アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

1ー③

 すかっ、とラケットが空を切った。光線と化したボールがハルユキのほおかすめ、背後へ抜けて、消滅した。情けなくもコミカルな効果音とともに、ゲームオーバーの文字が降ってきて、コートでぼよんぼよんと弾む。

 点滅するハイスコアには目もくれず、ハルユキはうなだれたままゲームを再スタートしようとパネルに向き直った。

 突然の声が、ハルユキの神聖な隠れ家をふるわせたのは、その時だった。

「あ──っ!! こんなトコにこもってたのね!!」

 耳が、というより脳がキーンとしびれるほどのかんだかい叫び声。ぎくり、と背中をこわらせながら振り向いたハルユキが見たのは、同じく動物型の生徒アバターだった。

 と言っても、ハルユキのブタのようなこつけいさはじんもない。しなやかな細身を、紫がかった銀の毛皮に包んだネコだ。片方の耳と尻尾しつぽの先に、濃いブルーのリボンを結んでいる。ポリゴンを一から組んだものではないが、相当に各所のパラメータをいじり込んである。

 金色のこうさいを持つひとみに怒りの色を浮かべ、ネコは小さなきばの生えた口を大きく開けてもう一度叫んだ。

「ハルが最近、昼休みのあいだずーっと居ないから探し回ってたのよ! ゲームはいいけど、何もこんなマイナーなのやらなくても、下でみんなとやればいいじゃない!」

「……オレの勝手だろ、ほっとけよ」

 どうにかそれだけ言い返して、ハルユキはコートに向き直ろうとした。しかし銀のネコはひょいと首を伸ばし、ゲームオーバー表示をいちべつすると、さらに高い声でわめいた。

「えーっ、何よこれ……レベル152、スコア263万!? あんた……」

 ──すごいじゃない!

 などという台詞せりふを浅ましくもいつしゆん期待したハルユキを、ネコはあっさりと裏切った。

「バカじゃないの!? ごはんも食べずに何やってんのよ! 今すぐ落ちなさい!!」

「……やだよ、まだ昼休み三十分もあるじゃないか。お前こそどっかいけよ」

「あーそう、そういう態度とるんだったら、あたしも実力を行使するからね」

「やれるもんならやってみろ」

 ぼそぼそと言い返し、ハルユキはラケットを握りなおした。学内ネットのアバターに、《当たり判定》はない。不適切な行為を防止するという名目で、生徒はほかの生徒の仮想体アバターを触れないのだ。もちろん、他人を無理やりログアウトさせるなど論外だ。

 ネコ型アバターは、細い舌を限界まで突き出してべーっとやってから、一声叫んだ。

「リンク・アウト!」

 即座に、光の渦と鈴に似た音を残して姿がかき消える。

 ようやくうるさいのが消えたと、わずかな寂しさを短い鼻息で吹き散らした、その瞬間。

 がつん! と、少々洒落しやれにならないしようげきが頭をおそい、周囲の光景何もかもが消え去った。くらやみの向こうから、点状の光が引き伸ばされるように、現実の風景が戻ってくる。

 ずしりとし掛かる自重を感じながら、ハルユキはけんめいまばたきし、目の焦点を合わせた。

 元の、男子トイレの個室だ。しかし、眼前にあるべきブルーグレーのドアの代わりに、ハルユキは思わぬものを見た。

「おま……なん……!?」

 すぐ目の前でおうちになっているのは、ひとりの女子生徒だった。ブレザーのリボンの色は、同じ一年生であることを示す緑。

 ハルユキとは、重量比3:1を切ると思われるほどに小柄だ。ショートカットの前髪を右横に持ち上げ、青のピンで留めている。猫科めいた小さな輪郭に、不釣合いに大きなひとみが、怒りに燃えてハルユキをにらんでいる。

 左手には小ぶりのバスケット。そして右手はまっすぐハルユキの頭上まで伸ばされ、小さなこぶしを固く握っていた。それを見て、ハルユキはようやく自分がなぜ完全フルダイブから突如切断されたのか理解した。女子生徒があのゲンコツでハルユキの頭をどつき、その衝撃でニューロリンカーの安全機構セーフテイが働いて自動リンクアウトしたのだ。

 通常、セーフティは肩を揺すられたり大声で呼びかけられたりするだけで発動するし、神経質な女子は周囲一メートル以内にだれかが接近したたんリンクアウトするように設定したりもする。ハルユキが脳天をぶんなぐられるまでちんにゆうしやに気付かなかったのは、トイレの個室に体を隠し、セーフティレベルを最低にまで落としていたからだ。

「お……お前なあ!!」

 おどろきあきれつつ、ハルユキはこの学校で唯一パニクらずに会話できる女子に向かって叫んだ。

「何やってんだよ! ここ男子トイレだぞ! かぎかかってんのに……バカじゃねえの!!」

「バカはおまえじゃ」

 ハルユキのおさなじみにしてスカートのまま男子トイレの仕切り壁を乗り越える剛の者、クラシマは、ぶすっとした声で言い返すと右手を戻し、後ろ手にドアの鍵を開けた。

 身軽な動作でぴょん、と個室から飛び出る。くりいろの髪にすべる日光に思わず目を細めるハルユキを、チユリはようやくわずかに見せた笑顔とともに促した。

「ほら、とっとと出てきなさいよ」

「…………わーったよ」

 ため息をみ込み、ハルユキは便座のふたきしませながら体を起こした。出入り口に向かうチユリを追いながら、もう一つの疑問について尋ねる。

「……なんでここがわかったんだ」

 答えはすぐには返ってこなかった。男子トイレから首だけ出して外の様子を確認したチユリは、するりと廊下に出てから、短く言った。

「あたしも屋上にいたの。だから後つけた」

 ということは──。

「……見てたのか」

 廊下に一歩み出しかけた足を止め、ハルユキは低くつぶやいた。

 チユリは言葉を探すようにうつむき、背中を奥の壁に預けてから、ようやくこくりとうなずいた。

「……あたし、あいつらの事にはもう口出ししない。ハルがそれでいいって決めたんなら……しょうがないから。でも、ご飯は食べたほうがいいよ。体に悪いよ」

 どこか無理したような笑みを浮かべ、チユリは左手のバスケットを差し出した。

「あたし、お弁当つくってきた。味は保証できないけどさ」

 ──みじめだ、とハルユキは思った。

 チユリの言葉と行為のなかに、あわれみ以上の感情を探そうとしてしまう自分の心が、どうしようもなく情けなかった。

 なぜなら、チユリには、れっきとした彼氏が居るのだ。あらゆる面でハルユキと対照的な、もう一人の幼馴染が。

 自分の口が勝手に動き、妙に平板な声を放つのを、ハルユキはいた。

「……タクに作ったやつの余りかよ」

 チユリの顔が、さっとくもった。きつく寄せられるまゆの下のひとみを見ることができず、ハルユキは視線を廊下に落とした。

「ちがうよ、タッくんのとこは給食だもん。これ……サンドイッチ、ポテトサラダとハムチーズだけだよ。ハル、好きでしょ」

 視界に入ってきた白いバスケットを、ハルユキは右手でそっと押し戻そうとした。

 しかし、現実世界のかんまんな肉体は、ハルユキの意思とかけはなれた急激な動きでバスケットをチユリの手からたたき落とした。床にぶつかった拍子にふたがはずれ、水色のクッキングペーパーの内側から、三角に切られたサンドイッチが一つ、二つ飛び出して形を崩した。

「あっ……」

 反射的に謝ろうとしたが、頭の奥がかあっと熱くなり、言うべき言葉は形にならなかった。顔を上げることすらできず、うつむいたまま後ずさると、ハルユキは一声叫んで身をひるがえした。

「い……いらねーよ!!」

 今すぐにでもこの場所からログアウトしたい、ハルユキは痛切にそう思ったが、しかしもちろんそれは不可能だった。せめてけんめいに走ったが、現実の肉体はどうしようもなく鈍重で、背後で小さくすすりあげる声から逃れることはできなかった。

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影