すかっ、とラケットが空を切った。光線と化したボールがハルユキの頰を掠め、背後へ抜けて、消滅した。情けなくもコミカルな効果音とともに、ゲームオーバーの文字が降ってきて、コートでぼよんぼよんと弾む。
点滅するハイスコアには目もくれず、ハルユキはうなだれたままゲームを再スタートしようとパネルに向き直った。
突然の声が、ハルユキの神聖な隠れ家を震わせたのは、その時だった。
「あ──っ!! こんなトコにこもってたのね!!」
耳が、というより脳がキーンと痺れるほどの甲高い叫び声。ぎくり、と背中を強張らせながら振り向いたハルユキが見たのは、同じく動物型の生徒アバターだった。
と言っても、ハルユキのブタのような滑稽さは微塵もない。しなやかな細身を、紫がかった銀の毛皮に包んだネコだ。片方の耳と尻尾の先に、濃いブルーのリボンを結んでいる。ポリゴンを一から組んだものではないが、相当に各所のパラメータをいじり込んである。
金色の虹彩を持つ瞳に怒りの色を浮かべ、ネコは小さな牙の生えた口を大きく開けてもう一度叫んだ。
「ハルが最近、昼休みのあいだずーっと居ないから探し回ってたのよ! ゲームはいいけど、何もこんなマイナーなのやらなくても、下でみんなとやればいいじゃない!」
「……オレの勝手だろ、ほっとけよ」
どうにかそれだけ言い返して、ハルユキはコートに向き直ろうとした。しかし銀のネコはひょいと首を伸ばし、ゲームオーバー表示を一瞥すると、さらに高い声で喚いた。
「えーっ、何よこれ……レベル152、スコア263万!? あんた……」
──すごいじゃない!
などという台詞を浅ましくも一瞬期待したハルユキを、ネコはあっさりと裏切った。
「バカじゃないの!? ごはんも食べずに何やってんのよ! 今すぐ落ちなさい!!」
「……やだよ、まだ昼休み三十分もあるじゃないか。お前こそどっかいけよ」
「あーそう、そういう態度とるんだったら、あたしも実力を行使するからね」
「やれるもんならやってみろ」
ぼそぼそと言い返し、ハルユキはラケットを握りなおした。学内ネットのアバターに、《当たり判定》はない。不適切な行為を防止するという名目で、生徒は他の生徒の仮想体を触れないのだ。もちろん、他人を無理やりログアウトさせるなど論外だ。
ネコ型アバターは、細い舌を限界まで突き出してべーっとやってから、一声叫んだ。
「リンク・アウト!」
即座に、光の渦と鈴に似た音を残して姿がかき消える。
ようやく煩いのが消えたと、僅かな寂しさを短い鼻息で吹き散らした、その瞬間。
がつん! と、少々洒落にならない衝撃が頭を襲い、周囲の光景何もかもが消え去った。暗闇の向こうから、点状の光が引き伸ばされるように、現実の風景が戻ってくる。
ずしりと圧し掛かる自重を感じながら、ハルユキは懸命に瞬きし、目の焦点を合わせた。
元の、男子トイレの個室だ。しかし、眼前にあるべきブルーグレーのドアの代わりに、ハルユキは思わぬものを見た。
「おま……なん……!?」
すぐ目の前で仁王立ちになっているのは、ひとりの女子生徒だった。ブレザーのリボンの色は、同じ一年生であることを示す緑。
ハルユキとは、重量比3:1を切ると思われるほどに小柄だ。ショートカットの前髪を右横に持ち上げ、青のピンで留めている。猫科めいた小さな輪郭に、不釣合いに大きな瞳が、怒りに燃えてハルユキを睨んでいる。
左手には小ぶりのバスケット。そして右手はまっすぐハルユキの頭上まで伸ばされ、小さな拳を固く握っていた。それを見て、ハルユキはようやく自分がなぜ完全ダイブから突如切断されたのか理解した。女子生徒があのゲンコツでハルユキの頭をどつき、その衝撃でニューロリンカーの安全機構が働いて自動リンクアウトしたのだ。
通常、セーフティは肩を揺すられたり大声で呼びかけられたりするだけで発動するし、神経質な女子は周囲一メートル以内に誰かが接近した途端リンクアウトするように設定したりもする。ハルユキが脳天をぶん殴られるまで闖入者に気付かなかったのは、トイレの個室に体を隠し、セーフティレベルを最低にまで落としていたからだ。
「お……お前なあ!!」
驚きあきれつつ、ハルユキはこの学校で唯一パニクらずに会話できる女子に向かって叫んだ。
「何やってんだよ! ここ男子トイレだぞ! 鍵かかってんのに……バカじゃねえの!!」
「バカはおまえじゃ」
ハルユキの幼馴染にしてスカートのまま男子トイレの仕切り壁を乗り越える剛の者、倉嶋千百合は、ぶすっとした声で言い返すと右手を戻し、後ろ手にドアの鍵を開けた。
身軽な動作でぴょん、と個室から飛び出る。栗色の髪にすべる日光に思わず目を細めるハルユキを、チユリはようやく僅かに見せた笑顔とともに促した。
「ほら、とっとと出てきなさいよ」
「…………わーったよ」
ため息を吞み込み、ハルユキは便座の蓋を軋ませながら体を起こした。出入り口に向かうチユリを追いながら、もう一つの疑問について尋ねる。
「……なんでここが判ったんだ」
答えはすぐには返ってこなかった。男子トイレから首だけ出して外の様子を確認したチユリは、するりと廊下に出てから、短く言った。
「あたしも屋上にいたの。だから後つけた」
ということは──。
「……見てたのか」
廊下に一歩踏み出しかけた足を止め、ハルユキは低く呟いた。
チユリは言葉を探すように俯き、背中を奥の壁に預けてから、ようやくこくりと頷いた。
「……あたし、あいつらの事にはもう口出ししない。ハルがそれでいいって決めたんなら……しょうがないから。でも、ご飯は食べたほうがいいよ。体に悪いよ」
どこか無理したような笑みを浮かべ、チユリは左手のバスケットを差し出した。
「あたし、お弁当つくってきた。味は保証できないけどさ」
──惨めだ、とハルユキは思った。
チユリの言葉と行為のなかに、憐れみ以上の感情を探そうとしてしまう自分の心が、どうしようもなく情けなかった。
なぜなら、チユリには、れっきとした彼氏が居るのだ。あらゆる面でハルユキと対照的な、もう一人の幼馴染が。
自分の口が勝手に動き、妙に平板な声を放つのを、ハルユキは聴いた。
「……タクに作ったやつの余りかよ」
チユリの顔が、さっと曇った。きつく寄せられる眉の下の瞳を見ることができず、ハルユキは視線を廊下に落とした。
「ちがうよ、タッくんのとこは給食だもん。これ……サンドイッチ、ポテトサラダとハムチーズだけだよ。ハル、好きでしょ」
視界に入ってきた白いバスケットを、ハルユキは右手でそっと押し戻そうとした。
しかし、現実世界の緩慢な肉体は、ハルユキの意思とかけ離れた急激な動きでバスケットをチユリの手から叩き落とした。床にぶつかった拍子に蓋がはずれ、水色のクッキングペーパーの内側から、三角に切られたサンドイッチが一つ、二つ飛び出して形を崩した。
「あっ……」
反射的に謝ろうとしたが、頭の奥がかあっと熱くなり、言うべき言葉は形にならなかった。顔を上げることすらできず、俯いたまま後ずさると、ハルユキは一声叫んで身を翻した。
「い……いらねーよ!!」
今すぐにでもこの場所からログアウトしたい、ハルユキは痛切にそう思ったが、しかし勿論それは不可能だった。せめて懸命に走ったが、現実の肉体はどうしようもなく鈍重で、背後で小さくすすりあげる声から逃れることはできなかった。