仮想黒板の右上に、黄色い手紙マークが点滅した。
授業中にぼんやりしていたハルユキは、思わず首を縮めながら、両眼の焦点を移動させた。
途端、視界いっぱいに広がる深緑色の黒板がスッと半透明に薄れ、整然と並ぶ生徒たちの背中と、その向こうに立つ教師の姿が鮮明化する。
教室、同級生、そして教師は現実の存在だが、透過する黒板とそこにびっしり板書された数式はそうではない。教師が空中に書きつけた数字と記号を、ハルユキの首の後ろに装着された《ニューロリンカー》が脳内で直接映像化しているのだ。
初老の数学教師は、どこかやり難そうに、何も持たない指先を彼にだけ見える黒板に走らせながらぼそぼそと公式の解説を続けている。その声も、現実の音としてはとてもハルユキの耳に届くボリュームではないが、教師の首に巻きつくニューロリンカーが増幅・鮮明化し、ハルユキに送り込んでくる。
視線を近くに戻すと、先ほどよりも数式の増えた黒板が再び実体化した。どうやら受信したメールは、教師が宿題の詰まった圧縮ファイルを配布したものではなさそうだ。となれば、グローバルネットから隔離されている現在、送り主は同じ学校の生徒ということになる。
女子の誰かが、校則を破って好意的メッセージを送ってきたのかも、などという期待は、中学校に入学してからのこの半年間でとうに捨てた。メールをそのまま、視界左下すみのゴミ箱にドロップしてしまいたいとハルユキは心底思ったが、そんなことをすれば後でどんな目に遭うか知れない。
嫌々ながら、教師が背中を向けたスキを覗い、右手を宙に上げて(この動作は仮想ではなく現実のものだ)メールアイコンを指先でクリックする。
瞬間、ぶびばぼるぶびる! という品性の欠片もないサウンドと、原色の洪水のようなグラフィックがハルユキの聴覚と視覚にぶちまけられた。続いて、文字ではなく音声でメッセージ本文が再生される。
【ブタくんに今日のコマンドを命令する!(バックにぎゃはははという複数の笑い声)焼きそばパン二個と、クリームメロンパン一個と、いちごヨーグルト三個を昼休み開始から五分以内に屋上まで持って来い! 遅刻したら肉まんの刑! チクったらチャーシューの刑だかんな!(再び爆笑)】
──左頰に感じる粘つくような視線の方向を見るまい、とハルユキは意志力を振り絞って首を固定した。見れば間違いなく荒谷とその手下A、Bの嘲笑にさらなる屈辱を与えられるからだ。
授業中にこんなメールを録音したり視聴覚エフェクトを掛けたりすることは勿論できないので、これは事前に作成しておいたものだろう。何という暇な連中か、おまけに何だよ『コマンドを命令』って、意味ダブってんだよバーカバーカ!!
と、脳内では罵れるものの、それを声に出すことは勿論、メールで返信することすらハルユキにはできない。荒谷が、いかに時代が進もうと絶滅しないゴキブリ級のバカだとすれば、そいつにイジメられるままになっている自分は輪を掛けた愚か者だからだ。
実際、ほんの少しの度胸と行動力さえあれば、このメールを含めて保存しておいた数十件の《証拠品》を学校に提出して、連中を処罰させることは容易いだろう。
しかし、ハルユキはどうしてもその先を想像してしまう。
いかにニューロリンカーが国民一人に一台と言われるまでに普及し、生活の半分が仮想ネットワークで行われるようになったと言っても、所詮人間は《生身の肉体》という枷によってローレベルに規定され続ける存在でしかない。三度三度お腹も空くしトイレにも行く、そして──殴られれば痛いし、痛くて泣くのは死ぬほど惨めだ。
リンカースキルが進学や出世を決める、なんていうのは巨大ネットワーク企業のイメージ戦略に過ぎない。人間の価値を決めるのは結局、外見や腕力といった原始的なパラメータだけだ。
それが、小学五年生のときに体重六十キロを超え、五十メートル走で十秒を切ったことのないハルユキが十三歳にして行き着いた結論だった。
朝、母親にニューロリンカーへチャージしてもらった昼食代の五百円は、荒谷たちにパンとジュースを奢らされて完全に足が出てしまった。小遣いを貯めた全財産の七千円ちょっとが残ってはいるが、これを使ってしまうと今月出るリンカー用ゲームソフトが買えない。
ハルユキの巨体は燃費が異常に悪く、一食でも抜こうものなら空腹で眩暈がしてくるほどだが、今日ばかりは耐えるしかない。それに、少なくとも《完全ダイブ》できる昼休み中だけならしのぐ術も残されている。
丸い体を限界まで縮め、ハルユキが向かったのは専門教室ばかり並ぶ第二校舎だった。現在では、理科の実験から家庭科の調理実習までが仮想授業で行われているためこの棟は用無しになりつつあり、近寄る者は少ない。とくに、昼休みには生徒の姿はまったくない。
埃っぽい廊下の隅にある男子トイレが、ハルユキの専用隠れ家だ。とぼとぼと逃げ込んだ先で、ため息とともに足を止め、ハルユキは洗面台の上の鏡を見やった。
曇ったガラスの向こうから見返すのは、もしこれがテレビドラマなら、あまりにもベタすぎるだろうと突っ込みたくなるような《太ったいじめられっ子》。
癖の強い髪はあちこちに跳ねあがり、両頰の曲線にシャープさは欠片もない。だぶついた首回りに、制服のネクタイと銀色のニューロリンカーが食い込む様はまるで絞首刑だ。
この外見を何とかしようと、ほぼ絶食及び無茶な走り込みにまい進した時期もある。しかしその結果、昼休み中に貧血で倒れ、女子生徒数人の弁当を巻き添えにするという最悪な伝説を作ってしまった。
以来、ハルユキは現実の自分を捨てる──少なくとも学生のあいだは──ことに決めたのだ。
鏡からはコンマ一秒で目を離し、トイレのさらに奥へ進むと、端っこの個室に入る。しっかり鍵をかけ、蓋を下ろしたままの便器に腰を下ろす。体の下でプラスチックがみしみし軋むのにももう慣れた。背中を水洗タンクに預け、力を抜くと、目をつぶる。
唱えるのは、重苦しい体から魂のみを解き放つ魔法の呪文──。
「ダイレクト・リンク」
音声コマンドを受け取ったニューロリンカーが、量子接続レベルを視聴覚モードから全感覚モードへと引き上げ、ハルユキの体から重さと胃を絞るような空腹感が消えた。
便座の硬さ、制服の窮屈さも消失する。遠くの校庭から響いてくる生徒たちの歓声、トイレに満ちる洗浄剤の匂い、そして目の前ののっぺりとしたドアまでも、黒い闇に溶けてなくなる。
《完全ダイブ》。
重力感覚すらも切断され、ハルユキは暗闇のなかを落下した。
しかしすぐに、柔らかな浮遊感と虹色の光が全身を包んだ。両手と両足の先端から、フルダイブ時に用いられる《仮想体》が生成されていく。
黒いひづめ状の手足。ぷっくりした四肢と、ボールのような胴体は鮮やかな桃色。見ることはできないが、顔の中央には平らな鼻が突き出し、大きな耳が垂れ下がっているはずだ。つまり、ひと言で形容すれば、ピンクのブタである。
コミカルなアバター姿で、すとん、と降り立った先は、いかにも文部科学省推薦といったデザインのメルヘンチックな森の中だった。