと焦燥で満たし、周りにいる部下の顔をぐるりと見渡した。
「従順なフリをして、逃げ出す機会を窺ってたわけね……」
やがて、自分の怒りを必死に抑えつけるように唇を強く嚙み、口紅よりも赤い色が舌の上を転がった。
「……いいわ、『下』で動かせる連中を全部使って探させなさい。いつもみたいにコソコソする必要は無いわ、全力で動かして──トラブルが起こったら適当に処理させて」
「傷つけないように指示しますか?」
傍らに居た部下の一人が、淡々とした口調で問いかける。
それに対し、波江は僅かに考えた後、ハッキリとした口調で返答した。
「惜しくはあるけれど──この際、生死は問わないわ」
♂♀
姉の居るはずの研究施設に向かい、矢霧誠二は大きな溜息をついた。
──ああ、これは愛なのだ。どうしようもなく、愛なのだ。
誠二が『彼女』に出会ったのは、今から5年程前の事だ。当時10歳だった少年は、姉に連れられて伯父の所有する秘密に触れた。
ガラスケースに入れられた『彼女』は──まるで幼い頃に読んだ童話のような、待ち人の到来を夢で望み続ける眠り姫のように思えた。生首という形態にも関わらず、誠二の心には微塵の恐怖も嫌悪も生じず、逆に少年の心はそのオブジェの魅力に完全に捕えられてしまった。
成長を続けると共に、誠二は理性というものを心に纏い始める。だが、その理性は全て『彼女』を起点として意味づけられたものであり、彼の精神は徐々に『彼女』に蝕まれていった。
別段、生首が特殊な意思を持って魅了したわけでも、怪しげな電波やフェロモンが放出されていたわけでもない。ただ単純に、首は生き続けていただけなのだ。矢霧誠二という少年は、自分の心に従い続けた結果として、『彼女』を完全に愛してしまったのだ。
矢霧波江が、愛情の繫がりを弟に求めたように──弟は、その物言わぬ首に愛を求めたのだ。
そして、純粋な想いは、彼をただ行動に走らせる。
姉が研究と称して持ち去った『彼女』を見て、誠二は思う。──ガラスケースの中から彼女を自由にしてやりたい。彼女に世界を与えてやりたい。
それこそが『彼女』の望む事だと信じ、長年に渡って彼はチャンスを待ち続けた。姉の持つセキュリティカードを盗み、警備員の巡回ルートを完全に把握した上で、彼らをスタンロッドで気絶させる。罪悪感は無かった。誠二はただ、『彼女』の喜ぶ顔が見たかっただけなのだ。
だが──『彼女』を無事に外に連れ出した後も、『彼女』はその目を開いてはくれなかった。
首は自分の愛に応えてくれない。だが、それはまだ自分の愛が足りないからだ。彼はそう呟きながら、一方通行の愛を永遠の繫がりであると信じ続けている。
──一度手に入れてから手放した愛は、どうしてこうも愛おしいのか。
恋に恋する中学生がノートに書き溜めるような事を呟きながら、誠二は力強い足取りで研究所に向かっていた。
「姉さんに任せるとは言ったけど……やっぱり彼女を一人にはしておけないよ。それに、いくら研究のためだからって、彼女を切り刻んだり頭の中をのぞいたりするなんて可哀想だよ」
事の重要さをまるで理解していない台詞をブツブツと呟きながら、誠二は研究所の入口がある通りに入っていった。
「やっぱりあの時に返すべきじゃなかった。断固として抗議しなきゃ。姉さんだって伯父さんだって、僕達の愛を見せればいつかは納得してくれるさ。それでも駄目なら、駆け落ちしよう」
まるで身分違いの恋を打ち明ける貴族のようなセリフだが、彼の中ではその決意になんら後ろめたい事もなく、今の様子だけ見ればただの前向きな高校生なのだが──その彼女が、眠り続ける生首だと解れば、逆にこの普通さが恐ろしく異常なものと受け取られる事だろう。
だが、真に恐ろしい事は──この時点で既に、彼の頭の中からは『張間美香』という存在が消え去っていたという事だ。自分が手にかけた存在ではあるが、彼には既に彼女の顔も声も思い出せない。彼にとっては自分の愛の障害となる女を排除しただけであり、愛のみに生きる男は、排除した障害をいちいち覚えるような真似はしないのだ。
「いざとなったら、また姉さんのカードを盗んで忍び込もう」
物騒な事を考えていると──彼の前で、研究所から清掃業者の車が出て行った。
だが、誠二は知っていた。あれが実は清掃業者ではなく、研究室で『下』と呼ばれている、直属の『人攫い』だという事を。人攫いと言っても遠い外国であるような話ではなく、非合法な人体実験の類を行うためのものだ。
そして誠二は知っていた。この人買いを利用し始めたのは、全て『彼女』の研究のためだという事に。彼女の細胞やDNAデータ、あるいは体液といったものをそうして攫ってきた人間を使って実験を行うのだ。リアルに存在する『首』の為に、どうしてそのように都市伝説的な事をやらなければならないのか不思議だったが、恐らくは矢霧製薬をのっとろうとしている『ネブラ』がプレッシャーをかけているのであろう。誠二はそう理解していた。
人体実験と言っても残酷に切り刻むようなものではなく、常に麻酔をかけて仮死状態にしたまま実験を行い、データが得られたら生きたまま街の公園などに放置するという手法らしい。本来なら警察に失踪を訴えられない不法滞在の外国人で、尚且つ暴力団のバックなどが居ない人物を攫うそうだが──『下』は下で、自分達の都合で家出少女を攫ったりして横流しをしたりしているという噂もある。
──まったく反吐が出る連中だ。人の命を何だと思ってるんだろう!
自分の事を顧みない憤りを感じながら、誠二はその軽トラックを睨みつけ────そして、その後ろに人がへばりついている事に気が付いた。
トラックの後ろにしがみついているそれは──いや、その人は首の回りに傷跡のようなものがあり──
その傷の上に載っていたのは──愛しい愛しい、彼女の姿。
♂♀
駅前の大通りを、ヘッドライトの無いバイクが音も無く走る。
交番の前を通り過ぎるが、無音のバイクが前を過ぎ去った事を警官は気付いていない。時折、エンジン音のしないバイクに通行人が不思議そうな顔で振り向くぐらいだ。流石に駅前では目立たないように走っているので、特に走行に支障はない。気を使う事と言えば──ライトの無い自分のバイクが原因で、他の車が事故を起こさないかという事だけだった。だからスピードを出す時にはあえてエンジンに嘶かせ、周囲を走る全ての人間に警戒を与える。
首無し馬──コシュタ・バワーの嘶きには人を畏怖させる力があり、バイクに憑依した今でもそれは殆ど変わっていないのだが──時折、このエンジン音を良しとし、逃げるどころか惹かれるように集まってくる人間もいる。人間の多様性に戸惑いながらも、デュラハンは長い年月の中で次第に街での走り方を身に着けていった。その内に、自分の存在が『都市伝説』になっているとは露知らず──
仕事が無い時、セルティはこうして自分の『首』を探して街を彷徨うのだが──街中で生首が見つかる筈もなく、実質的に何の意味も無い散策だ。デュラハンもそれを理解しているが、何もせずにいる己も許せず、こうして街を彷徨い続けるのだ。
日本に来て驚いたのは、自分以外の妖精や精霊といった類が全くと言っていいほど見られなかった事だ。ごく稀に、公園の中や60階通りの入口に生えた街路樹などから『何か』の存在を微かに感じたりもするのだが、その姿を目にした事は一度も無い。故郷のアイルランドでは、まだ多くの『仲間』を感じる事もあったのだが。こんな事ならば、首をなくした時に仲間のデュラハンを探して協力を仰いだ方がよかったのではないか──そうも考えたが、今となっては後の祭りだ。20年前と比べて密航に対するチェックの厳しさは何倍にも膨れ上がり、今や日本から出るには『頭』の存在が必要不可欠なものとなっていた。
ともあれ、デュラハンの行動範囲でそういった『超自然的な存在』を見つける事は、ほぼ不可能であるように思われた。
──これが人の世というものか。NYやパリでも同じなのだろうか。今度八王子の森とか……いや、思いきって北海道とか沖縄にでも行って探してみようか……。
そんな事も考えたが、首の無い自分は、新羅がいなければろくに旅行にも行けはしない。ヘルメットを装着したままで怪しまれない場所などたかが知れているのだから。
それに、せめて首を見つけるまでは、この東京を離れるわけにはいかなかった。もしも他の土地に出かけ、元に戻った時に──首の気配が消えていましたでは話にならないからだ。
首の気配が途切れる場所を地図などでチェックすると、確かにこの池袋周辺が中心であるという事を示すのだが──それ以上の精度についてはどうしようも無い為、結局は地道に探す道しか残されてなかった。
探すと言っても結局はパトロールの様なもので、気になったものをネット等で調べ、更に怪しいと思ったものは新羅や臨也に調べて貰うという程度の事しかできない。
そして当然──この20年間、何のヒントも得られはしなかった。
今日も無駄な日々が続くのだろうかと、セルティの心に新羅の言葉が響く。
『諦めようよ』
そんなわけにはいかなかった。確かに今の生活に不満があるわけではないが、自分の中に渦巻く、ある感情を抑えるためには──真の平穏を得る為には、どうしても自分の首と再会する必要があったのだ。
信号が赤に変わり、セルティのバイクが無音のままで停車する。その時──道路わきの歩道から、自分に声をかける者の姿があった。
「あ、セルティ」
意識と視界をそちらに向けると──そこには、バーテン服を着た姿の男が居た。
新羅曰く、『この街で最も名前負けしている男』、平和島静雄だ。
「ちょっと付き合ってくれないかな」
20年前から池袋を走り続けるセルティにとって、彼とは昔からちょっとした交流がある。勿論相手はセルティの正体も性別も知らないが、静雄はそういった類の事は全く気にしない男だった。信号が青に変わると共に路地へと左折し、適当なところでバイクを降りる。
静雄の服は何箇所かナイフで切り裂かれたような痕があり、恐らく誰かと喧嘩した直後だろうと思われる。
静雄の服をこれほど切り刻める人物だとすると、恐らくは折原臨也だろう。そして、まもなく本人の口からその答えが語られた。
「臨也の奴がまた池袋に来ててさ……もう少しでぶん殴れたんだけど、あと一歩のところでサイモンに止められたんだ」
今の言葉だけを聞いていると、静雄は名前通りに大人しいタイプの人間だ。だが、それはセルティが喋らないからだ。
静雄は些細な事ですぐにキレる。言葉に対して苛立ちや怒りを感じるタイプのようで、おしゃべりな人間を相手にすればするほど態度が横柄になる。一度新羅と会話する静雄を見た事があるが、まるで爆発寸前のダイナマイトを扱うかの勢いであった。
特に理屈をこねくり回す人間が大嫌いで、折原臨也とは昔から犬猿の仲であった。また、臨也も理屈が通じない相手を苦手としており、まさしく互いにいがみ合っているような状態だ。
臨也が新宿に引っ越すまでは、毎日のように60階通りで喧嘩をしており、サイモンがその喧嘩を無理矢理収めて自分の寿司屋に連れて行くという事の繰り返しだった。
新宿に移る時、臨也は置き土産とばかりに、彼に幾つかの罪を擦り付けていった。勿論、そこから自分が目をつけられるようなヘマはせずに──
それ以来二人の対立は決定的なものとなり、どちらかがどちらかの街に行くたびにトラブルが起こる。トラブルと言っても単なる喧嘩であり、臨也が上手く立ち回るので警察や暴力団が出るような事態にはまだ陥っていないのだが────
「俺は門田とか遊馬崎とは違って、何かやらかす時はいつも一人だった。それは臨也だって同じだと思う。あいつには仲間ってものが居ないからさぁ。だけど、俺だって寂しくないわけじゃないんだ。形だけでもいいから、本当は人と関わりたいんだけどね」
愚痴を溢し続ける静雄に対し、セルティは適当にヘルメットを傾けて頷くフリをし続けた。
サングラスをかけたバーテンダーと、ヘルメットを被った『影』。傍から見ると中々シュールな映像だったが、街の人々はちらりと目を向ける程度で、それ以上は特に気にする様子も見せてはいない。
静雄は大分酒が入っているようで、恐らくはサイモンの働く寿司屋で飲みまくったのだろう。
放置するのも気がひけたので、暫くその愚痴に付き合っていると────
「しかし──臨也の奴、何でこの街に来たんだ?」
その答えについてはセルティが知っている。臨也の歪んだ趣味の舞台が池袋だっただけだろう。だが、セルティにも一つ気になる点があった。
──昨日今日、二日続けているのは確かに珍しいな。
新宿を根城にする情報屋は、決して毎日が暇という事も無いはずだ。静雄がいるにも関わらずに滞在を続けているとなると、何らかの目的があって来ていると考えた方が普通だろう。
「そういやあいつ、来良学園のガキに何か話しかけてたような気が……」
そこまで呟いて、静雄は不意に言葉を止める。そして、町の雑踏に目をやりながら───
「何の騒ぎだ?」
静雄の呟きに、セルティは周囲に視覚を向ける。街を歩く人々の内、何人かが一人の人間を振り返って注目をしている。彼らの目線の先には、一人の女がいた。
少し前の通りを、パジャマ姿の女──年は十代後半だろうか──が、おぼつかない足取りで夕暮れの街を歩いている。
もしかしたら怪我でもしているのか、もしかしたら街のごろつきに監禁されていたところを逃げ出したのかもしれない。
セルティとしてはなるべく目立つ真似はしたくなかったのだが──人命がかかっているならそうも言ってはいられまいと、注意深く女の様子を探る。
──そして、彼女はその場に凍りついた。
自分の記憶に僅かに残る、湖や民家の窓に映った自分の顔。
闇のような黒髪が目に軽くかかる、己の心に刻み付けたその顔が──道を歩くパジャマの女の首の上に載っているではないか!
セルティは感情を一気に爆発させ、飛ぶように駆け出した。それを見た静雄も何事かとばかりに後に続いて女のもとに向かっていった。
フラフラと歩く女の手を摑み、勢いよくこちらに振り向かせる。女は驚いたように息を吞むと、狂ったような声を上げてセルティの手を振り解こうとする。
「やッ……ぁっぁあぁあぁ、イヤァァァアアアッ!」
周囲の目がセルティ達に注がれるが、セルティは興奮していてそれに気付いていない。ただ、顔を良く見せてくれと伝えたかったのだが、この状況ではPDAを出すこともままならない。
「あー、落ち着いてください。俺達は別に怪しいもんじゃないから」
静雄が助け舟を出そうとして近づいて行った。彼は何とか少女を落ち着かせようと、肩に手を置こうとしたのだが────
ドスリ
刹那、彼の腰に衝撃が走った。臀部の下、太腿の辺りに何か強い違和感を感じ、冷たさと熱さが同時にズボンの奥に侵入してきた。
「あ……?」
静雄が振り返ると、そこにはブレザーを着た青年が立っており、身を屈めながら静雄の太腿に何かを突き立てている。
それは、何処にでも売っているような事務用のボールペンだった。見ると青年の鞄が半分開いており、どうやら自分のペンを取り出して静雄の腿に突き刺したようだ。
「あぁ……?」
「彼女を離せ!」
青年の叫びに、セルティもそちらを向いて──突然の流血沙汰に気付き、思わず動きを止めてしまう。
その隙をついて、パジャマ女はセルティの手を振り解き、路地の奥へと走って逃げ出してしまった。
セルティはその後を追おうともしたが、何とか踏みとどまって背後を振り返る。そこには足にボールペンを二本突き立てられた静雄がいて、その後ろではブレザーを来た青年が三本目のボールペンを取り出していた。
周囲の人ごみがざわめき立ち、何人かの人間が慌てて後ずさる。そこには無関心と恐怖が混在し、何事も無かったかの様に遠回りに横を過ぎていく者や、最初から事態に気付かずにすぐ真横を通っていくものなど様々だ。中には携帯を取り出して写真を撮ろうとしている者さえいた。交番は近くに二箇所あるが、ここは丁度その中間にあるため、どちらに向かうとしても300メートルぐらいの距離がある。
そんな野次馬の様子を尻目に、ブレザー姿の青年が三本目を構えたままでパジャマ姿の女が走っていった方向に目を向けていた。
そして一言、
「良かった……」
何が良かっただと詰め寄ろうとしたセルティに、静雄が勢いよく手を突き出した。
掌がヘルメットの寸前でビシリと止まり、何事も無かったかの様な笑顔で呟いた。
「あ、俺は大丈夫だから。酒のせいであんま痛み感じない。だからいいよ、行って。良く解らないけどさ、おっかけなきゃヤバイんだろ?」
そして、サングラスを胸ポケットにしまいながら自分の頰をピシャリと叩いた。
「ハッハぁ、一度言ってみたかったんだ。『ここは俺にまかせて先に行け』ってよ」
それは敵が恐ろしく強い時に成り立つセリフであり、今の状態ではどう見てもこの学生の命の方が心配だ──セルティはそう考えたが、ここは静雄の好意に甘えることにした。このままここに残って警察に連行されたら、静雄が被害者だという事は証明できても自分の存在が説明できない。
セルティは両手をパシリと合わせて一礼すると、そのまま女を追うために自分の黒バイクへと跨った。そこで野次馬の中から『黒バイだッ!』『まじかよ!?』という類の声があがる。彼女の愛馬はその野次馬を追い払うかの様に、夜の街に高く高く嘶きを響かせた。
「待てッ!」
ブレザーの青年が、それを追って駆け出そうとする。
「いや、お前が待て」
その襟首を後ろからムンズと摑み、静雄が青年を引き寄せる。
「あの子、君の彼女?」
「そうだ! 俺の運命の人だ!」
逃れようと手足をばたつかせながら、青年──矢霧誠二は自信に満ちた声で答えた。
「……彼女、何であんなんなの?」
あくまで冷静なままで、静雄は相手の言葉に耳を傾けようとする。
「知るか!」
「じゃあ、彼女の名前は?」
「そんなもの知るか!」
遠目に見ていた野次馬達は、その瞬間、確かに寒気を感じた。それまで穏健な素振りだったバーテン服の男の顔に血管が浮かび──周囲の温度を一気に奪い去った。
周囲を底冷えさせて奪ったその熱を、全て己の怒りに上乗せして──平和島が、噴火した。
「なぁんだぁぁぁそりゃあああ───────ッ!」
そして、そのまま青年の身体が宙を舞う。
「噓ッ!?」
その叫びは野次馬の放ったものだった。
静雄は何の躊躇いもなく、誠二の身体を車道に向かって投げ出した。
誠二の身体は、信号によって停車した宅配便トラックの壁に叩きつけられる。もしも信号が青だったならば、誠二は今頃あの世行きだったかもしれない。それ以前に、人間が投げ飛ばしたとしてはありえない飛距離だったようにも見え、野次馬達は一斉に冷えた空気を吞みこんだ。
「好きな相手の名前も知らないってのはよぉー、ちょぉーっと無責任じゃぁねえのか? あ?」
全身を打ちつけれられて再び歩道に落ちた誠二に対し、静雄は再び襟首を摑んで自分の胸元へ引き寄せる。
だが、全身に激しい痺れを覚えながらも──誠二はなおも強い眼差しをして、鬼の様な形相の静雄を気後れする事無く睨み返した。
「人を好きになる事に……名前なんか関係ない!」
「あぁ?」
尚も鋭い眼光で睨み付ける静雄に対し、誠二は全く気後れを見せてはいない。
「じゃあ、なんで名前も知らない奴が運命の奴なんだ?」
「──俺が、愛してるからだ。他に答えなんかない! 愛を言葉に置き換える事なんかできやしないッ!」
考えるように覗き込む静雄に対し、誠二は握り続けていたペンを高く振り上げた。
「だから俺は、行動で示すッ! 彼女を守る、それだけだッ!」
静雄の顔面に向けて振り下ろされたペン。それをもう片方の手であっさりと受け止めると、静雄は怒りに目を赤く染めながら、口元でニヤリと笑って見せる。
「臨也よりは、ずっと気に入った」
静雄は誠二のペンを毟り取ると、ゆっくりと誠二の身体を胸元から離していった。
「だから、これで勘弁してやる」
そのまま一気に身体を引き寄せ、誠二の額に自分の頭を思い切り叩き込んだ。
小気味いい音がして、そのまま誠二はガクリと膝をつく。
静雄はそんな誠二を置いて、さっさとその場から立ち去ろうとする。
「あー、抜いたら血ぃでるよなあ、これ……絆創膏買ってから抜こう。いや、瞬間接着剤の方がいいか……」
そんな事を呟きながら、静雄は大通りから路地の中へと入っていく。野次馬の列が割れ、誰もが彼を避けるようにその場を離れ──やがて、一人一人が雑踏に戻っていった。そして──まるで何事も無かったかのように、後にはフラフラと立ち上がる誠二が残され、物好きな野次馬が尚も遠く離れた角から横目で覗いているだけだった。
「くそ……」
頭に激しい痛みを感じながら、誠二は静かに歩きだした。
「探さなきゃ……助けなきゃ……」
フラフラと歩く誠二のもとに、二人の警官がやって来た。
「君、大丈夫?」
「歩けるかい」
喧嘩があったという通報を聞いて来たのだが──その場に残ってるのは誠二だけで、後には何の跡も残っていない。静雄も足に刺さったペンを抜かなかったので、流血もズボンを浸すだけに留まったようだ。
「大丈夫です。ちょっと転んだだけですから」
「いや、いいからちょっと交番まで来て貰えるかな」
「話を聞くだけだから、それにその状態で歩くのは危ないよ」
警官は本当に親切心から言っている様にも見えたが──今の誠二にそんな暇はなかった。
なんとか彼女の姿を探そうとしていると──先刻の黒バイクの嘶きが聞こえてきた。
跳ね起きるようにそちらに目を向けると──そこには地下への入口に迫るように黒バイクが走り──パジャマ姿の女がいて──
「山さん、あのバイク!」
「今はいい、俺達じゃ無理だ。交機にまかせとけ」
警官達の言葉も耳に入らず、誠二はその女に目を凝らす。
彼女は誰かに引き連れられるように地下へと入り──その手を引いていたのは──
「竜ヶ峰……帝人」
女の手を引くクラス委員の姿を確認して、誠二はその場を駆け出そうとした。
「あッ、君! 待ちなさい」
「無茶しちゃいかん」
警官二人に抑えられ、誠二はそのまま力なく暴れだす。万全の状態の彼ならばあるいは振りほどけたかもしれないが、静雄の一撃がまだ身体に残っており、思うように力が入らない。
「離せッ! 離せよッ! 彼女がッ! 彼女がそこに居るんだ! 離せ離せ離せ! 畜生、何でだよ、何でみんな俺の恋を邪魔するんだよッ! 俺が何かしたのかよ! 彼女が何かしたのかよッ! 離せ離せ離せ─────ッ!」
♂♀
「で、君の首が身体をくっつけて歩いてて、捕まえたら高校生に邪魔されて、追いかけたら今度は別の高校生が現れて、君の身体を連れ去っていった──こんな世迷言を信じろって?」
新羅のマンションの中で、白衣の男は大げさに両腕を広げてみせた。そんな新羅の様子を気にする事も無く、セルティは力なくキーボードに指を這わせた。
『無理に信じろとは言わない』
「いや、信じるよ。君は噓をついた事は無いからね」
落ち込んでいるセルティを慰めるように、新羅が隣の部屋から力強い言葉を紡ぎだす。
「ふふ、益者三友とはよく言ったものだけれど、僕にとって君はまさしく益者一友の一だ! 正直で誠実で博識である君を生涯の伴侶とできた事を俺は誇りに思う!」
『誰が生涯の伴侶だ』
セルティは反論を打ち込むものの、その動きの中に新羅への嫌悪感は見られない。
「なんなら三つの益を努力・友情・勝利と言い換えても構わないよ」
『聞け。っていうか読めよ画面上の文字を少しは』
セルティは呆れながらも文字を打ち込み続けるが、医者は構わずに話を続ける。
「ならば俺もそれに応え、最大限の努力を持ってして君との運命のゲームを勝利に導くよ」
『友情は』
「お友達から始めましょうって事で一つ」
セルティは新羅のくだらない冗句に本気で怒る気にもなれず、軽く肩を竦めると、明日からの行動に目を向ける事にした。
『とにかく、落ち込んでばかりも居られない。いよいよ私の首が元に戻るかもしれないんだ。とりあえず、あの制服は来良学園の奴だと思う、明日から学校の校門に張り込んであの学生を探してみるさ』
画面に長々と打ち込まれたその文章を見て、新羅は不思議そうな顔をして尋ねかけた。
「それで、どうするのさ」
『決まってるだろ? 私の首のありかを問いつめる』
「それで──どうするの?」
『どうって』
そこまで文字を打ち込んで、セルティは新羅の言いたい事に気が付いた。
「身体を手に入れ、君に会っても悲鳴しか上げなかったというその『首』を、君は一体どうしようというんだ?」
何も答える事ができず、セルティの指がキーボード上で固まった。
「一人の人間として生きている『首』を、高校生の知り合いが居るっぽい君の首をどうしようっていうの? 君の為に、その首を身体から切り離すのかい? それは、余りにも残酷な結果なんじゃないかな」
暫しの沈黙の後──セルティは自分が震えている事に気が付いた。今、新羅が言った事は事実だ。『首』はセルティの事を理解していなかったようだ。ライダースーツだったからというのもあるかもしれないが──少なくとも、今の『自分』とは全く別の自我が首自身に芽生えているという事になる。
──首を完全に手に入れる為には、首を身体から切り離す必要がある。だが、身体を得て既に一つの生命体になっているのに、その首を胴体と切断して良いものなのだろうか? あるいは、『首』を説得してずっと一緒に居て貰うという形でも、一応は『取り戻した』と言えるだろうが、それでは何の解決にもならないではないか。そもそも自分は年を取っているという感覚は無いが、首はどうなのだ? これから数十年後でもあの若さのままなのか? 首だけの時は年を取らなかったとしても、身体とくっついた現在の状態ではどうなのだろう。
最終的な結論に辿り着く前に──セルティは根本的な疑問を提示する事にした。
『そもそも何で私の首に、私以外の身体があるんだ?』
「まあ、実際に見ていない私が何を言っても白河夜船、つまりは知ったかぶりにしかならないからねえ。その程度の推測でもよければ話させてもらうけど?」
新羅は少しの間考え込むと、おぞましい結論をあっさりと告げた。
「体格の合いそうな女の子を見つけて、適当に首をすげ替えたんじゃないかな」
その答えは確かにセルティも想像していたが、こうも淡々と言われてしまってはどうしようもない。複雑な心境のセルティに、新羅は更に自分の論を付け加えた。
「まあ、国かどこか──より大げさにするならば、軍の極秘研究機関があの『首』を手に入れたとして──様々な実験をし尽くした後は不死の軍隊を作っちゃえとかそういうノリで、首の細胞からクローン技術で全身を作って、デュラハンの持つ『記憶』を得る為にそのクローン体と首をすげ替えた────ってのはどうだろう」
『ゴールデンラズベリー賞は間違い無しだな』
ダメ映画賞と呼ばれる映画のイベントになぞらえながら、セルティは新羅の意見を半分聞き流した。だが、もう半分──どこかの研究所というのは大いにありえる話だ。
「まあ、クローンは飛躍しすぎだとしても、適当に死体と繫ぎ合わせたりはしたかもしれないね。あるいは、生きた人間を攫ったりして、殺した直後なら、生き続ける首を繫げたら身体の方も生き返るんじゃないか、とかね。論理的には馬鹿馬鹿しい話だけど、そもそも君と君の首自体が論理的にありえない存在なんだ。死人の身体を乗っ取ることだってあるかもしれない」
『反吐が出る。だが、いくらなんでもそこまではしないだろう』
「確かに、まともな人間のやる事じゃあない。だけど──きっかけさえあれば人間はなんでもするよ。例えば、可愛い娘が死んで、せめて身体だけでも永遠に生かし続けたいとか──あるいは、間違って殺してしまった人間を隠す為に、研究に使っちゃったとかね」
ある意味、人体実験よりもドロドロとした事を平気で語る新羅。セルティはそれ以上は聞きたくないとばかりに、キーボード上に指を躍らせる。
『とにかく──あの『首』と、一度話をしてみようと思う。話はそれか』
完全に文字を打ち終わる前に、新羅が力強く言い放つ。
「そうやって結論を先延ばしにするつもりかい?」
新羅の声は真剣そのもので、先刻までの享楽的な雰囲気はすっかり消え去っている。
──解っている。私だって、解ってはいるのだ。こうなってしまっては──自分が、首を諦めるしか無いという事に。
その思いを一頻り嚙み締めた後に、セルティはゆっくりと指を動かした。
『認めたく無いんだ。自分のしてきた事が──この20年間がすべて無駄だったなんて』
文字列を寂しそうに見つめた後──それまで居間のパソコンの前でやりとりをしていた新羅が、セルティのいる隣の部屋の中に入ってきた。そして、セルティの隣に腰掛けながら、彼女のパソコン画面を直接覗き込んだ。
「無駄なんかじゃないさ。──君が生きて来たこの20年は無駄なんかじゃない。これからの人生に生かせば、どんな事だって無駄じゃないさ」
『何を生かせというのだ』
「例えば──僕と結婚すれば、これまでの20年はその布石だったんだなあって思えるようになるさ」
いけしゃあしゃあと言ってのける新羅に対し、セルティは暫し動きを止めた。
普段ならば単なる冗談と受けとって流すのだが──最近の新羅は、妙にそういう事を意識しているような気がする。
『ひとつ聞いていいか?』
「いいよ」
このような事をストレートに尋ねて良いものか迷ったが、やがて決意したように、セルティはキーボードに指を躍らせる。
『新羅は、本当に私の事が好きなのか?』
それを読んで、新羅は大げさに天井を仰ぎ嘆いた。
「何を今更!? あああ、心に哀を思えば涙双眼に浮かぶとはよく言ったものだ。そして今の僕の悲しみは君に今までの言動を信じてもらえていなかったという事じゃない。君に僕の愛が伝わらない事が悲しいんだ」
『私には首が無いぞ?』
「俺は君の中身に惚れたんだって。よく言うだろ? 人間は顔じゃないって」
『私は人間じゃない』
──自分は結局人間ではない。ただ、人間を模しているだけの化物だ。だが、首と共に記憶を失った今となっては、自分がなんなのか、何の為に生まれ、存在しているのだろうか。
複雑な想い、伝えきれない思い。心の中に渦巻くものは無数にあったが、パソコンの画面上には単純な言葉の組み合わせだけが浮かび上がる。
『お前は怖くないのか? 人間以外に好意を持つ事が、自分とは物理法則すら異なる化物に対して、どうしてそんな事が言える?』
パソコンの文字列の勢いが早くなる。それに対応するかのように、新羅も声の調子を強くしていった。すると、新羅は少しだけ呆れたような声を上げる。
「20年も一緒に暮らしといて何を今更……。別に気にする事は無いんじゃないかな。俺と君の間で意思の疎通ができて──お互いが好きなら問題ないと思う。いや、君が俺を嫌いなら仕方ないんだけど……俺達は単なる唇歯輔車の──損得だけの間柄じゃないだろ? だから、もっと信用してくれないかな」
珍しく自分をアピールする新羅だが、四字熟語の使用にまだまだ心の余裕が感じられる。
『お前の事は信用している。信用してないのは寧ろ私自身の事だ』
せめて相手に余裕があるうちにと思い、セルティは思い切って悩みを口に出してみた。
『私は、自信が無い。私がもしお前や、別の人間に対して恋をしたとして──恋愛の価値観は、私とお前は一緒なのか? ああ、私はきっとお前の事が好きなのだと思う。ただ、それが人間の言う恋愛感情なのかどうか、それが解らないんだ』
「そんなのは、人間だれしも思春期に通る道だよ。人間は人間同士の価値観を共有してるわけじゃないんだからさ、俺だって自分の『好き』が太宰治の『好き』と同じとは限らないしさ、っていうか多分違うと思うけど……まあとにかく、俺が君を好きだと言えて、君が俺の事を好きだって言ってくれるんなら、何の問題も無いんじゃないかな」
まるで何かを諭す教師のような言葉に、デュラハンの指が完全に止まる。
「俺は昨日、君のデュラハンとしての価値観を知りたいと言ったが──その結果がどうであれ、俺が、君を好きだって事は変わらない」
今では完全に真剣な表情になった新羅が、照れも迷いも無い声で言葉を紡ぎだす。
その言葉を聞いて指を止めると、セルティは暫く考えた後に、言葉を選んで書き込んだ。
『しばらく、考えさせてくれ』
「ああ、俺はいつまでも待つよ」
そう言って再び爽やかな笑みを見せる新羅に対し、セルティはどうしても気になる事を聞いてみた。
『それにしても、本当に私でいいのか? 他に人間の女も沢山いるのに、なんで首の無い……人間ではない私なんだ? どうしてだ?』
「はは、蓼食う虫も好き好き、だろ?」
『自分で言うな。というか、私は蓼か』
そうキーボードに打ち込みながら、セルティは自分の心に何か熱いものが渦巻くのを感じていた。そして、それこそが自分の新羅に対する感情なのだと確信する。
──ああ、きっと私に心臓があれば、きっと自分の鼓動音が耳に聞こえるのかもしれない。
そう思いながらセルティは思い悩む。やはり、自分と新羅達人間の間にはとてつもなく隔たりがあるのだという事を──。
デュラハンに心臓は無い。セルティの事を解剖した新羅の父親の話では、限りなく人間を模した構造をしているが──どの臓器も形だけで、何の機能もしていないとの事だった。血管はあるのに血も通っておらず、身体の内部に血の色は無く、ただ純粋な肉の色だけが広がっていて──まるで人体模型のようだったという。どういう原理で自分が動いているのかは解らない。何をエネルギーとしているのかも解らない。それにも関わらず、体の傷自体は異常ともいえるスピードで回復していくという始末だ。
解剖を終えた後に、新羅の父親が『お前、どうやったら死ぬんだ?』と言っていたのが思い出される。
10年程たったある日、新羅は言った。『君はきっと影なんだよ。君は首か、あるいは異世界にある本体か──そういった物の影なんだ。影が動くのにエネルギーがどうこう言っても仕方が無い』と。
影が意思を持って動くなどとは常識では考えられないが、自分自身の存在がどうやら常識ではないらしく、新羅の言う通り悩むのをやめる事にした。
とにかく、数日の間は自分の首に集中しよう。
そして──その結果によって、私は自分の生き方を決意する事にしよう。
セルティは拳に力を籠めながら、今日出会った二人の学生の顔を思い浮かべた。
二人とも真面目そうな表情をしており、最初の一人は、セルティや静雄に対して何の恐れも疑念も見せず、ただ強く鋭い眼差しで睨みつけてきた。後者は──セルティに対する明らかな怯えを見せながら──それでも、口は彼女を見て笑っていたのだ。まるで、自らが畏れ敬う悪魔か鬼神に出会ったような、そんな表情だった。
そこまで考えて、彼女は意識を己に向ける。
──しかし──そんな事は、全て私の身勝手な考えに過ぎない。
彼女は相手の目を含む表情から感情を読み取ったが、本当にそうだという確信が持てないでいた。自分には何かを訴える目も、笑顔や怒り、悲しみを伝える顔を持たない。そもそも人間の感情を司る脳味噌を持たないのだ。自分がどこで考え、どこで感じているのかすら解らない。そんな存在である自分が、どうして他人の感情を読み取る事ができるのだろう。
怒りの目、悲しみの目、人間の倫理──そうしたものは、全てこの街で、知識として知りえた事だ。TVや漫画、映画など──新羅が揃えるものは色々偏りがあったが、そのあたりは実際の街の様子やニュース等で矯正してきた。だが、所詮はすべて他から得た知識であり、それが真実なのかどうか──それはやはり、人間自身でなければ解らないのではないかと。
だからこそ、先刻新羅に伝えたような不安が常にある。肝心の自分自身には感情はあるのか。それだけが常に心配だった。
昔はこんな事は気にもしなかった。自分の首を求めて生きるのが精一杯だったからだ。しかし、ここ数年──ネットを通じて『人』との接触の機会が増えたことから、自分の感情や価値観がどれだけ人間と同じなのか、彼女は次第にそんなことを考えるようになっていった。
最初は新羅に教えられておっかなびっくりの状態だったが、今では仕事と首を探す時以外は、殆どパソコンの前にいる。特にDVDプレイヤーやTVチューナーが内臓された機種になってからは、映画やドラマもそれで間に合うようになり、パソコンの前にいる時間が急速に増加する始末だった。
ネットの上で次第にセルティは人に触れていった。パソコンの向こうにいる相手とは、互いに顔も経歴も知らないまま。だが、確かにそこには関係が生じている。そもそも彼女には最初から顔が無いのだ。通常の社会での知り合いは新羅を中心として数人しかおらず、自分の正体を完全に知っているのは──新羅と新羅の父親のみだろう。首無しライダーの噂は広まっているようだが、自分が女で、なおかつデュラハンだという事までは噂では解らない筈だ。
必要以上に隠すつもりも無いが、自分から公開するつもりも無い。
──新羅はああ言ったが、自分は人としての価値観を手に入れたい。今の私の人格が『人間』であるというのならば、私はそれを失いたくない。
セルティは確かに人間ではない。だが、それに不安も感じている。
もし首を取り戻しても記憶が取り戻せなかったら、自分は一体どうあるべきなのだろうか──
人間はこういう気持ちの時に、どういう顔をするのだろう。
知識としては解っているのに、彼女にはどうしても答える事ができなかった。