矢霧製薬の研究所。
第六研の会議室の中──隅の席に座って、誠二は何かをブツブツと言いながらうずくまっていた。そんな様子の彼を落ち着かせるかの様に、姉の波江が弟の身体を優しく抱きしめる。
「大丈夫よ、私達に任せて。絶対に彼女を取り戻してみせるから……だから、安心しなさい」
静雄に殴られた後、交番に連れて行かれた誠二だったが──被害者が名乗り出ないという点と、むしろどちらが被害者か解らないという状況であった為に、特に処分を受ける事無く解放された。
──もしかしたら、異様に早く迎えに来た姉が何か裏で手を回してくれたのかもしれない。
誠二はそう考えたが、それならそれで構わないとも思う。
──姉が、自分に歪んだ愛情を抱いている事は知っている。姉の俺に対する愛情は、きっと所有欲から来るものだろう。だが、それでも構わない。誰が俺を愛そうとも、俺は自分の愛を貫くのみだ。自分の愛に生きるだけだ。
──そのためならば、自分へ向けられる愛の全てを踏み台にしても構わない──愛する者の踏み台となるのは、きっと幸福な事なのだろうから。
そう考える誠二の傍らで、波江もそんな弟の気持ちを見透かしていた。そして──彼女はそれでも構わないと思う。少なくとも、あの『首』が自分の元にある限りは、誠二は自分の事を必要とするのだから。激しい嫉妬の対象である筈の『首』によって成立する関係。そんな皮肉な巡り合わせに対し、波江は自嘲気味な微笑みを浮かべた。
部下の目も憚らずに弟を溺愛するその様子は──二人を見る者にある種の恐怖すら抱かせる程であった。
そして、その様子に戸惑いながらも、部下の一人が波江の事を呼び出した。
「貴方は何も心配する事は無いのよ……全部、姉さん達に任せなさい」
それだけ告げて、姉は静かに会議室を後にした。
「で、解ったの?」
「はい、誠二さんの言っていた竜ヶ峰という奴の住所ですが──池袋駅の側にあるボロアパートです」
会議室から少し離れた廊下で、波江は部下の報告に耳を傾ける。誠二に対しても「さん」という敬称をつけて呼んでいる事が、この会社における矢霧家の強さを物語っている。
会議室の中とはうって変わって、氷の様な表情で部下に命令を投げかける。
「それなら、とっとと『下』の連中を使って回収しなさい」
「昼間からですと、あの辺りは周囲の目が──」
「関係ないわ」
ピシャリと言い放ち、それ以上の反論を許さない。
──夕方まで待ったら、弟が自分でその竜ヶ峰って奴の後をつけるとか言い出すじゃないの。
状況的な危険よりも、弟の安全を優先させる波江。無論、弟のいない場所ではそんな様子は微塵も見せずに、部下に対して速やかに指示を下す。
「いい、『下』の連中全員に、すぐに連絡を回して。誰でも構わないし──生死は問わないわ。場合によっては、そのまま処理してしまいなさい」
その瞳には微塵の情も見当たらず、部下の背中に大量の汗を滲ませた。
♂♀
来良学園では、今日から通常の授業が開始された。とは言ったものの、内容としては1年間のガイダンスや教師の自己紹介、簡単な導入などが殆どであり、最初から本格的な授業に入ったのは数学と世界史ぐらいのものだった。
特に問題になるような事は起こらず、記念すべき1日が過ぎていく。
帝人が気になっている事があるとすれば──今日は張間美香だけでなく、保健委員の矢霧誠二も欠席していたという点だ。昨日、この二人の関係について杏里から聞いたばかりという事もあり、何らかの因果があるのではないかと、帝人は心中で奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
胸騒ぎと言えば、家にいる記憶喪失の女性の事も気がかりだった。
今朝になっても彼女の記憶は戻る事なく、病院も警察もNOだという。特に病院には強い怯えのような表情を見せる。
「あの……私の事は大丈夫です! ここで大人しく待ちますから!」
そう言った彼女の様子は昨日よりもだいぶ落ち着いており、記憶を失っているとは思えないほどにしっかりとした様子を見せていた。
とりあえずは安心し、こうして学校に来てみたのは良いが、これからどうするべきなのか、それがさっぱり解らなかった。彼女の正体が不明である以上、何日もしないうちに警察に届けざるを得ないだろう。正臣の家にとも思ったが、彼は家族と同居の状態で学校に通っている。
これからどうするべきか、そんな事ばかり考えいるうちに、あっという間に放課後になってしまった。
クラス委員同士の顔合わせも何事も無く終わり、その後の張間美香の様子を聞こうと、杏里と共に外に向かう事にした。
「あれから連絡あった?」
これといった話題も無かったが、何も話さないと気まずいので、とりあえず美香について聞いてみる事にした。
「それが──昨日の昼から全然連絡が無いんです……」
「そうなんだ……」
どうやら薮蛇だったようだ。こうなってくると、今日欠席している誠二との関連がますます気になってくる。もしかしたら無理心中でも図っているのではないか、そんな心配をするが、杏里の前では間違っても口には出せなかった。
こんな時に正臣がいれば助かるのだが──聞いた話によると、風紀委員の顔合わせはまだ終わりそうにないらしい。なんでも、正臣と自分のクラスの風紀委員が激しい論争を行っているらしく、周囲の者も止めるに止められない状態らしい。
取り合えず今日はまっすぐ帰ろうと思い、校門のところで杏里と別れようと思っていたのだが────西洋風の豪華な門を通りぬけたところで、横からいきなり大声を叩き付けられた。
「あ! タカシ! こいつだよ、こいつ!」
女子の一人が、自分と杏里の方に向かって指をさしていた。
どうやら昨日臨也に携帯を踏み割られた女子のようで、傍らには屈強な男が一人控えている。
嫌な予感が全身を駆け巡るよりも早く、帝人はその男に襟首を摑み上げられていた。
「お前、俺の彼女の携帯ぶち壊した奴と知り合いなんだってな」
「知り合いって程では」
──ああいう事は、彼氏じゃなくて警察に届けてください。
横にいる虐めっ娘Aにそう言ってやりたかったが、襟首を絞められ思うように声が出ない。
「で、どこよ、手前と一緒にいたって野郎は」
単刀直入。男は帝人に何の意思表示も許さず、臨也の事だけを聞いてくる。
神出鬼没。その男の後ろから、漆黒のバイクが音も無く現れた。
疾風迅雷。人型の『影』はバイクに乗ったままで、タカシと呼ばれた男の背中を蹴り倒す。
弱肉強食。何処からともなく現れた折原臨也が、倒れた男の背中に両足で飛び乗った。
悪逆無道。そのまま臨也は、男の背中で何度も何度も飛び跳ねる。
電光石火。これが──帝人の眼前、僅か10秒の間に起きた出来事だった。
「ありがとう」
放心する杏里や女子、その他通りすがりの生徒の前で、臨也は恭しく一礼して見せた。彼の下には、気絶したと思しきタカシの姿がある。
「君は──俺が女の子を殴る趣味が無いからって、わざわざ男を用意してくれるとは! なんて殊勝な女の子なんだろう。彼女にしたいけどゴメン、君、全然タイプじゃないから帰れ」
物凄く酷いことを口にするが、女は臨也の言葉が終わる前に逃げ出してしまっていた。臨也の下のタカシは振り返られる事も無く、初対面の帝人にさえ『可哀想に』と同情される始末。
臨也は早くもその女の顔を忘れながら、呆然としている帝人に声をかけた。
「や、昨日は邪魔が入っちゃって残念。ここならシズちゃんも来ないだろうからね。自宅を調べて押しかけるのも悪いと思ったから、校門前に隠れて待ってたんだよ」
ニコニコと笑いながら帝人を見るが、帝人には微笑まれる理由も尋ねてこられる理由も解らない。いや、正確に言うならば、一つだけこの男が自分を尋ねる理由があるのだが────それを認めるわけにはいかず、帝人は強く拳を握り締めた。
そんな帝人の様子を知ってか知らずか、臨也は実に不思議そうに首を傾げた。
「ところでさ、なんで黒バイがいるの?」
──それはこっちの台詞だ。
臨也の問いかけに対し、セルティは心中で呟いた。
眼前にいるのは確かに昨日『首』を連れて逃げた学生だ。彼が殴られそうになっているのを見て咄嗟に助けたのだが、どうしてそこに臨也が出てくるのかが解らない。
臨也が表の人間、しかも一介の高校生に関わる事は殆どありえないと言ってもいい。
この少年は、実は大物政治家の息子か何かなのだろうか? それとも小中学生の間に麻薬をはびこらせるようなとてつもない外道なのだろうか?
しかし、この少年がどんな人物であれ、今のセルティには関係無い。
重要なのは、彼が『首』の居場所を知っているかどうかなのだ。
自分以上に呆然としている杏里を見て、帝人はハッと我に帰る。
「じゃ、じゃあ園原さん、僕はこれで!」
「え……あ、は、はい」
しどろもどろな別れの挨拶を交わし、帝人はさっさとその場を離れる事にした。だが、彼の後ろには案の定『影』と『悪人』がついてくる。校門からしばらく離れたところで恐る恐る振り返り、取り合えず話が通じそうな臨也に声をかける。
「あ、あの……何がなんだか解りませんが……とりあえず、私の家に行きませ……」
そこまで言って、帝人はハッと息を吞んだ。家に帰ったら、この黒バイクの人にあの女性が見つかってしまうではないか。というよりも、この黒バイクの人は彼女が目当てで自分に接触してきているのだろう。
「いや……その、ええと、黒バイクの人にお尋ねしたいんですけれど……」
それを聞くと、セルティは『影』で作ったライダースーツのポケットから一台のPDAを取り出し、その画面上に『なんだ?』と打ち込んだ。
どうやら意思の疎通はできるらしい。帝人はどこか安堵しながらも、今の自分がとてつもなくシュールな状況に追い込まれている事に気付く。
──なんだか、泣きたくなってきた。
♂♀
駅から数分の距離にあるその建築物は、築何年が経過しているのか検討も付かず、建物全体が小さなひび割れやツタに覆われているような状態だ。
その古びたアパートが見えてきたところで、帝人が立ち止まって声をあげる。
「ええと、僕の部屋はここの一階にありますけど……いい加減に説明して下さい。貴方達は一体何者なんですか?」
セルティは『首』や自分の正体については触れず、ただ、『行方不明になっていた知り合いの娘を見つけたが、何故か逃げてしまった』という理由をでっち上げた。
だが──そんな俄か作りの言い訳で納得する程帝人も愚かではなく──仕方無しに、彼女は自分の正体を帝人に明かす事にした。
臨也にしばらく離れるように頼むと、セルティは帝人をつれてアパートの裏へと回り込んだ。
そして、意を決してPDAに文字を打ち込み始める。
『君は、私の事をどれだけ知っている?』
小さな液晶画面を見せられて、帝人は少し考えると、恐る恐る言葉を紡ぎだした。
「……あの……貴方は都市伝説の一種で──エンジン音のしない、ヘッドライトの無いバイクに跨っています。それで────」
その後は一瞬躊躇って、息を大きく吸い込んでから一気に吐き出した。その声には恐怖と共に、何かを期待するかのような感情が籠められていた。
「──貴方には、首が無いと」
その答えを聞いて、セルティは続けて文字を打つ。
『君は、それを信じているのか?』
見せてから、馬鹿な事を書いたと反省する。そんな事を信じる人間がどこにいるというのか。そう思う彼女の前で、帝人は小さく頷いた。
──え?
呆けた感情を晒すセルティに対し、帝人は静かに言葉を紡ぐ。
「あの……見せてくれませんか、そのヘルメットの中を────」
核心を付いた頼みに、セルティは相手の顔をマジマジと見る。
──ああ、昨日と同じだ。
不安と期待、そして絶望と喜びが入り混じったような微妙な表情。そんな奇妙な目をしながら、目の前の学生は自分に素顔を晒せという。セルティは僅かに迷い、次のような文字をPDAにうち込んだ。
『絶対に悲鳴をあげたりしないか?』
自分がマヌケな事を伝えていると思いながらも、セルティは確認せずにはいられなかった。この20年間、セルティは新羅の前以外でヘルメットを自分から外した事は無い。喧嘩の最中にメットが脱げてしまった事は幾度もあったが、その時に起こる目撃者の反応は、例外無く『恐怖』に基づいたものだった。
だが、目の前にいる帝人という男は、自分からその恐怖に踏み込もうとしている。セルティの言を噓や冗談ではないと信じた上で、尚も見せろと言っているのだ。そんな男に『悲鳴をあげないか?』と聞くのは愚問というものだろう。
そう考えるセルティの前で、帝人は予想通りの反応を見せる。
青年の首が力強く頷き、それと同時にセルティはゆっくりと──フルフェイスメットのシールドを上に押し開いた。
闇。目の前にあるのは、何も無い空間。実際には空気があるのだが、今の帝人にとってそんな事は関係無い。あるべきはずのものが存在しない空間、それは他の物が入れ替わりに入っていようとも、意義的には無に等しいことだ。
──ああ、無い、確かに無い。何かのトリックの類じゃない。これがトリックだとしたら、それはそれで興味深いけれど。
帝人の目は一瞬だけ恐怖にとらわれ、だが、それを悲鳴に変える事無く心中に吞みこむと、驚きはやがて驚喜へと変貌を遂げ、彼の目には薄く涙さえ浮かび始めた。
「ありがとう……ございます」
何に対する感謝なのか、よく解らない感謝の言葉を告げると、帝人は子供の様な眼をセルティに向けた。
その眼差しを受けて、セルティはいよいよどうしていいのか解らなくなった。
感謝される事が、それ以前に『首無し』である事を受け入れられる事自体が珍しい事である彼女にとっては、この状況は実に不可解なものであり──だが、決して気持ちの悪いものでは無かった。
その後、セルティが一通りの事情を話すと──帝人は快く『首の女』に会う事を承諾した。
帝人が彼女が記憶を失っている事を伝えると、セルティはしばらく押し黙っていたが──どうしても会いたいので、なんとか誤解を解いてくれないかと頼み込む。
その時点で臨也を呼び寄せたが、彼は「俺の用件は後でいいや」とだけ言って二人の様子を見るのみだ。
「解りました……とにかく、ここで待っていて下さい。事情を説明するより先にセルティさんの姿を見られて、私があの人に裏切り者だと思われるのは嫌ですから」
『了解した』
帝人とセルティのやりとりを眺めながら、臨也がからかうように呟いた。
「慎重だね、そういう姿勢はいいと思うよ」
そのまま、アパートの側の通りで帝人を待つ事にする二人。その最中に、臨也がセルティに声をかける。
「運び屋、俺、あんたの名前は始めて聞いたよ。外国人だとは思わなかったな」
ニヤニヤしながら言う臨也。その表情を見る限りでは、恐らく元から知っていたのだろう。今の言葉は、これまで教えてくれなかったセルティに対する嫌味なのだ。
それが解っているので、セルティはあえて無視する事にした。もしかしたら、既に自分の正体も知っているのではないかとさえ思えるが──恐らくは目撃者の情報をかき集めた程度で、具体的な正体までは気付いていないだろう。
そもそも、まともな人間ならば黒バイクが『人外』であるなどとは想像すまい。だが、臨也はまともではない人間だ。決して油断できる相手ではない。
「それにしても、ちょっと遅くないかい?」
確かに、もう5分以上経っている。説得に失敗したにしろ、一旦は外に出てきても可笑しくない時間だ。
「ちょっと見て来ようか」
静か過ぎるアパートを前に、セルティは何か嫌な予感を感じていた。
アパートの横に停まっている一台の清掃業者のバンが、その不安を余計に搔き立てる。
──このボロアパートに清掃業者? まさか……
そして、その予感は的中していた。
「だからよ……兄さんが匿ったっつー女が何処に行ったのか、それが聞きたいわけよ」
「女物の髪の毛が君の布団に落ちてたんだよねー。ショートカットっぽいけど、明らかに君より長いよねえ」
帝人が部屋に入ると、中には二人の男が待ち構えていた。二人とも作業服のような格好をしてるが、顔つきはどう見てもカタギには見えない。帝人は声をあげる暇も無く床に押さえつけられ、尋問のような状態で帝人に低い声をかけ続けている。
どうやら『首の女』を探しに来たようだが、それは帝人の方が聞きたい事だった。彼ら以外の人間に攫われたのか、あるいは自分から逃げ出したのか────
「し、知りません! か、勘弁してください!」
「おい、顔を見られてるからよ、この場で始末してやってもいいんだぞ」
お決まりの台詞を吐く悪党面を前に、帝人は恐怖のあまり涙を流しそうになっていた。つい先刻、人ではない異形の者を目にした時には喜びすら湧き上がったというのに、同じ人間に対して純粋な恐怖を感じるとは、自分はなんとマヌケなんだろう──
己の迂闊さに泣きたくなっていたところで、男達の一人が声を上げた。
「誰か来ました!」
その声に、男達は我先にと外へ飛び出し、少し後に自動車のエンジン音が掛かり始めた。
「た……たたた、助かった……」
帝人は恐怖の涙は耐え忍べたが、続いて溢れる安堵の涙からは逃れる事ができなかった。
ドアの前に駆けつけたセルティは、そのまま車を追おうかとも考えたが、臨也がその必要はないだろうと呟いた。
「あの連中は多分、矢霧製薬の奴らだね。バンに見覚えがある」
走り去る車を見送りながら、情報屋が無料でネタを口走る。
「矢霧……製薬……?」
「そ。最近落ち目で、外資系に吸収される寸前の木偶会社」
その名前を確認して、帝人は涙を溢しかけた目を丸くする。クラスメイトの名前と同じだったという事もあるが──その名前に、彼はもっと別の意味で聞き覚えがあったからだ。
目の奥に涙が退いていく。
いなくなった首の女。デュラハン。矢霧。製薬会社。行方不明。張間美香。園原杏里の話。矢霧誠二。人買い。ダラーズ。
帝人の頭の中に様々な『断片』が思い浮かんでは消えていく。そして、ある推論に到達する。
静かになった状態の部屋で、帝人はすぐにパソコンを立ち上げた。
システムの起動を待つ間、学校内で切っていた携帯の電源を入れて、即座にメールをチェックする。
何をするつもりなのかとセルティが不思議そうに見守っているその横で──臨也は、まるで珍獣を見つけたハンターの様に、鋭い両目を爛々と輝かせた。
「正直、疑い半分だったんだが──」
臨也がそこまで言ったところで、帝人は立ち上がったばかりのパソコンから即座にネットに接続、物凄い指裁きで、即座に何らかの暗号を入力し──何かのページにログインした。後はただ、マウスだけをリズミカルに動かしている。
そのページをしばらく見て、帝人は二人の方を振り向いた。
セルティは思わず身震いする。それは、先刻まで周囲の環境に振り回されっぱなしだった人間の目つきではなかった。今の帝人はまるで獲物を見つけた鷹のように、何処までも深くまっすぐな瞳で二人に向かって頭を下げる。
とてもさっきまでの気弱な学生と同一人物だと思えず、セルティは混乱する。
「お願いです。少しの間だけ──私に協力してください」
有無を言わせぬ口調で、帝人は強い気を乗せた言葉を吐き出した。
「駒は、私の手の内にあります」
新しい玩具を自慢するような口ぶりで、臨也はセルティの肩をパシリと叩く。
「──大当たりだ」
臨也が何を言っているのか解らず、セルティは混乱しながら二人の様子を窺った。
何があったのかは知らないが、臨也が今まで見せた事の無いぐらい興奮しているのが解る。
だが──この場で最も興奮していたのは、竜ヶ峰帝人の方であった。
ただでさえ幼さの残るその顔に、玩具を与えられた子供のような目を光らせている。先刻まで恐怖に涙を浮かべていたようには見えず、強い意志で歓喜に湧き立つ自分自身を支配しているかのような表情だった。
──ここ数日に──自分が池袋にやって来てから起きた数々の不可解な事件。それが今、こうして自らの目の前で一つの事件として繫がり始めたのだ。
帝人は自分の頭の中に組み立てられた事を確認しながら、興奮するように深呼吸をした。
退屈な日常。見慣れた風景。何者にもなれない自分。
その全てから解き放たれたい一心で、彼はこの街までやって来たのだ。
そして、その全てから解き放たれる自分を、彼は今確かに感じている。
竜ヶ崎帝人は、その瞬間、自分がある種の『主役』にまで伸し上がった事に気が付いた。
それと同時に、彼の生活を、時には命を脅かす『敵』が現れたという事に。
今の浮かれきった帝人にとって、その『敵』を排除する事に、何の躊躇いも恐怖もあろう筈が無かった。
そして──彼は言葉を紡ぎだす。まずは己の全てをセルティと臨也に向けて語り始め──
♂♀
矢霧製薬の研究所。地下にある第六研究室の前の廊下で、冷たい声が空気を静かに震わせる。
「いなかった……ってどういう事なの?」
「それが……『下』の連中が行った時には、なんかもう鍵をコジ開けられた跡があったみたいで……中に女はいなかったそうです」
「つまり、誰かが先にその部屋に忍び込んだって事?」
「ボロアパートですから、強盗って事は無いと思うのですが」
部下の報告を聞いて、波江は思わず眉を顰めた。
学生が連れ出したのだとすれば、いちいち鍵をコジ開ける理由が解らない。しかし、自分達以外に『彼女』を攫おうとする人間も思い当たる節が無い。
「その部屋の学生は?」
「いや……戻って来た時に話を聞いて、場合によっては同行してもらおうとしたらしいのですが……どうも連れがいたようで」
「その連れごと来てもらえば良かったでしょう。使えないわね……」
波江が忌々しげに舌打ちをしたところで、彼女の携帯に電話が鳴った。表示を見ると非通知だったが、もしかしたら重要な電話かもしれないと思い、通話ボタンを押しこんだ。
「もしもし」
『あの、矢霧波江さんですか?』
若い声だ。中学生の男子ぐらいの声に感じられる。
「そうですが、貴方は?」
『私は、竜ヶ峰帝人と言います』
「────!」
波江の心臓が静かに鼓動を早めた。『彼女』を連れて逃げたという、弟の同級生。今まさにその話をしていたばかりというのもさることながら、一体どうして彼が自分の電話番号を知っているというのか──。
様々な疑念が渦巻く波江を余所に、電話の向こうの声は淡々とした声で語りかけてくる。
『あの──、実は私達、ある女性を匿っているんですが───』
一瞬の間を置いて、電話が信じられないような声を弾きだした。
その声には緊張感の欠片も無く、まるで波江を夕食にでも誘うかの様に。
『──取引、しませんか?』
♂♀
同日 午後11時 池袋
夜も深けた池袋の60階通り。飲み屋以外の殆どの店にはシャッターが閉まり、車が通りの中にまで進入してきており、歩行者に支配されていた昼間とは全く違う雰囲気を醸しだす。
街灯の柱に寄りかかりながら、バーテン服の青年が黒人の巨漢に話しかけた。
「人生って何だ? 人は何の為に生きている? 俺はそう問いかけられて、そいつをまあ死ぬ寸前までぶん殴ってやったわけだ。ポエマーな女子中高生が言うならまだしも、二十歳を過ぎてヤクザになろうとしたけど小間使いが嫌で逃げ出したような奴が言ったら、これはもう犯罪だろ」
「ソウダヨ!」
「いや、自分の人生について考えるのは自由だし否定はしねえ。だけどよ、その答えを他人に求めてどうするってんだよ。んで、俺は瞳孔が開きかけてるそいつに『これが手前の人生だ、死ぬ為に生きろ』って言ったんだが、相手が店長だった事を考えると俺はまた間違ってしまったんだろうか」
「ソウダヨ!」
「……サイモンさんよぉ、俺の言ってる事よくわかってないだろ」
「ソウダヨ!」
平和島静雄が怒鳴りながら側にあった自転車を投げ、それをサイモンが片手で受け止める。
そんな光景すらも、何事も無かったかのように街の風景に染み込んでいった。
池袋の街は夜を迎え、昼とは全く違った空気を纏い始めた。雑多な雰囲気はそのままに、ただ、黒い空気に吞み込まれて、世界が反転してしまったかのように。最近ではホテルよりもずっと安上がりな漫画喫茶で一夜を過ごす者も増えており、終電を気にしない人間も徐々に増え始めている。
駅に近い通りではカラオケの客引きが引っ切り無しに動きまわり、学生や社会人の新歓コンパの集団に必死に喰らい付いている。そうした集団も大方二次会の予定が決まったようで、次第にその姿を通りから消していった。
通りには居酒屋などからの帰りの客が行き交い、あるいは夜通し遊び歩く若者の類や外国人の纏り等──昼間とは比べものにならないが、夜にしてはそこそこの雑踏が行き交っている。
だが──
大通りと交錯する東急ハンズの前で、そうした雑踏から浮いている存在が二つあった。
一人はブレザーを着た学生。もう一人は、女性用のビジネススーツを身に纏った女。
スーツの女──矢霧波江が、約束の場所に立っている少年に問いかける。
「貴方が帝人君? 想像してたより──ずっと大人しそうな子ね。それとも、今はこういう子の方が危ないのかしら」
静かな声。それでいて、果てしない冷たさを感じる。
何処にも寄りかかる事は無く、ただビルの前に静かに立っているといった感じだ。彼女が纏う冷たく高圧的な空気の為か、カラオケやホストクラブの客引き、あるいはナンパに興じている男達の類に声をかけられる様子は無い。
対する帝人は、来良学園のブレザーを纏ったままの、普通の少年としての雰囲気しか纏っていない。流石に客引きも一人歩きの学生に声をかける事はしない。むしろこれ以上この服装のままで留まっていたら、警察に補導される可能性もあるぐらいだ。
対照的に街から浮いている二人の間に、静かな緊張が胎動する。
「それで──取引って何かしら?」
ここまで自分をひっぱりだしてきたのだ。相手も殆どの事は理解しているのだろう。恐らくは、夕べの内に『彼女』が全て喋ってしまったのであろう。
「簡単です。ええとですね、電話でも言いましたけれど……私は貴方の探している人を、ちょっと預かっています」
その言葉を聞いても、波江は余裕だった。全てを知った上で取引を持ちかけるとは、所詮は子供なのだろう。愚かしい事この上ない。
恐らくこの60階通りを取引場所に指定してきたのも、人ごみの中なら自分達が手荒な真似ができないと思っているのだろう。
だが──当然ながら、こちらも自分一人で来たわけではない。人ごみに紛れさせるように、サラリーマン等の格好をした会社の連中──研究室の警備を任せる為に呼んだ、本社のセキュリティ専門の集団だ。会社に立場をしっかりと握られており、忠誠心の強いタイプの人間を十人程、スタンロッドを装備させて配置している。また、念の為にこの通りから横に入っていった路地や──あるいはこの60階通りに直接停車している車の中に、その他の『下』の連中や、金次第で用心棒まがいの事を行う集団を二十人程用意させている。
たかが少年一人、などとは考えていない。こんな取引を持ちかけるという事は、当然ながら仲間がいるのだろう。だからこそ、この万全の人数を集めたのだ。
だが波江は、この場にのこのこと出てきた度胸に免じて、ある程度の小金ならば取引に応じてやってもいいとさえ思っていた。『彼女』さえこちらの手に入れば、後はこのガキがなんと言おうと、いつでも叩き潰すことができるのだから。
「それで、いくら欲しいのかしら?」
単純にそう切り出した。この手の馬鹿馬鹿しい取引に小細工は無用。迂闊に内情を話して、どこかで録音か録画などをされていては余計に泥沼にはまる事になる。
彼女はそう考えたのだが──
「いえ、お金はどうでもいいんです」
「? じゃあ、何を取引しようっていうのかしら?」
「解りませんか? 真実ですよ」
──何を言っているのかしら?
本気で理解ができていないような彼女に、帝人は静かに結論を述べた。
「貴方の弟──矢霧誠二君がやった事を認めてもらいましょうか」
「────────ッッッ!」
春の暖かい空気が、瞬時にして真冬のそれへと変化する。暫しの沈黙を挟み、波江は見る者全てを凍りつかせるような瞳で、聞く者の身を等しく押し潰すような声をだす。
「今……なんて言ったのかしら……?」
「貴方の弟が、張間美香さんにやった事と──そして、貴方達が美香さんの身体にやった事を、ちょっと認めてもらおうかなと。残念な事に状況証拠しかないので、ぶっちゃけた話──自首して欲しいんですよね」
淡々と喋る帝人だが、その掌には滝の様な汗が流れ出している。相手の放つ殺気が爆発的に膨れ上がっている。このまま少しでも気を緩めれば泣き出してしまいそうだ。
「あの、そうすれば、会社の方の被害は最低限に抑えられると思います」
「嗚呼……あなた、そうなんだ……金なんてどうでもいいのね。ただ──うちの研究所自体を潰す事が狙いなのね……」
「あの『首』さんを解放するには……というか、直接部屋にまで乗り込まれてしまった私が身の安全を確保するには、もうどうやらそれしか無さそうですので。ええと、アナタが勇退すれば、恐らく会社自体は残りますよ」
淡々と状況を説明するが、その途中から、帝人は取引相手の女の様子がおかしい事に気が付いた。
「あぁ……あぁ……残念ねぇ……私にとって、会社なんてどうでもいいの」
笑っているのか泣いているのか、全く判断のつかない眼が帝人の瞳を射抜こうとする。
それを何とか受け止めながら、相手の次の台詞をゆっくりと待つ。まるで死刑宣告を受けるかの様に、多大なプレッシャーが帝人の髪を逆立たせた。
これがさっきまで冷静だった女かというぐらいに変化した彼女は──逆に冷静になってこう言った。
「貴方がうちの会社を潰そうが破壊しようがどうでもいいわ。……ただね、いたらいけないのよ……弟の邪魔をする人は、いたらいけないのよ」
単純な答えだった。それを聞いて、帝人はどこかすっきりしたように目を細める。
──ああ、そうか、この人はそういう人なのか。道理で、会社の利益を越えた事を平気でやってくると思った。
女が手に力を籠め始めるのと同時に、帝人も己のポケットの中の携帯電話。そのメール送信スイッチに手を触れた。
──そんな理由か──
帝人は相手の弟に対する異常な執着心に気圧されかけたが、それでもなお、彼女を睨み返す。
──人が一人死んで、その死体を使って身勝手に『人格』を一つ作り上げて──その上僕まで殺されそうになってる。ああ、最後のが一番腹立たしい理由だ。ああ、僕は自分が一番可愛い。自分の為なら何でもやる。だからこそ──こいつみたいに、『自分の為』の『自分』の部分を人になすりつける奴は頭にくる! それを理由に人の生活を踏み躙る奴は特に特に特に!
少年の中に、徐々に怒りが込み上げてくる。彼は全ての非日常に憧れるが、理不尽な目に遭うのは話が別だ。
そして、波江に対して挑むように言葉を紡ぐ。
「……酷い話だ。そんな理由で、貴方の自己満足で矢霧君を不幸にさせるつもりなんだね」
「……今更何を言ってるの? その年になって、こんな世界に足を突っ込んで、今更そんなありふれた事しか言えないのなら、その不快な口を閉じなさい!」
帝人に向かって一歩間合いを詰めると、波江は呪うような調子で吐き捨てる。
だが、引かない。
「ああ、僕は綺麗ごとしか知らない。だけどそれの何が悪いって言うんだ? 人を殺した反省をさせろっていう、今更以前の事も理解できないのは誰ですか?」
相手の視線を跳ね返す様に、帝人の方から更に一歩近づいた。
「ドラマの見すぎよ。それも少し古い、お約束の予定調和ばかりなものばかり! ここを、この街を何処だと思っているの! ここは現実なのよ? テレビや雑誌の中じゃない、アナタは英雄なんかじゃない、身の程を知りなさい!」
更に一歩、互いに歩を進めあう。波江の声は冷たい怒りに満ち溢れていたが、そんな程度の言葉では退くわけにはいかない。彼は毎日、紀田正臣の理不尽な会話につき合わされ続けているのだ。それに比べれば、方向性は違うものの何と反論のしやすい言葉の数々だろう。
「ああ、綺麗なものを見たいさ、予定調和でいきたいさ、お約束もバカの一つ覚えの展開も愛してるよ。それの何が悪いってんだ。……現実でそれを目指して何が悪いんだよ! 現実だから目指すんだろ! 人の為とは言わないさ、結局はそれを見て自分が楽しいからやるんだ! ああ、こんなのありふれた考えさ。ありふれた事っていうのは、それだけ皆がその事を考えてるってことなんだよ!」
口八丁だけで問答を重ね、帝人は自分が思っていないことまでペラペラと喋り倒した。
ヤケになって相手を挑発していたわけではなく──相手の注意を、ぎりぎりまで自分ひとりに引き付けておきたかったのだ。
そろそろ潮時かと、帝人は携帯のボタンに触れた指に力を籠め始める。
──これを押せば、もう戻れない。踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまう事になる。
それだけはなんとしても避けたかったが────だが、今の相手の様子を見ては仕方がない。
──理屈が通じない相手に挑む力も知恵も自分には無い。だけど、努力する時間も与えられず、今、この場でどうしてもこの危機を乗り越えなければならない。
帝人は覚悟の息を吸い込むと、それを吐くと同時に送信スイッチを押した。
──だから僕は────数に頼る!
「下らない問答は終わりね」
僅かな間を置いて、波江はゆっくりと手を挙げた。
「仲間がいても関係無いわ、自白剤なんていくらでも用意できるもの──」
手を挙げきったところで、彼女の顔にはとても健やかな微笑みが浮かんでいた。弟の敵を排除できる、──ああ、それだけでこうも快感を得る事ができるとは。
その様子を見ていた、波江の部下の数人は──
「おい、行くぞ。あのガキを拉致ればいいだけだ」
「ちょッ……待ってください、もし、あのガキが警察とグルだったらヤバイんじゃ……」
「今更そんな事言ってる場合か。あの主任も何だかんだ言って周りが見えてねえんだよ。警察結構。とことんまでやりあって、後はあの女に全部ケツモチしてもらおうじゃねえか」
尻込みする仲間を尻目に、男は酔っ払いのフリから脱却し、周囲の様子を改めて確認したのだが────
「あ……?」
そこである事に気付き、尻込みした男に確認する。
「今……もう夜の11時過ぎてるよな?」
「ええ」
それを確認して、彼はどこか薄ら寒いものを感じた。
「……なんか、人がよ…………増えてねえか?」
人ごみから最初の男が飛び出し、帝人へと自然な動きで向かっていった瞬間──
ピピピ ピピピ
それは、携帯のメールが着信する音だった。
思わず自分の物を想像するが、飛び出した男は携帯を所持していない事に気が付いた。それは、自分の周囲から聞こえるだけの、単なる他人の呼び出し音だったのだが────
その呼び出し音のした方に目を向けると──そこには、身長2メートルを超える黒人が立っていた。──サイモン。この通りで有名な『巨人』だ。男は思わず目を逸らし、再び目を合わせないように歩きだす。
その時──電子音に続いて、着メロが流れ始める。
音のした方に振り向くと──そこにはサングラスをかけたバーテンダーの姿がある。──平和島静雄──池袋の喧嘩人形と呼ばれた奴がどうしてここに。
さらに別の方を振り向くと、更に別の種類の人間が複数おり、皆一様に携帯のメールを眺め始めている。
「……!?」
そこで、『彼ら』は気が付いた。数曲の着メロが流れている間に他の曲が始まり、歪なハーモニーを生み出しているという事に。
ピピピピ ピピピピ
更に着信音。これは四方十箇所ぐらいから同時に聞こえて来た。
「!?」
そこでようやく、男達も波江も、周囲の様子がおかしい事に気付かされる。
雑踏に過ぎなかった周囲の人影が、何時の間にか『群集』とよんでも差し支えない程に増加していたという事を。また、着信音がしなかった者達も、ポケットの中の振動に気が付いて携帯電話を手にしていた。だが、それよりも圧倒的な数の人間から電子音やメロディが流れ始めている。
そして──
気付いた瞬間には既に遅く、彼女達は──着信音の荒波に囲まれていた。
音 音 音。 メロディが 音が 電子音から 和音が 音が ハーモニーを
音音音音音音音メロディメロディメロディ電子電子電子音和音和音音音ハーモニーハーモニー
音音音メロ音ディ音メロ音音音メロ音電子音音電音音子和和音和ハーモ和音ニー音和ハーモニ
メロ音メ音ディ音電子メロ和和ハーモ電子ニー音和電子音メロディ音音ニー音電子和ーモ音和
音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音 音音音音音音 音音音音音音音音音 音音音音音音音音音音音音 音音音音 音音音 音音音音音 音音音音音音 音音音音 音音音 音音音音音 音音 音音音 音音音音 音音音 音音音音 音音音 音音 音音音音音音音音音音 音音音音音音音音音音音音音音 音音音
音 音音 音 音 音音音 音 音音音 音音音 音 音音 音音音 音音 音音
そして、着信音が徐々に収まる中──彼らは、視線の中にいた。
視線。ただそれだけが彼らの周囲に浮き彫りになった。
周囲に群がった数十、下手をすれば数百の人間が────自分達の方を向いて、ただジロリと睨み──時折隣の者などと雑談を交わしたりしているが──その目線だけは、自分達のいずれかの人間に向けられており、まるで、自分達だけが周囲の空間から切り取られ、戯曲の舞台の上に伸し上げられてしまったかのような────
「何……これ……? 何なのよ……何なのよこいつらぁぁあッ!」
自分の予測どころか、常識を覆すような光景に、波江は恐ろしくなって絶叫を上げた。
だが、視線は留まる事を知らず、世界を敵に回したような錯覚が彼女達を襲った。
そして、波江達は気が付いていなかった。自分と交渉していた筈の少年が、何時の間にか人ごみ ──視線の中へと姿を消している事に────
ダラーズの創始者は、誰にも気付かれぬまま、自らもまた群集の一人と化したのだ。
♂♀
「あれ! メッズラシーわね! 臨也と静雄が同じ通りにいるのに喧嘩してないなんて!」
路上に停められたバンの中で、狩沢が驚いたような声をあげる。
「いや、静雄さんは気付いてないだけでしょ。いやいやいや、しかし凄いすねこれ。……なんか中高生も混じってません? 流石に制服姿の奴は殆どいませんけど」
60階通りに停められた車の内一台は、門田や遊馬崎が乗るバンだった。その中で、門田の仲間と──もう一人、今朝新たに車に乗せた少女が、不安げな瞳で様子を窺っている。
彼女は──門田達が池袋駅の側にある古いアパートから──攫われる前に攫ってきた娘だ。
チンピラ達を拷問した後、矢崎製薬の一研究機関が黒幕だという事が解った。何とかして落とし前をつけさせようとしていたところ──チンピラ達のリーダーの携帯電話に、暗号のようなメールが届いた。
チンピラに無理矢理解読させたところ──それには、ある住所が書かれており、『首に傷のある娘』とあり、その後に扉の絵文字が打たれていた。更にそのメールには写真が添付されていたのだが──気味の悪い事に、それは女の生首の写真のようだった。まるで生きているかのような顔立ちだったが、ファイル名には再現模型と書いてあった。
門田が『扉』の意味をチンピラ達に問いただすと────それは、ドア──DOA──デッドオアアライブ、生死問わずという単純な意味なのだそうだ。
それを聞いた門田達は、先にそのアパートに回りこんでドアをピッキングし、彼女を先に救い出したのだ。
他の人攫いの連中は豊島区外に仕事用の車を置いているようで、池袋に車を停めていた門田達が一番最初に辿り着く事ができたらしい。
後ろでカタカタと震えている少女が何者なのかは知らないが──門田はこの事を、いつものように『ダラーズ』のHPにある『報告書』のフォームに連絡した。『ダラーズ』同士でのイザコザを防ぐ為のものらしいが、実際に『ダラーズ』同士が街で鉢合わせる事など殆ど無い。
あったとしても、せいぜい狩沢達が不法入国者のカズターノと仲良くなったぐらいで、サイモンや静雄もメンバーだと、今日初めて知ったほどだ。
不法入国者がネットなどと思ったが──彼は実社会で『口コミ』で勧誘を受けたらしい。どうやら『ダラーズ』というのはネットに留まらず、様々な媒体を『増殖』の手口として使っているようだ。
──そして、それが今日のこの『初集会』の結果に表れているのだ。
「いやいやいや、何人いるんだこれ。あー、これギャングとかの集会っていうより、絶対大手掲示板のオフ会のノリだよな。来てる連中」
「ダラーズ自体カラーギャングってノリじゃないしね。なんせチームカラーが『保護色』だし」
「ところで、リーダーってどの人なの?」
「さあ……」
遊馬崎達が楽しそうにはしゃいでいるのを脇目に、運転席にいる門田が唸りを上げた。
「おい……これがダラーズかよ……すげえな、なんだよこれ……」
自分は、これほど不可解なものに所属していたのか? そう思いながらも、この光景には圧倒させられた。これは──普通のカラーギャング等の集会で集まる人数を遙かに超えていたのだから。
♂♀
それは──一見して、何かの集会には見えなかった。それぞれの人間がそれぞれの服装で、何かの陣形を組んでいるわけでもなく──ただ、自分達の思い思いの場所に立ち、あるいは雰囲気の似た仲間同士で組んでいるだけだ。
それは、あるいはサラリーマンであり──あるいは制服姿の女子高生であり────あるいはこれと言った特徴の無い大学生であり──あるいは外国人であり────あるいは典型的なカラーギャングといった者達であり────あるいは主婦であり────あるいは──あるいは──あるいは──
そういった集団が集まっているだけだ。流石に若い人間の数が多いものの、傍目にはただ今日は込んでいるなとしか思われない。
警察が来てもすぐに誤魔化せる──もともとそういう趣旨で声をかけられている集団なので、何の問題も無く街の中に溶け込んでいた。
ただ一通、次のようなメールが届く瞬間までは。
帝人はタイミングを見計らって、携帯のアドレスを持つ者──参加者のほぼ全員に向けて、次のようなメールを一括送信したのだ──
『今、携帯のメールを見ていない奴らが敵だ。攻撃をせずに、ただ、静かに見つめろ』
♂♀
すっかりその姿を浮き彫りにされ、総崩れになった波江達。
その様子を、一人のデュラハンは高所より見下ろしていた。
誰が敵で、誰が味方なのかを見極める為に。
『彼ら』の視線に晒されている側で、尚且つ手に武器を持っていたり、波江を守るように陣取っているもの。それが彼女の、そして『ダラーズ』の敵だ。
この作戦に協力する代わりに──夕方の内に、『首』と思しき娘に会わせてもらった。
首の周囲を生々しい縫い傷で被った彼女に、セルティはただ一つだけ、『名前は?』と尋ねた。どうせ記憶喪失なのだからと──そんな後ろ向きな期待を籠めていたのだが、彼女は最悪な答えを受け取ることとなった。
虚ろな目をした娘は、セルティのヘルメットをじっと見つめたまま、ただ一言呟いた。
「──セルティ──」
──ふっきれた。
その言葉を確認したセルティは、深い絶望と共に、何かの呪縛から開放されたような爽快感も全身に感じていた。
完全に人ごみから分離した波江の兵隊を見て──セルティは己の存在を誇示するかのように、黒バイク──コシュタ・バワーの嘶きを轟かせる。
それまで完全に波江達を向いていたダラーズの群集が、一斉にセルティのいる──巨大なビルの屋上に目を移す。
それに満足したように両手を広げると──
ビルの屋上から、その壁面を垂直に落下した。
地面から悲鳴が上がるその寸前──彼女を覆う『影』が最大限に広がり、まるで夜の中に更に暗い闇の雲が現れたかのようだった。
その『影』はやがてバイクを覆い──タイヤと壁の間に影が絡みこんで、まるでタイヤと壁が互いに引き合うかのように──垂直の面を派手に走行してみせた。
60階通りに集まったダラーズ達と波江達は──物理から反した世界を確かに垣間見た。
そのまま地上に飛び跳ねると、波江達を挟んでダラーズの反対側に着地した。
まるで映画のようなその光景に、ある者は息を吞み、ある者は恐怖に戦き、ある者は理由も解らずに涙した。
そして──人の眼前であるにも拘らず、セルティは何のためらいも無く背中から『影』を引き抜き、漆黒の巨大な鎌を作り上げた。
恐怖に戦いた波江の部下の一人が後ろから迫り、セルティの首筋に特殊警棒を叩き込んだ。
その首からヘルメットが弾け飛び、何も無い空間が露になる。
どよめきと悲鳴が上がり、後ろの方の人間は何が起こったのか見えておらず、にわかに集団がパニックに包まれかけた。
だが──今のセルティには微塵の気後れも躊躇いも感じられなかった。
ああ、私には首が無い。私は化物だ。多くを語る口も、相手に情熱を訴える瞳も持たない。
だが、どうした。
それがどうしたというのだ。
私はここにいる。確かにここに存在する。目が無いというのならば我が行状の全てを活目して見るがいい。化物の怒りに触れた者の叫びを存分に耳にするといい。
私はここだ。ここにいる、ここにいるのだ。
私は既に叫んでいる、叫んでいるぞ。
私は今ここに生まれた。私の存在をこの街の中に刻み付ける為に────
そして、彼らは聞いた。その光景が、彼らの脳内で激しい音に変わるのだ。
聞こえる筈の無いデュラハンの叫び声が、大通りを戦場の色に染め上げた。