巨大な茸がそこかしこに生え、ひときわ眩しく陽がさす円形の草地の中央には、水晶のような泉が湧き出ている。外周には、内部が空洞となった巨大な樹木が輪をつくってそびえ立ち、その内側は歓談やレクリエーションに使えるよう、何層にも分かれて階段で繫がっている。
この仮想空間が、東京都杉並区に存在する私立梅郷中学校の学内ローカルネットだ。
森を行き交ったり三々五々固まって笑い声を上げているのは、これもほとんどが人間ではなかった。二足歩行するコミカルな動物が半数、あとは羽を生やした(と言っても飛べはしないが)妖精あり、ブリキのロボットあり、ローブの魔法使いあり。全て、ローカルネットにダイブしている梅郷中の生徒・教師のアバターである。
生徒のアバターは、数多用意された素体から自由に選択・カスタマイズできる。根気さえあれば、用意されたエディタを駆使して完全オリジナルの姿を一から組むことも可能だ。所詮は中学生の技術及びセンスなのではあるが、それでも四月にハルユキが披露した自作の黒い騎士アバターは大きな注目を浴びた。
──のも刹那の栄華だった。ハルユキはため息まじりに、現在の己の姿を見下ろした。ブラックナイトのアバターは瞬く間に荒谷が巻き上げていき、ハルユキにはこのデフォルトのブタの使用を強制したのだ。
もっとも、独自性という点では桃色豚も負けてはいない。こんな自虐的なボディを選択する者はいないからだ。現実サイドと同様、丸っこい体を懸命に縮めたハルユキは、小走りで一本の樹を目指した。
と、中央の泉のほとりに、一際大きな人だかりができているのに気付いた。走りながら視線を送ったハルユキは、思わず足の進みを緩めた。生徒の輪の中央に、なかなか目撃することのできないレアなアバターが見えたのだ。
デフォルトセットにあるものではない。透明な宝石がちりばめられた、漆黒のドレス。手には畳んだ黒い日傘。背中には、虹色のラインが走る黒揚羽蝶の翅。
長いストレートの髪に縁取られた、雪のように白い顔は、これが自作だとは信じられない完璧な美しさだ。ハルユキも到底かなわない、プロとしても通用しそうなデザインスキルである。
華奢な体をしどけなく巨大茸にもたれさせ、物憂げな表情で周囲のアバターたちの言葉を聴いている彼女が、生徒会で副会長を務める二年生の女子生徒であることをハルユキは知っていた。驚くべきことにその美貌は、現実の容姿をほぼ完璧に再現したものであり、ゆえに献ぜられた通り名が──。
《スノー・ブラック》。《黒雪姫》。
あのような存在と自分が、梅郷中の生徒であるという共通項をひとつにせよ持っていることすらハルユキには噓っぽく思える。こうして仮想の視線を向けているだけで、自意識を苛む矮小感がいや増す気がして、無理やりに首を正面に戻す。
全力ダッシュで駆け込んだ先は、レクリエーションルームが設置されている大樹の一本だった。簡単に言えばゲームコーナーだが、もちろん市販ソフトのようなRPGや戦争ゲームなどは一切ない。クイズやパズルなどの知育系、または健全なスポーツゲームばかりだが、それでも多くの生徒たちが各コーナーに群がり、歓声を上げている。
彼らは皆、教室の自分の机や学食から完全ダイブしている。その間、生身の体は無防備に放置されているわけだが、ダイブ中の人間に悪戯するのは明らかなマナー違反なので、気にする者はハルユキ以外にはいない。教室からローカルネットにダイブし、戻ってきたら、制服のズボンが脱がされていたのは入学して一ヶ月も経たない頃だったか。
現実の肉体をトイレに隠し、そして仮想空間ですら人の目から逃れるべく、樹の幹に刻まれた階段を駆け上がる。上に行けばいくほど、設置されたゲームは人気のないものになっていく。
野球、バスケ、ゴルフ、テニスと通り過ぎ、卓球のフロアも無視してたどり着いたのは、《バーチャル・スカッシュ・ゲーム》のコーナーだった。
生徒は一人も居ない。人気がない理由は明らかだ。スカッシュというのは、テニスに似てはいるが、ラケットでボールを打ち込む先は上下左右正面が硬い壁に囲まれた空間であり、跳ね返ってきた球を黙々と一人でリターンし続ける、とことん孤独なスポーツだからだ。
本来ハルユキが好むゲームジャンルは、マシンガンを抱えて戦場を駆け回る主観射撃もので、それでなら本場の連中とも互角以上にやり合える腕前だ。もちろん日本でも人気のジャンルなのだが、まさか学校のネットにそんなものが用意されているわけもないし、それに──小学校の頃、クラスの男子ほぼ全員をハンドガン一丁で撃ち殺し、翌日から手酷いイジメにあった苦苦しい思い出もある。以降ハルユキは、学校の奴らとはジャンルにかかわらず二度と同じゲームをしないと誓っている。
がらんとしたコートの右端に歩み寄り、操作パネルに片手をかざす。ハルユキの生徒IDが入力され、セーブされているレベルとハイスコアが読み出される。
ハルユキは、一学期の中ほどから昼休みはひたすらこのゲームで時間を潰してきた。結果、スコアはあきれるような数字に達しつつある。さすがに飽きてきた気もするが、ここ以外に行く場所があるわけでもない。パネルから湧き上がったラケットを、黒いひづめのついた桃色の右手でしっかりと握る。
ゲームスタート、の文字に続いて、どこからともなくボールが降ってくる。それを、今日一日の鬱屈を込めたラケットで思い切り叩く。
ちかっ、と一瞬の閃きを残して、レーザーのようにボールがすっ飛び、床と正面の壁にぶつかって戻ってきた。ほとんど視覚以上の反射で捕捉し、脳が自動的に導く最適解に従って、一歩左に動きながらバックハンドで打ち返す。
現実のハルユキには、無論こんな動きはできない。しかしここはあらゆるナマのしがらみから解き放たれた電子の世界だ。ボールを認識し、体を動かすのはただ脳とニューロリンカー間を往復する量子信号のみ。
ボールはたちまち実体を失い、コートに閃くおぼろな軌跡でしかなくなる。ぽごん、ぽごんという効果音が一秒間に何度も繰り返され、機関銃のように響く。それでも、ハルユキは豚の体を縦横無尽に跳躍させ、ラケットを全方位に唸らせ続ける。
くそ──現実なんて要るか。
極限のゲームスピードに挑みながらも無心にはなれず、脳裏を怨嗟に満ちた叫びが貫く。
なぜ、本物の教室や学校なんていう下らないものが必要なんだ。人間はもう仮想世界だけで生きていけるし、実際そうしている大人は腐るほどいる。過去には、人間の意識をまるごと量子データに置き換え、本物の異世界を構築しようという実験まで行われたほどだ。
それなのに、集団生活を学び、情操を育てるため、なんて馬鹿みたいな理由で子供はひとまとめに現実の檻にぶちこまれる。荒谷たちはいいだろう、適度にストレスを解消し、小遣いも節約できるんだから。でも、僕は──これ以上、どうすればいいんだ。
ぴぽん、と音がして、視界の隅でゲームレベルがひとつ上がった。
いきなりボールが加速する。反射角度も不規則になり、予想外の方向から曲線を描いて襲い掛かってくる。
ハルユキの反応が徐々に遅れはじめる。
畜生、もっと──もっと加速しろ。
仮想世界も、現実すらも、あらゆる壁をぶち抜いて、誰もいない場所へ行けるほど──
速く!